NOVEL

堂森食品(株)営業二課 -2-

 俺は会社の寮に一人暮らしだ。夕食は食堂で取る。しかしこれが不味い。毎日コレか、と思ったらげっそりした。
「砂原!」
 同期入社の高石信浩[たかいしのぶひろ]。同じ本店の製品開発部に配属になった。研修期間に意気投合し、寮の部屋もすぐ隣だ。
「高石」
 高石は俺の真向かいに座った。
「……どうだ? 初日。俺もう目が回っちゃって! 食品関係大学でさんざん研究したんだけど、俺の知識なんて全然だって思い知らされた。も、カルチャーショック!!」
「……はは、俺、営業回っちゃったよ。おまけでだけど。結構しんどいよな? 歩き回る割に、そんな収穫無いし。ていうかあっても良いのか悪いのか判らない。でも、一緒にいる人が仕事できる人だってのだけは良く判った」
「ま、俺らこれからだしな!」
 と言って高石はお茶の湯飲みをずずっと啜った。
「……あ、そだ。砂原、神林の部屋で飲み会やろうって話なんだけど行くか?」
「いや。もう足疲れてくたくた。早く寝たいわ、俺」
「足揉んでやろうか? 俺、元陸上部」
「あ、そうなんだ? 何? 短距離?」
「……陸上ってぇとすぐそう聞くな、大抵。俺走り幅跳び」
「走り幅跳びぃ!?」
「うるせー! これでも一回全国大会行ってんだ!!」
「……全国大会。一回でも行ったんなら大したもんだな」
「……だろ? なのに格好悪いだのだせぇだの。砲丸よりスマートだろうが」
「そりゃ砲丸やってる人間に喧嘩売ってるよ、高石」
「俺はあんなマッチョになりたくない」
「…………」
 俺はコメントの代わりに溜息をついた。
「風呂入ったか?」
「いいや? まだ」
「銭湯行かねぇ?」
「遠いと厭だな」
「……面倒臭がり。大丈夫、歩いて五分の距離だから」
「だから俺足がもう棒みたいなんだって」
「そりゃ運動不足だ。もっと運動するんだな」
「厭でも運動できそうだよ。車で移動するけど、結構足使うんだ」
「とにかく行こうぜ? 寮の風呂なんか大量の垢が浮いてるって話だぜ? 入りたいか?」
 部屋は個室だがユニットじゃない。トイレも共同だ。ぶるりと身を震わせた。
「……そりゃちょっと遠慮したいな」
「だろ? 行こうぜ。一人で行くのも何だか虚しいからな」
「……お前、自分が行くために俺を誘うの?」
「当たり前だ。俺は行きたい。お前も行きたい。利害は一致してるだろうが」
「……一致させた癖に」
「さ! そうと決まれば支度だ、支度」
 いつの間にか綺麗さっぱり食事を平らげ、高石は言った。所在なくすくっていたスプーンを置き、俺も高石に習って立ち上がる。トレイを出して、食堂を出た。通路を歩く。外には家の灯りや街のネオンが見える。
「……どうだ? 砂原。やって行けそうか?」
「……最初はどうなる事かと思ったけど、何とか。……物凄い物初っ端から見たからさ」
 嘆息した。
「何、何? それ」
 興味深そうに高石が聞いてくる。
「……え……? ……いや……」
 俺は口ごもる。
「言えよ、親友だろ?」
 いつ俺とお前が親友になったんだ。思わずにはいられなかったけど、けれど友人には違いなかった。
「……その……さ」
 言い難い。
「焦らすなよ?」
 俺は視線を宙にさまよわせた。
「……何て言うか、その、さ。入った途端、先輩同士で股間を……その、揉み合ってたっつーか……」
「何っ!?」
 高石が目の色を変えた。
「それで!? お前やられたのか!?」
「なっ!! バカ!! やられる訳無いだろう!! やらすか!! そんなの!!」
 思わず怒鳴ると、高石はほっと胸を撫で下ろした。
「ああ……そりゃ良かった。とんでもねぇな? お前のトコ」
 何故高石が胸を撫で下ろすのか判らない。俺の事心配してくれたんだろうか?
