ウータイがここまで雪と縁のある土地だとは知らなかった。ニブルヘイムも積雪量では劣らないが、こんなに海の近くだというのに、降っては融け、融けては降りを繰り返す。幸い根雪にはならないようだが、寒さは厳しい。
色の白いの七難隠すと言い、だからメルもユフィもある程度は美人に見え―― いや、とにかく白いのはいい事だと言うけれど、白は退屈な色だ。今日も今日とて露天風呂、入って出てを繰り返す、しかし湯気も湯の色も回りの景色も、ひたすらに白ければ、頭の中も真っ白になってしまう。土産物屋に並ぶ山ごぼう味噌漬の、鮮烈なオレンジバーミリオンにはっとする。オレンジバーミリオン、書いてみると「白」という平々凡々な単語からしたって、非常に刺激的だ。とにかく、そんな事に刺激を感じてしまうくらい、俺の神経は雪に閉ざされ硫黄に塗れている。
だが、退屈なのは景色に関する事のみで、ひとたび室内に目を向ければ、その艶やかさは筆舌に尽くし難い。毎度の事ながらメルとユフィがやかましく、ハッシェルは飽きない話をしてくれるし、ダートとヴィンセントが本気で遣り合う卓球は見物だ。この間など、ピンポン球でネットを破っていたほどだ。
そんな中で、クラウドを巡って、水面下では問題にならないくらいの問題がちょこちょこ起こっている。もちろん、クラウドは俺の物(物、という言い方は良くないが)だが、在来のユフィに加え、メル、そして、ダートまでもが獲得に動いているのだ。最も、ユフィは「姉として」、ダートは「兄として」の立場を望んでおり、二人ともそれぞれ、健全と言って構わないほどの想いなのだ。 だが、メル。メルの胸の裡は、俺にはとんと見当がつかない。クラウドにしょっちゅうモーションをかけ、そしてそれは概ね叶い、何だかんだと、彼女は誰よりもクラウドの側に一番長くいる。
「ボクねえ……」
彼女は公言して憚らない、
「クラウドの事、大好きなんだ」
と。
ただその本心が、真剣な恋愛感情なのか、それとも「おともだち」として大切だという意味なのかは、俺には分からなかった。ハッシェルだけはさすが年の功で、彼女の内面を解しているらしかったが、俺たちには何も教えてはくれなかった。そういう次第で、俺とヴィンセントはますます仲良くなった。 彼は、自由の効かない俺の、間者として働いてくれる。間者と言っても……、もちろんそう大袈裟なものじゃない。クラウドの隣を狙う面々の動きを逐一報告してくれているのだ。そんな彼だって、他の皆と同じく、クラウドの隣を欲しているのだろうが、愛情で契約した「休戦協定」が彼をストイックにしていた。彼の「好きだよ」は甘く、俺は湯に浸かりながら何度も彼にそうささやかれては上せた。全くお前は手間の掛からない男だ、憎まれ口が快い。こんな気分になるのは久しぶりだ。クラウドを自由に出来ない寂しさがそう感じさせるのだと思うという事にも、寂しさを感じるが。
「しかしまあ、これだけ入ると、飽きるのう」
ぬる酒をちびちびやりながら、俺と同じく、白い景色に倦みはじめたハッシェルは苦く笑う。この老人の微笑みはいつも、いろんな色が混ざり、結局無色になる。それは年を重ねた者が会得する技術のようで、俺はバーにあこがれる子供のような思いでそれを見る。ヴィンセントにも同系の笑顔を浮かべる技術はあるが、ここまで滋味に富んではいない。
老人と顔を合わせるたびに話題に上るのは、クラウドとメル、つまり互いの心を悩ませる若い存在の事だ。最も俺たちの悩み方は全く異質なものだが、若い彼らの活動能力は俺たち――三十の俺でさえも――はるかに上回るもので、目を廻される。
「メルは……。俺、正直まだ、掴めてないんだけど、あの子、クラウドの事、好きなのかな。ずいぶん気に入ってくれてるみたいだけど」
俺は内心に巣食った米粒程の大きさのしこりを気付かれないように弄りながら、訊ねた。だが俺のこころなど先刻承知なのだろう、ハッシェルは喉の奥で少し笑った。
「あの子には森に、許婚がおるんじゃよ」
「いいなずけ?」
「そう。あの子と同じ、銀の髪をした……。ザックス、お主とちょうど、年の頃は同じじゃろう――見た目はな。ガラーハと言って、賢い青年さ。じゃが、少し刺激に欠ける性分での、積極的には積極的なんじゃが、何というかな、あの子の若さを満足させるものを持ち合わせていないんじゃ。じゃから、クラウドやお主たちに、違った魅力を感じておるんだろうよ」
「私たちはそんなに刺激的……なのだろうか」
「そりゃあ、森から出たことのない身からしたら、普通の人間たちでも十分だというのに、お主らのような存在は、そりゃあ……のう」
自分が刺激的かどうかなんていうのは分からないけれど、普通に生きてるつもりの俺からしたら、ヴィンセントとクラウドがとても酸っぱくて辛くて甘いっていうのは理解できる。
「……しかし、メルも何だかんだ言って許婚の事を好いておるのは違いない。口には出さんが、離れて寂しいという気持ちは持っているようじゃ」
孫娘のような存在を慈しむ想いがその顔に表れていた。酒と湯と、暖かな気持ちに、俺たちの頬はすぐに紅潮した。
「腰の調子はどうじゃ」
「うん……。少しずつはよくなってるみたいだ。ハッシェルは?」
「ワシもな。湯治というのはなかなか、薬や魔法を使わんから時間は掛かるが、怪我と平和的交渉をしているような感じが良いのう」
