Backdated Cigarette

 五時半という時間が中途半端ゆえにか、店内は閑散としている。ドリンクバーで粘っている客が数組、テーブルの上に食事以外のものが乗っている卓が多い。俺たちは窓際の四人掛けに通された。

 運がいいのか悪いのかは判らないが、この間ユフィと会った時と同じ席だった。ヴィンセントももちろんそれに気付くが、これといった反応はせずに、黙ってメニューを開き、ポケットから煙草を取り出す。そう言えば二人ではじめてファミレスに入ったときには、同じものを頼んでしまったっけなと、俺は思い出した。

 俺がメニューを閉じたのを見て、ヴィンセントは呼び鈴を押す。間もなくやって来たウェイトレスに、メニューを開いてこれとこれ、と指差す。

「同じ物を」

 ヴィンセントは俺に眼をやる。唇の隙間から煙を漏らした。

「それで」

「それで?」

「……まあ、ご明察だ。私も全部は喋っていない。当然のように、私に都合よく、私の作った物語をお前に語っただけのこと。お前に十分な情報を伝えることで私が不利益を被ると予測したからな」

「不利益」

「そう、不利益だ。精神衛生上、あまりよくない」

 消した、と思ったら、すぐさま二本目を欲している。

「そして、恐らくお前にとっても不利益となる瞬間が必ずある。話さないで済ますことも可能であろうと……」

 周囲を白くする、虚構の世界を構築する、俺もそれに協力する。

「何を知りたい」

「あんたの知ってることで、まだ俺の知らないこと全部だ。俺の記憶、意識、無い間、『悪魔』はどういう風にティファと接していたんだ。

これは俺の予測に過ぎない、違ってたら教えてくれ。『ソルジャー』は俺の身体を乗っ取るつもりだったんじゃないかって思うんだ。だから『俺自身』のことを顧みないで、ティファと結婚することが出来た、そして俺からしたらある意味ものすごく無責任に、ティファのことを愛し切った。その一方で『少年』は俺をティファではなくて、とりあえずはあんたに委ねようとしたんだよな? だとしたら、『悪魔』と『少年』は結論からして全く反対だし、端的に言えば、敵対していることになる」

 ヴィンセントは続きを促がした。ヴィンセントが何を頼んだのかは知らないが、多分、メインのセットと、ドリンクバーだ。しかし、一杯でも多く飲んだほうがいいという経済観念は今は働かなかった。

「あんたは『悪魔』を憎んでると言った。ティファやみんなの前ではすごく優しい良い男で、でも、ユフィを強姦していたから、その裏表が許せないと言った」

「そこで、一つ隠していたことがあったな」

 今思い出した訳でもないだろうに、そんな言い方をする。言葉を待っていたら、不意に立ち上がり、ドリンクバーでコーヒーを二杯作って戻ってきた。

「ただ、食前に話そうという気にはならないな」

「……じゃあ、食後に聞こうか。もう一つ。あんたはエアリスの言うことを聞いて、その上でエアリスと同じ事をあんたに求めた『少年』の言うことも聞いた訳だ。あんたが俺の側に居るのは、本当に単なる償いの為か?」

 そこに、予想していたとおりの料理が運ばれてきた。せっかく湯気が立っているのに、余り気の進まないような、知識欲と現状把握の為だけにしなければならない話題を持ち出すのは良くないとさすがに思った。義務的に片付けるよりも、ちゃんと味わった方がいいと、俺たちは黙りこくって食べた。食べはじめてみると、俺は意外なほどに食欲旺盛で、食べ終わってコーヒーを飲んでも、まだ少し、物足りなさを感じていた。

「お前が私を強姦していた」

 そんな瞬間にヴィンセントは言った。俺はライターをすって、火を出しっぱなしにしている。

「……なんて?」

「お前が、……『悪魔』のお前が、私を強姦した。それが最大の理由だ」

 俺はヴィンセントが煙草に火を点けて、少し混み始めた店内で隣りがカップル通路挟んで向かいが家族、でも構わずに、低い声でそんなことを言い、窓の外から俺へ視線を戻す、その間、ずっと火を点けたままだった。

