Devil's Callin'

 ヴィンセントが仕事へ行く。俺は家で留守番をする。二十何歳だ?計算して、ああ、もうあの人三十だ、答えを出すのに時間がかかるのは、まだ俺は俺の在る時間の流れ方に慣れていない証拠だ。それにしても、三十にしてはずいぶん若いと思いつつ、俺も二十四にしては相変わらずの童顔だ。話を元に戻すと、その三十男が仕事に行って、俺にはよく判らないが監査だか審査だか査察だか、そういう仕事に従事して一月にどれくらいの金を稼げるものなのか、神羅兵時代以外に企業に属して働いたことのない俺は想像も出来ないが、湯水の如くという訳には行かないに違いなく、俺はごくつぶしの自覚もないわけではないから、無駄のないように生きている。

 平日、俺は働かないで、日長一日家にいて、何をしているとも言えない。ただ、本を読んでいる。リビングに置かれ、最近は本来の仕事のみに従事しているソファに座り、コーヒーやグリーンティーを側に置いて、ずうっと本を読んでいる。引っ越すに当たって、一番嵩張って、また重たかったのが本で、読んでも読んでもまるで減らず、またヴィンセントが仕事帰りに古本屋に寄ってはまた何冊も思いつきで買って来るから、時間の在る限り読むことが出来る。少しは頭が良くなって来ただろうか。実際には、多少、視力が落ちた。変な姿勢で読んでいるからだと言われた。最初はちゃんと座っていても、十分二十分と経つうちに横になったり縦になったり、気付いたら背凭れに足を乗せ、テーブルの上に寝そべりながら読んでいたりする。

 ただ、本を読むのは決して高尚な知識欲によるものではなく、単に時間潰しのためでしかないので、ヴィンセントが在宅している土休日には本棚の前に立つことすらない。休みの日、ヴィンセントは疲れが残っていないはずもないのに、買い物に行くためなら車を出すし、そのまま俺を食事に連れて行ったりもする。俺に不都合のないように、気を配って二日間を過ごし、また月曜日からは仕事へ行く。彼にどういう自覚があるかは知らない。ただ、俺の気分の悪かろうはずもない。寝室、ベッドはセミダブルが一つ。隣で寝かせる理由は、恐らく、そう多くはない。

 つまり俺たちは、課程としての言葉もあまり交わしていない、互いに確認し合ったこともない。そして、俺も多分彼も、現状が「そう」だとは、あまり思っていない。ただ、端から見たらやはり同性愛の恋人同士だ。昼間ベランダに出て洗濯物を干しているさまを、眼下の道を歩く近所の奥さん連には何度も目撃されているし、もちろん物干し竿には二人分のトランクスが並ぶ。早晩噂にはなっているだうし、躍起になって否定しようと思うよりは、別にいいか、自意識過剰、最初の望みだった、俺は何となく日々を肯定し、しかし手ごたえもなく淡々と流れていくだけと思う。

 ヴィンセントが、あまり感情を表に出さないから。俺も、一時期のように荒れることは無くなった。俺たちが俺たちで、自発的にこの安定を損ねようとはしないものだから、この生活自体が変化を忘れるのかもしれない。日一日経つごとにセメントで補強されて、俺たちは俺たちで、「こういうもの」だと思っていればいいだけのことだ。

 彼は俺を好きなのかな。俺はヴィンセントが、やっぱり好きだと思う。だが、激情は無い。感情の動揺することは、このところほとんど無い。ヴィンセントのためならばこの部屋を整えるし、温かい飯を作って待っていようと思う。感謝の気持ちを忘れたことはないし、知性的な部分は尊敬し、美しい相貌は見ているだけで腹が満ちる。同居して、セックスをして、相手のいる今日を基準に、相手のいる一週間後までを想定しながら、俺はまだ「好き」と言ったことはないし、彼に言われた覚えもない。「おかえり」、「ただいま」、味の薄いやりとりをするタイミングで目の合わない時もあるほどで、セックスの最中にキスをしないことなど珍しくも何ともない。そもそもそのセックスだって一週間しないで過ごして平気な顔をしている。ただ、それでもヴィンセントがいなくては困る俺だし、ヴィンセントは俺を側に置いておきたいと思っているに違いないと思える。説明しがたい希薄な空気感は、ともすれば関係性への疑問にも繋がりかねないが、それを不安視する趣味は俺にも彼にも無く、曖昧な現状で、飯が食えて風呂に入れて、それぞれ欲しいと思う類の快感を満たすことが出来たなら、何ら問題はない。