腰を激しく動かすような事はまだ出来ないが、ここに来たときに比べたら調子は雲泥の差だ。だが、回復はそのまま、この心地よい友人たちとの別れを意味している。いっそずっと治らなければ良いのに――そんな幼稚な願いを抱くのは果たして筋違いだろうか。一緒にいれば退屈しない、それはつまり幸でも不幸でも、彼らが俺の心を占めているという事であり、空っぽであるより、誰かに惑わされていた方が健全な精神状態に違いない。クラウドにヴィンセントだけの生活が退屈だと言うつもりは毛頭ないが、それ以外の誰かが俺を満たすということが久しぶりなものだから、俺はそれに新鮮さすら覚えていたのだ。
冷たい風がひうひうと吹く。浴衣の裾から入り込んでくる風に凍り付きそうだ、俺たちはかじかみながら宿へ歩いた。湯治宿として売り出すのなら、もっと温泉と宿は至近な距離にあるべし、なんて勝手な事を話しながら、雪道をしゃくしゃく踏み締める指先はもう凍り付きそうだ。
「何の、これしき」
ハッシェルは、肉体年齢では俺の四倍以上あるはずなのに、膝を庇いながらだが胸を張って歩いている。乾布摩擦で鍛えたんだそうだが、やはり強靭な精神力だ、恐れ入る。
と、感心していたら盛大にくしゃみをした。子供のように照れくさそうな笑顔で、何事かもごもご言う。
「まあ、メルが噂でもしてるんじゃろう……」
ではそれに付き合っているのはユフィだろう、くしゃみは俺にも伝染した。鼻毛に霜がついてしまったかのようにむず痒くて、立て続けに二度、三度と。三度のくしゃみは恋の噂だっただろうか? とにかく、急激に身体から体温が奪われていくのが実感できる。いや、そんなの実感してるからって、決して呑気に構えているわけではない。俺たちは浴衣姿なのだ、とっとと戻らないと、風邪をひきかねない。 どういう具合か解からないが、「寒い」と気付いたのを端緒に、体感温度は更に低下していくようだ。恐らく、身体の中に溜まっていた暖気が品切れになったのだろう。大氷原を歩いた時はこんなもんじゃなかったと思うけれど、奥歯が鳴り始めた。いけないな、この寒さは、何だ一体……。とにかく、宿の門を潜り、玄関を上がりぽかぽかと暖かな達磨ストーブの前に無作法ながら座り込み、俺たちは人心地ついた。
「急に冷えてきたのう……。髪の毛も凍っとる」
鼻の中からはつっと水が零れてきた。冗談抜きに鼻毛に霜が付いていたのか。玄関から外を眺めると、銀粉がキラキラと舞っているように見える。玄関先につけられた寒暖計は。
見間違いだろうか、零下二十度。
「……何だこれ」
そこで始めて、俺の中に「不審」という気持ちが芽生えた。俺の言葉は胞子のように二人の心に伝染した。「確認しておくが、この土地が此処まで冷える事なぞ……」
ハッシェルの問いに、ヴィンセントは即座に答える。
「ない。積雪のあるところではあるが、ここまで気温が下がった事などなかったはずだ」
嫌味な緊張感が漂った。
「……外に出てるやつは、まさかいないよな」
クラウドは、ダートと一緒に俺たちの部屋にいるはずだ。メルとユフィはハッシェルたちの部屋でおしゃべりに花を咲かせているはず。
いずれにせよ、ダートとユフィはある程度の判断能力を備えていると考えていい。四人は無事だ。 俺たちは何も言わず立ち上がり、玄関先のささやかな喫煙スペースに備えてあるテレビを点けた。ニュースチャンネルでは、特に何のテロップも出ていない。また、俺たちの中に灰色がかった気配が漂った。
「念のために全員集めた方が良いだろう」
ヴィンセントが立ち上がった。
「只事じゃない。街の人間が無事かどうかも気になる」
険しい顔つきでヴィンセントは相変わらずダイアモンドダストが舞っている外を見た。寒暖計は零下二十度、間違いない。
不意に、爆音が宿全体に鳴り響いた。
「……心配ない、木が裂けた音だ」
「木が、裂けた?」
「凍裂といって……、立ち木の亀裂に入った水分が凝り固まって膨張して…… 木を破裂させる現象だ」
つまり、それって要するに、それだけ外が以上に寒いって事か? 俺はマイナス二十度という数字以上に冷凍している外を思い知ったような気になった。
「……じゃあ、早く行ってきてくれ。クラ、いや、みんなが心配だ」
「すぐ戻る」
ヴィンセントは駆け足で部屋の方に向かった。
彼が戻ってくる間、漠然とした不安感が俺とハッシェルの間を漂っていた。一言も交わす気になんてならなかった。大丈夫さ、さっき確認した通りだ、そう思いつつも、もしやという可能性は、吸い取り紙に落とした一滴の絵の具のように、じわりじわりと心を冷やしていく。 そして。
ユフィを戻ってきた彼の顔に浮かんでいた表情に、俺とハッシェルはそれぞれ全く別の人物に胸を痛めながら、その唇が紡ぐ言葉を、聞きたくない思いで待った。
「……メルが、いない」
ハッシェルが声を上げた。あげた、いや、荒げた。
「どういうことじゃ!」
「アタシといっしょにいたんだけど……、みんなが温泉にいるって話聞いて、じゃあからかいに行かなくちゃ、なんて行っていなくなって……、長いこと帰ってこないからどうしたんだろうと思って……」
そしたらヴィンセントに聞いて−−と、ユフィの声はフェードアウトしていく。
「まさか、この吹雪の中出てったんじゃないだろうな」
クラウドと共に一階の部屋にいたダートも、「行ってくるね」というメルと一度顔を合わせている。彼女は言葉の通り、手にはタオルと石鹸を持ち、行き帰り寒くないようにと、暖かそうなコートを着ていたのだそうだ。クラウドの証言だから、疑う余地はない。