 食前には、確かに相応しくない。

「スプリンクラーが作動するぞ」

「強姦……、俺が? あんたを? そんな馬鹿な」

「……他の客の迷惑になる、そういう単語を大きな声で喋るな」

 危うく浮かしかけた腰、何とか、背中を背凭れにつけて、震えないで喋る努力をする。

「おい、いくら、俺が知らないからって、そんないい加減なことを言うな、なあ……嘘だろ」

「安心しろ、私もユフィ同様、お前を訴えたりはしないから。

『悪魔』を……、ティファと結婚したお前を恨み、『少年』に肩入れするには十分すぎる材料だろう。一応言っておくが、今の私にはそれは単なる理由に過ぎない。今のお前がしたことではないということも判っている」

 どうする? とヴィンセントは聞いた。

「家に戻るか? その方が気兼ねなく話せるか?」

 『悪魔』の名前の理由を知って、ヴィンセントが、途端に怖くなる。この男は、実は、物凄く俺のことを憎んでいるのではないか。憎んでいて、しかし、義務感のみで俺を側に置いているのではないか。今にその憎悪は形を持って俺に向かうのではないか。

 無言のままレジで、俺の分も金を払い、俺を助手席に乗せて車を運転し、

「……今のお前が私を強姦しないのなら、私は構わない」

 エレベーターの中でそう言った。

「それともお前は」

「まさか! 俺が、あんたを? 冗談じゃない、そんなこと、出来るはずが……ないだろ……、それは、俺の役目じゃない、俺は違うんだ」

「ならば、いいが」

 いつもの通り、淡々と、ヴィンセントは言った。部屋の扉を開ける。まだ膝が笑っている、それはヴィンセントにも気付かれている。

「やはり公共の場には適さない話題だったな……、今コーヒーを入れる。……何か、ビスケットが残っていたか」

「あんたは強姦した相手をそうやって許して側に置いてるのか」

 その背中に縋りついた。ヴィンセントは静かな声のまま、

「そういうことになるかな」

 とだけ答える。インスタントのコーヒーを、最早手馴れた手つきで俺の好みの味にして、作って持って来た。

 俺が納得しないで、……多分赤か青かどちらかの顔色をしているのを見て、コーヒーをすすめ、向かいの椅子ではなく、俺の後ろのソファにやや行儀悪く座った。

「だが、私は『悪魔』と敵対することで、必然的に『少年』の側に立つことになる。『少年』の要請に従ったならば、今お前を側に置いていることに何の不思議も無いだろう。お前は『悪魔』でも『少年』でもない、全く別人格の、クラウド=ストライフだ」

「そんな風に割り切って考えられるものか!」

「と言われても、そう思っている。お前自身が言ったし、私も信じているのは、お前が私にとって不利益となるような……少なくとも肉体的に甚大な不利益を生むような事をしないということだ。それが確かならば何の問題も無い」

 真後ろを振り返る。余り笑わない、表情から感情が判らない。俺なんて動揺が明らかに眼に出ている。今だって、ヴィンセントの右眼左眼、どっちを見ればいいのかが、判らない。判らないから片方に決めて、そのせいで、きっとおかしな目線になってる、そう気付いたら目線を外して、止めるところを見つけられない。

「置いておきたくて置いている訳じゃ、ないわけだ」

 始まりが『悪魔』に対する憎悪なら、そういうことになってしまう。共闘戦線を張った『少年』の頼みであり、またそれがエアリスの言う『償い』でもあったからこそ、俺を側に置いている。それは結局のところ義務と言い換えることが出来てしまう。

「どう思ってもらっても構わないが、言い方はいくらでも変えられる。お前がここに居ることが私にとっての利益になっていると言い換えようか、……だから側に置いていると」

「……もういい」

「お前が同性愛者であることを知った上で、私を強姦した相手であると知った上で、お前が私の利益を作り出せるから側に置いている、そうでも言えばいいか」

 ヴィンセントがコーヒーを飲み終える。その頃やっと、俺は自分のコーヒーに口をつけた。

「……『悪魔』と、『少年』と……、どっちも俺の中にいた人格だ。だけど、俺はそいつらを知らない。『悪魔』は? ……あんたのことを強姦していたって言うなら……本当にそうなら、ゲイ……いや、違うな、ティファと結婚してたっていうなら、バイセクシャルだったんだな。……『少年』は同性愛者だった。……そういう点では、どっちも俺に近いな」

 ヴィンセントは頷いた。

俺のどこかに、『悪魔』のような邪悪さがあるのかもしれない、『少年』のような自己犠牲精神があるのかもしれない、それがどこにあるのかは判らない。だが何れにせよ、俺の空白を埋めていた人格が、俺の中のどこかから何らかの形で生じたのは疑いようのないことだ。

