生活。

下が、舌が、判別しがたい感覚に痺れていて、自由が効かなくなっている。そんな時が俺には確かに在る。大地に立って歩きだそうとしたとき、膝から崩れて、心底吃驚した。二足歩行に慣れていたはずなのに久方ぶり、俺は這いつくばって、台所の冷たい床を前進する。シンクの縁にしがみついて、捻った蛇口からは、酔い覚めに甘い露の味。ようやく舌が潤い、そうだ乾いていたから辛かったのだ、そんな事に気付く。

足先にようやく血が通いはじめたか、震えながらも、何とか二本の足で体を支えられるようにはなった。何かお腹に入れなくてはと冷蔵庫を探しても、元々今朝の朝市で買いに行く予定だったのだから、何もないに決まっている。そうだ、朝市だった。一緒に行こうと行っていたのに、また寝坊をしてしまった。用を足してから部屋に戻って、目覚しを見たら、七時過ぎで電池が抜かれていた。いけないひとだ。起きだしていた俺の、気配で目を覚ましていたのか、シーツと布団と枕の砂丘に半ば埋もれながら、婉然と微笑んで、掠れた声でおはよう。目やにも付いていない。俺の、無意識に触わった目頭にはこびりついている。

……今、何時だい?」

 砂丘から這い出して、白い肌を無意識に晒しながら彼は尋ねる。

「三時十五分だって」

 答えに、彼はあははと笑って、また砂丘に仰向けに沈んだ。

「十八時間も寝ちゃったんだね」

「昨日、寝たのそんなに早かったっけ」

「うん。覚えてないかな、……九時すぎにはもう君、寝ちゃってたよ。……僕トイレ行ってくる。着替えてから、朝昼兼用のおやつを食べよう」

 買い物、洗車、洗濯、掃除、修理、散歩、やろうと思っていたことがいろいろあったが、紅茶一杯飲んで四時では出来ることなど何一つ無い。探すことすら億劫だ。呆然とソファに座っていると、あれだけ寝たくせに寝る前よりも疲れていることに気付く。

……寝ようと思えば寝られるものだな、十何時間も……」

「そりゃそうさ。僕だって三十年以上寝続けられたんだし」

「その間、どうしてたんだ? 食べ物とか、トイレとか」

「勿論、時々起きてはいたけど。退屈はしなかったよね、ずっと夢を見ていた訳だし」

「寝てる間に退屈とかするかな」

 いつまでも、温かい紅茶を啜っていては本当に何も出来ないまま終わってしまう。ただでさえ日が短いのだ、何か一つでもいい、出来るなら、しよう。ちょっと喉に熱すぎる感じはあったが、飲み干して、立ち上がる。膝はもう、大丈夫だ。

「行こう」

「散歩?」

「買い物に行こう。冷蔵庫の中からっぽだったし」

 外へ出る、というのは、生活の中で一番簡単に出来るイベントだと思う。それでも男はまだ、そこまで気にしたりはしないが、一応、寝癖が付いていないか、さっきみたいに目やにが付いていないか、穿いてるズボンの尻が破けていないかくらいは、気にするのがやはりエチケットだ。ちゃんとした自分のパーツを揃えるとなると、やはり十五分くらいは要してしまう。そんな訳で財布をポケットに忘れず入れて、家を出たのは四時半近くになってからだ。もう日は山の向こうに隠れてしまっている、マフラーのない首を、冷たい風が切っていった。

 街に人通りはほとんどない。どんな時でも並んで歩くときは、正々堂々手をつなぐように決めていて、どちらからともなく重ねあって、それが本当に愛し合ってる見た目で、誰かに見せたいと思ったのに誰もいない。ちょっと拍子抜けして、寒いねって言いながら早足になってスーパーマーケットに急ぐ。途中、森本さんちの前を通り過ぎるとき、大五郎に吠えられたくらいで、何の問題も無く街を通り過ぎた。光の沈んでいく冷めた空気の中で、街の色が鬱に浸っているように見える。 緑色のプラスチックの篭を、カートに載せる。あの空っぽの冷蔵庫をいっぱいにするために、男二人の旺盛な食欲もいっぱいにするために、この篭二つをいっぱいにするために、第一歩として店先につんであったインスタント焼きそば九十八ギル也を三つ取ろうとしたら駄目だよって言われた。

「そんな物ばかり食べたら。肌に悪いよ」

……面倒くさいんだよ昼飯作るの」

「そうなの? 昨日は美味しいスパゲティを食べさせてくれたじゃない」

「あんたの為じゃなかったら、飯なんか作らないよ。自分の為だったら面倒くさくて……」

「駄目だよそんなこと言って。ちゃんとご飯は食べなくちゃ。バランスよく、ね」

 そう言って、レタスを両手に持って、品定めする横顔、漂う家の香りに、断片的な幸福が転がっていて、俺はお腹が空いてきた。苦手でもちゃんと食べなきゃいけないよと、ニンジン、ブロッコリー、タマネギ。あとでカクテルを作るのに使おうと、オレンジ、レモン。

自動ドアを潜って入った店内は閑散としていて蛍光燈の灯かりが眩しい。両脇の冷蔵庫の作動音が空寒い。俺たちが近寄ったから、慌てて動き出したようにも思えて、エリンギを一パック買う。ペットボトルのお茶も買う。生鮮食品売り場が俺はとても好きで、片っ端から買っていきたい気になるけれど、ぐっと堪えて、取りあえず彼に任せる。いつも、ちょっと大目に買ってくれて、だけど全部平らげてしまう。今夜は生姜焼きにしようかキャベツはあったんだよねと、豚肉を篭に入れる。

