NOVEL

堂森食品(株)営業二課 -4-

 買ったばかりのネクタイはカッターナイフで無惨な姿になった。俺は情けない気持ちになりながら、ゴミとなり果てたシャツと共にゴミ袋に入れた。
 すぐ冷やしたが、どうも少し熱を持ってるようだった。注意しないと判らない程度の腫れだ。……痣には……ならない事を祈るしかない。鳩尾は内出血していた。……見られたら殴られたのはすぐばれる。憂鬱な気分になりながら、シャツを着込み、スーツを着てネクタイを締める。早くしないと遅刻する。
 急いで寮を出た。始業時刻ぎりぎりだった。営業二課へ飛び込むと、篠田さんが何か言いたげな怪訝な顔で俺を見た。しかし俺はそれにあえて気付かない振りをした。
「おはようございます!!」
「遅ぇ遅ぇ、砂原。新入りはもっと早く来い!」
 神田川に言われた。……この人に言われると、何だか少しムッとするものがある。確かにこの人出勤時間は早いようなんだけど……真面目に仕事してるんだろうか?っていつも思う。まだ三日目なんだけど、この人の印象はすこぶる悪い。
「……アレ? お前……?」
「失礼します」
 話し掛けて来ようとする神田川の脇を擦り抜けて、課長の元へ行く。
「すみません、遅くなりました」
「まあ、まだ遅刻じゃないから結構だ。……明日はもう少し早めにな」
「はい!」
 それから席へ着く。
「……大丈夫か?」
 篠田さんがそっと辺りを憚るように小さな声で言った。
「……え?」
「……顔色、悪いぞ。大丈夫なのか? 身体」
「……あっ……はい。大丈夫です」
「そうか。……無理するなよ?」
「はい」
 俺は頷いた。
「……なぁ〜んかアヤシイな」
 篠田さんの向かいの席から神田川が言った。
「くだらない事言ってる間に仕事しろ、仕事」
 篠田さんはしらりとした顔で言い放った。
「……何かあったろ? な?」
 神田川が、何故か俺に向かって言った。
「……なっ……何がですかっ!!」
 思わず声を上げた俺に、篠田さんが軽い溜息をついた。どきりとする。神田川がにやにやと笑っている。
「……ちょっと来い。神田川」
「はいはい、何ですか?先生?」
 二人して給湯室へ行く。何だか気になって距離を置いて、追い掛ける。
「……神田川」
「何だ? 改まって」
 不意に、篠田さんが神田川の鳩尾に拳を入れたのを、しっかり見てしまった。思わず声を上げそうになって、慌てて堪える。神田川が顔をしかめ、腹を折りつつ、それでも影に俺がいるのに気付いたらしくしっかり俺の方を見た。
「……雉も鳴かずば打たれまい、だ。お喋りは身のためにならないぞ?」
 ……篠田さんて……過激だ。思わず背中に冷や汗が滴り落ちた。
 神田川は軽く咳き込み、呼吸を整えながら、
「……て言うか、そういうのはもっと判りにくい処でやった方が良いぜ? お前のお姫様がそこで脅えてる」
 神田川の台詞に、びくりと飛び跳ねるように篠田さんが振り返った。
「……砂原……」
 真っ赤な顔で狼狽して。視線があちこちに彷徨ってる。言い訳でも探すように。
「観念しろって、篠田。どうせお前の本性なんだ。いつかばれるんだから初期の内にばれた方が良いだろ?」
 神田川の台詞に、むっとしたように篠田さんが振り返る。
「……お前……判ってたな?」
「俺は千里眼じゃないぜ?」
 神田川はすっとぼけた。篠田さんの肩先がぶるぶると震えた。
「……あのっ……すみません……っ……俺っ……!! 覗き見なんかする気無くて……あのそのっ!!」
 弁明しようとする俺の言葉を神田川が遮った。
「あ〜、違う違う。こいつは砂原の覗き見に怒ってるんじゃないの。隠したがってた本性ばれて焦ってるの。ついでに言うと、それをばらす原因になった俺に怒ってるの。だから心配ない、心配ない」