 言ってみれば明鏡止水の生活環境、帆掛け舟を浮かべたところで、いつまでもそこに居座っているような。

 とは言え―彼も俺も、正常とは異なっているにしろ―人間だ。それを忘れてはならない。

 或いはその日、彼は会社でとても嫌なことがあったのかもしれない。だが俺は夕方、彼の為に作っていたカレーを焦がした。そういう小さなささくれを、一つ部屋の中に持ち寄って、見せびらかしあったわけでなくとも、俺がカレーを焦がしたと言った時の彼の言葉は、凸型の感情を突き合わせる為の号砲に似ていた。

「どうやって失敗するんだ、あんな簡単なもの」

 俺は朝に、「今夜はカレーを作る」と宣言していた。ヴィンセントも人間であって、御多分に漏れずカレーは好物の一つだった。特に嬉しがる態度も見せなかったが、要するに彼はそれなりに楽しみにして帰って来たのだ。彼自身が抱え込んで来た棘を抜くピンセットぐらいには、思っていてくれたのかもしれない。

 だが、せっかくのカレーを台無しにしてしまったことには、俺だって大いに気分を悪くしている。別に、何をミスしたというわけでもない。ただ夕方になって急に空が暗くなって、大粒の雨を降らせ始めたから、ベランダに干した洗濯物を大慌てで片付けている内に、鍋が焦げてしまったというだけのこと。

 多分俺は、……俺も、持て余したカレーを、ヴィンセントに何とかして欲しいと思っていたのだろう。

「しょうがないだろ、夕立が降ってきたんだ」

 言い訳ではない、ただ事実を言っただけのことだ。それで納得してもらう心積もりが、ヴィンセントは軽蔑したようにフンと笑った。胸の内側を、サンドペーパーで撫で付けられたように、反射的に息の温度が上がった。

 よりによってヴィンセントにそんなことをされたくはない。

 水銀は呆気なく割れて漏れて、触れた誰もの指を犯す。そんな俺のいることを、ヴィンセントが知らないはずはなくて、

「外で食べてくる」

 スーツのポケットから財布だけ取り出して、ぷいと背中を向けたと思ったら、大股で出て行った。右手をぎゅっと握った俺は多分、毒々しい顔色をして、あと一つ揺すられれば何だって言えてしまった。逃げを打つには最高のタイミングで、一人取り残された俺は、肌の表面で沸騰して弾ける泡の立てる音を聴きながら、まず、どうやって、なにを、痛めつけよう、それを考えている。

 吐く息が、熱い。口を抑えてそれを飲み込む。はっ、……はっ、……はっ、音を聴いて、物を壊したい気持ちが生まれ、そんなことをしたら後悔するという気持ちがそれに続き、後悔なんて甘美なことしてやろうぜ全部、危うい欲が、追いかけてくる。行け、止まれ。俺の心はほんの小さな諍い一つで、理性的でないものに翻弄され、ちっとも思い通りには動かない。どうせ俺はダメ人間だなどと、自虐的な言葉を嘯くことに微笑みすら浮かべて、……そうすれば、「誰か助けてくれる」、そう、「誰か」はあんただったんじゃないのかヴィンセント。あんたはこんな俺を置いて何処に行く。俺を守るんじゃなかったのか。俺の味方じゃなかったのか。

 何て可哀相な俺。

 巡り巡って、ここまで辿り着く。

 あらゆる憎悪を司る神となって、赤く爛れた肺の内側、呼吸のたびに罵詈雑言、吐き出す喉が熱い熱い。裏切られたという思いに浸って、正当に怒りの言葉を吐き出す権利を受け取る。ティーカップを、テーブルごと引っくり返した。生じた力を何らかの形で発散させたとき、言わば「清々した」と、両腕に満ちた愉楽に、惑う。もっと壊したい、可哀想な俺にはそれぐらい認められている。窓ガラスを割ってやろうか、ソファを八つ裂きにしてやろうか。一番簡単なのは、この極めて手前勝手で迷惑な身体をベランダから投げ捨ててしまうことなのに、どうしてもそれを選ぼうとはしないのだ。