「お米はあったんだっけ?」

「あー……、いや、なかったよ」

「十キロの?」

……安くなってないのか、五キロのでいいよ」

 カートの下段にずっしりと重たいのが入った。インスタントスープのもとは上段に入れる。牛乳は四本、下段に。バター。ヨーグルトも。おつまみにしようとスモークチーズ。パンに塗ろうとクリームチーズ。そのパンが無いじゃないかと食パンの八枚切り。オリーブの瓶。パールドオニオンの瓶。レッドチェリーの瓶。ピクルスの瓶。キュラソーの瓶。ジンの瓶。ウヰスキーの瓶。卵の瓶もとい、パック。

 レジ横でガムを三つ入れて、申し訳程度の雑誌コーナーから料理本を一冊。レジに篭を置く段になって居間の電球がひとつ切れていることに気付いて取りに行く。

 眩しい店内でようやく会った人はレジ打ちのパートタイマーで、なじみの俺たちのじろりと顔を見るといらっしゃいませと平板な声を出す。それは日曜の夕方にこんなところで働いているという憂鬱感ゆえか、それとも俺たちの関係を疎んでのものなのか、判然としなかったが、さすがにレジを間違えて打ったりはしない。

「八千七十一ギルになります」

「一ギル……、ヴィンセントある?」

……どうだろ……、ああ、あった」

 オツリの二千ギルを受け取って、共同作業で袋に入れていく。生物はビニールに入れて。勿論このビニール袋をたくさん持ってかえったりなんて無作法はしない。森本さんの奥さんがこの間しているのを見た。大五郎のウンコ袋に使うのだろう。

 気付かぬうちにあたたかかった、店を出た途端に、五時を知らせる鐘が鳴った。空はもう闇。俺は左手に、ヴィンセントは右手に、膨らんだ袋を提げて、もう片っぽで手をつなぐ。

「近いけど、車で着た方がよかったかな」

 つないだ手は、離さないから、重たい荷物を持ち替えることも出来ない。それを後悔しているはずがない。

「無理だよここ……、駐車場無いし。金取られたら嫌だし。……あ、でも俺買いに行ってあんたに迎えに来てもらえばよかったか」

「そういう訳にはいかないよ」

 彼はすぐ否定した。ちょっとだけムッとして、

「俺がたくさん買ってしまうから?」

 言うと、俺の気分を害したことを、気にしたように、ちょっと悲しそうに首を振って、微笑んだ。

「寒い思いを君一人にさせるわけにはいかないから」

 俺の手をぎゅっと握る。そんなに暖かい手でもないのに、やっぱり人肌は、嬉しい。そして一番俺の手にフィットするから、安心感も大きい。

「一緒なら、こうして、お前の手を私が抱いて、温めてやることも出来る」

 猛獣のような愛情が牙を剥いて俺の理性を噛みかけたがすんでのところで逃れることが出来た。荷物を放り出して抱き付きたいという衝動はこの瞬間、卵を手にしている俺に大変危険な物であった。

「ね、だから、いっしょに歩いて帰ろう」

 俺はヴィンセントの顔もまともに見られず、左手の袋の中身を確認したりなんかした。つないだ手に困る。熱くて、汗かいてきそうで、カッコ悪くなりそうで。家に着くまで、彼のかけてくれる言葉に、うん、うん、って肯くだけ。そのたびに、こみ上げてくる涙が散ってしまいそうで困惑した。

 憂鬱なままでは終わらせたくないと思った日曜日が、あったらこんな風に大好きな人と、やらなければいけないことをやる。そうすればそれは、やらなければならないこと、ノルマ、仕事、そんなんじゃなくて、決してそんなんじゃないものにすることが出来る。手をつなぐだけでも、幸せなのだと、茹った頭で感じれば、涙が出そうなほど嬉しいのだ。泣いちゃ駄目だと、幸せじゃないと、考えてはいるのだけど。

……どうしたの、クラウド」

 喉が絡んでしまいそうだったから、俺は無視して荷物を置いた。本当に、幸せすぎて、泣くことは不幸なのに、涙が出るという矛盾に困り果てて、どうしたらいいか解らなくなる。

 ヴィンセントが後ろから俺を抱きしめて来た。ぎゅっとされて、押し出された俺の涙と鳴咽に彼はちょっとびっくりたみたい。だけれど、俺の頬に流れるつまらない塩辛い液体を指で掬う。

「何か、辛い?」

 優しい声で聞かれること自体が、今はすごく辛い。

 分かってもらえないかもしれない。大好き、という言葉も、今は喉からうまく出ては来ない。首を振って、飛び散る涙が疎ましい。

「そう……?」

 ただ、俺の手が彼の手を離さないから、彼はそのまま、後ろから抱きしめて、身体を寄せていた。何て優しいんだろ、何て強いんだろ、何でこんな素敵な人が俺を愛してくれているんだろう。理由を考えていたら、それこそ本当に悲しくなってしまいそうだから止めた。

 愛しいという難しいけれど単純な感情が俺の中でここ何年間途切れることなく弾け続けている胸を締め付け続けている。それが、いつしか毎日のリズムになっていた。

 涙が、少しずつ乾きはじめた。その腕を解くとき、どんな言い訳をしようか。考えるのは、ちょっと恥ずかしい。きっと俺は不機嫌に「何でもない」と言って、少し彼を困らせてしまうだろう。


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