Anticlimax!!

少し伸びていた髭を剃ろうと思って、洗面所の鏡の前に立っても、何処にシェービングクリームがあるのか判らない、カミソリの入っている場所も判らない、アフターシェーブローションの場所も。鏡の左右の開きの中に、らしきものを見つけて、勝手に使う。シェービングクリームは半量ほどが残っており、一番端から二周ほど巻かれて詰まっている。俺の使うメーカーのものではなかった。石鹸を泡立てて塗りつけようかどうしようか迷って、それだけのことを億劫と感じたのは、まだ朝の八時半だったからだろう。

 折角丁寧に端を折り丸めてあったシェービングクリームを遠慮なく真ん中から押して、やや出しすぎの感あり。それを鼻の下、顎、それから頬へ塗りたくる、多すぎた分は流してしまう。刃の替えられてからまださほど経っていないカミソリを当てて、口から遠いところから剃って行く。塗ったものも、握り心地も、どれも馴染みはないけれど、俺は割合上手に髭を処理した。

 顎の下で、いつも油断して剃り残すと、薄い肌に張り付くように伸びて鬱陶しい一本も丁寧に剃り落とし、俺は顔を作った。俺の顔は、少しも変わっていないように思った。剃った軌跡の残ったクリームを洗い落とすついでに顔を洗い、アフターシェーブローションで叩く。俺の顔は少しむくんでいた、目のあたりは赤く腫れていた。泣いたのだ。

 寝癖のついた髪の毛は濡れた手で梳かすだけにした。

 誰かに会う予定は無かったし、誰とも会いたくは無かった。

 口の中がベタベタして不味い。歯を磨こうと思ったが、自分の分の歯ブラシが無いことは判っていた。指に、練り歯磨きを載せて、それを口に入れて、強く口を濯いだ。やたらと辛い歯磨きで、眼が少し醒めた。

 俺は俺を作り、鏡を見、そして、やはりひとつ溜め息をつかずにはいれらなかった。

 トーストの匂いが俺を呼んでいる。

 朝は誰にとっても等しく太陽が昇る時であり、俺のような置いてけぼりを食った男をも同様に照らす。動き出さねばならぬことを告げる。この鼻をくすぐる香ばしい匂いは、俺に動けと命じている。

 俺は目をぎゅっと閉じて、開いて、相変わらず冴えない顔をした男に睨まれていることを確認してから、やや気鬱のまま、二つ目の朝を迎える。

 

 

 

 

 昨日、俺は泣いて寝た。気付かぬうちに眠っていた。二十五になって声をあげて泣いた後だった。だから、今日は目に触れたくない。昨日の昼の十二時ごろから、俺は泣いたり泣き止んだりを繰り返していた、こんなに泣いたのはいつ以来だか、全く思い出せない。

 多分俺は生まれたんだ。長い暗い湿っぽい、血の匂いのするトンネルをやっとのことで潜り抜けて、疲れきっていたから泣いたのだ。繋がっていた最後の糸をぷつりと切られた喪失感と、圧倒的な徒労感と。

 嗅いだことのない匂いに気付いて目を覚ました昨日の朝、と言っても、あれは多分十時を過ぎていたろう、俺はティファと、ベッドの上で目を醒ましたのだ。俺は裸だった、ティファも裸だった、ベッドの下にはティファの、俺の、下着が散乱していて、甘い優しい香りのするタオルケットは、泣き顔のような皺の寄ったシーツの上に丸まって海に浮かぶ島のようになっていた。俺の下腹部には少しの解放感があった。そして、両足には軽い倦怠感があった。しばらくの間、俺は血圧が正常値を差すまで、動かないで、昨日、すなわち今日から数えて一昨日に何があったかを、思い出そうとして。

 何も思い出せないことに愕然とし、目を醒ましたティファに優しくキスをされて、動転した。裸のティファの白い肌に、滑らかな、見たこともないラインに、そして何よりその大きな胸に、その先に瑞々しく実っている乳首に、俺は目を奪われ。