 言った途端、神田川がまた篠田さんに鳩尾殴られ、今度はうげぇと呻いて倒れ込んだ。それを見届け、篠田さんは言った。
「だから鳴かずば打たれまい、と言ったろう」
 神田川は今度こそぐうの音も出ない。篠田さんはゆっくりと照れ隠しのように笑いながら振り返った。
「……あの、な? 砂原……」
 真っ赤な顔で。困った表情で。俺の機嫌を窺うような顔で。
「……大丈夫です、俺」
 きっぱりと言った。
「……俺、それでも篠田さんの事、好きです」
「そうか」
 満足そうに、安心したように篠田さんはにっこり笑った。神田川は呻いた。
「……手加減くらいしろよ……篠田ぁ……暴力魔人……!!」
 篠田さんはにっこり笑った。
「じゃあ、戻ろうか?」
 そう言って、歩き出す前にさりげなく、神田川の後頭部を足で踏みつけたのを、俺はしっかりと見た。
 ……篠田さんは恐い人だ。怒らせると恐い。……影の実力者、という意味が朧気ながら判った気がした。

 その日もまた営業に出た。……ただ、今日はかなりキツイ。でも何とか踏ん張った。
「……本当に大丈夫か?」
 心配そうに、篠田さんが俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫です」
「無理するな」
 そう言って、車を路肩に寄せ、車を停めた。俺の座る助手席側のシートを倒し、シートベルトを外すと、俺のネクタイと襟元を緩めた。
「……篠田さん……」
「……お前、自分の顔色どんなだか判ってないだろう? やっぱり外へ出るのはやめておけば良かったな。……俺も考え無しだった」
「……そんなっ……」
「少し休んだら、戻るぞ」
「……篠田さん……」
「喋るな。……無理して喋らなくて良い」
 そう言って、篠田さんは俺の額に手を当てた。眉を寄せる。
「……熱が出てるじゃないか。どうしてこんなになるまで我慢した? ちゃんと言うか、でなかったら休めば良かったろう! 無茶をするな。……させたのは俺かも知れないが……お前に何かあったら……!!」
「……す……みませんっ……!」
「……謝るな。俺はお前を心配してるんだ。あまり……心配させるな。俺は……」
 篠田さんの目が、潤んだ気がした。
「……篠田さん?」
 篠田さんが俺の右手を取り、固く握り締めた。
「……あんまり心臓が強くないんだ。結構小心者なんだぞ?」
 茶化すような口調で、そう言った。
「……すみません」
「謝るな。……謝られると、こっちが困る。……それより休め。休んでくれ。元気になってくれればそれで良い」
「……篠田さん……!」
 俺は感動で目が潤んだ。篠田さんの唇がそっと手を掠める。
「寝ろ。……会社じゃなくて寮へ送ってやる。連絡はしておくから。……欲しい物とか、あるか?」
「……良いです。篠田さんがいてくれたら……」
 篠田さんは苦笑した。
「……寮じゃお前の看病なんか出来ないだろう? ……でも、仕事終わったら部屋へ寄る。俺も昔寮暮らしだったから抜け道は知ってる」
「……来てくれるんですか!?」
「良いから寝ろ。今のお前に必要なのは休養だ。砂原」
 左手でゆっくり、額を撫でられる。そっと触れるか触れないくらいに。その手が気持ち良くて、眠りを誘う。優しい穏やかな瞳で、篠田さんが俺を見ている。何だかひどく幸せな気分で、このまま手を離したくないと思った。

 暫く仮眠を取って、寮の自室へ送って貰った。恥ずかしいけど横抱きで。寮の管理人からじろじろと見られた。昼間の寮は人がいなくて、がらんとして静かだった。
「……着替え、出来るか?」
「はい」
「……俺は氷枕とお粥作ってくるから」
「すみません」
