どうしてこんなにも、呪わしい気持ちが去らないのだろう。どうしてこんなにも、色々なことに腹が立つんだろう。どうしてこんなにも、大好きなはずの人のことを傷付けずに居られないんだろう。
どうしてこんなにも、悲しいんだろう。
ずっと考えていたって判らない、答えが出ないうちにまた、むらむらと腹が立ってきて、何かを壊してしまいそうになる。俺はまず、俺がこういう精神状況であるということに肯定的になれない。いまの俺が在るのは全て俺以外の誰かの手によるもので、だから、この心を蝕む痛みや苦さは全て俺以外の誰かによって作り出されたものだ。
ヴィンセントが居ない昼の間、俺は胸の中に吸い込む酸素さえこの身で所有出来ていないような錯覚に陥る。
俺の中に居た『悪魔』と『少年』が俺の所有権を巡って争っていたのだとして、……そいつらがもう、俺から俺を奪わないって誰が保証してくれるんだ? ヴィンセントにだって説明できないのだ、俺がどうやって自分を失い、どうやって取り戻したのか。一度限りのことではないのかも知れないだろう、またいつか、俺が俺でなくなるときはやって来るのかもしれない。そうして運良くまた俺を取り戻すことが出来たとして、今度の俺は一体どんな罪と罰を請け負わなければいけない? どれだけ苦しまなければならない?
俺は俺という個人的な人格と同化しつつ、其れを尊重することで、却って頭の上から俺という人間を見下ろして憐憫していた。
状況は酷くなる一方のように思えた。いまや俺は、あらゆるものが腹立たしい。例えば女という生き物が全て、俺の手に入れることの出来ないものを持っているように思えて辛い。かと言って男だって、俺より美しく賢く強く在る者に我慢がならない。音、あらゆる音が、俺を哂っているように聴こえて堪らない。じゃあ全て壊してしまえばいい、しかし、そんな力は俺にはない。目を瞑って耳を塞いで蹲って暗闇の底で、どれほど殺意を漲らせたって殺すことの出来ないものが俺の中で嘲笑を響かせて蠢いて居る。
最低だ最悪だ喚いた所よりももっと深く暗い所目掛けて落ちていくのだからきりがない。
部屋に灯りが点いた。
俺の大好きな人が、可哀相な人が、俺に傷つけられるためにまた帰って来た。部屋の隅から睨み上げる俺を見て、「ただいま」と言って、手を洗いうがいをする。睡眠不足を証明する蒼い目元はその双眸から美しさを奪い去っていた。俺の知る限り最も頭のいい人であるはずの彼は、しかしいま、俺のことをどう制御したら良いかも判らないで居る。俺だってどうしたらいいか判らない俺自身のことを、俺以外の誰かが判るはずもないに決まっていた。
「何か食べたいものでもあるか」
ネクタイを解いて、彼は訊く。俺は無言で首を振り、ただ彼の顔をじいっと見詰めていた。どうやって虐めてやろうか、そんなことばかり、考えている。
本当は嫌なのだ、と言ったところで誰が信じてくれるだろうか。俺だって信じられないくらいのことなのに。
穏やかで居られればいいとは思う。けれど、土台が狂っている、だから無理な話なのだ。支離滅裂なことを口から吐き出さないために努力が要る。黙っていれば、微かに平和だ。心が幾つにもばらけてしまった、一つひとつは極めて狭い。ヴィンセントはしばらく黙って、それから思い出したようにポケットから煙草を取り出して、言った。
「君の分は、此処に置いておくからね」
「あ?」
思わずそう、口を衝いて出たのは、久しぶりに無垢な言葉だった。いや、言葉未満、音と呼ぶべきものだったかもしれない。「……君の、煙草は、此処に。……あと、ライターのガスももうすぐ無くなるでしょう、だから、此れも買ってきたから、使って」
俺は呆気に取られて、穏やかに微笑みながらヴィンセントが煙草とライターをテーブルの上に並べて置くのを見上げていた。
「シャワーを浴びてくる」
その細長い後姿を眺めながら、俺はずっと呆然としていた。昨日までなら、煙草もライターも窓から投げ捨てるかその背中に投げ付けるかぐらいしていたはずなのに、まだ理解が至らず、……かと言って、その意味不明な振る舞いに腹も立てられず、ぼうっと。
「誰だ、あんたは」
俺の問い掛けに、洗面所のドアの向こう、シャワーの音が帰って来た。
