ヴィンセントは何も教えてくれないまま、二日、三日と過ぎる。とにかくお前はここにいろ、余計なことはしなくて良い、そう言い残して、毎朝決まった時間に出て行き、夕方になって帰って来る。そんなことが一週間ほど続いて、また二日ヴィンセントが続けて家に居たと思ったら、また暫くの間、昼間は俺を一人置いていく。それが不意に途切れて、ヴィンセントがずっと家に居る。
「……仕事をな、辞めたんだ」
曜日も月も、年にも、感覚にリアリティがない。ただ、カレンダーは十月になったばかりだ。
社会に取り残されたようなヴィンセントという男も、社会人として働いていたらしいことに、正直驚く。
「お前の件をすぐにでも片付けてしまいたい気で居たが、整理の期間も必要だろう。余りお前に無理をさせて壊れられても困る」
ヴィンセントは、キャスターマイルドを吸うのだ。
たった今までそれに気づかなかった。俺がこの部屋に転がり込んでから、何本だって吸っていたのに、俺は今はじめて、それを意識した。「俺と同じだ」、そう思った瞬間に、俺は急激に煙草を吸いたくなった。当然だろう、ヴィンセントの言ったように、俺の記憶が丸々何年も飛んでいるとしたら、俺はずっと煙草を吸っていなかったということになる。
いや……。
「吸っていたよ、お前は」
ヴィンセントは煙を俯いて吐き出しながら、言った。
ポケットの中で少しひしゃげたソフトパックから一本抜き取って、俺に渡す。ライターをテーブルの上滑らせる。変哲の無い、タクシー会社の銘と電話番号の入ったライターだった。
思い出した。俺の覚えているヴィンセントは、マッチで煙草を吸っていた。
「……ああ、そう言えばそうだったかもしれない。……別に、火がつけば何でも一緒だと今は思っているが。燐の香りが気に入っていたのかもしれないな」
マッチを擦って、俯き加減に火をつけて、火のついたマッチを片手で弾いて消すのだ。親指と中指に挟んだマッチの角に人差し指を当てて、弾く。すると、呆気なく火が消える。口でふうふう吹いたり、大げさに手を振ったりすることが、野暮ったく見えるくらい、その消し方はクールに映ったのだ。
だから、俺はヴィンセントのマッチの火を消す姿を、じっと観察していた。どうにかして、俺も出来るようになってやろうと思った。宿に泊まれば大体、灰皿といっしょにマッチがある。それを持ち出して、外で、一人のときに、擦っては消し、擦っては消しを繰り返した。全然消えなくて、指先を火傷しかけたこともあった。つまりは、それくらい、やってみたかったのだ。
けれど、それを実際にやったかどうか。記憶に無い。恐らく、やらなかったのだ。やらないうちに俺は。
ヴィンセントにとっては、特段の気取りがあっての行為ではなかったらしい。
俺は少し迷った。けれど、言った。
「……マッチ、……今、ないのか?」
「さあな。台所にあったかもしれないが」
「持って来ても構わないか?」
ヴィンセントは何も言わず立ち上がって、台所を少し探してから、マッチ箱を持ってきた。振ると、軽く乾いた音がする。
礼も言わないで、俺はマッチを摘み上げた。煙草を咥えて、擦って。
弾けるような音で、火がついた。威勢良く燃え上がった炎は、すぐに燐の香りと共に、程良い大きさに萎む。煙草の先に確かに火がついたことを確認してから、マッチを持つ人差し指を、中指に替えて、空いた人差し指で……、弾いた。
呆気なく火が消える。しかし、ヴィンセントは見ていなかった。
「見てろよ!」
「な」
俺は、急に、自分でも驚くような高くけたたましい声を上げた。ヴィンセントが驚くのを、俺ははじめて見た気がした。
