Anticlimax!!

外に、連れられて出かけて、連れられて帰ってくる。あまり家に居続けるのは良くない、外の空気を吸えと。或いは、居候の身分を弁え買い物を手伝え荷物を持てと。しかし、何となく飼われている犬のような心持だ。とは言え、よく世話をしてくれる飼い主に文句も言えない。三度の飯を満足に食わせてもらっているし、その出来は少しも悪いとは思わない。ヴィンセントに料理の能力があるとは思っていなかったが、若い頃、つまりタークスに所属している頃だって一人で暮らしていたのだろうし、寧ろあって然るべきだったのだ。 俺がソルジャーとして神羅で働いていた頃には、食事なんて作らなかった。相部屋の奴が作っていた。自分で作るならばジャンクフードで。

 ティファへの連絡はあの一度きりで、ヴィンセントも口にはしない。時々彼のポケットの中で携帯が震えている。彼はそれに出ない代わり、時折メールを作って送っている。いつまでも嫌がってもいられない、向き合わなければならないと、……それは確かなこと。解っている。しかし、考えるだけでもまだ、俺の胃は沁みるように痛む。

 長袖が必要な時期になってきた。ヴィンセントのを着てもいい、サイズはさほど変わらぬ。ズボンは全くサイズが合わないのだが、これはどういうことだろう。布団と、冬に向けての服を、ヴィンセントに連れられて車で買いに行って帰ってきた。一人暮らしの家なので、クロゼットも一つしかなくて、ヴィンセントは半分スペースを譲ってくれる。畳みなおしながら映していくと、一番下から拳銃が出てきた。

 あ、と思った。

「……剣」

 俺は口走っていた。

「……そうだ、俺の剣は何処にいったんだろう」

 よく忘れられたものだな、俺は俺に皮肉を言いたい。大切なものだろう、商売道具だろう。

 拳銃を仕舞い、俺に譲渡した服を畳む。ヴィンセントは畳む仕事の方に意識を傾けながら、なんでもない口調で言った。

「ザックス=カーライルの剣か」

「……え?」

「ザックス=カーライルの剣だろう」

「何であんたがザックスを知ってるんだ?」

 俺の声は、少しでも、確かに、裏返った。

「お前に聞いたからな」

「いつ?」

「……」

 洋服を仕舞い終えて。煩がるように手を振って、

「お前が覚えているわけが無いだろうが」

 それはそうだが。

 俺が、ザックスの話なんてするのか。いや、「聞いた」と言うのならば、確かにしたのだろう、そして俺がそれを覚えているはずもない。

「色いろな滑稽なことを聞かせてもらった」

 そして、コーヒーを入れたら飲むか、と付け加える。

「滑稽って」

 戸棚からインスタントコーヒーを入れるヴィンセントの背中に俺は聞き返した。

「滑稽は滑稽だ。ちっとも笑えなかった辺り、悲しさが付き纏うがな」

「どういう、ことだよ」

 ヴィンセントはカップに湯を注ぎながら、こちらに目を向けないで「知りたいのか」と聞いた。

 ヴィンセントが齎すであろう答えに、俺が困惑しないはずが無い。立ち尽くす俺の前をコーヒーの香りが通り過ぎた。最初からミルクと砂糖は入っていた。煙が漂う。俺は向かいに座って、どうにも多すぎるこういうケースに自分が「記憶喪失者」っていう無責任な肩書きを持ってしまったことをまた改めて苦しく認識する。まだ、うろたえる。でも、受け入れなければならないことだけが確かで、それは倫理とか道徳観とかではなくて、多分、俺が今生きる人間に戻るのに必要だからだろう。

 そして、実際的な問題として、確かに俺は飼い犬みたいだろうけれど、ヴィンセントの庇護の下に生きなければならないのだ。

 少なくとも、この部屋の匂いが馴染んできているというのはある。ヴィンセントの衣服と一緒に洗濯をしてもらっている。同じ洗剤で洗うに決まっているから、洗いあがった衣服も同じ匂いになる。風呂場にはシャンプーもボディソープも一種類ずつしかおいていないから、体臭も似てくる。吸う煙草も同じだ。嗅覚というのは重要で、誰かの家に行ってはじめて感じるのは匂いの違和感だろう。味覚とは比べ物にならないほど差異に敏感な嗅覚が、「違う」と感じるのだ。

 だが、嗅覚というのは慣れるものであって、やがて感じなくなる。だから、俺はヴィンセントの匂いに、もう慣れつつあるのだろうと思った。

 あの朝ティファの隣りで目を覚まして俺が一番最初に感じたのは、「匂い」だった。違う、と。それが、……仮に俺がその前の晩に彼女と性行為をしていたとして、ある程度以上に乳酸の溜まった状態であったとしても、ぱっと目を覚まして呆気ないパニック状態に陥った最初のきっかけだっただろう。