 上を向いたテーブルの脚を、俺は、パン切り包丁できり始めた。鋸のように、引いて引いて引いて、ぎこぎこぎこぎこ音を立てて、……隣人は何と思おう?何の音と聴こう?愉快さが込み上げて、喉で発作のような笑いが起こりかけて、……俺はそう、表層、すごく嬉しそう、それなのに、涙が両目に浮かんで、視界が滲んで、手元が狂って、指を傷つけた。刃の幅と凹凸に呆気なく割けた俺の指先からは、真っ赤な血がつうっと流れ出して、それがテーブルの天板の裏にぽたぽたと垂れた。反射的に咥えた口の中に、無駄に流れた鉄分の味が広がって苦い。

 あと三十秒ヴィンセントの帰ってくるのが遅かったら、もっとずっと良かったろう。俺は熱に浮かされたまま、本当にこの命を棄ててしまえていたかもしれない。こんな風に、まず生きていて、息を吸って吐いているだけでは満足が出来ない、誰かに迷惑をかけないでは居られないし、誰かを傷つけたいと願い請うような男は、何時死んだって誰も惜しまないはずなのに、ヴィンセントは帰ってきてしまった。

 死ぬつもりなんてないし、そんな覚悟もないくせに、俺はそんな言い回しを選ぶ。

「……怪我をしたのか」

 裏返った天板は座る場所ではない。本を読むときに寝そべるべき場所ではないと咎められたことがあったが、ヴィンセントは今はそんなことは言わず、転がった包丁に俺の血がついているのを見て、俺が自傷したのだと誤解したようだった。そんな都合のいい彼の勘違いを、俺は笑う事も出来ず、「何しに帰って来た」と、ヴォリューム調整も上手く出来ない声で言って、ヴィンセントには絶対当たらない場所へ、思い切り包丁を放った。

 何だって良いだろう、とヴィンセントはぼそりと呟くように言葉を落とした。無愛想に聴こえて、それが案外に生温かいのは、言葉で説明できるならばとっくにしているような「理由」が其処にあることを俺に感じさせた。

「あんたはどっか外の店で美味い物でも食ってればいいんだ。何しに帰って来やがった」

 俺は立ち上がり、大股で部屋を横切って台所に入ると、焦げ臭いカレーの入った鍋を引っくり返して、無遠慮に蛇口を捻った。焦げ臭くとも、スパイスの香りは俺の鼻腔を素通りすることはしなかった。腹が減っている、何も食べていない、ストレスが溜まっている、もっと有意義なものを溜めるべき、こんな自分はやめるべき、正しい方へ矯めるべき、今すぐ態度を改めるべき、判っていることが何一つ、俺には出来ない。

「クラウド」

「うるさい」

 悪かった、とヴィンセントが言った。それは本当にかすかな声で、空寒いような響きで、水の激しく流れるシンクの縁を、そっと這った。

「別に、あんたが悪い訳じゃないだろう。カレー作り損ねた俺が悪いんだろ、思ってもないような事を言うな」

「気が立って居たんだ。私にだってストレスぐらいある、それを持って帰って、お前にぶつけるようなことをして悪かったと言っているんだ」

「ああ、そうだろうな、どうせ俺は働いていないし、無駄飯喰らいの穀潰しの、生きる価値も意味もないような男だ、あんたみたいにご立派な奴は外で働いて金稼ぐ、俺には想像も付かないようなストレスだって感じていらっしゃるんだろうよ」

 俺は笑いながら言った。ヴィンセントはいつかと同じように、じっと堪えるような顔をして、しかし、抗弁することも、俺に向かって手をあげるようなことも無かった。

「……何と言えばいい。……悪かったと、思っている」

 ヴィンセントは少し青白いような顔色をしていた。ワイシャツの色のせいでそう見えるのかもしれない、きっとそうに決まっていると思い込もうとしても、一応現状、誰より彼の顔を見ているはずの俺は、普段との相違に気付けてしまう。自分が彼の顔色をそういう具合に変えるのだという発見は、極めて愉快だった。


back top next