毎日「ちゃんとした」夕飯を作る。米の飯を炊くし、パスタを茹でるし、律儀に野菜も並ぶ。疲れているとき、面倒臭いとき、或いは、何かの用事で帰ってくるのが遅くなったり、冷蔵庫の中が目論見よりも少なかったりしたときには、近所のファミリーレストランに行って長居をするが、それは例外中の例外であって、大体夜の八時には食事は終わり、俺は一応テーブルの片付けを手伝う。広い部屋ではなく、テレビが点くこともあまり多くないから、やることは限られ、薄目のコーヒーを飲みながら本を読むか、或いは紫煙に眼をしょぼしょぼさせながら話をするか。俺は逃げるように読みかけの本を手にとり、自分のベッド即ちソファに寝そべって読み始めた。没頭しているふりをすることにも没頭できないで、ヴィンセントの方を気にしている。ヴィンセントもテーブルで本を読んでいる。俺よりも遥かに速い頁を捲る音が聞こえてくる。俺に何の意識も傾けていないように思われた。
間もなく九時になろうかというところで、電話が鳴った。九時になればいつもヴィンセントはニュースを見る。リモコンは俺の寝そべるソファから手の届くサイドボードに乗っていた。五十八分になったら点けよう、そう決めた矢先だった。二度目のベルまで、ヴィンセントは動かなかった。それからしおりをして、四度目のベルでようやく受話器を上げた。
「はい」
誰からだろうか。と思って、さほど選択肢のないことにすぐ思い至る。会社を辞め、俺に近付き、社会との関係性が希薄なヴィンセントである。かかってくるとしたら、……あのあたりしかいないのだ。
「……ああ」
ヴィンセントは無表情で応対している。「誰からだろうか」、その候補を俺は探した、ティファか、ユフィか。それともバレットからだろうか? シドかもしれない。
誰からだったとしても、胃が痛いことには変わりない。
ヴィンセントは保留をかけた。
「誰からだ?」
俺の問いかけには応えず、すぐに再び、受話器を握る。
「出掛けているようだな。……どこへ行ったのだかな、私にも判らん。力になれなくてすまないな」
戻ってきたら連絡する、とヴィンセントは言って受話器を置いた。
「話したかったか? シドからだ」
「ああ……」
もちろん、話したくはなかった。問題視される優しさも、俺に向かうものであれば心地良い。
「ニュースが見たいな」
リモコンを見てそう言う。拾い上げて、点けた。
ひょっとしたら、多少の雑音があった方が読書はしやすいのかもしれない。キャスターの言葉を背景に、俺はようやく本にのめりこめた。ニュースの十数分が呆気なく過ぎたときには、意外なほど頁を捲っている自分がいた。ニュースが終わり、ヴィンセントが自分でテレビを消す。そうすると、またヴィンセントのことが気になりはじめた。
「ティファと離婚するにしても、最低もう一度は会わなければならない」
そんなことを急に言い出した。
「双方の判が必要になる訳だ。……ひょっとしたら、それ相応の金もな」
「金?」
「つまり、慰謝料だ。我々とユフィ以外の誰もが、お前が悪いと思っているに違いないからな、ティファがその気になれば、いくらふんだくられるか判らない。もっとも、金の問題はさほど大きくない。だがそれ以上に、そしてそれ以前に、お前がティファに会えるかどうか、その一点に尽きる」
「金のことだって問題だろう」
「貯金がある。いざとなれば銃を売ればいい。少なくとも金銭的な問題でお前を切り捨てるようなことはしないから安心しろ」
ティファに会えるだろうか。俺は、なんだか会えるような気がした。それは時間の経過によるところが大きいかもしれない。あの時ほどバランスの悪い俺でもない。もちろん、今だって自信がある訳ではないけれど、乱暴な言葉の選び方はしないで済むはずだと思った。ヴィンセントが俺の味方として存在してくれるというのも、非常に心強い。まさに精神的支柱だ。
「友人というのは鬱陶しいものだな」
ヴィンセントは不意に呟いた。
「先ほどのシドも、恐らくお前を心配して電話をして来たのだろうよ。先日のユフィもまたそうだ。更に言えば、バレットも、当人はそのつもりなのだろうな。『心配』という感情を振りかざして、力を持ってしまう、便利だが、それだけに鬱陶しく思えるな、……外部から見ていると」
「……あんたは俺の友だちじゃないのか?」
「友人という関係を望むのか?」
あっさりとヴィンセントはそう問い返す。友人でなければ、何だ? 俺たちは。恋人か? ならいいな。でも違う。
