セックスがしたい欲求はこの身体にもどの身体にも、人間でなくてもどんな命にも、バラの花にもユリの花にも。
ヴィンセントとセックスがしたいと最初に思ってから結構な時間を経て、まだそれは叶っていない。いったいいつオナニーをしてるんだろう。俺はヴィンセントが家を空ける短い時間にトイレに篭って、ソファの上で。
もう性欲など無いのだろうかと勝手に想像する。普通に年をとっていれば六十になるかならないか。そんな男にイキイキとした性欲はないのかもしれないが、年寄りになっても色に惚けた奴はいるし、実際肉体はまだ三十にもなっていないのだ。ひょっとしたらインポテンツなのかもと想像して、それは「イヤだな」と思う。それはあくまで自分の為に思う。万が一今後、いざヴィンセントと結ばれる瞬間に、彼の性器が硬くないのは面白くない。けれど、確かめる勇気も俺には無いのだった。現在こうして、同性愛者であり殆ど病気と言ってもいい心を抱えて生きている俺の側に、全肯定の姿勢を貫いて存在していてくれるというだけで光栄すぎる。それ以上望むのが彼に対して申し訳ないということくらいは愚鈍な俺にも判る。
しかし想像する。
ヴィンセントと俺は、異性同士に近い。男と、男の同性愛者がいたとき、男の同性愛者が側にいる男に対して何らかの感情を抱くのは、ほぼ必然と言っていいだろう。俺を女に置き換えたらもっと話は簡単だ。男と女が一つの部屋でこんな風に暮らしていて、ただそれだけで済むケースがどれだけあるだろう。周囲の偏見は当然生じるだろう。問題は、ヴィンセントが異性愛者か同性愛者かという一点のみ。しかし彼自身は、同性愛者を特別視しているようには、少なくとも俺には思えない。一般と比べて相当に寛大な場所に自分の考えを置いているようだ。それが単なる、俺への友情だったり、エアリスとの約束だったり、アイデンティティの保持が目的だったとしたら、要するにヴィンセントとはそういう特殊な人間なのだということで片付く話だが。
希望を言えば、ヴィンセントが今俺を側に置くのは、やはり俺に対して悪い感情ばかり持っているわけではないと。
全面的に彼の言葉を信じて言うならば、彼は俺のことを放って置けないと……思っていると。
要するに俺はそういうことを考えて、ヴィンセントで、オナニーをしている。ヴィンセントの全裸を見たことはまだ一度も無い。それでも風呂上がり、かなり無防備な姿を晒しているのは何度も見た。痩せている痩せていると思っていたが、実際にはちゃんとした男の身体だ。
「これでも七十五はある」
ヴィンセントは言っていた。筋肉は重たい。俺もこれでヴィンセントと同じ程の体重がある。しかしそういう身体に性欲を滾らすのは、やっぱり「普通」からしたら「普通じゃない」のかもしれないが、それはそれで仕方なく、また構わないことだろうと思う。
ヴィンセントの七十五キロの肉体は綺麗だ。余計なものが一切無いように見える。手足は長くて、顔はもちろん端正である。そういった彼の肉体を形作る要素を一つずつ拾い上げて検証して、ティファに対して抱くような嫌悪感或いはコンプレックスが、俺には一切生じないのだ。ただ、好もしい感情。自分のものでないからこそ、好もしく思い、またそれを、自分のものにしたいとは思わないまでも「欲しい」と感じる。
俺とセックスをしてくれないか。
そう、言いたい。まさかヴィンセントは俺を捨てないだろうと思う。俺がこれまでかけた迷惑に比べたら、税金程度の上乗せだ。しかし、やはり事が性に関わることであれば、彼は拒むだろうか。それを原因で俺を捨てたりはしないだろうと思うが、逆に捨てられた方がいいと思うような居心地の悪さを味わう羽目になる可能性もある。強いて言えばそれが怖い。
「鍵だ」
どこかに出かけていた。その間、俺はやっぱりオナニーをしていた。匂いなんて残っていないだろうとは思うが、多少は心配しつつ、しかし彼も俺がオナニーをしない生き物とは思っていないだろうからその辺りはナアナアで。
膝の上に放られたものを拾い上げる。銀色の、鍵だ。
「どこの?」
「この部屋の。いつまで居るかは判らないが、お前の分だ」
「俺の分?」
「一人で出かけたいときもあるだろう。それこそ、ティファを殺しに行くときに一々私に許可を取ってから行く積もりか?」
ヴィンセントは、少し笑って、
「もっとも、それだけではない。……お前が一人で出歩くということに私自身、強い不安を抱く必要がなくなったからな。それなりの理性を持って行動してくれるはずと信じられるから。
お前だってしたいこと、行きたい場所、あって然るべきだからな。そのたびに私を気にする必要は無い。自由に、したいことをすればいい」
そう言われても、別に外に出て何かをしたい気持ちにのない俺にとっては、貴重品はありがた迷惑だ。
自立しろと言われているのだろうか?