「謝るな。俺がやりたくてやってるんだ」
 そう言って、篠田さんは買ってきたばかりの品を手に、簡易キッチンの方へ向かった。小さなコンロ一つきりの簡素な代物。俺はまだ一度も使った事がない。篠田さんの背中を見送り、俺は着替え始めた。青黒く変色した鳩尾を撫でる。熱を持ってる。発熱の原因はこれかも知れない。だけど篠田さんにそんな事言えない。ひょっとしたら篠田さんは昨日の事が原因と思い込んで、気を使ってくれてるのかも知れない。もしそうなら否定しないと。だって俺は、凄く嬉しかったんだから。
 慌てて着替えて、それから篠田さんに声掛ける。
「……篠田さん、これ昨日の事原因じゃありませんから」
  篠田さんはきょとんとした顔で振り返る。
「……何言ってる? 砂原」
「……えっ!?」
 どきん、とした。顔が真っ赤になる。篠田さんはくすりと笑った。
「……疲れたんだろ? 疲れた時は熱が出やすい。いらん心配はするな。着替えたんならベッドに寝ろ。ほら。氷枕だ」
 近寄って来て、氷枕を敷いてくれる。
「……はい」
 俺は素直に横になった。
「お粥は本当は米から炊きたかったけど、即席でレトルトだからすぐ出来る。余分は一応冷蔵庫入れて置くから。常温でも良いが、判らなくなるからな」
「……すみません」
「だから謝るなって」
 篠田さんは苦笑した。それからふっとコンロの方を見て、
「ちょっと待ってろ」
 そう言い置いて、火を消し、レトルトの中味を皿に盛った。食器はろくに置いてない。スプーンを付けて持ってきてくれた。
「……食べられるか?」
「はい」
 篠田さんはスプーンでよそい、ふーっと吹いて冷ましてから口に入れた。何だか変な気分で、気恥ずかしくて、まともに篠田さんの顔が見られない。ひどくどきどきする。
「……何恥ずかしがってるんだ?」
 篠田さんがくすりと笑った。
「……だって」
「……今更?」
 カッと熱くなる。篠田さんは柔らかく笑った。
「……篠田さん……」
「あんまりそういう目で見るな。俺を欲情させる気か?」
「……なっ……」
 篠田さんはくすりと笑った。
「早く、良くなれよ?」
「はい」
 俺は頷いた。

 翌朝、キッチンの方から聞こえる包丁がまな板を叩く音で目が覚めた。味噌汁と葱の香り。どきん、として飛び起きた。
「……目、覚めたか?」
 篠田さんだ。一瞬、ここが何処か判らなくなった。寮。寮の自室。篠田さんが、ワイシャツにエプロン姿で立っている。
「……篠田さん……」
「……仕事の後で来るって言ったろう?」
 嬉しい。カッと頬に熱が昇る。
「……熱は下がったみたいで良かった。……そう。汗かいてたようだったから着替えさせた。……悪いけど」
 どきり、とした。寝る前とパジャマが替わってる。心臓が、大きく脈打った。篠田さんの目が、真っ直ぐに俺を見た。
「……誰にやられた?」
 その顔からは、彼が何を考えてるかは読みとれない。
「……篠田さん……」
「ぶつけたなんて言うなよ? そんな物でそんな痣は出来やしない」
 淡々とした口調。だけど、空恐ろしいものを漂わせて。
「……誰だ?」
「……し……のださ……っ……!!」
「……言いたくなんか無いか? 俺なんかに」
「そんなっ……!!」
「誰がお前にそんな事をした? 誰がそんな風にお前を乱暴に扱った? いつだ? 寮に戻った時か? それとも二課へ来る途中か?」
「篠田さんっ!!」
「俺がお前を心配するのは迷惑か!? 詮索はするな!? 俺はっ……だったら俺は一体何だ!? これは俺の独り相撲なのか!? 俺がっ……!!」
「篠田さん!!」
 泣きそうに見えて、慌ててしがみついて抱きしめた。
「……砂原……」