「私はエアリスに、お前に求められた。だからお前を側に置いている」
そう宣した。
「少なくとも、お前がそれを拒むまでは。……拒まれても、はいそうですかとすんなりお前を放つ訳にはいかないが」
俺の中に居たという『少年』がどんなだったか、ヴィンセントはあまり教えてくれない。ただ、物腰が穏やかなネコみたいな少年、ということしか。
仮初の俺の人格であれば、俺の身体を使って何でも出来た訳だ。俺もこの意識が俺の身体に宿っていなければ、……出来ればもう少し魅力的な見た目の人間に宿っていたならば、ヴィンセントを誘うことくらい平気でするだろうが、残念ながら俺は余りにストレートに俺だ。
「拒むことはないよ。逆にあんたに捨てられる方が可能性高い」
「捨てる? 私が? どうして」
「こんな迷惑な同居人はまずいないだろう」
「さあな。お前以外と同居したことがないから判らないが」
「金はかかるし、場所は狭くなる」
「だが、ある程度それに肩身の狭さを感じているならばそれでいい。家事の手伝いをするというだけでも、置いておく価値はゼロじゃない」
寛容な物言いは、無関心と言うか、冷たさの裏返しにも聞き取れる、それは俺の耳の問題だろうか。そして、表と裏のどちらが本当かの答えも出ない。出したくないだけかもしれないし、判然としない。
「それで全部なら、結局はあんたに何の得にもならないだろう」
「エアリスとの約束を守っていると言う自覚があった上で、お前を一応こうして側に置いて守っている。その事が『償い』になると彼女は言った。ならばそれが得だ」
「そんなので……」
「何を考えようとお前の勝手だが、考えたところでお前が瞬発力良く私の得になるものを作れる訳ではないだろう。今はこのままで、私も困っていないのだから、せいぜい甘えていればいい。ティファと会っている間や、他の連中のことを考えている間、お前に安寧の時間はないのだからな」
全面的にヴィンセントの言ったとおりであって、俺は何も力を持っていないのだ。俺がヴィンセントに払えるものなど何もない。こんな薄汚れた身体を欲しがってくれるのならば別だけど、それは俺の得にはなれどという話。その支払方法を俺が選んで、望んで、叶ったとしたら、俺はますます払わなければならなくなる。心だって売り渡そうか。結果的に何が残るか知れない。
ヴィンセントは少し微笑んだ。
「謙虚なところもあるんだな」
俺は黙って言葉を待った、ヴィンセントもしばらくは黙って考えているようだったが、言葉を選びながら、話し始めた。
「お前の……、あの例の『少年』は、第一印象としては非常に謙虚な態度を取っていたな。それは……お前の昼人格である『悪魔』が私の目にはそれはもう傲慢に映っていたからかもしれないが。だが……実際には、あの『少年』の方が余程傲慢だったかもしれない。実際に多くのことを『少年』の思惑通りに進めるために、計算高く私を……操作して、今ここにこういう構図を設けて居るのだからな。
お前は私の生活云々、リアルなレベルで気を遣う。リアルにその身体で実存しているから当然かもしれないが、その謙虚さには悪い気はしないな」
そう評価されれば俺だって悪い気はしないけれど、十分に計算高いつもりもあるから戸惑いも感じる。俺だって、どうすればヴィンセントに触れてもらえるか、このところそればかり考えていた。我ながら余裕のある態度であるとは思うが、しかし、それがこの心を宿す身体の、リアルなレベルの望みであるから、嘘のつきようはない。
清い心の持ち主ではない。清いどころか、泥水のように濁り、ところどころにガスの匂いを発するような心が宿った身体だ。今のまま愛されるとも思えない。ただ望みを儚くとも持ち続けることで、俺はどうにか俺のバランスを保つのだと思っている。これがガクンと行くと、立ち直りが利かなくなるように思われる。性欲は生命にまつわる欲であるから、俺は死んでしまうことをもう選べない。ヴィンセントの側に居て、ああ、この男とやりたいな、そう思った時点で、俺は生きることを決めたのだ。
誰かには下らない話かもしれないが、ヴィンセントとするために生きようとも考えられる。動機は不純だが十分だと思っている。一生懸命やる価値が俺にはあるのだから。もちろん、これを「愛」と言い換えるつもりは微塵もない。もっとずっとなまぐさいものだ。
失礼千万な俺に、何か企んでいるんじゃないかなどと考えさすには十分なくらい、ティファは頷いた。余りに安易に認めてしまっているようにも見えた。そしてそれはヴィンセントも同じだったらしい。彼女は立ち上がると、判を持って戻ってきた。
