Devil's Callin'

 血の熱い間は、久しぶりの暴発によって、肌が焦げるような苦しさが心地良くもある。冷たい肌をした目の前の同居人の眼が虚ろを映し、次の言葉を探す間を、じっくりと、裏からも表からも観察して愉しむような余裕がある。

「あんたは俺の味方じゃなかったのか」

 なろうと思えば人間、何処までだって醜くなれてしまうもので、俺は俺がどんなに醜くとも、今はそれを自覚の上でこの状況を愉しんでいる自分を知っている。後で鏡を目の前に置かれてどれほどの羞恥に苛まれるかを知りながら、しかしそんな鏡のこの世に存在しないことだって、俺は知っている。

 ヴィンセントのことを「大切じゃない」と思うわけではない。

 この男が俺の今を作り出すために、骨を折ったことを知っている。優しい素振りはまるで見せないが、結局のところ俺の周囲に居る人間の中で一番に俺を考えてくれる男だとも、思っている。だから俺もこいつのことが嫌いではないし、あからさまに好きだと言ったこともある。それでも、今は――多分今だけは――許せない、憎い、そういう、気持ちになる。

 俺にこういう性癖があることを、ヴィンセントだって知っているはずで。

 そんな俺のことを軽率に扱ったのだから、罰を受けるのは当然のことだ。

 ヴィンセントは俯いて、言葉を足元にぽとりと落とした。

「……そんなにお前が傷つくと、思っていなかった。私が浅はかだった」

 傷、という言葉を使われて、初めて俺は自分の心を見る機会に恵まれた。見ていたのは感情の煮えたぎりこぽこぽと泡の立つ粘液の表面だけだったと、思い出す。何か言い返そうとして、適切な言葉が出てこないでいるうちに、俺は自分の心が掌の上に載っていたことに気付く。あ、そうか、と、……容積の小さな、狭い狭い、狭い狭い狭い心の表皮が傷ついているのに気付く。ヴィンセントが付けた傷だ。

 せっかく作ったカレーを、……誰のために?俺のために。だけれど、俺が、ヴィンセントのことを労い、ヴィンセントが多分その味にある程度満足し、血肉の素とし、……養っているのだから当然という言葉に出さない思いと、しかしこいつを側に置くのも悪くないこれぐらいのカレーが作れるのなら、……そんな風に、思ってもらうことで、俺も嬉しく思いたくて。

「そうだ、あんたは、俺を傷つけたんだ」

 涎で満ちた口の中、一旦飲み込んでぎりと奥歯を噛んで、俺は言葉をようやく継いだ。だが、俺にとっては一番言ってはいけない言葉だった。俺は、あんたのために、美味しいカレーを造ろうと思っていた……。

 だけど、失敗した。

 流しからは、洗剤と水の匂いの中から、鍋から脆い皮膚のようにくずりと剥がれ、ぶよぶよと漂うカレーのなれの果てが発する匂いがしていて、それはやっぱり焦げ臭い。しかし、そんなものにすら、食欲をそそられるほど、俺は腹が減っていた。何も食べていないのならば、ヴィンセントも当然腹が減っているのかもしれないと思った。そこまで考えられてしまう自分では、今は、いけない、いけない、いけない、そう思うのだけれど、心の紡ぐ言葉が止まらない、止められない、自分の繋ぎとめておきたいエリアから、どんどんはぐれて、はぐれて、いけない、そっちに行っては、いけない、いけない、いけない。

 涙が浮かんだ。鎖を切った俺の心は、ころころ転がって、一番安易な結論に至る。ヴィンセントが悪いんだ、言葉は代わらないのに、何て情けない響きだろう、あんたが、おれの、おれの、おれの、こころを、きずつけた。

 なんてかわいそうなおれ。

「……ごめんな」

 ヴィンセントが、低い声で言う。それ以上、もう何も言えないはずだ。しかし、俺が求めていたのはヴィンセントの謝罪ではないらしい。さっきまでなら、もっと何か、言えたはずだ。それこそ、誠意が篭ってないだの、土下座しろだの、償えだのと。しかし、今の俺はヴィンセントの謝罪にすら、傷が生じるを感じる。さっきまで上手に隠し持っていたはずの心が、手から滑り落ちた途端、あらぬ方へ転変し、まるで自由が利かなくなっている。ヴィンセントの顔を真っ直ぐに見られなくなった。エゴだと判って、それを満たす為に怒って、暴れて、そして満足を得るつもりだったのに、どうして?こんな予定外の方向、困らせたことにすら後悔を始めるような、反吐が出るほど清く素直な心が、……疎ましくも、それを失っては。

 俺、の。

 俺たちは、暫く空きっ腹を抱えたまま、じっと立ち尽くしていた。疲れきっていたが、それ以上にどうしても、胸がひんやりひりつくぐらい、腹が減っていた。俺はそれ以上何もしないで立っていることが出来なくなって、流しのものを、黙ったまま洗い始めた。焦げ付いた鍋からカレーを剥がすのは、案外に上手く行った。ヴィンセントは黙ったまま、まだ立ち尽くしていたが、不意に動いた気配を感じる、と、背中に存在感が、酸十五度と少しの体温が、錆のように生じた。俺は何も言わない、ヴィンセントが「ごめん」と言った。「もうお前を傷つけたりしないから」と言った。俺は、頷くことも首を振ることも、ヴィンセントのように「ごめん」と言うことも出来ないで、ただ鍋を洗っていた。性質の悪い俺のことを、こうしてこの男は認めてしまう。そうするほどの価値があるとはどうしても思えないこの迷惑人間のために、居場所を作ってしまうし、増長する要因を作ってしまう。

 皿を洗い終わったら、どうしよう。ガスをつけないで洗い始めたから、手が悴んできた。粗方綺麗になって、それでもまだ水を止めないのは、次に何をするべきか、何をしたいか、まだ見つけられないで居るからだ。

 素直になれと言われたところで、出来るならもうずいぶん前にしている。

 濡れた手を持て余して、……拭う為には振り返らなければいけない。振り返れば、ヴィンセントと真っ向から相対することになる。その状況で、まだ我を張っていられるかどうか、覚束ない。ヴィンセントが、俺の右から、タオルを差し出した。

「……要らない」

 そう言って、俺は左に向きを変えて、手を極めて粗雑に払いながら、散らかした居間に戻って、引っくり返したままのテーブルの横に座った。

「どこか行ってくれ。飯を食ってくればいいだろう」

 冷えた心が、寒い寒いと震え出しそうなのがたまらなく嫌だった。張り詰めていたものが徐々に弛緩してゆくのを感じながら、行って、ちゃんと帰ってきてくれることを、幼児のように俺は信じて、そう言ったのだ。

 それなのに、ヴィンセントは居間に入ってきて、俺の散らかしたものを、一つひとつ片付けていく。テーブルを、少しく難儀しながら元通りにして、俺が放り投げた諸々を、在るべき場所へ正して行く。腹を空かせた俺は、……疲れた俺は、視界の端に入るそれらに苛立ちを覚えかけながらも、もう虚脱感ばかり抱いて、床に座ったままで居た。


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