「……思わず立ちすくんだぜ? けど、親切な人がいてさ」
「親切な人?」
 高石の目がきらり、と光った。
「……そんな事されないように言っておいてくれるって、言ってくれたんだ。もう俺どうしようかと思った。マジで。……アレは恐かった……」
「……そうか……」
 高石は考え込むような表情になった。
「……高石?」
 高石は苦笑した。
「何かあったら俺に言えよ? 幾らでも力になるからさ」
 何だろう。今日、そんなような台詞、何度も聞いたような気がする。て言うか、時枝さんにも篠田さんにも言われてる。俺、そんなに頼りなく見えるんだろうか? ちょっと自信なくすけど……親切・好意で言ってくれてるのには間違い無いだろう。素直に礼を言う事にする。
「有り難う、高石」
 そう言うと、高石は眩しそうな表情になった。
「課は違うけど、内線あるし。……あ、でもお前外回りか? 俺の携帯番号知ってたっけ?」
「え? ……あ、そういや聞いてないな」
「じゃ、交換しておこうぜ。番号」
 互いの番号を交換しあい、登録する。
「これでよしっと」
 嬉しそうに高石は言った。
「いつでも連絡しろよ?」
「ん、そっちこそな」
 俺は笑った。それから部屋へ入って銭湯へ行く準備をする。と言っても、石鹸とタオルとリンス入りシャンプー一本だけだけど。それらを袋に入れて、最後に財布をポケットに放り込むと、ノックがする。
「今、行く」
 俺は外に出た。高石が何故か頬を紅潮させて立っている。
「行こうぜ!」
「……ん、ああ」
 俺達は銭湯へ向かった。

 男湯の暖簾を潜り抜けたところで、俺は思わず立ち止まった。
「……篠田さん……」
 人並み外れた長身に、見合っただけの広い肩幅。程良く綺麗についた筋肉。大きな人だ、と思ったけど上半身裸の姿を見て、ますます大きな人だと実感した。これから風呂に入るところらしい。スラックスに手を掛けたままの状態でこちらを見た。
「……ああ、砂原か」
 目を線のように細めて笑った。
「そう言えば寮だったな。疲れただろう? 悪かったな。初日から引っ張り回して」
「いえ」
 後ろがつかえているのと、高石の視線を感じて、俺は中に入る。数歩、篠田さんに近付き軽く頭を下げた。
「凄く、勉強になりました」
「そうか」
 満足そうに篠田さんは笑った。
「じゃあ、明日もびしびししごいてやる。覚悟してろ」
「勘弁して下さいよ」
 思わず泣き言口調になってしまった。今日一日でこんな疲れたのに、これ以上厳しくされたら参ってしまう。
「そうだな。まあ徐々に、な」
「……徐々に……ですか?」
「……楽しみにしてろ」
 楽しそうに言うと、篠田さんは下も手早く脱いで、中へ入っていった。
「……誰?」
 高石が詰問口調で言った。
「あの人が、俺に仕事教えてくれてる人。篠田さん。最初恐い人かと思ったけど、結構良い人なんだよ。屈託無くて、面倒見良くて」
「ふうん?」
 気に食わなげに高石が言った。
「……高石?」
「随分デカイな」
「ああ、身長? 二mくらいありそうだよな。あんな背の高い人初めて見た。凄くインパクトあるよな?」
「まあな」
 吐き捨てるように言った。
「……高石?」
 俺は眉を顰めた。高石はゆっくりと首を振った。
「まあ良い。さっさと入って寮へ戻ろうぜ?」
「うん、ああ」
 何となく腑に落ちない気分のまま頷いた。

 翌朝。二課の前で俺は大きく深呼吸した。覚悟してから、足を踏み入れる。がっくりとした。案の定、神田川こと股間揉み込み男が、今度は昨日とは別の男の股間を揉みしだいていた。