ヴィンセントだろう、と思う、……多分。身体も顔も、声も、ヴィンセントのものだ。間違いなく。
しかし、その言葉はヴィンセントのものではない。
あんな柔和な喋り方をする男ではない。俺が座った部屋の隅からぴくりとも動けないでいるうちに、彼は下着一枚の姿で洗面所から出てきた。黒髪をバスタオルでぐしゃぐしゃ掻き混ぜるように拭って乾かしながら、俺の前まで歩み寄ると、にっこりと不気味な笑みを浮かべてしゃがみ込む。
「本当は、お腹空いてるんでしょう?」
俺は何とも応えられなかった。本当なら、そんなことを言われれば却ってへそを曲げて怒鳴り散らす。空腹も手伝って、其れは容易なことであるはずだ。ヴィンセントの頬はほんのりと熱っぽく紅く、此れは普段の風呂上りの彼の顔である。そして真紅の双眸も、長い睫毛も、普段と何所と言って異なる所はない。
異常なのは、喋り方だけだ。「一緒に、ご飯食べに行こうよ」
まるでヴィンセントの中に、違う誰かが入って喋っているかのようだった。
俺が世界を壊して、再構築した結果、ヴィンセントという人の心も全く違う形になって表出しているかのように思えた。俺がこういうヴィンセントを求めていたのかどうか、判らない。有体に言えば、俺は少し怖かった。何だか子供めいた笑顔を浮かべて俺の顔を見詰めるヴィンセント、なのかどうかさえ定かでない、この男が。
「クラウド」
その掌は、俺の髪をくしゅくしゅと撫ぜる。「お腹が減ってるのは不幸なことだよ。美味しいご飯を食べてお腹が一杯になれば、それだけで世界は少し、マシになる」
判らない、ヴィンセントがそういうことを言うかどうか、全く判らない。俺は彼の手に引っ張り上げられて、「支度してくるから、待ってて」と言い残されて、膝を震わせてその背中を見送るだけだ。ラフな服装を選んだついでに、ドライヤーで髪を乾かして戻ってきた彼が次に発する言葉が、いつもの通りであることを無意識のうちに願っている俺が居た。
「行こう」
ヴィンセントは俺の手を握って、狭い廊下を抜けて、マンションの外廊下に出て、鍵を閉めて、エレベーターに乗って。
一階に出て、街を歩く、人と擦れ違う、夜が満ちている、乾いた秋の風が吹き渡る。
「寒くない? 大丈夫?」
ずっと俺の手は、ヴィンセントに握られている。
雲の上を歩くと言う表現を、この間読んだ本の中に見つけたことを俺は思い出している。大まかな言い方をするなら、大腿骨と脛骨の間、膝蓋骨と相俟って膝を形成する部位には、軟骨が詰まっており、関節動作を円滑にしている。この軟骨が加齢と共に減少し、上下の骨の尖端――「骨棘」と呼ばれる――同士がぶつかり合い軋むことで、中高年にありがちな膝の関節痛を招く。まだるっこしい言い方をしてしまったが、俺の膝にはいま、軟骨が不必要なくらいにいっぱい詰まっていて、一歩踏み込むごとに大腿骨から上の、身体の大部分がウォーターベッドみたいにぬるぬると揺れている。ヴィンセントに手を握られて街を歩くという、ただそれだけの、しかし十分すぎる異常事態に。
このところはご無沙汰だけど、それでもセックスを何度だってしてきたわけだ、ヴィンセントの身体の味を、匂いを、俺は知っている。それで居て、キスをしたことなんて数えるほどだし、こんな風に手を繋いだことは一度もなかった。俺たちはこの世で一番ウェットな行為に興じる一方で、心はまだまるで重ならないままで居た。汗まみれの身体が欲深な衝動のままに動くとき、何処かから僅かに漏れ出す粘液の音とは裏腹に、一緒に寝たってかさこそと紙のように薄い音を立てる。
どういうことだ、どういうことだ此れは、一体此れは、どういうことだ。我が侭な犬のように俺を連れて歩くヴィンセントの左斜め後ろ四十五度から見る顔は、見たこともないくらいに穏やかな微笑を浮かべている。俺は努めて冷静に、猜疑心を稼動させつつ、現状把握に努める、……「僕」と言ったか、この男は、そんなの、違うだろう、あんたは、いつだって辛気臭い顔をして「私は」って、そういう喋り方をしていただろう、思慮深くて、同時にちょっと、偉そうな。
「喫煙席、二人」