「……何だ、どうした……」
「せっかく……」
言いかけて、余りに幼稚で、反吐が出そうなくらいスマートじゃないと気が付いた。
「せっかく……、何だ」
「……何でもない」
俺は俯いた。俯いて煙草を吸い、吐き出した。涙が出てきそうになった。それでも、久しぶりに吸う煙草は冷たい燐の匂いがして、甘い。
どうでもいいことだよなと、自分で思って、少しだけ、空しい。
ヴィンセントが言うには、「何年も前の」旅の間のことだ。
俺は、自分の故郷の地下で眠り続けていたこの人を揺すり起こした。確かな実力を持った元タークスのガンマンということで、無謀な旅にはありがたい仲間だと思ったから、彼の望むと望まざるとに拠らず、俺はその存在を連行したかった。
生きる望みも何も、前向きなものは何一つ持っているように見えなかった。ただ、無駄に知識と能力を持っている人だと思った。静かな声で、あまり喋らない、笑ったことなんて無かっただろう。重たい黒髪が、時として顔の半分を覆い隠す。しかし、垣間見える鼻は白く通っていた。
一度だけ、あの赤いマントを外したところを見たことがある。あれは……、ゴールドソーサーだ。黒マテリアを奪われた悔しさと、明日以降どんな顔をしてケット・シーとコミュニケーションをとったらいいのかという鬱陶しい問題とで、すんなり寝付けなくて、ああそうだそれだけじゃない、バレットの鼾がまた煩くって、俺は部屋を出たんだ。
シドと同じ部屋で寝ているんだろうと思っていたヴィンセントが、ロビーのソファで煙草を吸っていた。赤いマントも髪を束ねる赤い布もつけていなくて薄暗いホラーホテルのロビーに彼の姿は融け込んでいた。
俺の方を見はしなかったが、気付いているのだと判った。俺は迷った。彼に近づこうか、彼の側を通り過ぎて外に出ようか。結局、曲がり損ねて、俺は真っ直ぐに出口へ向かった。彼は俺に声をかけたりはしなかった。ただ、黙って煙草を吸っていた。ただ、ちらりと盗み見た、その赤い目、白い顔、印象に残っている。セフィロスくらいに整った顔だと思った。
昼間帯同させて居る間には、大して意識もしていなかったその双眸の赤が、その瞬間に生々しい光を持った。
ヴィンセントは仲間内では、実年齢に於いて最も上だった。当然と言おうか、……大人で。だから、俺は彼を頼もしく感じていた。自分からは喋らないし、何を考えているのかよく判らなかった、けれど、間違ったことはしなかった。他のは、俺も含めて、どこか足りない部分があったことはどうしたって否めない。当たり前だ、平均年齢にして二十代前半、そんな連中が何処まで自分に軸を持って行動できるかと言えば、大きな疑問が纏わりつく。一歩引いた処に立って、黙って見ている大人には、また違ったものが見えてくるものだろう。そのくらいのことは想像がついたから、俺はヴィンセントを信頼していた。
多分、そういう記憶が明瞭にあったから……、俺は恐慌状態でヴィンセントを求めたんだろうと思う。
もう二週間近く前にもなってしまうのか。
ティファと同じベッドで目が醒めて、ヴィンセントを反射的に呼んだ。ヴィンセントからしたら、いい迷惑だったのかもしれない。俺が勝手に彼を頼っていただけで、彼からしたら、年端も行かぬ子供みたいなもので。それでも、俺にはヴィンセントしかいなかったのだ。あの旅、俺にとっては二週間前に終わったばかりの、数年前のあの旅。
「自分を責めぬことだな。彼女がそれを望むかどうかよく考えるがいい」
『つい最近』、ヴィンセントはそう言ったのだ。それが今にも繋がっている。
