「どっちが先に入るんだ?」
特別神経質ではないと思うが、ヴィンセントも俺も、灰皿は一応、水道の水でひたひたにしてしばらく置く。もちろん、換気扇も回す。
「先に入れ」
「あんた疲れてるんだろう」
また、このパターンかと思った。だけれど、俺は少しの期待も無く、ソファに身を委ねた。ついさっきまでヴィンセントが長いこと座っていたから、跡が皺になって残っている。俺は意識的に、そこを外して座った。
「一緒に入るか」
俺は笑った。
「いいよ、先に入りなよ」
クロゼットを、ヴィンセントは開ける。着替えの支度をしているんだろう、そう思っていたら、ソファの後ろから、俺のバスタオルと替えの下着が降って来た。
「いいって」
そう、振り返る。ヴィンセントは、腕に自分のバスタオルと着替えを持っている。
「思い出したんだ、……ずっと忘れていた」
多分、それは嘘だった。
「何だよ」
「お前はユフィと私を強姦していた」
「……強姦してた相手なんかと一緒にいるのだって苦痛だろう、ましてや風呂に入るのなんて」
「楽しかったぞ、お前と風呂に入るのは」
ヴィンセントは微笑んで言う。もちろん意味の判らない俺を、翻弄する歓びを感じているらしい。その割に、さほど悪趣味とは思わない笑顔で、ヴィンセントは自分のタオルと着替えを腕に抱えている。
俺がヴィンセントと風呂に入ったって?
いつ、……どっち、が?
「どういう意味だ」
「そのままの意味さ」
「意味が判らない」
「さほど意味もない」
ヴィンセントは微笑みながらも無愛想にそう言う。はぐらかされている自分を意識するほど、空しいことはない。徐々にだが、ヴィンセントがこの行為に積極的な楽しさを見出そうとしているらしいことに気付き始めた。彼は俺の知らないことを知っている。それをもったいぶって語っている。語られる内容は彼にとって苦痛の伴う過去であっても、彼が語る以上、それはいくらだって自分を被害者に仕立て上げ、また俺を加害者とし得る。自分の語りたいように語る訳だ。圧倒的有利な立場に彼は在るのだ、俺を翻弄することなど容易い。
そしてその過去から繋がる時間をどこで切るかもヴィンセント次第だ。俺の感覚では、そんなに、何も、終わってない。ヴィンセントが繋ごうとする意図を、俺は確かに認識する。
あれはお前ではない、そう、俺が切り捨てることを認めながら、ヴィンセントはあれが俺だと今も思っている。人格の違いを理解しながら、同じ顔同じ肉体、それゆえに同一部分の在る者として取り扱っているのだ。
そう思えば、俺は、ヴィンセントがとても怖くなる。穏やかな微笑みのどこまでも信じられなくなる。
「ヴィンセント」
ぐい、と彼は俺の手首を掴んだ。触られるのは、多分これが初めてだ。
「風呂に入りたくないのか?」
指が長いせいだろう、俺の、細いはずは無い手首をしっかり掴んで引っ張る。俺はそれだけで、過去から生まれ出で、この肉体を支配する不安に駆られる。
「……いい、あんた、一人で入れ」
「それがつまらないから、一緒に入ろうと言っているのだ。教えてやろうか、クラウド。お前はな、お前のいない間、非常にしばしば、私と一緒に風呂に入っていたのだ」
そして、その場所で俺はあんたを強姦していたんだね。
嬉しくないよ、もう、あんたが側にこうしていることが。
「何を怖がっている?」
「別に、怖がってなんかいない」
「私の気のせいか。……では何故拒む」
「おかしいだろ、だって。あんな狭い、ユニットバスで、二人入って、俺は同性愛者だし、あんたのことを強姦するような男だ」
「狭いユニットバスで悪かったな。お前が同性愛者だからどうした。お前はもう私のことを強姦しないだろう」
「あんたが平気なのか」
「平気だ」
―怖い。
「何をそんなに怯えている」
怖い、あんたが俺を犯す。