外は零下二十度、間違いなくマイナス二十度の荒れ狂う吹雪。グレイがかって、扉の外は見えない。十代半ばの少女の身体が、多少の厚着をしたからといってそう長くもっていられるような空間ではない。そう考えるためには、俺くらいの脳味噌があればいいのであって、だから全員の心は雪にふさがれた石ころのようになった。胃がムカムカして、吐き気を催す。わざと長いため息をすると、胸の奥が詰まって苦しい。決まったわけではないのに、もう既に俺たちの頭には真っ白なメルが描き出される。戦いに身を置いたことのある者は、いつも最悪を考える。そしてその考えは、無邪気な子供もまた、抱く。クラウドの顔面は蒼白だった。悪い方へ悪い方へ。悪魔が鳴らす手の方へ。
「とにかく、だ」
しゃべり出すのに、パワーが要った。重っ苦しい雰囲気を持ち上げて、どこかへうっちゃらかすためのパワー。全員の視線がこちらに向けられる。そのプレッシャーにも耐えて、俺は勢いをつけて、言った。
「探そう、メルを。まだ宿の中にいるかもしれないし、外だとしたら一刻も早く見つけてやらないと」
ダートがハッキリとうなずいて、同意してくれた。
「ザックスの言う通りだ。メルを探し出さなくては……」
言いつつ、ダートはコートに袖を通した。何も言わず、ヴィンセントが外への捜索参加態勢を整える。
「無茶だ、そんな薄着で」
薄着。確かにヴィンセントが身に纏っているものといえば薄い浴衣が一枚。浴衣の下にシャツも着ていない。だがそういうことに慣れてしまっている俺とクラウドは、何らおかしいとは思わない。ヴィンセントは小さく笑うと、どこか侮蔑を含んだ響きの言葉を吐いた。
「私の体は特別製だ。……今更驚くな」
複雑な響きの理由がわかるのは俺とユフィだけだ。 俺たちの小さな感傷など知らん顔で、ヴィンセントは早くも吹雪く戸外へと歩きだした。ダートがすぐにそれを追う。そこに、ハッシェルとユフィが従う。
「おい……」
「…………」
ハッシェルも、ユフィも振り向かなかった。ユフィはロビーの皮製のソファに置き忘れられた誰かのコートに、何も言わず袖を通す。ハッシェルも、濡れたコートを羽織った。 俺たちは見送るほかできない。無論、止めるのが道理というものだろう。だが、焦りの色を隠せない二人を止めて、落ち着けなんて言うことこそ、冷酷だと俺は感じる。ヴィンセントたちが何も言わないのもそのせいだろう。扉を引き開けた途端、吹き込んでくる雪片に肩を竦める二人の後ろ姿に漂う、痛みを覚悟した影が俺の首のあたりを強く締め付けた。ああもう、あの二人のためだけにでも、メルを見つけさせてください。
言い出しっぺのくせに、俺はクラウドと二人残された。要するに俺たち二人で、宿の中を隈なく捜せということだろう。フロントの奥で俺たちのやり取りを炬燵に入りながら聞いていたらしい従業員を呼び付け、手伝うよう頼む。二十かそこらの彼は、テキパキと館内隅々までつながれた放送を使ってメルを呼び出し、自分のやるべきことは解ってると言わんばかりに、二階の客室に彼女を探しに行った。クラウドに手を引っ張られて、俺は一階を。
「ザックス……」
「うん」
手の中で、鋭い爪が出たり入ったりしてる。
「大丈夫だよ、多分、どっかに隠れてるんだろ」
無理をしているのを悟られている。だけどそれすら承知で、俺は笑顔を浮かべ、クラウドを撫でた。大丈夫、大丈夫だよ、そう言い聞かせる。そう、神様このクラウドのためにもメルを生きて返してください。
大袈裟だと笑われても、俺はこの子の精神を、常に平穏なものに保つためなら、信じてない神様にだって身を捧げる。
「大丈夫」
そして、平気で嘘もつく。一階の隅々まで、トイレの中はもちろんのこと、空き部屋や用具入れの中まで覗いた。空っぽを見るたび、俺は追いつめられていった。あまり早くは歩けない俺を先導するトラの尻尾が、落ち着きなくゆらゆらゆれている。耳がぴんと横に張り出している。二階から降りてきた従業員が首を振るのを見て、一瞬、尻尾がぶわりと膨らんだ。さすがに俺も笑っていられなくなって、ソファにクラウドを落ち着けて、その隣で肩を抱いた。肩の筋肉が強ばっている。さすがに震えたりはしていないけれど、奥底にある恐怖心は手のひらを通じて、容易に知る事が出来た。
「中にいなかったってことは、つまり外にいるってことだ。すぐにヴィンセントたちが連れてくるよ」
外の吹雪はいよいよ荒れ狂い、氷の召喚獣シヴァが舞い下りたかのようだ。扉の強化ガラスまで凍り付いて、たたけばやすやすと割れてしまいそうに見える。その極寒の中に、ヴィンセントたちは、そして多分メルも、いるのだ。一刻も早く戻ってこないと、冗談抜きに生死に関わろう。メルだけではない。ヴィンセントはいいにしても、ダート、ハッシェル、そしてユフィ。彼らは頑丈だとしても所詮、生身の人間なのだ。
クラウドは、膝に置いた手で、浴衣を掴んだり放したりを繰り返す。俺は盛大にやってしまいたい貧乏揺すりをこらえて、子供みたいに緊張していた。 喋れない。クラウドを何とか励まそうとするけれど、そもそもメルの無事をあまり信じきれていない俺に、どんな言葉が用意できるだろう? つまらない言葉の響きで傷つけてしまうくらいなら、黙っていた方がきっと得策だろう。すべきはただ、彼女と、そしてヴィンセントたちが無事な姿で戻ってくれることを祈るだけ。俺より多分、クラウドの方がそんなこと解っているだろう。彼は硬く、どきどきしながらも、じっと玄関ドアを凝視している。唇を真一文字に結んで、待つという行為に徹する努力をしていた。何度も何度も、浴衣に爪を立てながら。
