Devil's Callin'

 呪わしい記憶は掘り起こせば浅いところから、未だ、いくらだって噴出する。進んで痛みを味わいたいとは思わないし、何より俺は悪くなどないので、ヴィンセントの提案をすっきりと飲み込んだ。方角的には北東、車で二時間半も移動した脈絡もない場所にヴィンセントは新しい部屋を借りた。荷物をまとめてみて、こんなに物が少なくても困らないのかと、新鮮さを覚えた。食器をはじめとする割れ物も少なく、一番量の多かったのは本。引っ越し作業は安易に始まり抑揚のないまま一日で終わり、荷解きにもさほど時間はかからないように見えた。

「今のままでも構うことはないが、離れればより安全というか、確実というか……。まず私自身の我が侭として、お前がティファを意識する機会の少ないことを望む。そのたび一々心を乱されて時間を浪費するのは馬鹿げているからな。第二に、やはり狭さを感じた。これはお前を側に置くことを決めたずいぶん早い段階から判っていたことで、現実を見たということに過ぎない。そして第三には、安かったからだ」

 引っ越しの動機を、ヴィンセントは右のように説明した。何でもいい、と頷いて、俺は素直に手伝った。色白の頬を綻ばせて、お前の荷物など無いに等しいのだからと優しく言ってくれたが、俺は俺の領域が此処にあることを主張したくて、手伝わずにはいられなかった。洋服をしまった段ボールが二つになったのは、ヴィンセントが「これはお前の方が似合うか」と一枚のシャツを俺にくれてしまったのが原因で、普段、俺が借りて穿いている下着、靴下まで、整然と分けて仕舞われた。二つの段ボールは寄り添って、別々の引き出しに吸い込まれる。同じ洗濯機で洗われる。隣同士のハンガーで、挨拶をする。

 引っ越しの日、両隣の部屋に挨拶に廻った。俺は無言でヴィンセントの隣に立ち、色いろ煩かったでしょうがとヴィンセントが慇懃に言うのを聞いていた。両隣とも、住人の目はヴィンセントではなく俺に向いていて、ヴィンセントが愛想笑いを浮かべて言っている間、俺は意識的に無愛想極まりない目を作り出し、睨み返していた。精神異常者のレッテルは、いまや快楽に変わろうとしていた。

 ハイウェイを途中で降り、街道を走り、旧神羅の領域から脱したのちは、ここと同じ景色が必ず世界に五箇所はあるというのが特徴と言えそうな住宅地を縫い走り、マンションの駐車場に車は停まった。レンガタイルの七階建てで、所謂ファミリータイプの造り、駐車場の車も四人乗り七人乗りが多く、駐輪場には籠のついた自転車ばかりが繋がれていた。あまり俺の得意ではない人種の巣だと思うと同時に、はてヴィンセントはこんなマンションにどういう神経で住まおうというのかと訝った。ヴィンセントと俺はもちろん親子ではなく、夫婦などでもなく、要するに家族ではない。と言って、恋人同士かと問われて、傾げる首が二つある。

部屋は2Kで、何よりも俺が嬉しく思ったのは、バスとトイレが別だったことだ。「狭い」とつい素直に感想を漏らし、「悪かったな」と言い返される懸念はもうない。

 ヴィンセントは挨拶に回り、俺も一応は、やはり何となく隣に立っていた。どういう風に思われているだろう?前のマンションを出るときには保護者と被保護者だったが、今は?これだけ違う血の造る顔の形であれば、兄弟には見えまい。赤の他人がどうしてこんなタイプのマンションに二人で住まう?となれば、そう遠からず正体は判明しよう。最も、また俺が悪い気持ちを目覚めさせて暴れれば、すぐに医者と患者になる訳だが。

「……お前は」

 部屋に着いてまずすることといえば、やはり窓を開けて煙草を吸う。

「もう少し、社会に適合する努力を……、しろとは言わないが」

 しろ、と、ヴィンセントは言いたいのだ。俺は肩を竦めた。

「当分は無理だろうな。別に社会に適合するのを諦めた訳じゃないさ。ただ俺は、社会の根底で連中を支配してる倫理っていうのに背を向けた。それはあんたも同じ事で、あんたがそうやって社会に善い顔を見せられるのが、俺には判らないな」

 後ろ頭を些か乱暴に掻いて、ヴィンセントは少し顔を顰める。

「善い顔を見せているつもりはないがな、利用できるものは利用したほうが得と思う性質だ、それは倫理とは無関係に。この先連中が私たちにとってどんな得を齎すかは判らない、少なくともお前が決められることではない。あちらから迷惑をかけられるのも望まない以上、プラスになる要素を上手に選り分けて、手に入れていった方がいいだろう」

 煙草を灰皿に押し付けて、ごろんと横になった。天井の模様はあの部屋と同じだった。そういうものかな、俺は、ヴィンセントの言葉を頭の中で転がす。とりあえず俺はティファから何のプラスも得られなかったような気がする。俺が不器用だっただけかな。ティファに対して善い顔を見せられなかった以上、……つまりは見せるだけの器用さを発揮できなかった以上、俺が損ばかりしているとティファに対して憎たらしい思いを抱くのは、ごく当然に俺の損を産むシステムのように思えた。

 損得で言えば、損をした。ただ物差しにも幾つか種類があって、俺の物差しにおいて損か得かは、実はそう明確に明らかになってはいない。ティファ、つまりは、女と、共存する自分というのが肯定出来ない以上、側からこうして逃亡を果たし、また好きな「男」という存在と共に在ることが出来るのは大いに得だ。だが、その過程で俺が味わった精神的苦痛は損以外のなにものでもない。どちらが大きい?痛みが過ぎたことなら得のほうが大きい?しかし、今後どういう機会にどういう形で、痛みの芽が出て赤く腫れるか判らない以上、一日中ティファのことを忘れて楽に過ごせる日が半年も続くようになるまでは、結論を出すのは早すぎる。そしてそんな日が本当に来るのかどうかは、俺には判らない。