そもそもが自意識だけで出来て居るような男であるはずだ。悪夢に魘されて云々、私の罪が云々、そんなん、テメェの頭の中の話じゃねえか、勝手にしろよ、豪気な男ならそれぐらい言って片付けてしまえるようなことに、延々時間を無駄遣いするほどに、ある意味ではナルシストだと思う。だから、そう、多分この男は世間体というものを、俺より遥かに気にしているはずだ。
こんな風に男と――俺と――手を繋いで歩くことが耐えられるような人間であるはずがない。
窓際の喫煙席に座るとき、やっと彼は俺から手を解いた。
「何でも、好きなものを食べて」
爽やかな、にこやかな、笑みが言う。紅い双眸がそんな風に微笑むところを、俺は本当に初めて見るのだ。そしてその微笑みは、俺が想像したことの在るこの男の表情レパートリーの中には存在しないのだ。
まだ何も言葉を発せないで居る俺に構わず、彼は大きなメニューを開いて、「これを。……クラウドも一緒でいいよね? これを二つ」とウェイトレスに言う。俺はそのとき、オーダーを取りに来たのが俺たちを席まで導いたウェイトレスと同一人物で在ることに気付いたし、彼女だけではない、他の客たちも遠慮がちな好奇の視線を俺たちに向けていることに気付くのだ。何処から見たって俺たちは。
混乱は、害意を昏睡状態にまで追い込んでいる。
煙草を取り出して、火を点けて、「……どういうつもりだ」と掠れた声で言うのにも随分と力が要った。
ヴィンセントは煙草を咥えず、テーブルに頬杖をついて、じいっと俺の顔を見詰めている。
「どう、って?」
その口元には相変わらず微笑み。暗く在ってしかるべき目は、悪戯っぽい光さえ纏っている。「飲み物、何がいい? ジンジャーエール?」
昨日まで、俺が鎖に繋いで買って気ままに振り回していたボロボロの馬の縫いぐるみは、誰かの手に掛かって毛並の美しさを取り戻したようにすっくと立ち上がり、ジーンズに包んだ長く細い足でドリンクバーへと歩いていく。戻ってきた彼の手に握られているのが、ジンジャーエールとアイスコーヒーであるのを見てほっとした。野菜ジュースだったりしたら、いよいよ「あんたは誰だ」と声を荒げていたかもしれない。
いや、アイスコーヒーを飲んで居たって、俺の知らない男だ。
「もっと早くに気付けばよかったんだ」
ヴィンセントは漆黒の液体を一口飲んで、また頬杖をついて俺の顔を見詰めている。視線が真っ向からぶつかるのが何だか不慣れな気がして、俺は窓の外へ視線を反らした。
「僕の過ごす日常がどういう意味を持つのかということについて」
彼の言葉は、俺の左耳に這入って来る。俺は依然としてこの男の意図を読み解くことが出来ず、此れが現実で在ることさえ把握できないで居る。まるで、頭を抱えて苦しんでいるうちに、世界がその様相をがらりと変えてしまったかのように。
其処まで考えて俺は、いまの俺にとって「世界」とはヴィンセントそのものであるのだということに気付いた。俺と社会を唯一繋ぐものとして、ヴィンセントは居る。かつて仲間だった者たちと俺とを切り離し、何の得にもならないのに俺の側に付いた。いや、彼は「俺を抱ける」から損じゃないと言ったかも知れない、けれどその結果がああして、……こうして、俺から理不尽な仕打ちを受ける日々だったのだとしたら、其れはどうしたって大損だ。
俺は世界を壊したのかもしれない。
恐る恐る視線を戻した俺を、ヴィンセントは相変わらず静かな微笑で出迎える。
「簡単な話だよ、……僕の傍には君が居る。それはシンプルに幸せなことなんだ。僕は、大好きな人と暮らしている、他に、何も要らない」
嘘を言っているはずなのに、嘘を言っているように見えないのが気持ちが悪い。俺がまた目を逸らそうとしたところに、大して手間の掛かっていない、しかし見た目だけはきちんと整った料理が運ばれてきた。ハンバーグに、エビフライが二尾、丸い白パンが二つ。ヴィンセントはエビフライの一つを俺のプレートに移し、その代わりに付け合せのグラッセを俺から奪い取った。
一日中世界を呪って過ごすのは、実際にやってみると案外に腹が減るものだ。俺の腹の虫は、久しぶりにのどかな音を立てる。
「いただきます」
と手を合わせて、彼はこんなしみったれたファミリーレストランの食事であっても、品良く食べ始めた。