漏水。

と、まるで俺たちの生活が絡み合うことにえらく重点を置いたものに見られるかもしれないが、だとしたら光栄だ。正確を期して書くならば、俺たちが一番大切にしているのは愛情の伝達であり、セックスだけではなく、セックスを含めたコミニュケーション全てなのだが、視線ひとつも疎かにはしない。そして、誰かと共に生きているなかで、その「誰か」を心底苦しいほど愛しいと思いながら、色んな事をしてみるというのは、意外と大変で、だからやりがいがあって、幸せを招じ入れる事になるのだ。一緒に心地よく眠る為の、どうせぐちゃぐちゃにしてしまうとしてもシーツをぴんと張った。明日も会社に行ってもらう為の、黙殺するにしても一応は目覚し時計に電池を入れ直して時刻を確認した。二人の食事を見栄えのイイモノにする為の、捨てるにしてもパセリを買ってきて冷蔵庫に入れた。こういった行為の一つ一つは、自分をカッコよく見せる為のオプション的趣味にも似ている、カッコイイと思うから読書、カッコイイと思うから煙草、カッコイイと思うからコーヒーはブラック、だけど、誰も気付いてもらえなくてつまらない。ならば、恋人の為に、した方がよほど自分としても満足を得られるはずだ。そしてそんな自己満足は誰かに卑下されるべきものでは決してない。大好きな人の幸せを支える要素に成りたいと思う所から、始まるんだと思う。自分を幸せにしてくれる人を嫌いになるようには、人間は出来ていないから。自分に意地悪をする、そんな人を好きになる恋愛もあるけれど、それは意地悪をされることが嬉しいから、好きになるだけのこと、基本はまるで同じ事。ヴィンセントが俺を幸せにしてくれなかったら俺だってヴィンセントのことを幸せにしたいと思ったかどうか。考えたくも無いけど、きっと、そうなんだろう。温かい所に一緒にいたいと、思ったなら、幸せにし合わないといけない部分もある。

人前に寧ろ出たい、ペアルックのタオルセットは、友達が贈ってきたもの。からかい半分だったのだろう。だとしたらそれは見事に当てが外れている。知らないんだろう。下着も同じ柄を穿いていることを。俺がそれを、わざと腰の当たり、露出させて歩いていることを。そして、今度彼女と会ったらその事をちゃんと教えてあげようと思った。そしてペアルックをありがとうと礼を言おうと思う。バスタオルとタオルとパンツとシャツを並べてみると全く同じで、青か赤かの差しかない、モノクロームなら分からない。冷たいタイルの床に裸足で上がって、バスタブの三枚の蓋を重ねて、手を入れてみる。ちょっと温い、だけど、長い事入るんだからこれくらいが好ましい。そして、彼の裸足が冷たくないように、手桶で床にお湯を流した。

「風呂湧いたぞ」

八時半。頃合いだ。身体を十分暖めて、風呂から出てもまだ二時間半はある。彼はノートパソコンを畳んでありがとうと俺に言った。

「着替えはもう置いてあるから。入ろう」

「うん、……片付けてしまうから、先に行ってて」

「すぐ、来いよ。待ってるから」

 彼は苦笑して肯いた。そんな仕種は、俺よりずっと大きいのに、何でか子供っぽく思えて好きだ。

 でも本当は彼に脱がせてもらう予定だった。ちょっと拍子抜けして、シャツとセーターを重ねて脱いで、ジーンズとトランクスも重ねて脱いだ。すりガラスの戸を開くと、彼の為に開けた蓋と流したお湯のお陰で、少し温かい。温めのを肩からかけて、腰掛けも暖めて、座って待つことにした。洗ってから入らないと咎められる。だけど一人で洗う気にはならなかった。肩が冷えて風邪をひく前に早く来てくれ。

 クシャミ四回分、四分半かかって、ようやく彼の肌色がすりガラスを透した。遅いよと、詰ってやろうとも思うが俺にそれが出来るとは到底思えない。冷たくなった肩を触って、彼が心配するといけないからお湯をかけて暖め直す。一度では足りなかった。

