Callin' Callin'

 その夜もヴィンセントは行為を終えるといつものように立ち上がり、肩にバスタオルを引っ掛けてシャワーを浴びに行った。俺は自分の下っ腹の辺りを無意識に触ったまま、しばらく水音のするほうを眺めていたが、ぼやけた頭を叱咤して起き上がり、ティッシュを何枚か抜き取って、片付けた。

 ヴィンセントは、また、あまり笑わなくなった。元々の性格がそうなのだろうと推測する。俺のバランスが悪い間は、ああしてお愛想の笑顔を振りまいて機嫌を取っていたが、俺が元に戻ったから、また仮面を外したのだろう。それでもいいやと思う。

 ほぼ何の会話もしないままセックスをして、だけど俺も、彼も、一定水準の快感を得ていることは滑稽かもしれない。

 彼が無言で芥箱に棄てたものに、俺は珍しく興味を抱き、煙草に火をつけてから、覗き込んだ。浅いところに沈んでいる。摘み上げて、少し汚れの付着したゴム越しの中身、見た。

 よく出るよな。

 以前に俺がしていた想像は、在る程度当たっていた。ヴィンセントはしっかりと男らしい、……今の俺をして当時ザックスから感じていたほどの快感を齎すようなものを持っていて、早漏でもない。乱暴でもなければ、変に甘くもない。事務的に行為をするにはこれ以上ない相手と言えた。俺も俺で、上手に感じて。

余計なものを省いた、作業としてのセックス。ちょっと前の俺がこんなことをしたかったかということは置いても、悪いものではない。

 髪にタオルを垂らしてヴィンセントは戻ってきた。

「寝たまま煙草を吸うな」

 言われて、煙を吐きながら、床に座る。フローリングが尻を冷やした。ヴィンセントは一頻り、雑に髪をこすって乾かしたら、溜め息を長く吐き、煙草を吸う俺をぼうっと見ている。彼は下着一枚、俺は相変わらず全裸で、これほど同性愛的な光景もないものだと思う。非生産的、戯画的、病的、マイナスイメージに括られるのは簡単だ。一枚の絵の中で俺たちのどっちもが、疲れたつまらなそうな顔をして、居る。

 ぱら、ぱら、雨がシャッターを叩き始めた。

「雨が嫌いか」

 髪の毛を全部上げて後ろに流したヴィンセントが言う。風呂上り、気持ちは判る、俺もそれをする、だけれど、黒髪。

「雨が好きな奴なんているかな」

 煙草を消して点けるまでが凡そ十秒で、その速さは自分でもおかしいと思える。

「いるだろう、いくらでも。自分を中心にして考えるな」

 俺を見て、ヴィンセントは立ち上がる。サイドボードの上、自分の煙草を取って、咥える、

「……私は嫌いじゃない」

 そして火を点ける、安いライターを何度も擦って、五度目でやっと火がついた。俺はずっと、マッチで煙草を吸っている。ヴィンセントもマッチで吸えばいいのだ。

「質問に質問で返すな。お前は嫌いなのか」

「どうしてそんなこと気にする」

「とぼけるな。質問に答えろ」

 頭の芯が曇る。灰が長く伸びる、折れる前に灰皿に置いた。十分程前まで俺たちが繋がっていた場所は乱れて汚れて、だけど、そこで寝るのだ。

 俺は自分の濡れた体を思う。自分が出したもので濡れた体を思う。胸から、腹、股間、足、全部、俺の身体は俺で濡れている。見上げた空から、俺が降る。粘っこい音を立てて俺が俺に降り注ぐ。

「どうせ」

 唇を歪めて笑った。

「どうせ、知ってるんだろう。『少年』にか、『悪魔』にか、それともエアリスにか、聞いたんだろう」

 ヴィンセントは首を横に振った。

「純粋な興味から聞いただけだ。……そんなに答えたくないならいい。雨が嫌いだということだけ判れば十分だ」

「別に嫌いじゃないさ。現にこれまでだって、いくらだって雨の日はあった」

「ああ、そうだ。その度そういう顔をしていたな」

 俺から目を逸らして彼は言った。そしてそのまま、黙った。

 ビチョビチョに濡れた体を持て余した俺は口の中、雨に溺れてもいい、ポッカリと開けて、上を向いた。俺は雨粒の一つひとつに形を変えた俺で口を満たしていく、俺の喉はやがて衝動に負けてそれを飲んだ。食道がひんやりと冷えて、急に、頭の奥まで冷たく感じられる。