「……俺、篠田さんだけです。何でも無かったんです。殴られたけど、俺もやり返してしまったから……だから、もう良いんです!!」
「……砂原」
 まだ、頭の中ぐちゃぐちゃで、整理出来ていないけど。
「俺が、好きなのは篠田さんだけです! 傍にいたいと思うのも、いて欲しいと思うのも!! 篠田さんこそ、俺の事っ……!!」
「好きに決まってるだろう?」
 篠田さんはそう言って、俺を強く抱きしめた。
「好きじゃなかったら抱いたりするか。俺は……そんなに酔狂でも薄情でも無いぞ」
 その言葉が、聞きたかった。
「篠田さん……!!」
 思わず、両目から涙が溢れこぼれ落ちる。
「……砂原……」
「……篠田さん、凄く俺……」
「うん」
 篠田さんは優しく頬にキスした。俺もキスを返す。両手の指を絡み合わせて、互いの唇を貪るように何度もキスして。
 幸せで死にそう。
「好きです、篠田さん」
「俺も好きだ、砂原」
 凄く、幸せ。
「……だから、凄く恐くなる」
「……篠田さん?」
「……お前に裏切られたら、殺してしまうかも知れない」
 ずきり、とした。身体の奥に、熱。
「……篠田さんに殺されるなら本望です」
「……バカ。俺は殺したくなんか無い」
 凄く、嬉しかった。殺されるくらい愛して貰えるなら、凄く嬉しい。
「俺を、離さないで下さいね?」
「……そんなこと言って。後悔しても知らないぞ?」
「しません」
 俺はきっぱり言った。
「絶対しません」
 篠田さんは苦笑した。
「……お前を……好きになって良かった」
 幸せそうに。だから、俺はとても嬉しかった。

 営業二課へ出勤すると、珍しく一人でいた。二人で入室した俺達を見て、意味ありげに神田川が笑った。
「へぇ? ふうん?」
「……何が言いたい?」
 篠田さんが神田川を睨む。
「……別に? 幸せそうで楽しそうだねぇ。ま、良いけど。俺はともかく? 他の連中うるさくないか? 一緒に出勤してきたら」
「この時間ならお前しかいないんじゃないか?」
「まあそうだけど、ほら言うじゃねぇか。壁に耳あり障子に目ありってな!」
「その場合お前が洩らしたとして相応の処置を取る」
「……脅し?」
「脅しに聞こえるか?」
 神田川は肩をすくめた。
「了解。誰にも言いません。天地神明に誓って」
 篠田さんは満足そうに頷いた。
「あ、砂原。俺はちょっと席を外すけど、何かされたら言えよ?」
「あ、はい」
 神田川は眉根を寄せた。
「俺は変質者か? 獣か? 篠田」
「似たようなものだ。何かしてみろ。お前の明日以降の寿命は無いと思え」
「へぇへぇ」
 篠田さんは出て行った。俺は自分の席についた。篠田さんが作ってくれた商品の分別コード表に目を通す。
「……砂原」
 神田川の妙に真面目な声にびっくりして顔を上げる。顔まで生真面目な表情だ。
「……あいつ、大丈夫か?」
「え?」
 どきん、とした。
「……篠田さん、ですか?」
 神田川が頷いた。
「同期でずっと一緒だからアレだけどな、あいつ……色々面倒なトコあっから。たぶん一緒にいてキツイ事もあるだろうけど……あいつ……」
「……篠田さんは良い人ですよ?」
 神田川は苦笑した。
「そりゃ自分の恋人にはな」
 複雑そうな表情で。
「あいつは好きになったもんに対しては一途で純情でそりゃ尽くす方なんだが、その反面裏切られたと思った時の反動は物凄いからな。気を付けろよ。あいつ、かなり嫉妬深いから。一度恨みに思われたら一生恨まれるから、覚悟しておけ」
「……そんな事しません!!」
 神田川は肩をすくめてにやりと笑った。
「それなら良いけどな。……あいつ、トラウマあるから」
「……トラウマ?」
 どきり、とした。