クラウドが、腰を浮かした。俺を置いて、扉の方へ走る。目を凝らすと、氷が張りついて見づらいドアの向こう、薄暗い陰が一つ、だんだん大きくなってくる。扉を、体で開けた影は、ユフィだった。
「お姉ちゃん……」
髪の毛にどっさり積もった雪を振り落とすのも忘れ、ユフィは目をまんまると見開き、口も何だかぽかんと、馬鹿みたいに開けて、俺を見るや、言葉を捜してさまよった。 そして、一言。
「吹雪、メルがやってるの……」
本人が、吐いた言葉を全く信じていないものだから、その真実味のない言葉は空しく宙をさ迷った。
「メル姉ちゃんが……?」
「そう。なの、なんか、あの……わかんないんだけどっ……」
今度は慌てだしたユフィだ。一つ、盛大にくしゃみをした。 俺は仕方なくよたよたと立ち上がり、髪の毛の雪を払ってやった。そして重たいコートを脱がせ、「クラウドを頼むぞ」、少なくとも俺の方が、こいつよりも、よく分からないけどちょっと信じられない光景を、冷静に受け止められることだろうと思ったからだ。
「……もう一度聞くが、メルがこの吹雪の原因だと?」
「そ、うみたい」
「どういうことだ? 彼女がやってるって……」
要領を得ない。どちらにしろ、俺はこの吹雪の中出てかないといけないみたいだ。 ああ、寒さは腰に来る。腰骨が凍り付いて割れてしまいませんように。
「ザックス、俺……」
「お前はいい。ユフィと一緒にいるんだ。いいな?」
言い残し、意を決し、吹雪の中に一歩、踏み出した。
予想はしていたことだが、寒い。さっきの帰り道とは比べ物にならないほどに、状況は吹雪だけどヒートアップしている。吐く息が鼻にちりちり当たる。十歩も歩いただけで、もう周りは吹雪のカーテン、宿がどちらの方向にあったのか、わからなくなる。命の危険を感じる。
「ヴィンセント! どこだ!! ……ハッシェル、ダート!」
風にかき消されないように大声を張り上げる。返答はない。もう一度腹の底から、と思って息を吸い込むと、喉の奥に雪が入り込んで噎せた。だが、俺の声はちゃんと届いていたらしい、雪のカーテンの向こう側から返答があった。
「ここだ!」
声のする方向を辿る。かき分けながら進む。ダートの茶色いコートを見つけて、思わず掴んでしまった。
「来たな……」
「どういうことだ、ユフィが、メルがやってるって……」
「言葉どおりだ。この吹雪の源は、メルだ」ヴィンセントはそう言って、この猛吹雪の中、浴衣をはだけた。ダートとハッシェルが唖然とするのを気にもせず、緊急事態だということを念頭に置けばもう隠しだてする必要はない、漆黒の翼を、荒れ狂う白い世界に、広げた。俺たちの風上に立ち、翼の描くカーヴに風を誘い込み、空へと逸らす。ふっと風が和らぎ、俺たちは白い砂嵐の檻に閉じ込められたようになった。
「ダート、ハッシェル! 何故メルが、俺たちにこんなことをする? あんたたちの狙いは何なんだ!」
ダートも、ハッシェルも、白い顔のまま、答えない。
吹雪は止まらない。メルは、何故、俺たちを凍えさせる?
成り行き上、当然といえば当然のことだが、俺の頭の中には、メルと、ダートとハッシェルが、俺たちを何らかの理由で死なせようとしてるんじゃないかという、おぞましい考えが生じた。理由なんてない、ただその瞬間にはその考えが馬鹿げたものだと、すぐには思えなかったのだ。それを口に出すことはしなかったが、俺の顔に浮かんだ嫌らしい表情を、二人は見逃さなかっただろう。
ヴィンセントはふっと息を吸い込むと、それまで風を逸らすために使っていた翼を、一つ、大きく前方に向かってはばたかせた。空中で二つの風力がぶつかり合う。俺たちの立つ場所からは、こちらに向かっていた雪が空中で動きを止めたように見え、そしてヴィンセントの翼の力に負けた吹雪が、徐々に遠ざかっていくかのように、見えた。奇妙な光景だった。
にわかに無風状態が訪れた。 ダチャオ像の一番上に立つ、小さな姿が目に入った。輪郭プラスアルファ程度しか把握できないが、それがメルであることは容易に理解できた。
「説明しろ。……あれは、何だ」
俺よりずっと目の良い、ヴィンセントが低く呟いた。
俺に把握できたのは彼女の輪郭は、人ではないということだけ。
クラウドの輪郭に、人間のそれにはありえない尖った耳と長い尻尾が加わるように、彼女の背中から外側に向かって、三角形の羽根が広げられていたのだ。
俺たちの詰問に、二人は答えなかった。ハッシェルは呆然と、硬直して前方、いつ次なる吹雪を繰り出してくるかわからない少女を見つめているだけ、ダートは痛いように顔を顰めている。彼らは一言も発さなかった。
俺の中で疑念が濃くなる。 残酷な事だと我ながら思うが、俺の頭の中にはすでに怒りが生じていた。クラウドを心配させて、その結果がこれか? 俺はもう一度、言った。
「どういう、ことなんだ」
言うほどに心が怒りに支配されていくのが分かる。ついこの間知り合ったばかり、しかし、「いいやつら」と思えるにいたった彼らに対して、手のひらを返したようにそんな事を言えるということに、俺はクラウドへの愛情と、人間の心のうすっぺらさを、酷いほど感じていた。
依然としてダートもハッシェルも、俺の問いに答えなかった。
だが、ダートは反応した。俺の方を向いて、掠れた声で、
「違う」
「じゃあ、どういうことなんだ」
「信じてくれ! 俺たちは……君たちの敵じゃない、何かの間違いだ!」