「これが、あなたの」
平板な声で、ティファはそう言って、俺に判を渡した。
「……いいんだな?」
それを、俺ではなくヴィンセントが訊く事自体、大いに問題があったろうが。
ティファは、白い顔で、そしてほとんど無表情で、また頷いた。俺は目の前の女性が俺の「妻」ではなくなるのだということを意識しながら再びこの部屋に入り、出て行くときには只の男と女か、若しくはそう意識することすら許されなくなるのだと想像しながら今相対し座っている。世間的に見て俺が悪者なのは、俺が代償に何かを手にするからだが、働く勘定として、彼女が手にするのはなんなのかとも俺は考えるのだ。恐らくは、彼女は俺を切り捨てることを選んだから、ああいう顔をしている。ただそこに働く「感情」がどうかまでは踏み入れない。十中八九踏み入ってはいけない領域と思う。彼女がエゴを通さなかったこと、そして、だから、一銭も求めず書類に判を押し、今滑らかに見える筆致で彼女自身の名を書いていく、ただそれを、物理的な感覚で捉えるだけだった。
百八十度回されて俺の前に来た書類の彼女の苗字に、俺の胸は不思議な感覚に襲われる。傷も歓びもなく、不快感でも快感でもなく、ただ、もやもやとした言いようもないものが白く支配していく。クラウド=ストライフは、ティファ=ロックハートをこういう引き千切るようなやり方で捨てるのだと、名前を書く瞬間に俺は宣言しているのだ。恐らくそれは罪悪感だが、同時に清々したような気持ちもあり、或いはこれで何の気兼ねもなくヴィンセントを好きになれるとか、これから先に社会的な損傷となるとか、ティファに対してこれからどういう風な感情を持っていけば言いのだろうとか、絵の具を全て混ぜたとき灰色になるような。
すいません。
「……え?」
口を突いて出ていたかもしれない。俺は慌てて口を閉じて、しかし、それしか言えないかも知れないと、うすぼんやり、気付いてもいた。
俺は口をつぐんで、書類を彼女に返した。
「……バレットには」
彼女は書類の俺の名を見てから、顔を上げて話し始めた。
「ちゃんと、わたしが説明しておくわ。だから、もう二人のところへ行って、乱暴なことをしたりはしないと思うわ。彼に……言ったときのわたしの言い方が悪かったの。わたしも平常心じゃなかったから、誤解を招くような言い方をしてしまったと思う、反省してる。ごめんなさい」
謝っている。全面的な悪役の俺の罪を半分無理矢理に負って。ティファは俺のことを本当に愛していたんだなあ、俺は本当にさっきまで、ティファの「夫」だったんだなあ、それは世間的な問題じゃなかった、俺の中から人格と共に消えてしまっただけで、ティファの中には相変わらず、俺という男に向かう愛情が根付いていたんだなあ……。
だからティファは、あっさりと頷いてしまうんだ。
そして、だから……、エアリスはティファを認めなかったのか。優しすぎる人は自分を安易に傷つけて人を守ろうとする。寧ろ、それで傷つくのは残酷なほどに、守りたい人なのだ。俺が一番思っちゃいけないことを、俺は一番強く思った。
何も言えないことを思い知る。謝罪の言葉も、何も。どう足掻いても、俺の前に座る弱い女性を、俺は護れない。出来るのは、その傷口を広げることだけだ。そして、俺はその事に少しの絶望も感じていない。
ヴィンセントがまず立ち上がった。ティファも立ち上がった。
俺も、立ち上がった。必要事項の全て埋められた書類が、いずまいを正してテーブルの上に載っている。あとは事務処理だけで、俺たちは他人になる。人の関係が書類一つで全く変わるというのは釈然としないと思っていたけれど、こんな風に力を持ってしまうことに、俺は愕然とする。ただ、それは純粋な驚きだった。
「君はどうするんだ」
もう、俺が、聞いたり、気にしたり、する必要のないことを聞いた。
「ここだと広いから」
と部屋を手のひらでくるりとなぞった。
「だから、引っ越すわ。場所も何も決めていないけど……多分、ミッドガル、……知ってるかもしれないけど、来年には再建工事が終わるの。もう七番街はないけど、バレットとマリンが住んでるし、リーブが元住居者には住宅を用意するって……、だから、またお店をはじめるかもしれないわ」
そう言って描く未来に参加する資格のない俺の感じた一抹の寂しさの正体を、誰か解き明かして見せてくれ。