「俺が言う事じゃ無いから、聞きたかったら奴に聞きな。もう古傷癒えてるようなら言える筈だ。駄目だったらちょっと恐い……けどな」
「何なんです!? それ!!」
「……あんまり喋ると俺が殺されるからなぁ。あいつ容赦ないし」
「……誰が容赦無いって?」
 戸が開いて、篠田さんが入って来た。手には商品サンプルの段ボール。
「よっ。こりゃ営業二課一の色男っ!! 堂森期待の一番星篠田博樹先生じゃございませんか!」
「……神田川後で別室来い」
「ヤだなぁ、先生。怒っちゃやーよ。別に悪口吹き込んでないから」
「……どうだかな? お前はどうせろくな事言わん」
「そんな事ないって。篠田、お前人を疑い過ぎ。同期入社でこんなに善良な俺をそんな風に疑うなんて、お前人間が出来てないつーか疑い過ぎ。人間信じなくちゃ真の信頼関係は生まれないぞ?」
「お前と信頼関係なんぞ築きたくない。ところで邪魔だ、どけ」
 篠田さんは神田川を押し退けて、机の上に段ボールを下ろした。
「砂原、こいつが何言っても相手しなくて良い。バカがうつる」
「俺は病原菌か!?」
「自覚無いのか? 重症だな」
「ひでぇ!!そういう言い種あるか!? 俺ほどイイ男もなかなかいないのに!!」
「それは当人の主観って奴だな。客観的に見ろ」
「主観的なのはお前の方だろうが! お前が客観的に物を見てるようにはとても思えないぞ!!」
「お前よりはマシだ。……本当に相手してやらなくて良いぞ、砂原。こいつはただのバカだからな」
「大親友にそういう事言うか!?」
「お前と親友になどなった覚えが無い。そういう何の根拠も無い事を言うな。知らない奴が聞いたら本気にする」
 ……仲良いんだ。篠田さんと神田川。そりゃ同期だから当然付き合いは俺より長いんだけど……。
「……砂原、余計な事考えてるだろう?」
 篠田さんはにやっと笑った。
「えっ……!?」
「……違うか?」
「……篠田さん……」
 優しく微笑まれて、どきりとする。
「……けっ。やってらんねーや。お邪魔虫は暫く消えててやるよ、篠田。借りは今度飲みに連れてけ」
「何故俺が奢る? 奢るなら日頃の感謝を込めてお前が奢れ」
「これだからお殿様はやってらんねーよ! アテられるだけだから暫く消えるわ。けど、ヤラシイ事すんなよ? 一応ここは神聖な職場だ」
「お前と一緒にするな」
 神田川は肩をすくめて出て行った。ばたん、と戸の閉まる音にどきりとした。思わず篠田さんの顔を見てしまう。
「……何だ? 砂原」
 にっこり篠田さんが笑う。思わず顔が赤くなる。
「……いえ……別に」
「嘘をつけ。何か言いたそうな顔してるぞ?」
 困った。
「……その……神田川さんと仲良いんですね?」
「仲良いって……腐れ縁なだけだ。入社試験で同じバスに乗り合わせて以来の。別に親しいって訳でも無い。プライベートじゃ話もしない」
「そうなんですか?」
 そんな風に見えなかった。
「あいつは誰にでもあんなだよ。誰に対しても同じ。特別意味なんか無い。気にしたのか?」
 くすり、と笑われて。思わず赤くなる。
「悪いけど神田川だけは願い下げだ。あんなのと付き合う奴の気が知れない」
「……嫌いなんですか?」
「……嫌いって訳でもないが。まああいつもちゃらんぽらんなだけって訳でも無さそうだが……個人的に付き合いたいとは思わないな。職場で毎日顔合わせれば十分だ。それ以上必要ない」
 ……そう、なのかな。
「でも嫉妬したのか?」
 にやりと魅力的に笑った。
「えっ……!?」
「悪かったな、砂原」
 そう言って篠田さんはそっと掠めるようにキスをした。
「っ!?」
 思わずカッと顔が熱くなる。
「しっ……篠田さんっ!!」
「大丈夫。誰も見てない」
「……篠田さん……」