 しかし、何年もあの家で、彼女と一緒に暮らしていたのなら。俺は慣れていないはずが無かったのだ。然るに、俺はあんな違和感を覚えた。

 抱いても仕方がない、と思っていても、抱くのは不安そして恐怖感。

「お前は猫舌なのか」

 コーヒーを、もう半分は飲んでしまったヴィンセントは、気にしたように言う。一人暮らしの家なら揃いのカップなど無いのも当然で、まして、人付き合いだって良さそうじゃない彼だ、客用のカップなどというのもなくて、グリーンティーを飲むためにあるはずの湯呑みを使って、俺はコーヒーを飲んでいる。重厚な色の、手ごたえの、カップの中にミルクで薄まったコーヒーが入っているのは、どうにも不安定さが伴っていた気もするが、今は俺は、それを片手でグイと掴んで飲んでいる。

「……ああ……、あまり熱いのは好きじゃない」

「それでか。……昨日まで客という気があったから先に入らせていたが、お前の後は湯が温くて敵わない。今日からは先に入らせてもらうぞ」

「……何?」

「風呂に」

「ああ……、ああ」

 俺は、コーヒーを啜って飲んだ。迷ったけれど、――先に延ばすのが億劫に思えて――聞いた。

「俺が、ザックス=カーライルの話をあんたにした?」

 ヴィンセントはコーヒーを飲み干して立ち上がり、カップを洗い始める。ザックス=カーライルと、その名前を紡ぐのがスムーズで、自分の舌がやっぱり覚えているんだと、多少のショックを抱かずにはいられない。

 手を拭きながら戻ってきて、

「お前から聞いた。……聞きたいのか?」

「聞きたくない。怖いから」

「だが、逃げるわけにも行かないことは解っているのだろう」

「解ってる。……解ってる」

 恥ずかしいな、こんなのは、俺のなりたい俺じゃないのに。こんな弱いの、さ。

 ヴィンセントは暫く黙ったままで。

「……今は、まだ早いと思う」

 そんな拍子抜けするような言葉で沈黙を破った。

「何故だ。……ついこの間、無理矢理俺にティファに電話をかけさせようとしたのはあんただろ」

 ヴィンセントは首を振る。

「先日のように喚かれたり、あの朝のように泣かれたりされて困るのは私だからな。この間のことで腹を立てているのなら謝る」

「……」

 もう口をつぐんで、ヴィンセントはマンションの下のポストに夕刊を取りに行った。一人で俺は、まだ半分以上残っているコーヒーが、冷たくなるまで、迷子の自分を自覚している。

 でも、別に今が迷子でもないのだ。今は少なくとも、いつまでかはわからないけれど――恐らくは期間限定的に――生活することは、出来ているのだから。懸案は山ほど在る。ヴィンセントの語ったことはほんの一握りしかない。「セフィロスも神羅も、もう片付いたことだ」と、そんなことを言われたって、俺はセフィロスがエアリスを刺し貫く瞬間というのを見た、あの瞬間に血の温度が氷点まで落ちるような気持ちを味わった。ユフィが泣いたのだって覚えている。……そのユフィが、もう十九になってるなんて。誰が、どうやったら、信じられる。ヴィンセントの外見年齢が少しも変化しないものだから、ほんのかすかな――希望のような――「俺は騙されているだけなんじゃないのか」、「まだ問題は解決していないんじゃないのか」、「そうだ、まだ、戦わなくちゃ」、そんな気持ちが、浮かんで消える。

 こういうことは考えるだけで悪いことなのだろうが、ヴィンセントが何故こうして俺を庇護するのかも、俺には判らない。俺は確かに、俺の記憶の限りでは(そしてそれが唯一の本当のはずだが)ヴィンセントのことを大人として信頼していた。しかし、ヴィンセントから信頼されているというか、友人として認識されているとは思っていなかった。ただ、同じ方を向いて行動する集団を構成する自分と等しい一人……、そんな風にでも考えていてもらえたならありがたいくらいだ。ヴィンセントがどういう理由で、あるいは動機で、俺をこうして側に置いているのかが、判らない。ただ、俺の知らない数年間を、彼が知っていて、そして、

――「おはよう、クラウド」

 俺が、こういう「記憶喪失者」という情けない状態に陥ることを予知していたらしい、ということだけは確かで……、結論だけを言ってしまえば、俺はやはり、ヴィンセントの側に居なくてはならないのだろう。