『悪魔』、一人称は「俺」、俺に近い、無愛想な口調、但し俺とは違い、暴力的で、また、狡猾、両性愛者。

『少年』、一人称は「僕」、少年っぽい、穏やかな口調、但し頭は悪くないらしい、同性愛者。

 本当に事実を語っているのかは、判らない。けれど、ヴィンセントは余り嘘をつけないような口調で、以上のようなことを教えてくれた。

「俺じゃない」

 と、言う俺をヴィンセントは静かに見ている。

「……俺とは違う、……別の誰かが入って代わりに喋ってたって言ったほうがよっぽど……しっくり来る。俺は誰かのことを強姦する度胸なんて無いし、ティファと結婚するつもりも無かったし、『僕』なんて言葉、改まった場でも無い限り遣わないだろうし、……残念だけど頭もそんなに良くは無い」

「では、お前の眠っている間に誰かがお前の身体を借りて行動していたとでも言うのか?」

 そう考えてしまいたい衝動に俺は強く駆られていた。

「お前の身体の中で、誰かと誰かが互いの目的のために衝突して、結果的に『悪魔』はティファと結婚するという目的を果たし、『少年』は私に委ねることを求めた、と」

「だって」

「お前は目覚める以前に、つまり、私と会ってからお前が眠りに落ちるまでの間、私とこういう風に……こういう風にというのは語弊があるかもしれないが、共同生活を送ることを考えたことなど無かったのか? 或いは、ティファと結婚することを想像した事は無かったのか?」

「どっちも無かった。……いや」

 もう、何も恥ずかしくはないか……。

「あんたと、暮らすっていうのは、少し考えていた」

 強姦した相手だ、憎しみを浴びても不思議は無い。嫌われているのかもしれないという前提があれば、多少の冒険もする価値はあった。

「誤解を招く言い方かもしれないけど俺は……、あの時周りにいた連中で、あんたが一番、好きだった。一番大人で、一番頭が良くて、……戦いで一番頼りになった。俺は自分の嘘を自覚していたし、やってることの幼稚さを良く判っていた。だから、あんたみたいな人が羨ましくて、いいなって、思った。その上で、俺は同性愛者だからな。……こういう想像をすることをグロテスクと思うかもしれないけど、旅が終わった後も、何らかの形であんたと接点を持ちつづけていきたいとは、思ってた」

 ヴィンセントは意外だという顔もしない。

あまり表情を変えないで、物静かな。そういうところを好ましく思っていた。

そして今は、もちろん、ついこの間までは俺のことを嫌いじゃなくて側に置いていてくれるんだと信じていたし、その優しさを陽光のように思っていたから、荒むであろうこれからの人生において、是非、側に居て欲しい人という認識だ。そこまで言う必要があるとは思えなかったから、黙っていたけれど。

「すると『少年』はお前の投影した姿と考えられるかもしれない……、その可能性は微々たるものだが」

 ただ拾った事実のみを手のひらで見ているようだった。

「『少年』っていうのは、……エアリスと知り合いなのか?」

「いいや。……当たり前だろう、お前が眠りに落ちたのはエアリスが死んだ後だ。それとも、お前はお前の意識のある状態で、『少年』としてエアリスと話をしたのか?」

「いや、それはないけど……、何でエアリスと同じ事をあんたに言ったのかなって」

「……お前から聞いた、と言っていたがな。だからあの『少年』は時に、『僕を』ではなく『クラウドを』、という言葉の遣い方をしていた。……『クラウドを護ってください』」

「それじゃあ……」

「お前ではないのだろうな、……お前ではない、『悪魔』も含めて、何者かが、お前の中に生まれた……若しくは寄生した……、そして、お前を左右した。それを単純な分裂病と捉えていいものかどうかな。精神医学など齧ったことも無いから判らないが。……だから、ティファと結婚したこと、ユフィを……ついでに私を、強姦したこと、嘘をばらまいたこと、そう言ったことを、お前に負わせるのはどうかと……、私は考えた。『あれ』はお前だった、或いは、『あれ』はお前ではなかった、どっちを言えばいいのか、な。無論、今は『あれ』がお前ではなかったことを、判っているわけだが」

 頭が痛んだ、耳鳴りがした。

「つまり、……お前は知らないが、お前のことを知っている誰か二人が、お前の中でお前の未来を決めようとした。片方はティファとの結婚を望み、もう片方はそれを望まなかった。さらに一歩踏み込むならば、『悪魔』は異性愛者となることを望み、『少年』は同性愛者として在り続けることを望んだ。恐らくは、共に元々同性愛者だった……、そこからの脱却を図るか否か、そこに対立が生じ、……最終的に同性愛者のお前を表出させて勝ったのは『少年』の方ということだな。あのまま『悪魔』が表層に現れ続けて居たならば、『少年』の敗北ということになったわけだが……そうなれば永遠にお前は眠ったままだ」