 俺の手、左手、質感、握った。俺の液体を含んだグリップが、じわり、ぬるり、滑るように染みた。俺はそれを見、その硬さ、太さ、感じさせる何かに誘われて、舐めた。酷い味だった。今飲んだ俺自身を吐き出してしまうような味だった。だけれど、俺はそれを舐めて、舐めて、舐めて。

 何ヶ月かぶりに、言葉を発した、それは水から上がったときのような言い方だった。

「ザックス」

 俺は目を剥いて、また、延々俺を垂らしつづける天を仰いだ。

「ザックス」

 声は震えず、怒りすら孕み、雄々しく。俺は変声していた、俺は大人だった、俺の腕は前よりも少し太くなっていて、顔だって多分変わっていた。

「ザックス! ……ザックス!」

 最初は憎悪だっただろう。そして憎悪の生れ出ずるところは愛情だったろう。そして切なさと悲しみを経由して、俺が辿り着いたのは、ただ、飲み込んで、胃の中に在る、水だった。

 俺は自分の足で立ち上がっていた。立ち上がると、雲の割れた先にミッドガルがあるのが見えた。

 「ふりだしにもどる」、そんな言葉を俺は思った。拳を口で拭うと、べったりと赤く汚れていた。それすらも水は洗い流し、俺の顔を清めていく。

 行くよ。

 俺は口に出した。

「行くよ、ザックス」

 酷い死に顔だった。安らかさなんて微塵も感じさせない死に顔だった。本人に死ぬつもりがなかったんだろう、目に、鼻に、頬に唇に指先まで、憎しみに支配された人間だけが形作る輪郭が溢れていた。可哀想に。俺は一度しゃがんで、その顔をじっと見た。可哀想にな。死ぬなんて思ってなかったはずだ。この人はきっと今も生きているつもりで、俺と一緒に最初からやり直すつもりだったんだ。なのに、な。可哀想に。こんな形で死ななきゃなんないんだもんな。

 やがて腐り土に変える元命を前に、俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。恐らく一時間もしないうちに、涙が溢れて止まらなくなる。そう判っていながら、ただ、俺は、俺のために失われた命が惜しくて、哀れで、仕方がなかった。

 男らしい、カッコいい人。それなりの誇りがあって、それなりの自意識も持っていた。だから、こんな姿を野晒しにしていたくはないだろう。俺は泥を掻き集めて、その顔を覆った。その泥がすぐに水を含んで流れようとする。零れないようにと、たっぷり。そしてその腕、その身体。そうしている間に一時間はあっという間に過ぎて、俺は泣きはじめていた。もう帰らない。大好きな人が、死んでしまった。

 新しい感情がまた生れる。もう生きていたってしょうがない、そういう「諦念」。ついさっきまで、ザックスと一緒にこれからも幸せに生きていける道があるつもりだったのに。もう、何もかも壊れてしまった、俺には何も残されていない、生きていたってしょうがない――

 俺はしゃくりあげながら立ち上がって、洟を啜ってなお泣きながら、歩き始めた。

 俺はもう死んでもいい。俺の命なんてどうでもいい、から、ねえ、ザックス、ザックスだけは。

 雨が止むのはもう少し先だった。

 ヴィンセントは俺の顔をじっと見ている。

「そういう顔をして、ザックス=カーライルは死んだのか。死んだ日が、雨だったのか」

 俺はリアクションのとりようがなくて、ただ、フィルタまで火の達しそうな煙草を消した。一つ呼吸をしてから、

「何だ、やっぱり知ってたんじゃないか」

 無理矢理作った笑顔で言った。

「想像出来るさ。今のお前と、『悪魔』のお前、『少年』のお前、そして、あの頃のお前、……クラウド=ストライフという同じ肉体でありながら、顔が全く違う。現在のお前の顔がリアルなお前だと言うならば、その顔は当時の演技から来る、『ザックス=カーライル』の顔だろうとな」