「なら、どうして、メルは俺たちに危害を加える!?」
「……それは……」
ダートは明らかに傷ついた表情を浮かべていた。俺は言葉の刃を止めなかった。
「俺たちを、どうするつもりだったんだ」
ダートは答えない。俯いてしまった。
俺は誰かを傷つけるときに生じる、汚れた傷を快く味わいながら、言葉を並べていた。ダートは下を向いたまま、心臓のあたりに手を当てていた。
「信じてくれ。……何かの間違いなんだ」
うめくようにそう言うと、彼はようやく顔を上げた。
その視線に突き抜かれて、俺はたじろいだ。その双眸が、ちょうどヴィンセントのそれのように、あかあかと燃えていたのだ。ヴィンセントと同じ色、だが光は違っていた。ヴィンセントの色が、血液のどろりとしたそれだとすれば、ダートのそれは、召喚マテリアのそれのように、今にも鼓動が弾けそうな、命を燃やす炎の色だ。眩しいくらいに、煌煌と。ダートは心臓を体の上からつかむように、浴衣の懐をぐっと握った。
「信じてくれ」
「何を……」
「ダート、ッ、やめるんじゃ!」
ハッシェルがうめいた。手を伸ばし、ダートを制止しようとしているように見えたが、ふっと、俺の目はハッシェルの姿を捉えきれなくなった。視界が白く炸裂し、俺は思わず目を伏せた。肌を刺すような光が収まったころ、うっすら目を開けると、そこはふわりと暖かかった。ちょうど、ストーブに当たっているかのように。滅多なことではそんな色を表さないヴィンセントの顔が、明らかに引き攣っていた。
ダートの背に、羽が生えていたのだ。ヴィンセントの悪魔の翼とは対照的に、どこか天使を思わせる、純白に輝き、赤い炎を纏った……そう、ダートの身体は、炎だった。彼は赤い甲冑に身を包み、炎を衣のように身に纏い、空中に浮遊していた。瞳が赤く輝いている。
「何……」
「信じてくれ、メルは、俺たちは、敵じゃない」
ダートはそう言うと、ヴィンセントと同等――いや、それ以上? ――のスピードで、一気に飛び出した。熱風を渦のように残し、冷たい空気を燃やしながら、メルに向かって突進する。それを追う俺の瞳は、メルとダートが重なった瞬間に生じた小爆発を捕らえ、一瞬遅れてメルを抱えたダートが、こちらに向かって飛んで返ってくるのを、まるでアニメ映画を見るときのように、非現実的に見ていた。大脳がうまく理解してくれない。目で見た物のリアルさがあまりに欠如しているので、混乱している。
俺よりは多少冷静なヴィンセントが、翼を畳み地に降り、イフリートのようなダートの胸の中に抱えられたメルを見た。
「その身体の事については、今は聞かん。……命に別状はないようだが、……酷く衰弱しているようだな」
ダートは急速に元のコート姿に戻る。
「身体が冷え切ってるんだ。早く暖かいところへ運ばないと。……手伝ってくれるか?」
俺を見上げた彼の目は、元の紺色だった。俺はうなずくしかなかった。ひやりと冷たいメルの額に触れてみる。まさかこの状態で、この子が俺に向かって冷気を放つとは思わなかった。腰は痛いけれど、自ら反故にした信頼を再び証明するために、俺は彼女の身体を支えた。
「ハッシェル、行こう」
責めるような眼で、ダートを見ていたハッシェルもうなずいた。
「……こうなっては仕方がないの」
ふーっと息を吐いて、ハッシェルは首を振った。
「驚かせてすまなんだ。全ての説明は部屋に戻ってからしよう。……ザックス、ワシらは、いや、メルは悪くないんじゃ、本当に、ワシらにも訳が分からんのじゃ……」
ハッシェルの言葉に、俺は頭を下げた。
「俺の方こそ。……悪かった。ごめんなさい、あんな風に責めたりして」
前方で、宿の扉が開き、クラウドとユフィが走ってくる。
「仕方のないことじゃ。……とにかく、早う部屋に戻ろう」
クラウドとメルを除く全員が二階の飛光の間に揃った。ユフィが手早く人数分の緑茶を入れる。長方形の卓を挟み、ダート、ハッシェルは向こうに、俺たちはこちらがわに並んで座った。中央にある煎餅に、誰も手を伸ばさない。
ここにいない二人は、一階の富士の間にいる。
「大丈夫か? 一人で……。なんなら俺もいるけど」
「大丈夫。男の子だもん」
「……?」
「男の子が守ってあげなきゃ、だから」
まだ海のものとも山のものとも知れない彼女の側に一人置いていくのは不安だが、クラウドのプライドを傷つけたくはない。何かあったらすぐに呼ぶ事を条件に、許可した。
「呼ぶ?」
「心の中でわーとかぎゃーとか言えば聞こえるから」
「?」
お前の声ならどこからでも聞こえるんだよ、といくら言っても解ってもらえないらしい。
ともあれ、飛光の間には何だか重苦しい空気が流れていた。こういう気詰まりを打開するのは、これまでだいたいメルだった。俺たちの正体がバレたときみたいに。
「……もう、こうなっては隠しても仕方がないのう」
ハッシェルが茶を啜って、切り出した。
「ワシらは、……ドラグーン、ドラゴンを統べる騎士じゃ」
耳慣れない単語に、俺はリアクションが遅れた。ヴィンセントもユフィも、その言葉にはすばやい反応はなかった。ドラゴンを統べる騎士、何だか、ゲームやアニメのサブタイトルみたいだ。
ハッシェルは続ける。
「一口にドラゴンと言っても、恐らくお主らの知っとるものとはちと違う」
ドラゴン、……世界にも数種しかいない、巨大な生物の事だ。ニブル山にも少ないものの生息しているが、他に大空洞の中に黒竜、ガイアの絶壁内に棲息する青竜などがいる。古代種の神殿でセフィロスが召喚したのは炎を操る赤竜だった。ドラゴンに似た亜種(亜竜、と呼ばれたりもする)は今でもあちこちに棲息しているが、それらの根本にあるのは巨体とそれを支える大きな翼、長い尾、鋭い爪と牙を持ち、自然を操るドラゴンなのだ。