「そんな顔するな。またしたくなるだろう?」
 血の気が昇って、口が開けなくなる。そこへ。
「おっはようございまーす!!」
 どきん、として思わず飛び上がった。入ってきたのは都倉さん。後ろから神田川が篠田さんの顔色伺うように付いて来る。
 篠田さんが何か言いたげに神田川を見ている。神田川は首を横に思い切り振っている。都倉さんの影で。
「篠田主任、ちょっと相談あるんですけど良いですか?」
 都倉さんが篠田さんに言う。
「……今か?」
「課長に話入れる前に主任にちょっと。俺の自己判断じゃマズイと思うので、参考意見欲しいんですけど」
「判った。入り組んだ話か?」
「少々お時間取らせて頂くと思います」
「判った。隣のミーティングルームで聞こう」
 二人は席を立ち、コーヒーメーカーから各々の分をカップに取って隣室へと行ってしまった。また神田川と二人きりになった。
「……神田川さん。さっきの話ですけど」
「あ? 何の話?」
「惚けないで下さい」
 言うと、神田川は肩をすくめた。
「……人様のプライベートに関わる趣味ないんだ。悪いけど」
「だったらどうしてあんな思わせぶりな事言うんですか!」
 神田川は大仰な溜息をついた。俺は睨み付けた。神田川は真顔で俺を見た。
「……ちょっと心配になっただけだ。また『二の舞』になったりしないように」
 ……『二の舞』。どきりとした。
「……ひょっとして……『根上』さんの?」
「知ってるのか!?」
 神田川は目を見開いた。
「どういう関係なんですか!? 根上さんて!!」
 神田川は視線を彷徨わせた。
「答えて下さい!! その人、自宅に電話までして!! どういう人なんですか!?」
「自宅に電話!? そんな事までしてるのか!? あいつ!! 俺はもうとっくに『終わった』んだと……!!」
「……『終わった』!?」
 神田川はしまった、という顔になった。舌打ちする。
「良いか? 絶対大声出すなよ? ……落ち着いて聞け。根上は……根上芳明[ねがみよしあき]は……」
「噂話か? 神田川」
 飛び上がるくらいびっくりした。すぐ後ろに、篠田さんと都倉さんが立っていた。都倉さんは困ったような顔。篠田さんは険悪な表情で立っていた。
「……し……のだ……っ!!」
「お前、本当口が軽いな?」
 篠田さんは一歩、神田川に近付いた。
「だって!! 聞いてないぞ!? 自宅にまで電話掛けてるのか!? あのバカ!!一体時枝は何してるんだ!? あいつ時枝と付き合ってるんだろう!? 俺はそう聞いたぞ!? 何でそんな事になってるんだ!!」
「知るか!! 俺が!! 時枝に聞け!! 俺はあんな奴の事なんか知らん!! 関わりたくも無い!! 幾ら電話番号変えても掛かって来るんだ!! 俺には何も関わりない!!」
「て言うかお前当事者だろう!! 終わってないのか!? 終わってないんだったらかなりマズくないか!? だってあいつっ……!!」
「うるさいんだよ!! お前は!! こんな処でする話題か!! 少しは考えろ!!」
「考えなくちゃならんのはお前の方だろうが!! 『根上』の事が終わってないなら、砂原と付き合うのは果てしなくマズイだろう!! だって根上はお前のために自殺までしかねない男なんだぞ!?」
 ガァン、と衝撃が脳髄から踵へと走った。身体が、痺れて動けない。俺は彫像のように固まって、指一本動かせなかった。
「俺の好きなのは砂原だ!! あんな奴の事なんか知った事か!!」
 篠田さんの声が、二課の室内に響き渡った。俺はショックで呆然としていた。

To be continued...
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