 ヴィンセントは久しぶりに少し笑った。どうも、苦しくなると笑うようだ。その辺り、俺も同じで、共感出来た。

「……お前のそういう表情は、あまり良くないな。お前の顔の形に合っていない」

 彼は決め付けるように言って、立ち上がる。薄汚れたベッドに昇り、横たわった。俺の後頭部に向けて言う、

「また一緒に寝るか。明日の朝は冷えるそうだ」

 その声が聞こえる間は少なくとも雨音は遠退く。呼吸や心拍の音に澄ませていれば、聴覚も思い通り働くだろうか。

「俺はクラウドだ」

 言えるなら、そうじゃなくって、「俺はザックスだ」、似ても似つかぬこの顔で言い切りたかった。

 出来ないはずは無い。俺が背負っているのはザックスの剣で、来ているのもザックスと同じ服で、ザックスの側に居たことによって、俺はいくつかの知識をザックスと共有していた。

「ソルジャー、……元、だけどな」

 それは亡霊に憑かれた様だ。そんな俺を見て、例えばティファが不安と疑念に駆られたのは無理からぬことだし、エアリスが俺の演技に気付くのも当然と言えば当然だった。しかし、俺は演ずる自分がいとおしかった。ザックスと同じやり方、見よう見真似で剣を振るい戦う姿は、俺の意識の何割かをザックスという男にシェアした結果であって、つまり俺は俺の身体の中にザックスを確かに感じながら生きることが出来ているつもりだった。

 ちゃんと、いてくれるか? ザックス、俺の中に。

 何も言わず、ただ、俺の手の中、幾重にも包帯の巻かれたグリップがフィットする。それは剣から俺へ、俺から剣へ、作用する力がザックス的で、容認されたからだと思った。

 もちろん、演技を操作するのは俺自身であって、俺がそれを忘れたとき、ザックスはあっさり俺の中で眠った。生々しい言葉を使った自分に気付き、慌てて、ザックスを呼び出す。それは今思い返しても不自然すぎた。しかし、俺が最優先でこなさなければならない課題だった。

 俺は、かなりしっかりと、ザックス演じていただろう。だからこそ、俺の記憶が途絶えるまで、多少の疑念程度で済んでいた、破綻は起こらなかった。エアリスが死んだことで、真実を知る者がいなくなったことによって、全ては成功してもおかしくなかったと、今は何となく振り返る。無論、エアリスからヴィンセントへ、知識の移動があったから、それもまたいつか曝露されることだったろうし、ティファもそこまで愚かではなかったろう。

 それでも、だ。幻想であっても、ザックスを演じるのは俺にとって喜び以外の何でもなかった。ザックスを真似た言い回し、ザックスを真似た戦い方、全部、全部が、俺にザックスとの共存を思わせのだから。

 大好きだったザックスが死んだ、俺のせいで死んだ、だったら俺はザックスを生かしておきたいと思った。それがああいう形だったのだ。その一方で、演じることは結局俺自身の喜びの為でしかなかったのかも知れない。それでも綻びのないよう、心を砕いて、出来る限り続けた―壊れるまで、ザックスは俺と一緒にいたかもしれない。

十三歳で神羅に入社し、十六歳でああいうことが起こるまで、今振り返っても多分、この先二度と訪れぬ、幸せな世界に俺はいた。

ザックス=カーライルというソルジャーと同じ部屋をあてがわれ、一緒に生活して、一ヶ月も経たないうちに強姦された。甘い言い方は出来ない、あれは「強姦」だった。俺が泣いても喚いても、ザックスは俺を犯すことをやめなかった。人懐っこい微笑みを浮かべて、俺を犯した。

当然ながら、俺は怒った。ザックスを憎んだ。憎悪の限りでザックスを殴ろうとした。だけれど、あの頃今よりもずっとずっと細かった俺の腕は、ザックスが握るだけで動かなくなった。