「ドラグーンが操るドラゴンとは、今生きているドラゴン、そして多くの生物の根本である、古代竜のことじゃ。今のドラゴンとは形も異なり、能力もはるかに上回る。……無論今は絶滅してしまったが……、ワシらの棲む地脈の森には、かつて天空を支配していた古代竜たちが、この星で最後まで生き残っていた場所なのじゃ。そして、……あの森には食物連鎖を崩す魔物が出んという話をしたと思うが、そのように魔物を殲滅することは、人間だけの力では不可能じゃ。ドラゴンの力を肉体に宿したドラグーンが、あの森に住む人間を守るために戦っているのじゃ」
ハッシェルはそこで一度茶を啜り、湯呑みを置くと、浴衣の懐から皮製の巾着を取り出し、卓に置いた。握り拳ほどの、石のような何かが中に収められた巾着は、擦り切れて色も白っぽくなっていた。ハッシェルは巾着の口を開き、丁寧な手つきで中から紫色の水晶を取り出した。
「ドラゴンの力を肉体に宿す、と言ってもな、もはやドラゴンは絶滅しておるから、そう容易な事ではない。そこで、この石が必要になるのじゃ」
その水晶が、何かの目を模したものであるということはすぐに解った。黒く細く閉じられた瞳孔が、まるで生きているみたいにリアルで、その紫色の眼球は、何だか俺を凝視しているみたいに思えた。俺はすぐにそれから目を逸らした。
「紫電竜のドラグーンスピリット。これを手にしたものは、ドラゴンと同等の力を得ることが出来る。ドラゴンを宿し、彼らと共に戦うために、ドラゴンから与えられる信頼の証がこれじゃ。……もはやドラゴンはおらんが、その力はこの石に凝縮され、今でも色濃く残っておる。さっきダートが、お主らの前で姿を変えた。あれはの、ダートの持っとる赤眼竜のドラグーンスピリットの力なのじゃ。炎を司るドラゴンを身に宿し、自ら炎の化身のごとき力を得る。ドラゴンには紫電竜、赤眼竜、蒼海竜の他に暗黒竜、白銀竜、碧緑竜、黄金竜、あわせて七竜がおってそれぞれ竜眼石であるドラグーンスピリットを遺し……」
ユフィと俺はさぞかし「ぽかぁん」としてた事だろう。ハッシェルは言葉を止めて、俺たちの様子を伺った。
「あ、ごめん……。聞いてるよ、ちゃんと」
「いや、すまんの、いきなりこんな話をして驚いとるじゃろ」
「うん……。まあ、ちょっと驚いてる。初めて聞くような事ばっかりだし」
「だが、全部本当の事じゃ。さっきメルが起こしてた吹雪も、蒼海竜の力での。なんで、メルがあの力をいきなり使ったのか……しかもワシらに向かって使ったのか……解らん」
「そのことなんだけど」
そこまで、黙って聞いていたダートが言った。
「メルを助けたとき、彼女の後ろに、小さな亜竜がいたんだ」
「ほう。だとすると、メルを操っとったのはそいつか」
でも、何の目的があってだ? 野生の亜竜が気まぐれで彼女を攻撃したとは考えにくい。
「このあたりには、ドラゴンいないんだよ。一匹も。結構春夏秋冬はっきりしてるから、気候が合わないのかもしれない」
ユフィが言った。竜も、亜竜も、このエリアの生物ではないのだ。俺は言ってみた。
「誰かが外から持ち込んだ、とか」
「誰かって誰よ。何のために?」
「それは……自分で考えろ」
思い付きだもの、理由なんてある訳がない。
「まあ、いいよこのことは。メルが目を醒ましたあとにでも後でゆっくり考える。とにかく、あんたたちはドラゴーン……」
「ドラグーン」
「そう、ドラグーンで、竜を操って戦う、地脈の森の守護者な訳だ」
二人は肯いた。
「ワシらに、お主らや、森の外の物に対する敵愾心は一切無い。ただ恐れているのは、森が荒らされる事のみじゃ。だからその秘密に関しては敏感じゃが、だからといってお主らを消そうなどとするものか。まあ……信じてくれと言うほかないのが苦しいのじゃが」
「ああ、解ってるよ。疑ったりして、悪かったよ」
俺たちの気分は暖まった。温いお茶でもそこそこにおいしかった。煎餅に手が伸び、途端にのどかな音でうるさくなる。 唯一煎餅に手を伸ばさなかったのは、ヴィンセントだ。彼は何か思案しているようで、茶にも手をつけていない。ふと立ち上がると、長い身体を部屋の隅に丸め、クラウドの勉強用ノートと2Bの鉛筆を手に、戻ってきた。
「食べているところ悪いのだが、ダート、ここにあんたの見た亜竜を書いてみてくれないか?」
「? ……構わないけど、何でだ?」
「……その亜竜を、私は知っているような気がする、嫌な予感がするのだ」
長生きしているといろんな物を見聞するんだろうな、そう思いながら、煎餅を頬張っていると、
「お前たちも知っているかもしれない、見ておけ」
ユフィともども、注目を強要された。見られると緊張するな、なんて言いながら、彼は算数のノートの、一番最後のページを開き、たどたどしい手つきで亜竜の絵をかき出した。
どうやら彼も、俺と同じく絵心には乏しい方らしく、なんとなく親近感を覚えてしまう。俺が描いたら、きっと嫌みな言葉を一言二言投げてくるであろうヴィンセントは、黙ってノートを注視している。
「何か、こう……、尻尾の先に刺が、付いてて」