「んはよ!」
 あっけらかんと神田川が言う。
「……おはようございます」
 明るい声に、暗い声で返す羽目になったのは、当然の結果だと思う。
「……んあ……ヤバイって……それ以上は……っ……かんっ……だがわっ……!!」
 痛恨の一撃。朝っぱらから。眩暈がした。
「ちっ、仕様がねぇなぁ。辛抱が足りねぇよ。お前もうちょっと鍛えとけよ? じゃなきゃ早漏って言われるぜ?」
「……神田川がテク有り過ぎなんだろ? 畜生、お前何処でそんなの覚えてくんだよ」
「そりゃ勿論、この職場で。当ったり前じゃん? つーか他の何処でそんな勉強するよ?」
 ……頭痛い会話だ……。こんなんで良いのか? 営業二課。
「……あ、俺、黒崎真樹[くろさきまさき]ね。サキちゃんって呼んで♪」
 さっき妙に色っぽい声を上げた男がそう言った。……頭痛い。
「駄目だ、やめとけ。サキ。砂原はどうやら篠田の『お気に』らしいから」
「げっ!! 篠田!? ……ヤベぇな。あいつ怒らすと恐いしな。砂原ちゃん、ごめんな?」
 『ちゃん』!? ……絶句する。
 そこへ。
「噂をすれば影だ」
 神田川の台詞と共に、篠田さんが入ってくる。
「……俺がなんだって?」
 じろりと篠田さんが神田川を睨み付ける。
「……いや、相変わらずのイイ男って」
「嘘をつけ。お前がそんな事、俺の前以外で言うか。どうせくだらない事だろう」
「いや、そんな事言いませんよ♪ 影の実力者様♪」
 『影の実力者』!?
 どきん、とした。時枝さんもそんな事を言っていた。
「……砂原、おはよう」
 柔らかい笑顔。思わず見惚れる。
「……お、おはようございます!」
 ひゅうぅ、と口笛が聞こえた。神田川だ。
「……お前がそういう顔するとはな。『根上』以来じゃん?」
 『根上』。
「何戯けた事言っている。お前、ちゃんと昨日日報出したか? 俺の退社時刻までには見当たらなかったようだが」
「大丈夫、大丈夫。そこの未決済書類のトレイにちゃんと入れてあるから」
「まさか今朝出した訳じゃないだろうな?」
「……まさか。ちゃんと昨夜のうちに出しましたよ。信用無いねぇ?」
「信用できるような事してるか?」
「へぇ、へぇ。わっかりましたっ♪ ……うっるせぇなあ、小姑みてぇ」
「……やめとけよ、神田川。茶化すのは」
 神田川の傍若無人さに、黒崎が忠告する。篠田さんは溜息をついて、席に座った。
 『根上』。……その名を聞いた瞬間、篠田さんの表情が一瞬変わった。固くなった。厳しい顔になった。すぐにそれは誤魔化されるように掻き消えたけど。……『何か』あるんだ。つきん、と胸が痛んだ。『何か』あったんだ。『過去』に。その名は、昨日時枝さんが口に出したのと同じ人のものだろう。おそらく、たぶん間違いなく。原因不明で辞職した人。二人の間に『何か』あって、それで最終的にそういう結果になった。
 ちりり、と胸が痛んだ。臓腑がきゅうっと絞られるような気がした。俺は思わず篠田さんの顔を見上げた。彼はふと俺の視線に気付いて真っ直ぐ見返した。俺は所在なく立ちすくんでいる。篠田さんは笑った。
「……悪い。珈琲でも入れてくれないか?給湯室はそこの奥だ。コーヒーメーカーあるから」
「……はい」
 俺はのろのろと給湯室へ行き、誰かがセットして出来上がってるコーヒーメーカーからカップに珈琲を注ぐ。砂糖ミルク必要か判らないから、一応両方持っていく。
「……悪い」
 篠田さんは穏やかに笑った。綺麗な笑顔だ、と思った。独り占めしたい、と思ってどきりとする。……俺、一体何考えてる?