当然かもしれなくても、それは少し寂しい。
「一応、受け取っておく」
俺はそう言って、お前の場所だと言われた引き出しの中に、それを入れた。
「失くすな」
「……失くさないよ」
引き出しから出しさえしなければ。
それからヴィンセントは風呂を沸かし始めた。俺が先に入ると温いと言って、最近はずっと彼が先に入り、俺は後に入る。生活のリズムが出来ている。
彼が自分の分のタオルと下着を取り出す。緩慢な動作で俺はそれを見ながら、さっきオナニーをしたばかりなのにそういう気持ちになっている。それは、好きだと思う相手を側に置いたときの反応としては、ごく真っ当なものに違いなくて、そう言った意味では俺もすごく正常になりつつあるのだろう。エロス対タナトスで、オナニーをする時点で俺はしっかり生きることを前提としている。いつになるかはわからないけれどヴィンセントの裸に触れたい、俺の裸に触れられたいと、考えている。それが現実的か否かは問題ではなく、少し先に欲望を設けた時点で、さあ死のうとは思えないものだ。
「毎日几帳面に入るよな」
「……お前も毎日入れ。気分転換にもなる」
彼はちゃんと毎朝シャワーを浴びて全身くまなく洗っている。怠惰な俺は時々それを忘れるが咎められはしない。
ユニットバスであるから、お湯を溜めることと、体を洗うことは、スムーズには両立しない。
「まあ……、正直に言えば私も、毎回体を洗うのは億劫だから、出かけなかった日には、ただ浸かっているだけだ」
「俺も、お湯溜めてぼーっとしてるのは好きだな」
水中、浮力の働きで、だるい足が少し楽になる気がするのだ。
ヴィンセントが入った後の湯に入ると考えるのも、楽しい。つい数分前までヴィンセントが浸かっていたお湯だと考えるのだ。それは、すごく気持ちの悪い話かもしれないけれど、俺にとっては十分な材料になってしまう。
「……無かったのか」
冷蔵庫の中を観察していたヴィンセントが呟く。
「何が?」
「いや……、あると思っていたものが無かった。忘れていた。……仕方がないな……下のコンビニで買って来る。お前、湯が溜まったら先に入れ」
そう言って、ヴィンセントは財布を持って出て行った。
浴室は白い湯気濛々。手を浸すと、熱めのお湯。水のカランを回して、俺に合う温度に変えた。
俺が出る前に、少し温めておけばいい。
ちらりと、ヴィンセントの下着を見る。何の変哲も無いトランクスで、だけれど、それが俺には。
見ないようにして、俺はトイレの蓋に腰掛けて、お湯が溜まるのを待った。半分に届かないうちに、もうヴィンセントが還ってきた。
「何買ってきたんだ」
「玉子を。もう一個も無かった。……まだ溜まっていないのか」
「うん。だからあんた入れば」
ヴィンセントは手を伸ばして、湯の中に入れる。
「……温いな」
「もう水は止める」
「……いい。お前が入れ。そのつもりで温くしたんだろう」
「そうだけど、元々あんたが入るつもりだったんだろ。俺は後回しでいいし、入らなくてもいいんだ」
ヴィンセントは肘を浴槽の淵にかけて、俺を見た。妙なアングルで見上げられて、俺は目を逸らした。
「譲り合うのは馬鹿らしいな。たかが風呂くらいで」
ヴィンセントはそう言って、少し笑った。ふっと立ち上がって姿が見えなくなった。俺のタオルと下着を持って、戻ってきた。
「先に入れ」
そう言って、俺に押し付ける。
冗談めかして、
「一緒に入るか?」
下らんと笑われると思った。彼はくるり指を回し、浴槽を大まかになぞった。
「こんな狭いところで大男が二人も入れるか」
現実を検討した。その神経は俺が酔っ払うには十分。そう言えば酒なんて全然飲まないな。飲みたいとも思わない。ヴィンセントは時々ビールを飲んでいたか。その缶なら欲しい。
「もちろん、互いに大きな顔は出来ないだろう……、可能性の問題を口にしただけだ。さっさと入れ」
ヴィンセントは立ち上がり、出て行った。なんだか、すごくつまらないと感じる自分は十分に失笑を買える。ついでに言えば、閉まった扉をわざわざ開けて身を乗り出して、台所のヴィンセントに、
「本当に先に入っていいんだな?」
そんな風に未練がましく確認する俺の背中の書割をヴィンセントは把握しているのかしていないのか。していてもらいたい気もするがそれは恥ずかしい。しかし、過程ではなく欲しいのは結果であって、そう正直に言えば俺は今あんたと風呂に入りたい。
「背中でも流してやろうか」