 恐らく、女性に対してもっとも失礼な言葉を俺は思わず口から零した。

「何をやってるんだ、君は」

 彼女は、目を口を丸くした、俺は、すぐにその肢体から目を逸らし、

「服を着るんだ、今すぐ、着ろ、ほら、早く。……早く!」

 失礼な言葉を連発した。

 ティファは呆気に取られていた。

その前の夜に俺が何をしていたかは、仮令それを俺が覚えていなくとも、明らか過ぎた。

「みんなは。……ヴィンセントは、何処だ。俺は、ヴィンセントと……」

 俺は慌てて自分のトランクスを穿いて言った、ティファが困惑しながら下着を身に着けていることと、穿いたはいいけれどそのトランクスは俺の好くような柄ではないということを、同時に感じながら。

「彼なら、昨日帰ったじゃない」

「帰った? 何処へ」

「何処って……、彼の家へよ、ユフィと一緒に。あなたが車で駅まで送っていったんじゃない……、どうしたの?」

「家? 家って……、何を言っているんだ」

 俺は可笑しくもないのに笑った。

「何処にあいつの家があるって言うんだ」

 ティファは、いたって真面目な口調のまま言う、それが、その時の俺には、滑稽な冗談として聞こえたのだ。

「何処って……、やだクラウド、寝惚けてるのね?」

 悟ったように、彼女は笑う、俺は、苛立ちに我を忘れかける。

「一昨年だったかしら、日曜日に一緒に行ったじゃない、西郊外の……マンションよ、マンションの六階、……ね、思い出したでしょ?」

 馬鹿にしてるのか、と、身体が熱くなった、その身体に、ふわりと柔らかいものが触れた、それは、見なかったことに俺はしている、タオルケットか何かだろうと今も信じている。実際には、ティファの裸体が俺の背中に重なったのが事実だったとしても。

「ね、もう眼、醒めたでしょ? ……おはよう、クラウド」

 ティファは、俺の耳元で、心底から穏やかな声を出した。

「ねえ、クラウド。……今日は土曜日よ、……ね、大好きよ」

 俺は、喚きながらその裸を振り解いた、座り心地の良かったベッドから飛び降りた、クロゼットに突進して乱暴に開けた、そこには男物の服と女物の服が、二対三の割合で仲良く収まっていた、俺は無我夢中で服を掴み――どれ一つとして見覚えの在る服等無かったが――、引っ掛けて、寝室を飛び出した。

 宿ではない、マンションの居間があった。築浅の、清潔な室内の中央のテーブルに生けられた、赤い花が目を引く。

「クラウド……、どうしたの?」

「どうしたもこうしたも……あるか……、どこだ、ここは……」

 ティファが、決定的な一言を言うのだ。

 それが判るから、俺は、身構えた。

 しかし全てを劈いて俺は撃たれるだろう、そういう予感があった。

 ……昨日、その言葉で俺は何度となく泣いた。今思い出すだけで、俺はまた、涙が滲んで零れそうになる。

「ここは、……あなたの家よ。あなたとわたしの……」

 嘘か本当かを確かめるよりも、俺はまず、その言葉を拒否した。さっきティファ自身を振り払ったように、俺はその事実も振り払った。嘘だろうが本当だろうが、

「そんなのは、嫌だ」

 と。

「……ヴィンセント……」

 混乱の極致にあった俺の口は、その名を紡ぐのがやっとだった。

「ヴィンセントは……、ヴィンセントは何処にいる、……ヴィンセント」

 ティファは下着姿のまま、呆然と寝室の扉に立ち尽くしている。俺はその姿に、激しい頭痛を覚え、膝を突いた。ティファが一歩二歩、俺へ近づく、俺は声も出せず、ただ拳でフローリングを叩き付けることで、それを拒絶した。

「イヤだ……! ……嘘だ! こんなの……っ、違う、嘘だ!」

 彼が、ティファの連絡によってその『家』に来たのは、それから二時間ほどが経ってからだった。

 昨日の……その時のヴィンセントの格好、俺は永遠に忘れることが出来ないだろうと思う。

 黒のシャツの上に、白いワイシャツを着ていた、ダークグレイのズボンを穿いていた、顔の形や目の色は俺の知ったヴィンセントだった、しかし、髪型も変わって、あの重苦しいものではなくなっていた。整えられた、やや長い短髪だった。