そう言いながら、尻尾ばかりやたら細かく書き込む。だが線は乱雑で、上手く描けないのをフォローしようと何度も何度も同じような線を引く物だから、肝心なところがよく分からない。とりあえず、彼が記憶を辿りながらその絵心をもって描いた亜竜の絵から察するに、ダートが見たのは首と胴が長く、一対の翼を持ち、身体の下にサソリのような刺をたくわえた尾をぶら下げた細身の翼竜であるようだ。
「……あんまり上手に描けなかったな」
誰も何も言わなかった。
ダートに絵描きを頼んだヴィンセントは口に手を当てて、考え込むようにじっとそのラフ・ラフ・スケッチを見つめていたが、やがてノートと鉛筆を取り、さっと手を動かした。
「あんたが見たのは、ひょっとしてコイツではないか?」
掲げられたノートには鉛筆で、翼竜の絵が簡潔に、だが分かりやすく上手に描き出されていた。憎たらしいことはもう今に始まった事じゃない、やっぱりコイツは何でも、上手にこなすのだ。翼竜の隣に、簡素化した人間の立ち姿も描いて、横に「170cm」と書き添えてある。
「そう、そうだよ、コイツだ。……ヴィンセント、何で解ったんだ?」
ヴィンセントは険しい表情になって、自分で描いた小型の翼竜を睨む。それから、俺とユフィにノートを譲った。
「なに」
「見覚えがあるだろう」
「……?」
俺とユフィは顔を見合わせるばかりだ。ユフィはしばらく首をかしげたあと、
「ガイアの絶壁にいたやつに似てるよね」
と呟いた。確かに、「レッサーロプロス」と呼ばれる翼竜によく似ている。
「……ダート、コイツは腹がグレーで、背は赤紫色ではなかったか?」
「ああ。確かそうだったと思うけど」
「ならば……間違いはなさそうだな」
ヴィンセントはそこで初めて、煎餅に手を伸ばし噛み砕き、冷めたお茶を流し込んだ。口の中を空っぽにしてからもう一度立ち上がり、再びかばんを漁る。二十四色の色鉛筆で、器用に色付けをする。彩色により、どことなく立体感が増したように見える翼竜は、どこかで見た事あるような、ないような。
俺は首をかしげた。ノートを逆さまにしてみた。片目を瞑って見た。ユフィも、何かを思い出そうと腕を組んで、考え込んでいる。
「今更だが……お前たちには呆れ果てた」
今更のようにヴィンセントは言い放った。
「これは野生の竜ではない。強いて言うならば、さっきザックスが言ったように、レッサーロプロスに近い形状をしているが、元々は人間がペットにするために作り出した亜竜であり、野生は存在しない。まず、そんな竜が外を飛び回って、しかも偶発的にメルに狙いを定め、なおかつ我々を意図的に攻撃することなどありえない。ついでに言うなら、小型の竜は単体では生活しない。多くの場合群れを成して、洞窟や森林に棲息するものだ。この亜竜は、人間の命令によって動いていた。……正しい形状に関しては、ダチャオ像の下に落ちているだろう、ダートが攻撃の際に粉々にしていなければの話だが」
ヴィンセントは俺を、ユフィを、見た。
「……まだ解らないか。ならば続けよう。最近ではワニやらサルやら、元々人間との共存を得意としていない生きものをペットにするのがブームらしい。私は理解に苦しむ、せいぜい猫や犬程度に収めておくべきだと思う。私の知っている者の中にも、一人、いたのだ。亜竜のような、元々は魔に属する生きものを飼い慣らし、周囲に多大な迷惑をかける男がな。一年半も前に死んだと思っていたが。 その男は大変な好色家でな。しかも男女を問わない。見目麗しい者に出会えば、どんな手段をとってでも、自分のものにしようとする者だ。この男が」
と言って俺を指差した。
「女装して騙くらかしたこともあったし、そこの娘が」
といって、ユフィを指差す。
「狙われた事もあった。しかも、腹立たしい事に、クラウドまでも、奴のターゲットにされたことがあった」
「つまり、ソイツがあの亜竜を使役して、メルを攫おうとしたってことか?」
「……攫おうとしたのかどうかは解らないが……、その男の手玉であろう事は、間違いない」
遅すぎるかもしれないが……、俺はそこでようやく、ああ、って思った。頭の中に、姿が浮かぶ。クラウドに銃を向けて脅迫する姿、クラウドを脅えさせ俺たちを怒らせた姿、そして……おぞましく勃起したものを俺のむきだしの肌に押し付けてきた姿を。
ユフィも、あの磔にされた時の状況を思い出して、顔を顰めている。
「……コルネオか」
「ほぼ間違いないだろう」
「死んだんじゃなかったのか」
「殺した」
「じゃあなんで……」
「アイツはさ、骨の髄までエロだから。どっかの誰かさんみたいに」
「どっかの誰かさんって誰の事だよ」
「どっかの誰かさんはどっかの誰かさんよ。馬鹿みたいだよね、えっちして腰壊すなんて」
俺たちの低レベルな口論を、まあまあとダートがなだめる。
「とにかく、そのコルネオって奴が亜竜を使ってメルを襲ったってことなんだな?」
ヴィンセントは俺たちとは他人のフリをして、肯く。
「だが目的が確定できない」
「目的って。……そりゃあメルを狙ったから……って、聞いてるのかヴィンセント?」
ダートが訝った。ヴィンセントはにわかに心ここにあらずといった風情で、窓の外を睨んでいた。「どうした?」って、俺は聞こうとした。だけど、次の瞬間に身体にぶるっと震えが走った。耳の奥に、驚いたような音の声が、響いた。俺がその正体を悟った時にはすでに、ヴィンセントは立ち上がって、走り出していた。俺もそれに従おうと思ったが、腰から稲妻が走って、顔から畳に落ちた。
「ど、どうしたのさ二人とも」
「肩、貸してくれ……、クラウドが、危ないんだ!」そう。
俺の耳の奥には、クラウドが心から発した「助けて」が響いていた。