どこまで客観的になることが許されるかは判らないが、例えば。ティファが、俺のいないことによって、こういう俺と在るよりも幸せになれるということは、確実だ。もちろん、今彼女が味わっている不幸の何分の一も判れている自信はないけれど、申し訳ないくらい、しかし、本当に、真理だろう。そして、ティファから解放されて、俺は自由になるのだから、俺にとっても大いなるプラスには違いなくて、だからこの離婚は幸せなものだったのかもしれない、客観的に観たならば。
どんな俺がティファを抱いていたか、まだ、判らない。しかしそれが判ったときには、どうしてヴィンセントが「ソルジャー」を嫌っていたかも判然とする訳で、俺がティファを判れないことは、空しいくらい簡略化されたり、或いは一枚の紙に象徴化されたりして、目の前に事務処理のみの課題を残すばかり。
「倫理的な……立場に於いて……、多分、初めてだな、俺は」
「え?」
「初めて、心底から憎たらしいと思った。『ソルジャー』の、人格を」
どういうつもりだったんだろうね、『ソルジャー』は。消えることを想定していたんだろうか、嘘の人格、本当の俺が戻ってくることを、考えてなかったんだろうか。あいつは、俺から俺を乗っ取って、ずっと生きていくつもりだったんだろうか。
もし、そう出来ない可能性を一抹でも感じていたなら、何故ティファと結婚なんてしたんだ、お前は。
「ごめんね、ティファ」
俺は一番肝心なときに眠って、一番どうでも良いようなときに起きてきてしまった訳だ。
「君の側にいた俺が君に幸せをあげられたんなら、そのままがきっとずっと良かったね」
だけど俺は目覚めた。何のために……? 誰によって?
どうして?
「……わたしに力になれることがあるなら」
ティファは、どうして……? 俺なんかに、どうして微笑む。
素敵な物語のはずだったのにと、後悔する部分がないはずない。裏切りの引き金を渾身の力篭めて引いた、目の前に用意された綺麗な形の物語はガラス細工のように粉々だ、俺の言う「さよなら」で、終わりを告げる。
「クラウドが楽になれる方法を、探すのを、手伝うから」
俺はどこに居るんだろうね。どこに居たらいいんだろうね。そういう、判っていたはずの事が、またちょっと、今ちょっと、判らない。
ヴィンセントの運転する車で家に戻る途中も、俺は少しぼうっとしたままで、「悪魔」のことを考えていた。あいつは、俺じゃない。俺じゃないけれど、ティファを愛していたのか。ティファを愛して、結婚して。そこに俺は戻ってきた。
エアリスや「少年」が、そして、ヴィンセントが、正しいと思ってきたし、これからも思いたい。だけど、俺がこれまで無視して歩いてきた「倫理」の立場に立ったなら?
「教えてくれ」
赤信号に止まった。俺は左右通り過ぎる車の向こうに続く道にヴィンセントと一緒に住む狭いマンションがあることを、いつの間にか知っていた。
「何を」
「『悪魔』が」
「何をしていたか、か。ずっとその耳を塞いでいたな。気持ちが変わったか」
「……そうだな……、まあ、そうだな。それに、多分……」
信号が青に変わる。
「多分あんたはまだ喋っていない、全部は」
「……話を遮ってすまないが、冷蔵庫の中が空に近い。買い物は明日行くとして、今晩はファミレスで構わないな?」
アクセルを軽く踏みながら、少しも動揺してはいない。マンションの下を通り過ぎて、踏切で一旦停止をして、駅向こうのファミレスを目指している。その足で、言った。
「お前がそこまで鈍いとも思っていないから、隠すつもりはなかったよ」
「……心配してくれたんだろ、俺が壊れるって」
「……それもあるが」
「他には?」
少し、笑った。
「いろいろだ。隠しはしない、が、私にも準備が必要だ」
上手に入庫して、車から降り立つ。
「ファミレスでそういう話をしても構わないのか?」
車越しに細長い影が、店内を目を細めて眺めた。
「それとも、食事を済ませて帰ってからにするか? お前に任せるが」
「状況に応じて判断する。不適切だと思ったらその場で話を止めて、家で続きを」
ヴィンセントはファミレスの入口へ向かって歩いた。俺はその後ろに。ヴィンセントがどんな話をしても、もう怖がる権利はなかった。目を瞑る権利も。俺が死ねばいいなんて思った人は、俺を救い、今でも俺を愛している眼をしていた。さすがに、いくら何でも……こんな俺でもどうしても、それを積極的に無碍にしようという気は起こらなかった。つまり、受け入れられない答えかもしれなくても、とりあえず聞くポーズだけでも取らなければならないと思ったのだ。それが、若干の勘違いを含んだ結論かもしれなくても。