 まだ、腹の底に力が溜まらない感じがする。ぶつりと切れて、宙ぶらりん、落ちるべきところが見当たらないで、仕方無しにヴィンセントに摘まれているような。

「あんたは、何で、俺なんかの側にいる」

「……『俺なんか』とは?」

「俺なんか、あんたにとっては迷惑なだけだろう。生活費だって倍かかる。俺はあんたの役に、何にも立っていない。……不愉快にさせていることだって多いだろう。それなのにどうして、俺なんかを側に置いておく。とっとと捨ててしまえばいいじゃないか」

 ヴィンセントは俺をじっと見詰めて、珍しく、少し微笑んだ。

「そうだな」

 穏和な声だった。

「そう出来たなら楽だろう。それは判っているのだが。……ただ、約束は守ったほうが良いだろうし、お前に心配されるほど私の貯金は乏しくないのでな。多少の出費なら、夢見の良さを択びたいと思っただけだ」

 言っている意味、もちろん、判らない。

「……誰かがあんたに、俺を引き取るようにと言ったのか。……いや」

 違う。

「俺が、か。俺の知らない間に、あんたに、俺が、頼んだんだな」

 ヴィンセントは答えなかった。微笑んだまま。それは決して悪意の在る微笑ではないのに、とても不気味に映った。俺は一体、俺の知らない何年かの間に、誰にどんな事をして生きていたのか。深く考えはじめて、しかし何も見えない暗闇に包まれると、もう、すぐ側に絶望の淵があるように思えて、立ち竦む。どこから恐ろしいものが出てくるのか、判らない。

 そんな自分が嫌いなのに、夜中にどうしても眠れなくて、しかし、ヴィンセントを起せるはずもなくて、ベッド代わりにあてがわれたソファで膝を抱えて、ガクガク震えている、声を殺して泣いている、そういう自分を認めなければいけない。

 刑事事件を起していないだけが幸いだったのなら――

 一体どんな俺が、俺の空白を埋めていたんだ。

「立派な男だったよ」

 ヴィンセントは言う。

「ただ、それを私に聞くのは間違いだな。知りたいならティファに聞け。ティファは……、難儀な言い方になるが、今のお前ではなく、当時のお前に、強く惹かれてお前と結婚したのだからな。……人間的で、強く、……そうだな、やはり立派だったと言うのが一番妥当なところだろう。曲折経て、お前はセフィロスに打克ったのだからな」

「セフィロスに」

「そして神羅……宝条に」

「宝条は死んだのか」

「ああ、死んだよ。お前が殺した」

「……いつ、どこで」

「ミッドガルに連中が設置したキャノン……、いや、こんなことを言っても、お前には判らぬか。とにかく、お前が、この星を守ったのだ。それだけは確かなことだ」

 そして、言う。

「そう知らないことが多いとなると、どこからお前に教えていけば良いのか判らない。憂鬱な気持ちになるだろうというのは承知で言う。……早く落ち着いて、そしてティファと会え。会って、……お前に言えることを全て言え。それを彼女が信じるか信じぬかは別の問題だが、彼女から与えられるものもあろう。こうして閉じこもっているだけでは何も変わらない」

 苦しい。

 会わなければならないのは判っている。そして、何より謝らなければいけないのだと。しかし、どんなに謝ったところで、俺には言葉以上のことは何一つ出来やしないのだ。彼女が、彼女の愛したという「クラウド」を求めたって、俺はその「クラウド」を知らない。どんな風にティファに接していたのか、ヴィンセントの言葉だけでは想像も付かない。少なくとも、今、こうして情けない姿を晒している俺は、女性相手とセックスをしたことなどただの一度もない、同性愛者なのだ。更に晒すなら、女性と手を繋いだ事だって一度もないし、繋ぎたいと思ったこともないのだ。後天的に植え付けられた女性を苦手と思う気持ちが、俺に強固な根を張っていて、だからエアリスとゴンドラに乗った、あの十分もなかったくらい短い時間にも、息苦しい緊張を感じていたのだ。

 どんなに謝ったって、俺の言葉が実体を持つことは出来ない。その上、彼女が俺との結婚生活の継続を望んだとして、俺はその彼女の願いを叶えてあげることが出来ない。

 想像することすら敵わぬ、俺の空白を埋めていた俺は、姿こそ一緒で、……或いは、俺の望んだ形の人間だったのかも知れないと、悲しく思う。少なくとも俺は、何かを産んだりすることの出来ない男で、出来ることと言えば、精一杯虚勢を張って、無い自信を言葉で補うことくらいだ。

 その「言葉」すら失い、虚勢を張ることも出来なくなって、俺は、この圧倒的な虚脱感を背負い、「空白を埋める」という苦しい精神作業に没頭しなければならないのか。

「嫌だろうが、避けては通れないのだ」

 圧倒的な正しさが、目を焼くくらい眩い。


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