気付いたんだ、ヴィンセントは『悪魔』を、憎んでいる、その憎しみの捌け口は、同じ体の俺に、間違いなく向かう。これほど弱い俺が、依存しきった状態で側にある。豊富な情報を盾に、俺を籠の中の鳥として扱い、餌を遣る。時に情報の一部を俺に見せ、怯える様子を観察する。
そして俺は何の反抗も出来ないのだ。もう、遅い。俺はヴィンセントの飯を食い、ヴィンセントの煙草を吸い、ヴィンセントの火を使った。その身体を蹂躙した上でそれだけの罪を犯し、また依存して今在る以上、俺はただ甘んじてそれを受けなければならない。ヴィンセントが俺を痛めつける鎚を振るう、それで俺が醜く変形していこうとも、黙っていなければならないのだ。
溺れる一歩手前に意図に逆らって胸に腹に溜めた空気が外に溢れ出す、それを堪えて血の炸裂する苦痛が、俺を襲っていた。
しかし客観的に見ればそれは下らなくものどかなシチュエーションかもしれない。無表情な男が二人、狭いバスタブに膝を抱えて、脛毛に脇毛に陰毛を湯に濯がせて。いっそ喜劇的、流行の一歩先を行かんと奮闘する若い映画作家の切り取る画面に最適。
俺は裸のヴィンセントを前にして、積極的な興奮は一切抱かない。ただ黙って、ヴィンセントがいつ俺を犯すんだろう、そう思っている。そして、膝の下、俺の男根は悲しく縮み上がっている。
「……何をそんなに怖がっているんだ?」
苦笑混じりに、彼は聞いた。
「別に怖がってなんかいない」
風呂に入りながら、俺はさっきから煙草を吸いたくて吸いたくて。
「判りやすい奴だな」
ヴィンセントはそう言って、不意に右手で、俺の顔目掛けて湯をかけた。アンダースロー、鼻の穴に吸い込んで、俺は烈しく噎せた。顔を、恐らくは真っ赤にして、しかし俺は何を言えばいいのか。何が言えるというのか。
ヴィンセントは言う、
「素直になったらどうだ」
と。
なってたまるかと、当然のように俺は思う。
すう、とヴィンセントは呼吸の音をひとつ立てた。
「お前は私の言ったことを軽んじてはいないか」
そう、冷たい声に聞こえた。
「私の言ったことを忘れてはいないか」
怖い声と思った。
俺はもう、どんな理由でだってヴィンセントに責められるのだ。どんな理由でだってヴィンセントに嫌われるし、殺されるんだ。
そう思えたなら、何も怖いことなど無くなった。
俺を殺す為の両手は俺の頬を包み、俺の表情を凍らせた。
俺をあっさりと拘束して、俺の目が何も捉えられなくなったとき、とても性格の悪そうな微笑みを僅かな時間浮かべて、ヴィンセントは俺にキスをした。俺はその右手に左手をかけ、爪を立てた。ヴィンセントは全く動じずに、俺の唇を乱暴にこじ開ける。そのためには俺の鼻だって摘んだ。そんなことをされなくたって、俺は素直に口を開けた。侵入してきた舌にも従順だった。
俺への復讐なのに、それがまた俺にとって甘美な形だから、俺は恵まれた罪人だ。
「どうなんだ、……言え」
「え?」
「お前は、私を何だと思ってるんだ。私はお前の父親でもなければ兄弟でもない。それでもお前の味方だ、お前を肯定する。責任感程度では解決しない理由でここにいる」
俺を解放し、……アンダースロー、また鼻に入った。
俺が落ち着くまで待ってから、ヴィンセントは言った。
「端的に言えば、お前の裸が魅力的だということだ。お前の肉体が蠱惑的だということだ。お前はお前の意思でここにいると思うな。お前の身体に乗り移っていた何者かが全てお前を決めたとも思うな。ここに私がいるのは偶然じゃない」
ヴィンセントは、放り投げるようにそう言った。息の止まりそうな俺を見て、初めてだろう、ヴィンセントは、本当に素直に微笑んだ。俺にはそれが素直な微笑だと、何故だか、判った。
「お前を側に置く理由を聞いたな。理由ではないんだよ、クラウド。お前を側に置くこと自体が、理由になっているんだ」
ヴィンセントはそれから水面に目を落とし、その目を閉じた。それから俺の頭に手を置いた。俺はただ、だらだらと顔中から汗を流していた。多分、今、立てと言われても立てないだろうし、手を借りて立ったところでその手がなくなった瞬間、ずるりと滑って頭を打つだろう。