 篠田さんは困ったように笑った。
「……あんまりじろじろ見るなよ。……何かあるのか?」
「……いえ」
 俺は顔を赤らめて視線を外す。耳まで熱くなる。篠田さんはカップを机に置き、ふと右手を俺の肩に触れた。俺はどきり、とした。びくん、と肩先が震えた。篠田さんはそれに気付いた。神田川と黒崎が、こちらを興味深そうにじろじろ見ている。
「……ちょっと」
 促されて、立ち上がる。篠田さんと歩き、非常口の外の、非常階段に出た。
「……大丈夫か?」
 心配そうに篠田さんが俺に尋ねた。
「……え?」
 俺はきょとんとした。篠田さんは苦笑する。
「……熱、あるのか?」
「……いや、熱なんて……無いです」
「……そうか……」
 春の風が、埃と砂を巻き上げ、吹き抜けていく。暖かい乾いた突風。うるさそうに、篠田さんは前髪を掻き上げた。
「……砂原」
「……え?」
「あんまり人を真っ直ぐ見るな」
 俺は言われた事の意味が判らなくて、目を見開いた。照れ臭そうに、篠田さんは笑った。
「……見られた方は、どうしたら良いか判らなくなる」
 思わず、篠田さんを見上げる。困ったような、笑顔。
「……だからそうやって……」
 苦笑して、目を閉じて。……綺麗だ、と思った。凄く綺麗だ、と。目を開いて、篠田さんは真っ直ぐに俺を見た。俺は心臓を掴まれたように、どきりとした。
 篠田さんの顔がゆっくり近付いてくる。綺麗な、整った白い顔。魅入られたように俺は見つめて、その瞳が瞼に隠されたのを合図に、そっと自分の瞼も閉じた。ゆっくりと重ねられる唇。……俺はたぶん、その瞬間を待ち望んでいた。
 背中に、大きな腕が回される。二、三歩後退して、非常階段の手すりに押し付けられる格好になる。右手でしっかり抱きかかえられ、左手が俺の顎を支えてる。触れ合った瞬間、篠田さんの中の獣が弾けたのを、俺は知った。嵐の奔流の中にいるような激しく熱いキス。激しく俺を求め、縦横無尽に駆けめぐる舌の動き。こんなに強く求められた事は無かった。こんなにキスが気持ち良いって俺は今まで全く知らなかった。思わず、声が洩れる。それに更に発情したように、篠田さんの右手が俺の腰を滑り、上着の中へと忍び込み、ワイシャツの上から胸の突起をなぞられ、つねり上げるように揉み込まれた。
「……しっ……のださっ……っ!!」
 荒く、息を吐いて俺は仰け反った。目を開く。欲望に濡れた瞳で、篠田さんは俺を見ていた。その瞳に、どきりとして引きずり込まれそうになる。必死で目を、背ける。
「……ちょっと……これ以上……マズイですよ……」
 ああ、と彼は呟いた。
「……そうだな」
 そう言った篠田さんは、穏やかな表情で。『大人』な先輩の顔で。少し、寂しいと思った。思って、動揺する。
「……そんな顔、するな」
 ぽん、と篠田さんは俺の頭の上に手を置いた。
「……また、したくなるだろ?」
 真っ赤になった。どきどきした。顔がまともに見られない。下半身が、疼いた。駄目だ、俺。どうかしてる。……何でこんな……こんな風に……!!
 不意に抱きすくめられた。
「……今日、俺の部屋……来るか?」
 どきん、として見上げた。優しく笑っていた。
「……続きをしよう」
 俺はこくん、と頷いていた。

To be continued...
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