ヴィンセントは脈絡なくそう言った。これは酷いくらい高級な意見であって、要するに何もかもわかっている狡猾さを彼は自認したのだ、俺にそれを解らしめる。
足が長い、背が高い、すっきりした顔で、二十七歳と言えば二十七歳だし二十五歳と言えば二十五歳、それ以下にもなろうし、落ち着いた物腰に目を当てれば三十にだって見える。自分で言いたくはないが、俺自身が年齢不相応な精神バランスの悪さを持っているから、長いこと生きているから当たり前とは言え己が軸を保ち、無様にぶれたりはしない。羨ましいというよりは、敬う気持ちにさせられる。俺なんかを抱えて、自分を見失わない。
「何を中途半端な格好をしているんだ」
戸惑うなと言うのは無理だろう。俺は上半身裸のまま、しかし下はズボンのベルトも外さないで、靴下も履いたままで、突っ立っていた。
「服を着たまま風呂に入るつもりではないだろう?」
「……ちょっと待ってくれ、あんた、本当に」
「本当に、何だ?」
「背中洗うって、そんな、なあ」
ヴィンセントは軽く首を傾げ、
「妙なことを言うな。背中を洗うだけだろうが。何を意識する」
平然と言い放つ。
「俺は同性愛者なんだぞ?」
ぽかん、とヴィンセントの口が少し開いた。それからその口を一旦閉じて、
「私はお前の父親に等しい」
と言い放った。
「お陰様でそうは見えないかもしれないがな、そういう年齢なんだ」
どういうことを意味しているのか、俺は言葉に直面して黙った。
「私が年相応の外見をしていたらお前もそんなことは気にしないだろう?」
認めたくはないが、それは確かにそうかもしれない。
「解ったらさっさと脱いだらどうだ」
ヴィンセントの綺麗な顔、人間ではない命、積んだカルマは俺と比べてもごく僅かなのに、どうしてそんな罰が下るのか。けれどその美しい双眸を見て俺は、ヴィンセントに罰の下ったことを喜ばしく思ったりする。好きと言う権利を自ら放棄しているようにも思う。
俺は裸になり、浴槽の中に座って身体を濡らした。それからナイロンタオルを湯に浸し、ヴィンセントに渡した。ヴィンセントはそれを受け取って、淡々と石鹸を泡立てる。ヴィンセントの言葉によって俺はヴィンセントを意識しなくなったし、ヴィンセントは元々俺のことなど眼中になかったらしいから、普段と同じく、希薄な表情だ。背中を向けると、本当に俺の背中を洗ってくれた。
「ありがとう」
俺は身体の後ろに手を回し、タオルを求めた。創めるつもりだった感情の構築は、創める余地もなかったのだと解って、ぶつりと切られたような気持ちだ。それはとても下らないものだった。そして、また好ましくない感情が俺の中に渦巻くのを感じる。誰かを言葉で容易に傷つけるそんな力の。その上俺は我慢強く貝のように息を潜めることすら出来ないのだ。
「もういいのか?」
ヴィンセントが俺に優しいのはやっぱり義務感なんだなと、解っていたことを「やっぱり」などと失望含めて勝手を承知で思う。
「もういい、面倒だったろ、悪かったな」
泡だったナイロンタオルを受け取り、左腕から洗い始めた。
「面倒、とは?」
「面倒だろう? 男の裸洗うなんて」
微苦笑でもしているかのような声で、すぐにレスポンスがある。
「同じ裸を洗うのであれば、女の裸を洗う方が面倒だろう。……恐らくな」
機械的に腕を動かす。
「どうも、お前は異性愛者をずいぶんと高貴なものと捉えているらしいな。……疎んだ方が良かったのか? 吐き気でも催せばよかったか? 無論、私は私自身をさほど普通の人間とは思っていないが、それでも大きな差があるとも思えないからな、お前の背中を洗うことにそうマイナスを感じたりはしないよ」
まだヴィンセントは立ったまま、出て行かない。相対しているわけではないとは言え、とりあえず裸の後ろ姿を俺はヴィンセントに晒しているわけだ。改めて考えると、しかし普通の男であった方が当たり前かもしれないと思った。同性愛者であるから、例えば俺はヴィンセントの裸を見たいと思うし、それこそどんな性器なのかということに、将来のことを見据えて、強い興味を持っているわけだ。そうでない、ノンケの男からしたら、同性の尻なぞ珍しくもない、敢えて眼をやることもない、背中くらい洗ってやることだって吝かではないのだろう。
「……俺は、同性愛者だからな。悪かった」
「別に謝らなくてもいい」
「いや、悪かったよ」
ヴィンセントは、まだ突っ立っている。そうかと思ったら、蓋をした便座に腰掛けた。