「教えてやろうか。私は一人称が『僕』のその少年を抱いていたよ。ああ、だから全面的に『少年』の側についたんだ。快楽と引き換えに、私の時間と感情を売り払った。そしてそれは、まだ続いている」
逃げるな、恐れるな、目を瞑るな。ヴィンセントの、俺を掴む右手がそう言う。
「『それがクラウドの望むことなんです』」
彼は言い、
「『クラウドは貴方のことが好きだ。貴方と一緒にいることがクラウドの幸せになる』」
彼は笑い、
「『クラウドを護ってあげてください。側にいてあげて』……」
「やめろ」
俺はうめいた。腹の中が熱くて、頭の芯は冷たくて、炸裂しそうな眩暈にぶつかった。
「やめろ、やめろ……」
呂律も回らない。
「……悪かったな」
ヴィンセントは立ち上がり、歯ブラシの横に立ったコップに水を注ぎ、俺に渡した。俺は貪るようにそれを飲んだ。
「出て行きたくなったか?」
俺は頷けない。
呆然とするほどの、得体の知れない大きなもの、に、俺は、押し潰されている。それは、歓びかもしれなかったし、屈辱かもしれなかったし、悲しみかもしれなかったし。正体を見極めることは最早無理だろう。目も見えない。
「お前がもしそう言うのなら、仕方がない。お前を解放してやるしかないな。だが、これだけ待たされたからな……、不平を唱える権利くらいはあると思っている」
この男は、いつだって俺を強姦できた。しようと思えば出来る環境を作っていた。だけど、それをしないで今日に至っている。それは何か。単に倫理だ。今日を持って俺はティファの夫ではない。律儀にそれを約束のように思っていたなら、気の長いことだ。
そして、恐らくはそれも違う。彼の中のリミットがそこに設定されていたというだけで。
俺は、俺の上に圧し掛かっていたものが、大いなる歓びであることを知る。
「お前を抱いた。『少年』であっても、お前の身体だ。お前の身体の隅々までを私は歩いた、知った。『少年』の味方をすればお前の肉体が完全に私の物になるならば、『少年』の、そして、目覚めたお前の、……私は全面的な味方でいよう」
それはキスだと、俺が認識するキスだった。
俺は、もちろん拒まなかった。
誰も望んだ未来の輪郭に文句をつけられはしない。願いは、思っていた形と違っても、叶うのだ。
腹の底に沈む蛋白質を、俺は呆然と感じながら、ヴィンセントの注いで来た水を飲んだ。あれからほとんど言葉を交わさず、俺はヴィンセントとセックスをした。白っぽい頭の中に、ヴィンセントとセックスをした、その言葉が、刻まれる。多分明日の昼くらいになって、悲鳴を上げながらそれをはっきりと認識するんじゃないだろうかと思う。それも仕方の無いことだ。
俺はやっと声を出した。ほとんど何の戸惑いも迷いも、ヴィンセントが見せずに俺を歩いたことを思い出しながら、
「上手だったな」
そう言った俺の声は案外に絡んだり裏返ったりすることもなく。
ヴィンセントは俺の飲み干したコップを戻してから、俺の顔を見た。この顔で俺を抱いたんだなと、思って、あまり恥ずかしくも無いのは、これ以上何も恥ずかしがる材料は無いということを判っているからだ。何かを隠したって、別の何かがばれている。
抱かれ始めても、大体、頭の一部分はちゃんと働いていて、揺さぶられながら、凄い声を上げながら、俺はヴィンセントを見ていた。どんな顔をしているか、見ていた。何も、特別なところはなかった、普通だった。ヴィンセントはヴィンセントで、普通にヴィンセントのままで、俺を抱いた今迄の男よりも興奮の度合いは低くて、つまらないことは何も言わなかった。ただ、それは冷たさや淡白さとは異質なものだった。
この身体はもう七年か八年、男を知らなかった。それを差し引いて考えても、俺は感じ切った。あまり認めたくはないが、乱れた。ヴィンセントはそれを指摘しないでいてくれた、それは有り難かった。