「ごめんね遅くな……って、待ってたのかい?」

 俺は、彼の驚いた顔だけで、十分な満足を得て、肯くだけだった。彼はああって溜め息吐いて、俺の頭を撫でた。

「そうか、悪かったね……。ちょっと片付けに手間取ってしまったんだ。本当に申し訳ない」

「いいよ……、そんな謝るな。それより、身体洗ってくれよ。その為に待ってたんだ」

「ごめんねー、ほんとに……。お詫びにたくさん、綺麗に洗ってあげるから……」

 俺は肯いて立ち上がった。 お湯を温く沸かすのは、俺が熱いの好きじゃないという理由もある。こうやって、ざばっとやられたときに、熱いのだと何だか苛々するのだ。温く、ふわりとしたお湯が、俺は好きだ。

 ボディソープを手のひらに取って、冷たくないようにその手で泡立ててから、肌にそっと触ってくれる。向かい合って、彼は俺を胸に抱き、背中と肩から洗いはじめる。

「今日は、何か良い事があったんだね?」

 いきなり、そんな事を言い出す。訝っていると、彼はふっと耳に息を吹きかけて、

「ただいまって言ったときのリアクション、機嫌が良いように見えたから」

「ああ……、そうかも知れない」

「何があったの?」

 話す必要も無いことだと、俺は無愛想な態度をとりかける。恋人だからこそ、そんな会話を、生活の一部を、いとおしく思うのだ。

「いや……、でも別に……。ああ……、うん……。スーパーで……昼にスーパー行ったんだ……、そしたら……、お米安かったから……」

 にっこり、笑ってヴィンセントが言う。

「そう、それは良かったね」

 無条件に首肯してくれる、したくなる、互いの、想う気持ちは洗ってなくてもいつもこんなにも綺麗。心本体は、見られたもんじゃないかもしれないけれど、ヴィンセントの俺の信じる、羞恥心皆無で発言する「愛情」という単語は、ハート形ではないにしろ、いつでも、ぴかぴかと、輝きを放っている。

 手桶で汲んだぬる湯で髪を濡らしてもらって、シャンプーで頭皮マッサージされると、何というか、快楽昇天の心持ち。自分の手であれば、それこそ無頓着にやるだけだが、何でも器用なその指は俺の髪すらも、一本一本こだわりを持って丹念に、清めていくのだ。そんなことに何の意味があるのと問い掛けて、もう困らせたりはしないと、決めたのだからもう、その指圧を甘いだけのものとして受ける。真っ白になっていきそうだ。その指のお陰で俺はきっと、ずっと、はげたりなんかしない。あんたの髪も真っ黒でたくさんあるから、はげたりしないだろうし。いや、はげても俺はあんたのことが好きだろうけど、はげた俺をあんたが好きでいてくれるかどうかは、ちょっと考えたくなかったから、そう思ったのだ。

「伸びたね」

 泡が目に入らない様に閉じているし、どうやら口の当たりまで泡が流れてきてしまっているから、何もリアクションが出来なくて、ごめんなさい。

「でも君の髪は、長さがあると余計に見栄えが良くなるようだね。僕は重たくなるばかりだから切ってしまったけれど」

 そんなことない、あんたのあの、流れるような黒髪は、美しかった。あの漆黒の森の中を指で歩くのは心踊る行為だった。あんたの長髪は、素敵だった。妬ましいほど美しかった。といって、今の、ちょっと不真面目な社会人といった風情の髪型も、俺は好きだ。羨ましいのだ。短いのも長いのも中途半端なのも、合格ラインが七十点だとしたら、九十五点以上確実に取れるあんたの髪の毛。