ヴィンセントは車で来ていた。ヴィンセントが車を運転できるということを、俺はその時初めて知ったのだ。
黒い車は見覚えの無い並木道に停まっていた。俺を助手席に座らせた。俺はずっと濡れた頬を隠すことも思いつかない。ヴィンセントはすぐクーラーをかけた。駐車禁止の場所だからなと、ヴィンセントは言う。かち、かち、かち、ハザードの点滅する音が続く。
ヴィンセントはずっと黙っていた。まだ俺は泣いていた。二十を過ぎてこんなにみっともなく泣くことがあるとは思わなかった。
陽光がキラキラしていた。夏になったのか、夏が終わるのか、その時の俺には判らない。外は暑いが、風もある。
「何も、出来ないが」
ヴィンセントは、言う。
「その上、こういうことは言いたくないが、助手席でそういう風に泣かれると衆人の興味の対象になる。悪いが走るぞ。気分が悪くなったら言え」
彼は、静かに車を走らせ始めた。
まだ俺は泣いていた。だが、ヴィンセントの言ったことが、微妙に引っかかった。
俺は、乗り物酔いをする体質だということを、ヴィンセントに言ったことがあっただろうか。俺の記憶している限りには、無かったはずだ。隠し切っていた。ジュノン行の船に乗ったときも、遠くを見ながら、ユフィに同情して。事前に薬物を摂っておいたのも聞いただろう、ジェノバの急襲もあったから、殆ど不快感を味わわずに済んだし、バギーもタイニーブロンコも自分で運転していたから、苦しみとは無縁だった。何しろ、乗り物酔いをする自分の体質は嫌いだった。みっともないと思っていた。だから、ヴィンセントにだって言わなかった。
それを、彼が知っていることに、恐ろしさを抱いた。或いは、単なる俺への配慮かもしれない。
俺は吐かなかった。けれど、胃の、喉の、冷たくなるような感じを不快に思いながら、まだ……泣いていた。
車は二十分程走って街から外れ、緑の広がる草原で停まった。
まだ、泣いていた。涙がどうしても止まらなかった。泣く為に泣いているんじゃないかと自分で訝った。
ヴィンセントは短く、大体次のようなことを言った。
「お前を一人放って置いたら何をするか判らないから、暫くの間側に置いておく。その先のことは、ひとまずお前のその混乱状態が治まってから決める。とにかく、お前を、暫くは見張っている」
そして、俺が泣き止むまで、一時間もそこにいて、それから車を走らせて、……夕方近くになって、この部屋に着いた。それだけ時間が掛かったのは、一週間分の食料を買わなければならなかったから。俺のポケットには財布すら入っていなかった。俺の食費を全部彼が賄った。申し訳ない気持ちと、まだ怖さが、俺の胸を締め付けていた。
マッチを上手に消せるようになったのに、今は安っぽいライターを使っているヴィンセントと、固執するようにそれから二本、ヴィンセントから貰った煙草を、マッチで吸った俺が居る。
ヴィンセントは不思議と、迷惑そうな顔はしない。笑顔にもならない。ただ淡々としている。貯金があるのだろう、新しい仕事先をすぐに見つけようとはしない。それよりも、どこか新しい部屋に引っ越したがっているように見える。時折、住宅情報誌を開いて、ソファで一人、物思いに耽っている。一応は一人前の体の大きさをした男が転がり込んできたわけだ、ワンルームマンションを手狭に感じているのかもしれない。
「具合はどうだ」
一日中家に居るようになって、イヤでも顔をつき合わせる時間は増えた。改めて、綺麗な顔をしているなと思う。俺の左の頬でにきびが潰れた。
「悪くないよ」
そうか、とヴィンセントはまた住宅情報誌に視線を戻した。