まだ時刻は、零時を回ったところだ。
ヴィンセントは俺の言葉には答えないで、俺の隣りに座った。まだ互いに、服を着ていない。ああこれは、とても同性愛者的なシチュエーションだと思った。だけど、悲観したりはしない。俺が女であればスムーズな分だけ面白みに欠けるだろうという、ただそれだけの話だ。
俺の身体は本当にヴィンセントのものだった。それを、言葉ではなく身体で思い知った。確かにヴィンセントは俺を抱いていた期間があったのだ。俺の善いところを、明らかに知っていた。俺は目を回すような快感に、苦しみ伴わず落ちた。何より、俺が望んだセックスだった。俺は無意識に、ヴィンセントに縋りつくように腕を回していた。
多分、恋人同士ではない。まだ、俺とヴィンセントは他人同士だ。だけれど、セックスをしてしまった。身体だけの関係で片付けてしまってもいいけれど、俺はそうしたくないし、俺がそうしたがっていないことを、ヴィンセントも知っている。もちろん、俺はヴィンセントが俺の身体を欲しがったことを知っている、けれど、身体が欲しいからずっと側に置いておこうとするのは、つまり心も欲されているのだと、解釈する。だから、一番自然なのは、俺とヴィンセントがこのまま一緒に暮らし続けることなのだ。
だから、抱かれながら、俺は、好きだと言った。それは射精に近い現象だった。我慢していた言葉だった。言ったところで、この身体を求めるヴィンセントが、彼の射精を待たずして俺を捨てるとは考えづらかった。鎌首に貫かれつつ、逆に俺はそれに歯を立てながら、好きだと首を締めた。好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ。発展すればそれはいつか「愛してる」に変わる。だけど、俺はまだヴィンセントにそんなことを言える権利はない。
「寝ろ」
彼はそう言った。
「明日の朝、買い物に行くから……、手伝え……、いいな」
俺はこっくりと頷いた。ヴィンセントはまた無表情。微笑んで見せて欲しいと思ったけれど、そんな贅沢はまだ、言えない。ただ、もう今日になっている明日の話をしてくれたことが、安堵に繋がっている。
「悪かったな」
ヴィンセントは、そんなことを言い出した。俺は俯いて首を振った。その手を引っ張った。
「悪かない……別に」
俺の一番素直な気持ちは、精液と一緒にヴィンセントに零した。
「一緒に寝てくれないか」
だからもう何も、俺は、隠すべきものは持っていない。ヴィンセントはそして、敢えてそれを指摘したりもしない。一種の信頼関係が築かれていることに、もう気付いているはずだった。
ヴィンセントはベッドを見て、ソファを見て、
「……何れにせよ窮屈だ」
だけれど、馬鹿なことをと笑わないで、検討してくれるのが嬉しかった。
「俺のスペースなんて少しでもいい。だけど一緒に寝かせて欲しい。ダメか?」
ならば、俺はただ貪欲になって、苦情が来たら直す。そんなやり方で、俺は、ヴィンセントの吐いた二酸化炭素もきっと少しは混じった空気を血液に乗せて生きている、直腸粘膜で蛋白質を吸収して代謝を促進する。
人がどんな風にでも幸せになれることをポジティブに実証しているのがまさにこの俺だ。そういう認識がスムーズに進行していく間に、俺はヴィンセントの匂いを嗅いで、眠りにつく、愁いのない夜を日常にしてゆく。恐らくは身体の必要性で側にいるのであっても、俺の精神は十分に満ちる。
俺を抱くことでヴィンセントは俺を本当に認めてしまった。俺は益々調子に乗る。妄想の中であらゆる破壊活動を肯定する。俺の世界から、本当にバレットやティファが消えるのは遠からぬ未来だろう。そんな日が来たときに、まだなお、ヴィンセントが俺の身体を求めてくれるんなら、及第点を貰ったような気になるであろうことを、俺はリアルに想像している。