全てが止まろうとしていた。

「準備は、出来ているね?」

男は聞いた。少しして、ビビは首を振った。

「……みんな」

彼を囲むように座って、頭を垂れた光亡きかけらたちに問いかけた。その声は掠れていて、少し震

えていて、刻限が迫っていることを彼自身に報せていた。

ビビは、ひとつ深呼吸をして、言った。

「ごめんね……」

 

 

 

 

賢者は死の直前にジタンの手を握り、こう言った。

「………大丈夫だから」

その手にこもった力は、今際の際に立たされている者にしては、強すぎるようにも感じられた。確信と自信を湛えた微笑みで、真っ直ぐにジタンを見つめて、言った。

「……大丈夫」

僕は誰かのために、そして、自分のために生きたいと思った。 だけど、それが敵わないと解かれば、それも仕方がないと思った。 彼は僕に、「僕は終わらない」と言うことを教えてくれた。

ジタンがいる限り、僕は終わらない。

彼らの幸せもまた、終わりはしない。

「……288号は、何て言ってたの?」

こすると痛い瞼をしばたかせ、ビビはソファに沈んだジタンに問いかけしゃがみ込んだ。

ジタンは288号を看取ってから、ずっと黙りこくったままだった。しばらくは泣いたままのビビの頭を撫でながら、彼は沈黙したまま歩いていた。

「……ジタン」

ビビがジタンはしばらくじっと目を閉じていたままだった。

自分はもちろんカナシイし、寂しいし、怖い。けれど、ジタンもきっと、辛いのだろう、そんな風に優しく考えた。自分と同じで、体の中に穴が空いてしまったのだろう。

と、背中を向けかけたビビがビックリするほどの勢いで、ジタンは立ち上がった。

「ビビ……」

ポケットの中に突っ込まれたままのふたつの便箋を、慌しく抜き出して、ビビに持たせる。

「……手紙?」

「そう。アイツから…お前へ、って。昨日、アイツに会いに行った時……頼まれたんだ」

ジタンが無理矢理に突っ込んでしまったせいで端が折れているそれは確かに、どちらも「ビビ・オルニティア」宛であり、差出人は「288」となっている。細い筆跡は、間違いなく288号のものだった。

急かされるようにそれを開け始めたビビの手を、慌ててジタンが止めた。

「あのさ、アイツが言うにはこの手紙、こっちの、白い封筒は後で開けてくれって、書いてあるんだ」

「あとでって……、いつ?」

「さぁ。……こっちの黄色がかってる方は、すぐ開けていいって言ってた。こっちの中に書いてあるんじゃないかな」

すでにいないだれかからの手紙。

ビビは少し不思議に思いながらも、納得する。

ひとつ息を吐いて、二三度瞬きをする。また泣きだしてしまわないように、心の準備をする。

「……俺、席外すよ。288号に、一人で読ませるようにって、言われたから」

「そう……」

ジタンがいたら、やっぱり慰めを求めてすがり付いてしまうような気がした。288号はそこまで考えていたのかどうか。

 

 

手紙の内容。

 

親愛なるビビへ。

まず、一つお願いがあります。この手紙は、君の大切なひとには見せないように。

既に知っての通り、僕は全ての時間を使い果たしてしまったようだ。僕は止まる前に、君たちと出会えて、君たちの記憶の中に残ることができたことを、心から幸せに思う。

僕は、とても幸せだったよ。

だけど、僕は知っている。

君たちが、自分たちの幸せを決して永遠のものだとは思っていないということを。

君たちは今の幸せを、すぐ終わってしまうものとして、辛く思っているということを。

僕は君たちを幸せにしたいと思った。

これは、単に君たちのためだけじゃない。僕が、君たちの記憶に、もっと濃く残りたいと思ったからだ。僕は君たちのことが好きだから、好きな人の中で生き続けたいと願った。

僕は、君が止まってしまうのを停められないことを、残念ながら確信した。君は間違いなく、霧から作られたものではない、もともとは生身の人間だ。しかし、僕らと同じように、「刻限」が与えられていた。……ビビ、君にはもう、時間が無い。

君の時間は、恐らく、長く見積もっても二週間程度だろう。

けれど、僕は、君たちが幸せになる方法を、教えてあげられると思う。

辛いことを書かなければならない。君は、もしジタンと君の幸せを願うのであれば、その最期の時を、君一人で、君の記憶の始まりの場所で迎えなければならない。

その場所で、ひとりの男が君を待っている。

君は、その場所で眠りに。

君の命を、繋げるために。

 

 

 

 

二人分、それなりの出来の夕食を拵えた。

昨日も今日も明日も、恋人が大好きなものを選んで作る。いつも必ず、嬉しそうに微笑んでくれる顔が、堪らなく嬉しいから。 その笑顔が見たくて、日暮れの前には作り終えている。

 

 

 

 

「全く…、こんな狭くてムシ暑くて暗いところだったなんて。僕の肌が穢れてしまうじゃないか……」

彼は不機嫌そうに熱い泉の回りをゆっくりと歩いていた。疲れたようにふうっと溜め息を吐くと、戯れにしゃがみ込んでその泉に触れてみる。

「……丁度いい温度じゃないか」

どうせ暇だし。……温泉は肌にも良いって聞いたことがある。

約束を守ると、意外とイイコトがあるのかもしれないな。そう呟くと、彼は素早く着衣を取り、泉の中へ進んでいった。

「……、落ち着くな……」

長く細い足を存分に広げ、ゆるやかな傾斜の泉に身を横たわらせた。


top next