不安の種は尽きない。ティファは生きているようだが、向こうからいつまた接触を取ろうとしてくるか判らない。
ずっと考えないようにしてきた不安は一つ、解消した。一番怖がっていたのはこれだったのかもしれないと、その不安が消えてから気付くのも愚かしい。「あの朝」、俺は、ティファを抱いた直後のシーンで目を覚ました。あの時俺は、ちゃんと避妊をしていたのだろうか。確証がなくて怖くて。先日あったとき、ユフィは当たり前だが、ごく普通の体型だった。二年? 三年? それくらい前に、強姦した俺は、中に漏らしたりしていなかったろうか。ちゃんと避妊していたのか、それとも。今は知れないことだが、その可能性よりも生っぽく、ティファの腹の中を俺は不安に思う。ヴィンセントが、ティファの様子を見に行って帰ってきて、俺がその不安を訴えたら、少し笑って「安心しろ」と言った。
「どうやら『ソルジャー』も、エイズ予防は人並みにしていたようだな」
そう教えられて安堵する俺はやっぱり「最悪」のレッテルに抗えない。
俺がなりたいのは父親ではなくて母親なのだ。俺の腹を痛めて産む子が欲しいのだ。しかしどうしたって肛門一つぎり持っていない俺には叶わぬ願い。
「……避妊していたとは言え」
少し煙草の本数が減ったかもしれない。「小遣いだ」と金を渡されるようになって、自分の煙草は自分で買うようになったからだ。有限の貯金から俺の為に少しずつでも金をくれるなら、負担を少しでも軽くしなければと俺でも思うのだ。
それでも、こういう話をするならば、矢張り必需品になる。
「俺が……、女性を、抱いていたのか。信じがたいな」
ヴィンセントはふっと笑った。
「信じていなくともいいさ……、アレはお前ではなかった、我々がそれを判っていればいい」
怖いことだ。もし彼女の子宮に俺の命が宿っていたら? 想像すると縮み上がる。それこそ、彼女は死ぬかもしれない。俺の求められることといったら堕胎しかないのだ。責任? そんなもの俺に在るはずがない。所在のない責任を求めるのも、求められるのも、同じように残酷な話だ。
「あんたは……、さ」
ティーンエイジャーのように俺は緊張して聞いた。
「……あんたは、女の人とした経験……が、……いや」
問い掛けて、俺はあまりにも空しくて、少し笑えて来た。
「あるに決まっているよな」
判っていたとおり、ヴィンセントは頷いた。ルクレツィアという人の名前も知っている。ヴィンセントは同性愛者ではない、俺とは違うのだ。
「先天的な同性愛者でなければ」
すう、と煙草の先が怪しく光る。ヴィンセントの目が細められる。
「異性と性的関係を持つことも可能と思うが」
何を言っているのか、判った。俺には答えようのない質問だということも。黙っていたら、ヴィンセントは構わず続けた。
「……お前はザックス=カーライルやセフィロスと出会ったがゆえに、同性愛者となった訳だ。それまでの性嗜好からしてそうだった訳ではあるまい。言わば柔軟な対応を取る事も出来たはずだ」
答えない。じいっと赤い目が俺を見詰めていて、答えなくてはならないような気にさせられる。しかし答えることはそのまま俺自身の首を締めることに繋がる。ヴィンセントの側に一秒でも長くいたいと思うからこそ、俺は気持ちを隠しているのだ。
「……してみると」
ヴィンセントは俺が答えないのも気にせず、一人で転がしていく。
「お前は『女』が怖いというよりも……、特定の、『ティファ』が怖い……怖いと言っていいのか判らないが、とにかく『ティファ』に対して、マイナスの感情を持っているのだろう。ソルジャーになれなかったというコンプレックスが一つの理由として在るだろう」
そこまで言って、ヴィンセントは言葉を切り、
「……私の勝手な想像に過ぎないがな」
話を止めた。
ヴィンセントは理解してくれようとしている。俺にはそれが嬉しかった。
黙ったまま二人で一本ずつ煙草を吸い終えた。
「……何故そんなことを聞いた?」
唐突に、ヴィンセントは言った。首を傾げた俺に、
「私が女性とした経験の有無が問題か?」
咄嗟に顔が赤らんだろうか。それとも、素っ気無い態度を保てていただろうか。
「別に」
言葉だけでは、そう答える。
「俺はゲイだから、女とは出来ない、したくない。普通の性嗜好を持った人間は……、とりあえず一番身近にいるあんたは如何だったんだろうって、何となく知りたかっただけだ」
「普通の性嗜好……」