「何……」
「解るんだ、俺たちには。早く!」
ダートが俺を担ぎ上げた。ちょっとみっともないカッコだけど、見た目なんて気にしてられない。とにかくクラウド最優先。がくんがくんとゆすぶられながら階段を降りる途中、ガラスの割れる音と、「キシャア」というような獣の鳴き声が聞こえてきた。富士の間に着くまでのあいだ、俺は凍り付くような思いを強いられた。白状すると、俺の心臓はさっきメルが行方不明になったときの数倍の速さで、ドクドクドクドク走り回っていた。俺は他のどんなときよりも強く、腰の不調を悔しく思った。
「降ろすぞ!」
ダートは加減ってものを知らない。どすん、と大地に足をつき、俺は苦悶の表情のまま、ヴィンセントを見た。
「クラウド……無事か!」
すでに目を覚ましていたらしいメルとクラウドは、全く無事な姿でヴィンセントの背中に守られていた。俺を見て、がくんっと肯いた。恐怖に戦慄いているのだがそれを俺たちに悟られまいと、真っ白な顔色に真ん丸く目を見開いて、何の表情も浮かべていない。おいでって手を広げると、もうメルの事すら忘れて俺に突進してきた。がつん、ああ……この子も加減を知らない。俺は思わず尻餅をつき、そして声を上げた。
視線の先で、ヴィンセントはたった一人、今し方窓をぶち壊し、その穴に窮屈そうに入り込んでくる翼竜に相対していた。
「あれはラプス……」
駆けつけたユフィがうめいた。
「じゃあやっぱりアイツが」
ダートが加勢に向かおうとする、だがユフィがすばやくそれを止めた。
「何故だ!」
「いいから……」
ヴィンセントの放つ見えない殺気の波長は、多分、共に旅をした俺たちでないと感じられないものなのだろう。表面的な喜怒哀楽はさほど乏しい方ではないが、内面に起こる感情の起伏を外に出すことは、この男まずないことだ。だからこそ、怒らせたときは、誰よりも恐ろしい。普段から無愛想なのに磨きがかかり、一言も発さなくなるのだから。
無という名の殺意。
クラウドに一瞬でも恐ろしい思いをさせた罪を、この翼竜に、その身をもって償わさせるのだ。
狭い入り口に、頭を縮ませて侵入してきたラプスは、不機嫌そうに目を歪めた。邪魔なヴィンセントに照準を合わせているのがよく解る。
ここにいるのは、クラウド以外全員が、戦いの心得がある者だ。だから、ラプスがどんな動きでヴィンセントに襲い掛かってくるのか、解っていた。そして、ヴィンセントがそれをどう交わし、太股に忍ばせた短銃でどんな風に仕留めるかも、想像が付いていた。それらは、ある道のスペシャリストであれば誰もが備える先見の明るさである。
が。
ヴィンセントは俺たちの想像をすべて超えて、というか、そんなのスペシャルでも何でもないと言わんばかりに、カタをつけた。つけいた。
彼の浴衣の裾がふわりとたなびいた。白っぽく、硬く、締まった太股が艶めかしく一瞬露になった。白い中、黒く刺青のように巻き付く黒い革のベルトから、瞬きの瞬間に銃が消え、再び填め込まれた。サイレンサーに遮られた銃声は、そのあと俺の耳に届いた。
ラプスの目から光が消えた。と思ったら、ヴィンセントはつかつかとその身体の目の前まで行くと足を高く上げて、蹴飛ばした。憎々しげに、二発、三発。狭い入り口につっかえていた翼竜の身体が蹴りの衝撃でずずずっと押し出され、最後の踵落としで完全に押し出した。入り口から抜けたラプスは仰向けに崩れ、中庭の雪の上に倒れた。
「すげえぇ……」
メルが声を上げた。 ヴィンセントは、俺たちがイメージしていたのよりも一瞬……いや、そんなレベルではない、もっとずっと早く、銃を抜き、一撃で急所を撃ち抜いたのだ。俺はなまじ、彼の動きの予想をしていたから、彼の動きの断片しか拾う事はできなかった。ユフィやクラウドは、きっと何が起こったのかすら、解っていないだろう。
ヴィンセントを怒らせるとこうなる。きっと、バカだアホだヘンタイだと言われたところで屁でもない厚顔無恥な彼を怒らせる事が出来るのは、今のラプスのように、クラウドに危害を加えようとした者だけだ。俺だっておんなじだ、腰が痛くて剣が無かったから手が出せなかったと言うだけだ。いや、コンディションさえ整っていれば、素手でだってやってしまうかもしれない。ヴィンセントのように超人的な力でもって。
クラウドを苛める奴は俺たちが許さない、のだ。
「……クラウド、大丈夫か。怪我はないか?」
ようやく、自我を取り戻したらしいクラウドは、強く一つ肯いた。
「そうか。……偉かったな、ちゃんとメルを守っていたんだな」
ヴィンセントは優しく微笑み、その額に口付けをした。そして髪の毛をぐしゃぐしゃにして、鼻を押し付けた。何だか、恥ずかしくて見てられない。多分俺も、おんなじ事をしてしまうだろうから、余計に。
「メルも、目覚ましてたんだな……。覚えてるか、さっきまでのこと」
彼女は首をかしげた。覚えてなくてよかった、彼女が気に病む姿なんてあんまり見たくないし。それにクラウドがまた悲しそうな目をするのはなおさら。ヴィンセントはユフィに、客間を回って「何でもない」ということを伝えるように命じた。ユフィは合点承知して、さっさと走り出した。トラブルで宿の収入を損ねてはことだから、彼女の足は早い。ユフィが戻ってくるのを待って、俺たちは全員で再び飛光の間に戻った。敵の正体が判明した。その「敵」と、どんな風に戦っていくか、その作戦を立て、そしてクラウドを危険な目に合わせないための会議をしなければならない。