 しんどいから、か。俺の煙草のペースは速かった。その一方で、ヴィンセントはソファに身体を預けたまま、一本も吸っていない。これは驚異的なことではある。ヴィンセントはシドのようなヘビースモーカーではないようだが、それでも煙草を愛しているらしいことは良く判る。食後や読書の際には必ず吸っている。今迄だってこういう話をするときには吸殻を二人で堆く積んでいた。

 しかし今日は、俺の吸殻ばかり、灰皿に溜まって行く。サイドボードの上に、まだ凹みの少ないソフトパックが載っているし、ライターも隣りに置いてある。しかし、ファミレスから帰ってきてそこに置いて以来、手を伸ばしていない。

 さほどストレスを感じないで話しているのだろうか。だとしたら、それこそ驚異的なことだ。

「どこから来たんだろう……、その、二つの人格は」

「お前の中以外のどこかから、と推測する他無いだろう。ただ改めて言うが、お前は『少年』に感謝しなくてはならない。お前が今こうして生きているのは、私などではない、エアリスでもない、『少年』が『悪魔』に克ったからこそだ」

 頷くほか無い。とんでもない存在であっても、俺を守ってくれた「人格」だ。それを失うことで俺が成り立っているという構図を意識しなければならない。

「……名前とか、言ってなかったのか? 名乗ってなかったのか?」

「『悪魔』と『少年』とが、か」

 ヴィンセントは首を横に振る。

「……ルール、というか……」

「ルール?」

「……規則、だな。こう言ってしまうのも妙だが、私もユフィも、『悪魔』にしろ『少年』にしろ、お前即ちクラウド=ストライフではないということを判っていた訳だ。ただ、お前の顔をしているから、お前に対しての感情として扱うほか無かったわけだが……、当然、聞いたさ、ユフィも、私も。『お前は誰だ』、と」

 ヴィンセントは苦笑いする。自分を犯した相手に、どんな気持ちで質すのだ。

「『悪魔』はクラウドだと名乗った、『少年』は『悪魔はクラウドではない』と言った、そして、自分の名前を最後まで明かすことは無かった」

 俺の煙草は空になった。けれど、煙草よりも欲しいのは睡眠かもしれなかった。俺の頭は茫洋とし始めていた。

「当然のことながら正しいことを言っているのは『少年』だ。『悪魔』は『クラウド=ストライフ』ではない」

 当たり前だ、クラウド=ストライフは今こうして途方に暮れている一人ぼっちの俺であって、ヴィンセントとユフィを強姦した上でティファと結婚したりもしないし、そもそも女には勃たない。そして、もちろん『少年』ではないのだから。

 『悪魔』にも、『少年』にも、出会った記憶はない。

 ヴィンセントは相変わらず一本の煙草も吸わず、淡白な表情を変えない。

「そこに、ルールが絡んでくる」

 乾いた喉を潤す為に、唾を飲み込んだ。

「私は、ヴィンセント=ヴァレンタインだ。お前は、誰だ?」

 しっかりした口調で、そんなことをヴィンセントは俺に尋ねた。表情は少しも変わらない、ただ、理性的な目で俺に視線を当てたまま。

 要求された答えを、そのまま。

「クラウド=ストライフだ」

 頷かれて、何にか、俺はほっとする。

「そうだな、お前はクラウド=ストライフだ。ヴィンセント=ヴァレンタインでもないし、ティファ=ロックハートでもなければ、ユフィ=キサラギでもない」

「それがどうか、したのか」

「もしもお前が、……そうだな、何らかの都合で私になりきる必要性に駆られたとしたら、どうする?」

「は?」

 冗談ではなく、軌道に乗った話として、ヴィンセントはしている顔だ。けれど、思わず口だって空いてしまう。質問の意図がわからないが、とにかく考えなくてはならない。

「……あんたに似た格好をする。例えば……、そうだな、髪の毛は黒くする、髪型も変える、……服も」

「他には?」

「……体型が……俺とあんたとじゃ違うからな、もうちょっと背が高く見える格好をする」

「……見た目のことはもういい」

「言葉遣いを変える……、あんたに近づける。一人称を変えて」

「……根本的なことを忘れているな。『お前は誰だ』と訊ねられたら、どう答える」

「それは……もちろん、『ヴィンセント=ヴァレンタイン』って」

「そうだな、化けるとはそういうことだ」

 立ち上がって、台所へ行って、ヴィンセントは水を一杯注いで戻ってきた。それで何かをするのかと思っていたら、ただゆっくりと、それを二口飲んだ。俺は黙って、ヴィンセントの言葉を待つだけだった。