含み笑いをしてヴィンセントは言った。
「何だよ」
「いや」
首を振った。
「お前は自分が異常だと思っているのか?」
「それは当たり前だろう。今回の件は……、とりあえず俺が同性愛者でなかったら、ひょっとしたらティファと今ごろまた上手くやっていたかもしれない」
「どうだろうな……、まあ、その可能性が僅かでも残るという点では、多少違った局面を見るチャンスは会ったかもしれない。まあ、結論は変わらなかったろうが」
「それに、俺はゲイだってことを隠していた。ゲイだってことも俺の中では一つのコンプレックスで、演じさせる一つの動力になってた。俺がノンケだったなら」
「有得ぬ話をしても仕方あるまい」
彼は首を振った。
「ただ、あまり自分の存在を疑問視するな。性嗜好やコンプレックスとは無関係にお前は存在している。その絶対的な事実に疑問を呈することはナンセンスだし、悩みの種が増えるだけだ」
そう言って、立ち上がる。少し休み時間を設けてくれるらしかった。
俺は煙草を吸う。俺の吸う煙草はヴィンセントと同じキャスターマイルドだ、合わせようと意識したのではない。俺は最初から無意識にキャスターマイルドを吸っていたし、ヴィンセントも会った時からキャスターマイルドを吸っていた。今となっては、二人で同じ煙草を吸っている事実が、穏やかな嬉しさとなり得る。
「俺のことをグロテスクとは思わないか?」
ヴィンセントは新聞を片付けながら、答える。
「思って欲しいような物言いに聞こえるが」
「ああ……、思って欲しいのかもしれないな、多少は……。別に、グロテスクに思われても構わないんだよ。どっちにしろ、俺は俺がゲイであるっていう事実を事実として受け止めることを拒んで、演技していた訳だ。そこから脱却することが一つは、今生きる俺がちゃんと俺になっていく一つの方法になるような気はするよ」
椅子に戻って、ヴィンセントは俺の顔を見る。
「……別にグロテスクとも思わないが」
「ペニスを肛門に入れるんだよ?」
「……ペニスを膣に入れるのとどちらがグロテスクか」
ヴィンセントは少し笑った。
「その判断は……、『一般』という枠を外してしまえば、少なくとも容易に判断出来てしまうほど私は傲慢な人間ではない」
「自分で置き換えて考えてみれば、普通の男は気色悪いと思うんじゃないのか」
「それは男に膣がないからだ。私はどうしたって男だからな、女の感じるものを同一化して想像することは出来ない。そのことさえ踏まえておけば、男性器がどこに入ろうと安易にグロテスクなどと言うことは出来ないな」
少なくとも俺を庇う側にいる人だということさえ判れば十分だ。
俺たちの日々は、俺にとっては微妙な距離感を保ったまま、でも、結果だけ見ればとてもスムーズに転がり始めた。ヴィンセントが怠惰を認めるからだ。俺のことを話す時間は大分減った。ユフィやティファからの接触はない。すっかり寒くなって、俺は狭い部屋でも暖かければいいと、幸せのハードルを下げた。
ヴィンセントは時折、ノートパソコンに向かっている。簡単な仕事をしていると言っていた。今まではそんなことは一切無かった。俺にかかりきりになるまでもないと判断したのか、それとも単純に、そろそろ家計が苦しくなってきたのか。
「俺も何か仕事を探してみようか」
そう言ったら、彼は微笑んで、無理をしなくてもいいと言った。
「別に無理とは思わないけどな」
「もうしばらく怠惰でいていい」
そして、甘えさせてくれる。
甘えついでに。
「……俺は自分が正しくないと、……今でも、思わないんだ」
言ってみて、気持ちよかったから。
「もちろん、全部が正しいとも思わない、けれど……、何もかもが間違っているとは思わないし、寧ろ、俺は今でも自分の正当性を主張したいと思っている……、本気で」
ヴィンセントは頷く。
俺は続けた。
「男が、男を好きになることを、疑問視したり、問題視したりする。具体的には俺は……、やっぱりティファとくっついているのが一番自然な形だって……、仮にそれが俺の不自然な形であっても、何かもう、そういう言い方をするだろ、バレットとかは」
矛先は今この場にいない、俺を苦しめるつもりもない人に向かう。俺は少しずつ、快感らしきものを覚え初めて、言葉のスピードを上げないように注意しながら喋った。