「お前が拘りたいのなら拘ってもいい。私はお前が同性愛者であろうとなかろうと、問題視した覚えはない。お前が一人で意識しているだけということを忘れて欲しくないな。そして、自虐的になっているだけだということを」
泡だらけになった身体を持て余している俺を尻目に、平気な顔でヴィンセントは言葉を繋ぐ。なんだか居た堪れなくなったので、泡だらけのまま俺は身を沈めた。背中を洗ってくれなんて言わなければ良かった、順番違いもいいところで、湯が妙にヌルヌルするのが気に食わない。だいたい、これではヴィンセントが入る前に浴槽を洗わなきゃならない。
「あんたは異性愛者なんだろう?」
「だったらどうだと言うんだ? そうでなかったらどうだと言うんだ?」
「要するに、俺と同じ感覚を持っているか、そうでないか」
「異なった感覚を持つことがそんなに問題とは思わない。性が同じでも異なっても、感覚の差違はいくらでも生じるだろう」
汚れた泡の浮いた水面、ヴィンセントはちらりと見て、
「引越先はバストイレ別のところにしような」
そう、俺に同意を求めた。俺はただ、頷いた。
「……今日はいい。ゆっくり入って構わない」
ヴィンセントはそう言って、しかしまだ座っている。
「いや……、出る前に浴槽ちゃんと洗う」
「気にするな。別に身体も汚れていない」
「俺のせいか」
「気にするなと言ったんだ、気にするな」
同性愛者は全ての同性を恋愛対象として見る訳ではない。それは異性愛者と全く同じで、人それぞれ「好み」があって然るべき。
ヴィンセントは自分が俺の恋愛対象として捉えられていることを意識しないのだろうか。少なくとも、それを想定していないのだろうか。一緒に風呂に入ろう、本気でそう言えば、どれくらいの意識を持つだろうか。
彼自身の自覚年齢が仮令六十幾つだとしてもだ。その肉体に性欲の宿っていないはずはないのだ。彼が言う「同性愛者に偏見はない」を鵜呑みにするのであれば、彼が俺をそういう相手として捉えることに無理はないはずだし、また性欲処理の対象として傲慢に使うことだって検討するかもしれない。
あらゆる選択肢が「違う」と言っている。俺がヴィンセントと、俺の望んだ関係になる可能性はゼロだ。
ただそれでも、こういった状況の中で、いきいきとした感情が胸の中に息衝いているということは事実で、喜ぶべきことかもしれない、……冷静になれたなら、俺はそう思う。
「セックスがしたいのか?」
立ち上がったヴィンセントがいきなりそう言った。
「……つまり、お前の言うことを聴いていると、そういう欲があるように思えてならない。言い方は気に食わないかもしれないが」
正直に言えば、俺はヴィンセントが好きだ。ヴィンセントとセックスがしたい。ヴィンセントに抱かれてみたい。どんな風なのか、知りたい。
しかし、どこにそれを正直に言える馬鹿がいる?
こういう部分がヴィンセントの年齢と肉体の噛み合わぬところなのかもしれない。
「セックスをしたくない二十五歳はいないと思うけどな」
そう、曖昧に誤魔化す。素直に言う訳にはいかないと、どこかで防衛線を築きたがっている自分を、疑う気にもならない。きっとごく当然の反射だろう。
「ならばお前も例外ではないのだろう」
「それは、そうかもしれないけど」
俺は急な動悸に顔を赤くしないよう努めた。温い湯に浸かっているだけだから、言い訳は効かない。しかし、額には汗が滲んだ。
どういう道を辿れば俺に触れてくれるんだろう?
「相手を選ぶ問題だろうからな、安易な事は言えないが、そういう場所に行けば相応の事が出来るシステムになっているんじゃないのか?」
「冗談じゃない」
反射神経が妙にいい自分で、体温も同時にすっと上がる。
相手を選ぶ問題だ、それは、もう、大いに。セックスがしたい、よりも、俺には「誰と」が重要だった。性欲が満たされなくとも、とりあえずは「ヴィンセントと」セックスがしたい、セックスできなくてもいい、いや、したい、けれど、やっぱり「ヴィンセントと」が俺にとっては重要なのだから。
ヴィンセントはすっと表情を無くすと、
「お前はグロテスクでも何でもないぞ」
それから、
「お前の考えの底には自分を含んだ同性愛者への失礼なコンプレックスがあり、そこを発端とする異性愛者への憎悪があるように思う」
そう言い放った。そして、やっと立ち上がると、「風邪をひく前に出ろよ」、言い残して、出て行った。俺はただ、だらだらと不気味なくらいの量の汗を流しながら、汚れた湯に浸っていた。