 暴れる俺を抑えて、何の罪もないような顔をして、ザックスは言った、「怖かったんだ、ごめんね」、俺を抱き締めて、「悪かったよ、な。でもお前のこと、好きだからだよ。クラウドのことが可愛いから、可愛くて可愛くて仕方ないと思ったからさ、せずにはいられなくなっちまったんだよう。だから……な、な。でも、俺も軽率だったなとは思うよ。痛かった、苦しかったんだもんな、ごめんな。この通り、許して、クラウド、俺お前に嫌われたら辛いよ、しんどいんだよ。お前のこと本当に大好きだから」。

 どうしてだろう、なんでこの男はこんなことを言うんだろう? 俺は頭の中を疑問符で支配される。どうしてこの男は、俺のことを「好き」だなんて言うんだろう、じゃあどうしてあんな酷いことを俺にしたんだろう?

 俺はその前の夜、ザックスを殺す真似をした。全身全霊で憎いというポーズをとった。そうすれば、もうこの男は世界から消えると思っていた。なのに、

「大好きだよ、クラウド、な、ごめんよ」

 人懐っこい笑みを浮かべ、ザックス=カーライル、そこにいる。俺がその顔を殴ろうと思えばいつでも殴れる射程距離に、両腕をだらりと垂らした無防備の体で、入ってきた。

 金も力も、俺は持っていなかった。ただおぼろげな夢だけ抱いてこっちへやって来た。そこにはいくらかの意地もあった。「ティファと約束した」、ティファの為というよりは、自分の為に俺は戦いたいと思った。そして、戦う俺の側にいると、ザックスは言ったのだと俺は解釈する。

 だから俺はザックスの服を握っていた。

「な、力抜いて、クラウド。……目ぇ瞑って、自分が幸せになることだけ考えてろよ」

 駄目でも弱くても指差して笑ったりしないで、いてくれた。世界の中心はザックスになった。「大好きだよ」、今も言おうと思えば楽にそう言えるのは、あの頃さんざんそう言って、舌が声帯がよく慣れているからだ。「愛してる」、定義し様の無い感情の総称を幾らだってばらまいた、そう言える相手がいること自体が歓びだった。あの頃のことは、あきれるくらい、よく覚えている。「愛してる」「大好き」、この言葉が耳に届かぬ日は一日としてなかった。毎日、ザックスが、そしてセフィロスとルーファウスが、俺の耳にそう囁いた。腰が痛いの何のと零していた愚かな少年に平手を打ってやりたい思いに駆られる。お前に見せてやろうか十年後の姿を。お前の淫らな記憶だけを身に宿して一人ぼっちになった、愚かな姿を。

 今も俺の中には、執念深くザックスがいる。意地のように、底を流れている。そして、それは気持ちだけの問題ではなかった。俺はあいつとセックスをした、何度も何度もセックスをした、あいつは何度も俺に射精した。つまり俺はあいつの遺伝子を持つ細胞を幾つも幾つも身体に定着させ、ある一群は吸収した。俺の中にザックスがいないはずが無かった。血液は違った、人種も違った、だけれど、俺の中に今もザックスがいないはずがない。もちろん、セフィロスも、ルーファウスも。

 痺れるような甘味、夢見るような口解け。その奥に、煙草の苦味をアクセントに、ほろり、蕩ける、囁き。

 俺の空しい戦いは記憶と共に続けられた。ザックスのくれた味を俺の舌に載せ、ああいう味を与える舌を持った気になった。ザックス、なあ、あんたまだ死んでないよ。俺が愛し続ける限り、それはつまり俺が死ぬまでの永遠の限り。ザックスは死なず、共に在りつづけるのだと。例えば俺の胃の底で、あるいは直腸で。大丈夫あんたは、一人じゃない。大丈夫、側に居るよ。笑ったりしないで抱き締める。嫌がられたって、離さないで側に居るから。

だから、安心しろよ、クラウド。

お前は一人じゃない。今も側に居るから――


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