「流すよー」

 彼は念入りに自分の手にかけて、湯温を確かめてから、

……熱かったら言ってね」

 と、俺の頭上から四十一度の雨を降らした。丁度いい、そう判断していないはずが無い、のに、俺を気遣って、彼の肩はもう冷えているのだ。

 泡を流していた彼の手がはなれたのを感じて、タオルを求め手を伸ばす。すぐに手のひらに柔らかなのを受け取って、どこよりもまず目と鼻を拭いた。

「大丈夫? 目に入っちゃった?」

 タオルをぎゅっと顔に圧し付けてから、離す。ちょっと視界がぼやけた。

「平気だ。……あんたのも洗ってやる」

 彼はにっこり笑って、

「僕のはいいから。冷めないうちに早く入って。その方が安心だから」

 ちょっと憮然としていると、お願いだよって、困った笑顔で言う。肯くしかないだろう。温めに設定しておいて正解のお湯の中に胸まで浸かると、盛大に浴槽から零れた。

「左腕からっていうのが、一番、多いんだそうだ」

 その背中を、右後ろから見る。細く広い、そんな背中。今は綺麗だけど、ちょっと前は傷だらけだったっけ。いま傷が出来るとしたら、それは俺が辛抱堪らなくなってしがみついて出来るもの。名誉の負傷だよ、彼は笑って、血が出ても消毒さえしないかもしれない。

「何? ああ、洗う順番?」

 腰掛けに座る、うすらさむいような色の臀部は、それが、男のものだからこそ、胃に棘が刺さるみたいな悦びだ。ちょっと目線を上げればまたそこはうまい具合にくびれたウエストのラインが合って、だから細身の服もとても似合うのだ。どきどきするのは会社帰りのスーツ姿だけれど。

「そう。……誰が言ったことか知らないが、そうらしい。……あんたも俺も、そうなんだよな。考えてみれば当たり前で、右手で泡立ったアカスリ持ってたら、まず左腕っていうのは自然な発想なんだよな」

 泡の衣に包れていく、右後ろ姿は、本当に、ああこの人、男なんだなあということを、ちゃんと感じられるもので、ほっとする。彼は美しくて、弄れば弄るほどもっと美しくなるかもしれないのに、敢えてそれをしない、それがまた美。腋毛だってちゃんと生えてて、アソコもちゃんと毛が生えてて、すね毛も生えてて、そう言ったものを忌避するなんて馬鹿げている。人間、生える所には生えてくる。勿論、エチケットとしての身嗜みは当然のことだが。

「昔寮で暮らしてたとき、頭から順番に洗う奴もいたけどね」

 水を含んだ髪は尚一層の艶を持つ。俺のではないと、それこそ適当に、濡らして、シャンプーを掌に出して、やや乱暴に洗うばかりで、泡を流してからも、闇雲に拭きまくってお終い。ぼさぼさになった黒髪、それは、可愛い。可愛いなんて思っては叱られてしまうかもしれない。けど少なくとも、爆発した頭を、整える仕事を俺にくれる、気持ちは優しい。

 大の大人が二人も入ると、お湯はまたどんどん溢れていってしまう。

 俺は彼の腹の上に背中を重ねた。俺の臍の上に、彼が指を組む。

 彼の鼻が俺の髪を嗅いだ気配がした。

「金髪って、いいよね」

 言い返したい、黒髪の方がずっといいぞって、だけど褒められたことに唇の端がぴくりぴくりとしてしまっては何も言わない方が無難だ。

「何かのバラエティで見たんだけどさ。僕みたいな黒髪の芸能人がね、金髪の人のヘアはどうなってるのかって疑問に思ったんだって」

 くっ、と笑いそうになってしまった。

「いきなり何を言い出すんだ」

 彼もおかしそうだ。

「まあ、聞いてよ。でね、別の金髪の芸能人が言ってたんだけど、ヘアの色っていうのは、眉毛の色と同じなんだって。だから、赤い眉の人はヘアも赤、茶色の人は茶色、僕みたいに黒はやっぱり黒だし、君は金色」

……まあ、……ああ、それで?」

「髪染めるの流行ってるじゃない。黒を脱色して金にしたりするひとって、いるじゃない。ああいう人たちでさ、ときどき眉毛が黒いままだったりする人、いるでしょう。あれは画龍点晴を欠くって言うか、抜けてるよね。だからさ、絶対眉毛も脱色した方がいいと思うの」