 人間が自分を一人称主人公として据えた物語の上を歩いているならば、皆同じようにナルシストだとは言えないか。

 嗜好する物語が悲劇的ならば自分を悲劇的な主人公に投影するのだろうか。だがそんな損なこともあるまい。やはり誰もが同じように、何が起こっても自分は特別でこの先にはハッピーエンドが設けられていると信じているのだ。不幸なまま死んで行く人間が多いことを忘れて。或いは過度の不幸の中にある人間は物語を紡ぐことを止める。物語を紡ぐのは余裕の表れかもしれない。自分を主人公にした物語なら続いていかなければならない、物語は「希望」とも言えた、ヴィンセント流の物言いを借りれば『幻想』だ。希望、幻想、汚い言葉が頭を過り、口を一つ短く、ぱくりと動かす単語を吐いた。

 俺は今、自分の物語をどうやって転がしていこうかを考えている。真っ白な原稿用紙を前に、筆を右手に握ってはいるのだが、まず書き出しからして判らない。現在進行形の時間は余白のまま過ぎ去っていく。

 ゆっくりでいい、ヴィンセントは言った。

 お前は何のために生きる?顔を上げろ、前を見ろ。そうすることが苦手な私が言うのもおこがましいが。

 ともすれば不意に嫌悪感に首を後ろに回してしまいそうになる。ただ、今現在の自分の側に、ヴィンセントは味方の目線でいる。これは俺が作り出した未来だ。ヴィンセントのたくらみを最大限上手に利用して、俺の味方でいてくれるよう、多分、俺も企みを働かせた。あの女たちには忌わしいだろう俺らには多分幸せだ、もう「あの女たち」を強く憎んでもいないのに、英雄面した俺をもそこへ混ぜ込んで、正々堂々非難する。

 荷物を片付け始めてもいない部屋の片隅を使って俺たちは寝た。狭くても構わないと思う一方で伸ばすほど長い足もない。まだ愛はないけど、楽しめばいい。多分、恥もない。男性器の形状を、自分の身体の柔軟性を、声帯の不可思議な働き方を、可能なことと不可能なこととを、観察し、別に後に何かを残すことを意識してやってる訳じゃねえしと、自分に言い聞かせる。

 そのまま夜は終わり、朝はやって来て、何となく昼も過ぎていく。ベランダには何も置かないのか。季節感も何もない。下らないアイディアを持ち出すな、洗濯物を干すのに邪魔になる、世話だって面倒臭がってしないだろうが、言われてみればそれもそうだ、季節なんてものは俺ら以外の誰かが決めて勝手に回し動かしてる向こうさんの都合だ。地球が廻ってる事だって俺たちの責任じゃないし趣味でもないのだ。

 ヴィンセントと俺とを繋ぎとめるものは鬱陶しくない程度に、確かにあって、俺はヴィンセントがまた仕事に出掛けるようになり、週五日家を空けていても、彼の迷惑になるような行動を取ろうとは思わなくなっていた。それが当たり前と言えば当たり前だが。自分を可哀想と思う気持ちは、相変わらず在るには在るが以前の強い勢いは失っているかもしれない。近所に知り合いなんて出来ないが、なんだか当たり前のように二人分の弁当を買って帰ってくる俺への観察眼にも、気分はささくれ立たない。不愉快では在っても、蹴っ飛ばしてやろうとまでは思わない。ヴィンセントが帰ってきたらお疲れ様の一言ぐらいは言う。ヴィンセントも「ただいま」を言う。きっと家族のように見えるだろう。恋人でも、友だちでもない俺たちの関係は簡単に、そうまとめてしまうのが問題ないように思えた。

 セックスに確かめ合うような愛が伴わなくても、他人というつもりもない。俺はヴィンセントのことが好きだし、ヴィンセントもひょっとしたら俺のことが少しは好きかも知れない。とりあえずは同性愛者だと言うからこそ、俺の裸体のどこかしらからなにかしらを拾い上げて勃起しているに違いなく、俺で快感を得ることだって出来るのだ。キスだって、する。し始めたばかりのときにはしていなかった気もする。今では、唇を重ねて、舌を絡めて、俺は両腕でしっかり抱きついて。ヴィンセントは、俺の頬を撫ぜて。言葉を交わさなければ思いを確認することなど出来ない。だから希望的観測を俺はいつまでも持ちつづけることが出来た。ヴィンセントが俺のこと好きだったらいいな。この関係を『恋人』と言えたら素敵だな。性の幸福と欲の在る限り死を恐れる。ヴィンセントと離れ離れになろうとは、思わない。ヴィンセントに捨てられぬ努力はしている。この体のあまり魅力的ではないことばかりは、どうしようもないのだけれど。

 今夜もセックスをした。数ヶ月前なら、彼はさらりと立ち上がり、自分だけシャワーを浴びていた。今はそれすら億劫と言わんばかりに、ぐったりと布団の上に横たわる。疲れきっているようだ。再び仕事を始めて、昼はフルタイムで労働して帰ってくるのだから。だけど、俺がその左手の中に右手を入れたら、それをちゃんと握ってくれる。そういう圧力が、俺には必要だと判ってくれる。セックスの快感、及び、ヴィンセントから施される愛撫――この二つは同義ではない――が欲しくて晩飯を作って待っている俺に、きちんと分けてくれるのは、多分、優しさを示す。

 新しいこの快感、新鮮さを喪い、日々に埋没し、日々に半透明にやがて透明に色を変え、当たり前になればいい。過去を全部忘れられる程に。


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