交わす言葉の数は多くない。
椅子に座ってから、コーヒーを飲みたいなと思いつく。
「コーヒー飲んでも構わないかな」
ヴィンセントは答えない。そういう時には、大体好きにしていいのだということが判っている。必要以上に口を聞くのが億劫なのだろう。何かをするな、とは言うけれど、しろ、とは言わない。それは、俺を一応、大人の男として見ていることなのだと思っている。
コーヒーを飲みながら煙草を吸って――もうマッチがなくなったから、買ってもらったライターで済ませている――この椅子から見る景色が、馴染みつつあるのだということを、俺はぼんやり考えている。
ぽっかり、浮かんで切り離されて、ぽつん、こうして在る、俺。油断すると、また恐怖の発作がやってきそうで、だから、視線をヴィンセントに向けた。彼は情報誌を畳んで、ポケットから煙草を出して、吸い始めた。
「俺はティファと結婚してたのか」
ヴィンセントは目を俺には向けず立ち上がって、暫く煙草を味わってから、灰を銀色の灰皿に落として、それから言った。
「現在進行形だな。……離婚届が役所に出されない限り、お前と彼女は夫婦だ」
「……そうなんだ」
そうなんだ、という俺の科白にヴィンセントが、少し反応した。
「彼女はお前のことを待っている」
とはいえ、それだけ。
確かに、俺は倫理的には最悪の行動をとっている訳だ。これ以上ないくらいの最悪さだということは、事実だけ並べて判る。俺は知らないうちにティファと結婚していた。そして、そこから飛び出して今ここに在る。
正気を疑われうる行動をしていることは、認めなければならないだろう。
「俺はどうしたらいいんだろう」
煙草を消した。すぐに次が欲しくなった。ライターで火をつける。安っぽいライターで吸う煙草は、あんまり甘いと感じない。
「今すぐティファの元に戻って、元のとおり、結婚生活を続けるのだな」
「……どうやって」
「どうやって? 考える必要も無い。それが一番楽だろう。実際にお前たちはついこの間まで夫婦だったんだ。慣れてしまえば、当たり前のように生活できるさ」
俺と、ティファが、夫婦。結婚。……夫婦。ティファが俺の奥さん。俺がティファの旦那さん。二人暮し。家庭……、核家族……、夫婦生活。誓約。……結婚式……。夜の営み。子供。……子供……、教育。
一つひとつを摘み上げていって、そのどれも、俺に魅力を感じさせない。どういうことだろう。
どういうこと? 判っている。俺はその答え、よく判っている。ティファのことをそういう相手として見ていないというだけのこと。ティファの心にも体にも、俺は、友人乃至は仲間という、それ以上の感情を抱いていないから。彼女を俺は信頼している。しかし、友人として。彼女も俺を信頼してくれていた、それは、同じように、友人としての信頼だと思っていた。そんな相手と寝て覚めたと思ったから、俺は悲鳴を上げた訳だ。とんでもないことをしてしまったと。
「……もっとも、お前にそれは無理だろうがな」
ヴィンセントは諦めたように息を吐き、煙草を消した。俺の飲み終わったコーヒーカップを流しで洗って、
「買い物についてくるか?」
誘った。
俺はティファと結婚している……現在進行形で。
俺はティファと結婚したいと望んだことは、過去に一度も無かった。俺は、結婚など出来るはずが無いものと思っていたから――望んではいけない夢と思っていたから――俺は誰とも結婚できないものだと、決め付けていた。はじめから諦めていたほうが、よほど楽だろうと思ったから。
だけど、それは、何でだ?