「つまり、お前に化けていた人格は、……もしあったとしても、自分の本当の名前を名乗るわけにはいかないのだ」

 俺の中にいた『悪魔』と『少年』、のうち、ヴィンセントに「護ってください」と依頼した『少年』が自分がクラウドではないことを認めていることは確かだ。一方で、『悪魔』はクラウド=ストライフに成りきって過ごしていたのであったとしたら、俺ではないにしても『クラウド=ストライフ』以外を名乗ることはしないだろう。それこそ、俺がヴィンセントに化けたとして、「お前は誰だ?」「クラウドだ」、そう答えた瞬間に化けの皮は剥がれるわけで、それは矛盾であり、表層的には自己否定ということになる。

「『少年』の話に拠れば、自分の名を名乗った瞬間に、『悪魔』はお前の中から消滅する……と。科学的にはよく判らぬが、論理的には納得の行く話だ」

 では、結局『悪魔』の正体は判らない、同様に『少年』の正体も判らない。

「……『悪魔』と『少年』は対立し、互いをお前の身体から追い出そうとしていた。その対立の決着がついたのが、お前が目覚める前の夜か、或いはあの日の朝か……」

 俺がじっと見たからか、ヴィンセントはグラスを俺にくれた。俺は一思いに、飲み干した。

「……あんたは、知っていた」

 俺は「おはよう、クラウド」、ヴィンセントの言葉を思い出していた。

 頷くのを、見る。

「ああ。あの日にお前が目覚めることを、私は事前に知っていた」

 動転していた中で、辛うじて覚えている。

 「彼なら、昨日帰ったじゃない」……ティファの言葉を。

 「あなたが車で駅まで送っていったんじゃない」……。

「あの日の、前の日に、何があった?」

 ヴィンセントは、すう、と鼻で息を吸う、細く開けた唇から吐き出す。その表情は、相変わらず希薄で、俺の目はそこから何かを拾い上げることは出来ないでいる。

 立ち上がり、俺が空にしたグラスを流しで洗って、それから引出しを開けて、ストックの一箱を俺に投げる。自分の煙草も、ようやく一本取り出して、火を点けた。俺も、甘んじて火を点けた。

「語ることは容易い」

 ヴィンセントは椅子に座り、ぽつりと言った。

「だが、真実は恐らく重たいし、私の作る物語とも異なるだろう。私が語る以上、それは主観の束縛から解放され得ない。本当の事実は恐らく別の場所にある」

 しかし、俺にはもう、本当の真実に辿り付く術など無い。それが捏造であったとしても、俺が眠っている間に起きた事実へは、ヴィンセントの物語だけが足掛りとなるばかりだ。

「俺はもう、いいよ、怖くない」

 それが嘘であることは、ヴィンセントにも筒抜けだろうと思った。だけれど、倫理に反し、人を傷つけ、それでもこれから生きていこうとするならば、まず最低限、その一人称物語を知らないではいられないのだ。

 誰が語ろうと、恐らくそこには嘘が混じる。事実はもう、どこにもないのだ。語り手が存在するだけの嘘は、肯定したくないけれど否定もしがたい。仮令捏造された物語でも、今の俺にはヴィンセントの語りは確かなパワーを持つ。俺がどんな風な悪人だったかを知り、それを受け入れる方法は、事実から一秒でも遅れが生じた今となっては、もうたった一つしか残されていない。

 煙草一本、空白。

 ヴィンセントは、ほんの少し笑った。

「……今日は勘弁してくれ。お前の準備は出来ているのかもしれないが、……私が疲れた、たくさん喋ったからな。今日は風呂に入って休もう」

 俺はもう焦らなかった。無論肩透かしを食らったようにも思ったけれど、どんな物語を冷静なるヴィンセントが構築するのか。その物語が俺に解釈出来る範疇のものであるのかは、ヴィンセントの舌にかかっているわけで、聞き手の俺がとやかく言える問題ではない。

 俺は吸殻のたまった灰皿の掃除をはじめた。


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