 ヴィンセントは俺を見ると、無表情で言い放った。

「……おはよう、クラウド」

 その言葉が、単なる「おはよう」ではないことに、ティファは気付かないのだ。

 俺だって、覚束なかったが。

 少なくとも、俺はその瞬間に、長い長い夢から醒めたのだ。

 彼はじっと俺に眼を当てたまま、ソファに沈むティファに、

「この男と二人にしてくれ」

 と言う。ティファの眼も、その頃には潤んでいたろう。俺は、縛られたようにヴィンセントと目線を合わせたまま、そう、想像した。

 

 

 

 

「……おはよう、クラウド」

 トーストを、プレートに乗せて、ヴィンセントは言った。無表情だった。トーストには既にバターが塗られている。俺は、用意された席に座し、皿の上を眺め回した。トーストと、簡単なサラダと、湯気の立つコーヒーと、グレープフルーツ、食べ物は、これで全てだった。広告をたくさん挟んで太った朝刊が、無造作に四つ折にされている。

 飾り気のない食卓で、相手も喋らない、俺も喋れない、自ずと、殺風景になる。しかし、空気が微妙に動いているように感じたのは、ヴィンセントが俺を案じているのが判るからだ。

 既に一度開かれた跡のある新聞をヴィンセントは手にとって、つまらなそうに読みながらトーストを齧った。彼はコーヒーをブラックで飲んでいる。俺は、少なくともミルクが欲しいと思った。シェービングクリームを無遠慮に使った手前、そこまでの贅沢は言いかねて、苦い汁を黙って飲んだ。

「……読むか?」

 ヴィンセントはすぐに新聞を畳んで、俺に差し出した。俺は、少し戸惑って、それを受け取った。一番に目が吸い込まれたのは、日付だった。

 本当に三年が経っていた。

 一面には、環境保護法案が賛成多数で可決されたと載っていて、そこには、神羅の幹部であるリーブの顔写真が載っていて、「神羅カンパニー・社長 リーブ氏」と紹介されている。

 神羅の社長はルーファウス神羅だろう、と俺は思って、考えるのをすぐに止めた、というよりは、諦めた。俺に判る世界ではないのだと思って。

「……リーブも心配している」

 ヴィンセントは、人がまだ食べているのも関せず、煙草を吸い始めながら言った。

 何故あの男が俺を心配するのかと、訝らぬようにしながら、俺は黙っていた。

「皆、お前の口から事実が語られることを待っている。……無論、お前のその口から事実の語られる可能性など、毫ほどもないことを判っていながらな」

 ヴィンセントは笑った。空虚な笑いだった。

 

 

 

 

 俺の見たことの無い服装をしたヴィンセントは、俺の側に座る、ティファを怖いと思った俺は、ヴィンセントが側に寄るのを怖がることはなかった、それどころか俺は、自分よりも背の高い彼にしがみ付きたいのを、必死に堪えているのだ。

「覚えていないんだな?」

「何を」

 俺の声は、上擦って震えて、軋んだ。

「……全てをだ。……お前が何故今この場所にいるかさえ、お前には見当もつかないのだな?」

「知るか、そんなこと、……ここは何処だ、俺は何してる、あんたは……、みんなは! ……セフィロスは、……メテオは……、神羅は……」

 言いながら、どこからだろう、俺は泣き出していて、本当に情けないと思いながら、全てを知らないという点では、俺は赤ん坊と同じだったろう。ヴィンセントは俺の頭に手を載せた、左手だった、その手にあの硬い爪は填められていなくて、呆気なく俺は安堵する。

「……思い出さなくともいい、今は」

 それは、最大限の俺への優しさと、俺は受け取る。

「……思い出せないのなら、それは思い出すなということだ」

 俺が途方も無い罪を犯したということを、ヴィンセントはその被害者の一人であるということを、そして、全てはもう終わってしまって取り返しはつかないということを、俺は忘れてしまったのだ。

 忘れて、そうして、ここに在る。

「思い出すなと……、思い出したらお前は、きっと簡単に壊れてしまうから、思い出してはいけないと、防衛本能が警鐘を鳴らしているのだ……、人間は忘れる力がある、……それに従え。落ち着いてから向き合え」

 ヴィンセントは俺の頭に置いた手を、ずっとそのままにしていた。

「お前が泣いたことは誰にも言わないから」

 ティファと俺を隔離してくれたことに、感謝した。


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