 彼の言うとおり、金髪で眉毛が真っ黒というのは、あまりカッコの良いものではないと、俺も思う。

「でね、そんな風に、眉毛を金にしたんなら、やっぱりヘアも脱色して金髪にしちゃうくらいの覚悟が必要だと思うんだ」

 結局噴き出してしまった。

「何、チン毛を脱色するのか」

「ヒゲやお尻の毛も」

「もちろん腋毛もだな」

「ちんちんとかしみそうだよね」

「っていうか、やってる光景はかなり笑えるだろうな」

「うん。……っていうかね、僕は君の金髪は誰より美しいとは思うけれど、僕が黒髪であることを悔やんだ事はないし、だから脱色して髪染めたりする理由が、よくわからないんだよね。髪も痛むだろうし……。勿論、それはその人の趣味嗜好によるものだから、僕が意見するようなことではないんだけどね」

 俺は俺で、この金色の髪はヴィンセントにいつも綺麗だねって褒めてもらえるから気に入っているけれど、お揃いになりたいという理由で黒に染めると言うことを考えたことも在った。でもさすがに、何だ、下の毛まで染めるという事までは。

「そう言えばさあ」

 思い出したように、ちょっと寂しげな声で彼は次の話題を切り出した。

「檜山がFAしちゃったね」
「あー……、あれな。出てくんじゃないのか? 解んないけど……」

 俺はちょっと汗が浮いてきた鼻を指で撫でた。

「金本は入るでしょ、プラスで仮に中村が入ってくれたとしても……、何だかね……」

 掌がお湯を掬い上げて、俺の肩にかける。

「阪神色が無くなるというか」

「長年親しんだ家族が欠けるというか」

「強くなるのはいいけれど、というか」

「阪神じゃなくなっていく、というか」

「どうにもね……。まあ、それでも優勝してくれたらすごく嬉しいんだろうけど」

 彼が尻を前にずらして、肩まで浸かった気配だ。それに合わせて俺も尻を前方に進める。その分足先が出る。足先を入れると膝が出る。我慢する。

「四番はFAで獲ったのを使うんだろうな……」

額に髪の毛が張りつくのが嫌で、降りてこないように持ち上げていると、彼の手が俺の額を抑える。

「せっかく濱中が育ってきてたのにね。何かずっと同じ事繰り返しているように見えるよね」

 んー、と声を上げながら、狭い中、体を伸ばす。

 それからたわむれに掌で俺の胸に触れた。

「温まったね」

……この間あんたが買ってきたマンガさ」

 二人立ち上がると、浴槽のお湯の嵩がずいぶん減ってしまっている。無駄に流れたのが話のネタで、減らずに残ったのが愛情かもしれない。そんな事を考えながら、だったら無駄話はもういいやと口を噤んだ。

「なに?」

「何でもない」

 首を傾げる彼は、タオルで俺の身体から水滴を拭う。

「冷えないうちに服着ちゃおう」

「いらない」

「なんで?」

 気付かない振りをしているのか、本当に気付いていないのか、分からないから困る。

「ベッド行ってどうせ脱ぐんだから要らないだろう」

 彼は、んー、とちょっと笑って、頭の後ろをごしごしタオルで擦った。

……じゃあ、クラウド……、おいで」

 手を広げて胸を解放する。

「何」

「君、スリッパ穿いてこなかったでしょう。寒いだろうから、僕が抱っこしていってあげる」

 頭いいなあ。頭悪いなあ。

 俺が思いつきそうでつかないことを思い付いて、馬鹿みたいだと思わないでやろうとしてくれるあたり、最高だ。風呂上がりで、のぼせた頭、くらくらする、本当に、抱っこしてもらいたい、思う。

「重たいぞ、俺は……」

「僕より軽いだろ、平気さ」

 ちょっと危ない足取りで、運ばれた先、ベッドに降ろすときはやたらに慎重になって、そっと、ちょっと、息を切らせながら、赤い顔で、大好きだよ、綺麗だよって。熱を孕んだ身体を重ねあうとなんとも満たされる。この体温が消えぬ間に、いくらでも体温を創り出すことが出来る形をしていてよかったと思う。

 俺の足が、どうせ電池を抜かれる目覚し時計を知らずに蹴っ飛ばした。

 檜山は結局残留して、中村は取れなくって、四番には濱中が座っていた。


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