「そうじゃないんだ、……そうじゃないんだ、俺は、納得が行かない。俺が俺の思ったような生き方をして何が悪いんだって思うんだ。確かにティファは俺のことを、彼女なりに好きになったんだろ、愛したんだろ。けど、それが彼女のしたい生き方だったなら、俺だって俺のしたい生き方をするよ。彼女のことを捨てるよ」
ヴィンセントは頷く。そして俺の言葉が切れた瞬間に、用意していたかのように問うた。
「ではお前はティファを殺せるか」
「殺せるよ」
俺は瞬間的に答え、自然に浮かんできた言葉を繋げた。
「俺がティファが自殺しないかとか、そういうことを心配するのは全部俺のためだからな。俺の良心を傷つけたくないからだ。それでもこの先、彼女のせいで俺がイライラしたりしなきゃいけないのなら、俺は彼女を片付ける」
ヴィンセントはじっと見詰めていた。そして少し微笑む。
「人間的なやり方ではないが、それも十分に正解だ」
「人間的である必要なんてない」
「その通りだ。人間一人一人全く違う、環境も価値観も。それを判ったような顔で人間的などと括って一元的な価値観を押し付ける方が間違っている。……もとより人間はその『人間的』とか、お前が言ったように『良心』というものに対して過剰反応するようなシステムになっている以上、そこに訴えるやり方こそ正しくは無い、寧ろ卑怯な気もするな」
ヴィンセントは立ち上がった。そしてクロゼットを開いて、何かを持って戻ってきた。俺にそれを放る。拳銃だった。
「私はまだ他のがある。それをお前にやろう。弾も入っている。ティファを本当に殺したくなったらそれを使え。剣やナイフでは手に感触が残る、最後の瞬間までお前は不快感を味わうことになる。銃ならば引き金を引けば終わりだ」
俺は手の中の黒い塊をじっと見た。銃口を撫ぜた。銃身を。
「私はお前を全肯定する。……お前を否定することは、アイデンティティの喪失に直結しているからな」
ただ、とヴィンセントは付け加える。
「私もいい加減、お前を家に置いて過ごすのに慣れた……。お前がティファを殺すのは構わないが、殺すのなら捕まらないようにやるんだ。折角もっと広い物件をリストアップしているところなのに、無駄骨にしないでくれよ」
ただ、しみじみ考えてみるとティファを殺すならやっぱり銃より剣、剣よりナイフか包丁の方がいいなと思う俺だ。いっそ抉り取って殺してやるくらいで丁度いい。俺の欲しいもの見せびらかすように持っている、……全部、抉り取って、バラバラにして。
俺は本当に何も持っていないんだ。ティファは全部、持っている。そう思えば思う程、俺の中で殺意は実体を持つ。人間の殺意がこんな簡単に膨れ上がるものとは思っていなかったので、さすがにちょっとは意外に思う。
察知してか、ティファは連絡を寄越さなくなった。ただ、生きていることは確かだと思う。一応、どんな形であれ死ねば俺のところに来なくともヴィンセントのところには連絡が来るだろう。自殺? いっそ、それでもいい。俺を悩ませたことで後悔して死んでくれるならそれは好都合だ。……もう、それでいい。
こうして俺はティファを殺した。一つ狭くなった世界は、正直に、率直に、……素直に、言って、居心地がいい。次はバレットの番だ、そしてその次は、ユフィの番だ。
「最後は私か?」
ヴィンセントはそう聞いて来たから、俺はバカらしいと笑った。
「自分の味方を殺すほど計算が出来ない男じゃない」
「味方か。ティファやバレットだって味方のつもりでいるらしい」
「それはあいつらが決めることじゃない、この俺が決めることだ。仮令あんたが自分のやりたいようにやって今ここにいるんだとしても、俺にとってあんたは味方なんだ。俺がそう決めたから」
「そうか。それは光栄なことだな」
どんな物件がいいか、俺にも意見を聞く。正直そんな広さは要らない、俺はソファでも構わない。けれど、引っ越すのには賛成だ。新しい世界で生きたい欲求は確かにある。そこではじめよう、最初から、やり直そう、忘れよう、作り出そう。捏造かもしれない、けれど、俺にとっては唯一本当過ぎる、大げさな言い方をするなら「人生」を。
ティファが死に、バレットもユフィも死に、他の連中も死んだから、俺の世界にはヴィンセントしかいなくなった。ごくごく狭い世界だ。しかしヴィンセント一人に負担をかけることは俺の良心が許さないので、俺も働いてみようと思う。とりあえず、アルバイトを探すくらいのことはしてみようと思う。そんなことはしなくていい、お前は休んでいていいんだ、人の労働能力を侮るな、言われたけれど。
俺の目は醒めつつあるのかもしれない。