Devil's Callin'

 何処かでサイレンが鳴った音で目が開き赤い光が右から左右から左、そんな夢を見たのだ。遠くに過ぎていくドップラーを夢幽霊のように見送って、尻尾を掴み損ねてそのまま消えてしまった見ていた夢を、俺は呆然と見上げていた。

 俺が寝ていたのは玄関で、枕にしていたのはスリッパだった。気付けば身体のあちこちは板が張ったように強張っていて、しかし俺の肩には毛布が掛けられている。

 記憶を辿る。酔い覚めのように、諸々が遠い。

 そして想像をする、俺はたぶん、性質の凄まじいまでに悪い腫瘍を心に巣食わせたつもりでずっと居るのだ。俺は「想像」をする。例えば今握ったスリッパを玄関のドアに向かって全力で投げ付ければ、この身体はまた火がついたように熱くなって――今何時か知らない、非常識な時間であればあるほどいい――暴れ回るに違いない。恐らくは「味方」という言葉に甘えて、……そしてヴィンセントは決して「味方」という言葉を理由に俺を止めることなど出来はしないと「想像」して、俺は彼を傷つける、傷つける、それをやってみようか、傷つける、それをしてみたい、もう少し疲れていなかったらきっとやっていただろうに。

 立ち上がるだけでぎしぎしと鳴る体を引き摺って、外へ出た。随分と寒いが、凍え死んだりはしないだろうし、死んだっていいような身体のつもりでいる、そんな「つもり」で居る。星を数えてみようか、今夜は曇っている、だけど何処に月が出ているかぐらいは判る。さあ、随いて来い、引き摺られて来い、呪われて在れこの心、しかし俺一人だけは呪いなどするものか、俺一人だけは慈しんで愛して、……護ってやるから。

 病気のように出歩いているくせに、ポケットの中に小銭が入っていることはちゃんと知っているのだ。そして煙草とライターが入っていることも、きちんと判っているのだ。歩きながら火を点けて、のんびりと煙を唇から垂らしながら、角の度、交互に右に左に曲がりながら歩いていたら、ふと空腹を少しも感じていない自分に気付いた。そしてこんなことが前にもあったような気がした。こんなふうに一人ぼんやりと真夜中に煙草を吸いながら歩いている記憶が、鍵のかかった引き出しから栞の糸だけが覗いているように。

 さっき見た夢が此れだろうか。

 冷ややかな憎しみに駆られて歩いて、疲れている体は益々腐り始め、一時間も歩き続けた後のある瞬間を境に一歩も進めなくなった。頭が痛い。寒い。苛々する。そういう感覚全てが、面倒臭い。

 まだこの輪郭からはみ出すものを抱えていて、持て余していて。誰かが笑えばその分不幸になった気がする、そいつの不幸を押し付けられて、俺が笑われているような気になる。今が真夜中でなければ誰彼構わず殴ってやるのに、今が真夜中であることを感謝するのがこの俺だ。

 全てを運の悪さで片付けて見せるさ。

 歩道と車道の段差に腰を下ろして、膝を抱えて煙草を吸う。

 諦めることなど出来るものか、この「不幸」を、……俺に由来しない全ての悲しみを。

……、いっそみんな死んでしまえば良い、叶えようのない願いだから祈れる。

 しかし世界を救ったのだってこの体だ。宿る心の望む破滅を、叶えるのは誰だ。あの黒い羽を広げて全てを切り裂いて、……「味方」だと言ったあの男を置いて他に誰が居る?

 ああ、そうだ、ヴィンセントに全てやらせよう。

 ヴィンセントに全て壊させればいいのだ。俺に起因する痛みではない、振り撒かれる暴虐の雨の傘に、アイツをしてやればいい。そうして全て済ませた後に、アイツに「好きだ」と言ってやろう。

 演技をしながら、……其処まで読み終えて……、ようやく俺は立ち上がり、眠気に崩れそうな身体を叱咤してもと来た道を左右左右と辿る。小鳥の鳴く声に、そんな時間かと視線を上げたら、随分薄着のヴィンセントが青白い顔色で立っていた。

 あんたは、どれを病気と呼ぶ?

 俺の全て。

 それとも、……快楽を得ている部分を……。

 無視して横を通り過ぎて、「馬鹿者」、詰られても、俺は言い返す元気もなく、「何をやっているんだ!こんな時間に、そんな格好で、……何が楽しいのだ、お前は……、馬鹿者」。

「……こんな時間だったら大きい声出すな、近所迷惑だろ」

 こんな俺にも来てしまう朝はどうやら晴れていて、だからこの世界は醜いのだと俺は思う。思う権利など無くても、勝手に思っている。そして俺を殴ればいいのに殴れない男に、だからあんたは罪だ罰だと苦しむのだと言ってやりたく思った。そんなことを思った俺を、誰も殴らない、誰も憎まない――傷つくことは怖いけれど傷つけるのは怖くない。だけど傷つけることで傷つくならば、傷つけることだって怖い――、こんな気持ちの存在する朝など、星など、壊れてなくなってしまったって困らないだろう、俺は。

 ヴィンセントは俺を部屋に入れると、塞ぐように背中で扉を閉める。鍵をかけてチェーンを掛けて、俺がトイレに行って、顔を洗って、歯を磨いて、……一緒に眠ると思った? ソファにそのまま横になるまで、ずっと玄関に居た。それから毛布を持って来て、横たわって眼を腕で覆った俺に身体に掛ける。

「……お前の傷つかなくて済む方法を、ずっと探している。私の能力が足りないのは重々自覚していて、……未だにお前を救ってやれないことには、本当に忸怩たる思いで居る。だが……、お前は私が護るから。お前に憎まれても、私はそうするから」

「おやすみ」

 既に朝はこの街の隅々まで行き渡っている。

 俺には来なくていい時間だったかもしれない、ヴィンセントが目的を果たす為には、多分俺を殺してしまうのが一番手軽に違いない。それを俺が学んだだけでもいい夜だったと言うべきか?

 

 

 

 

 ヴィンセントには仕事がある。

俺はずっとそれを覚えていた。午後になってからやっと眼を覚ました俺は、悪いことをしたなとあの青褪めた顔をして思った。あの人が帰ってきてから謝るかどうかは、今の俺には判らない。謝るような俺であってはいけないのではないか、少なくとも、昨日乳酸を身に蓄えながらも歩きつづけた俺の望むところではないのだろうと、俺は想像する。何にせよ、カレーを作って待っていようとは、もう思わなかった。


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