覚えている。
俺は、同性愛者だからだ。
異性よりも同性の、心と身体に強く惹きつけられるからだ。性的な魅力を感じるからだ。もちろん、このことはティファだって知らないことだ。
だから、そんな俺が、多少の心の衣替えをしたとしても、女性と結婚するはずが無い。
まだ信じられない気持ちのまま、俺はヴィンセントの隣りで、少しずつ知り始めた街を歩いている。
「嫌だろうが……、今後ティファと生活していく気が無いのなら、お前はお前の口で、彼女に説明しろ」
それは、非常に気が重い。どの面下げて何を言えばいいんだろうな。「俺が君と結婚してしまったのは何かの間違いだ。俺と別れてくれ。何も覚えていないんだ。勘弁してくれ」……、『覚えていない』なんて、最悪の言い訳だ。
気鬱になって、両手に提げた野菜くだもの類以上の負荷が肩に掛かっている。
ヴィンセントは暫く黙っていたが、マンションまであと三百メートルというところで、ポケットから携帯電話を取り出して、開く。……電話を、かけ始めた。
反射的に俺は逃げようとした、しかし、ヴィンセントは肩で携帯電話を挟んで、左手で俺の腕を掴み、足を踏んだ。
「離せ……離せッ」
「……私だ。連絡が遅くなってすまなかったな。今、いいか。……クラウドに代わる」
「離せぇっ」
「駄々を捏ねるな。何があろうと、お前は二十五の男だ。説明する義務がある」
俺に携帯電話を押しつける。繋がったままの携帯電話だ。
「早くしろ」
ヴィンセントは無表情で俺に言う。冷たい人だと思った。
携帯電話はひんやりと重たく俺の掌の上に圧し掛かる。それに、耳を付けるのには、大変な苦労が要った。
「……クラウド? ……クラウド?」
ティファが、縋るような声を出す。
震えた声が、今の俺の、弱さだ。
「……ティファ」
「クラウド……」
彼女の声を聞き、俺は息が止まる。名の呼び方が、俺に圧倒的な力の存在を教えた。そんな風に俺の名を呼ぶ人がいるとは思わなかった。静かな声でも、俺の腹の底から突き上げてくるような。
アア、俺はティファの元に帰んなきゃいけないんだな。
そう、思うには十分すぎる。
それでも、俺は右手にグレープフルーツの入ったビニール袋をぶら下げたまま、ただ呆然と立ち尽くすのみで、要するに、そんな選択が出来るほど殊勝ではなかった。ずっとずっと自己中心的に、まだ「だってしょうがないじゃないか覚えていないんだもの」とほざくつもりでいる。だって……だって、しょうがないじゃないか……。どこをどうかき回したって、ひっくり返したって、一月前にはまだ俺は、旅をしていた……。
義務と言われたって、説明するにも種がなければどうしようもない。俺は、本気で、まだ何が起こったのか判っていないのだ。泡を吹き出しそうになって。
そのまま耳から携帯電話を離して、通話を切った。膝が笑ってる。
「……最低だな」
ヴィンセントは言い放つ。俺もそう思う。思うけれど、……けれど……。ヴィンセントは俺の手から携帯電話を奪い取り、ポケットに仕舞うと、また歩き出した。俺は、震えながら、彼についていく。
どうにもならない恐怖感だ。
「俺が何をしたって言うんだ。何で俺が、……記憶も無いのに、こんな目に遭わなくちゃならないんだ!」
やっと、マンションの扉の前で言うことが出来た。外で喚くなとヴィンセントが部屋に引きずり込む。俺は玄関先で、ヴィンセントの手を払った。
「ふざけるなよ、俺は……何もしていない、何一つしていない。それなのに、どうして。なんで俺が悪いみたいになってるんだよ、おかしいだろ、俺は悪くない!」
ヴィンセントは靴を履いたままで言う俺を、靴を脱いでから見て、
「記憶喪失者の行動類型にさほど幅が無いらしいことだけは判るな」
そう呟いて、玄関すぐの台所、冷蔵庫に、買ってきた肉と魚を手際よく仕舞っていく。
「俺が何をしたって言うんだ」
「責められるようなことをしたんだ」
「俺は何もしていない」
「しかし、お前は一人だ。責任を取らなければならない」
「何もしていないのに責任なんて取れるか!」
「では、彼女にそう言え。私にそう喚いてどうなるものでもあるまい」
ヴィンセントはそう言って、煙草に火をつける。こんなに煙草を吸う奴だっただろうかと、思ったが、それどころではなかった。
しかし、俺にはどうしてもそれ以上言えないし、俺が全く覚えていない以上、それを胸張って主張するわけにも行かない。今の俺はとにかく何も解っていない。解っていない以上、大人しくしているほかないのだ。そして、ヴィンセントが何故だかこうして側にいる、この現状を甘受するほか、ないのだ。
「……少なくとも、お前の記憶の無い間に刑事事件を起したという話は聞かない。それで良しとしろ」
本当に、そうなのかも知れない。俺にとっては、そうなのかも知れない。