♯24アフター 『愁霖』 (8) 

  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *  もう、抑え切れず力を込めていく。指を立てて、背中をなぞる。張りつめた筋肉の手触 りにとまりの胸が熱くなる。男の厚い胸板で潰された乳房に、互いの鼓動が響いた。  とまりは首元の熱い吐息に、ふと安息を覚えた。  男の背中から手を流し、その頭を抱えた。 「大丈夫、かい……?」  こくり、とうなずく。性器あたりがじんじんと脈打ち、熱い。痺れ、というより麻痺し ているせいか破瓜の痛みは分からなくなっていた。  「最後まで、いくよ……?」  優しげな声と共に、再び粘膜に熱い肉を感じた。  男の手が膝の裏を掴み、とまりのしなやかな足を肩あたりまで引き上げる。尻がシーツ から浮かされ、性器に触れていた亀頭が、ゆるりと膣前庭を撫でる。破瓜したばかりの 傷が、じくりと痛んだ。再び訪れる痛みを思いながら、とまりは挿入を待っていた。  性器を撫でるようにペニスが動き、ぬるっと、とば口を潜った。 「……ん、あっ!?」  裂けた処女膜を抜けて、その先端部が膣内に入っている。痛みはなく、ただ熱かった。  ふたひらの秘唇を巻き込みながら、ペニスが膣奥へゆっくりと侵入してくる。腿の開き 加減と、尻の高さを微妙に動かしながら、男はじわじわと腰を送った。 「ふぁあ、ぁぁあ………!?」  長く太い肉茎が、とまりの胎内を占めていく。自分とは違う肉の温度が膣奥へと入り込 んでくる。胸が詰まるような昂ぶりを感じて、男の背肉に爪を立てた。 「んあっ…」  男の下腹が、とまりの股間に密着する。亀頭が最奥に到達したのを知り、とまりは全身 をぶるっと震わせた。陰嚢が、会陰部に触れるのを感じる。なおも男の腰がぐいっと奥を 探ると、子宮を押し込まれる感覚に襲われ、がくがくと痙攣を繰り返た。  角度のせいか、とまりは痛みをあまり感じていなかった。性器一杯のペニスの肉感に思 考を奪われる。胎内が圧迫にされ、揺さぶられるように中が疼いた。 「ああ…んぁあ……ああ……ん、あぁぁ………」  頭が白くなっていく。  小柄なとまりの身体は、男の下でふたつに折りたたまれている。苦しいとは思わなかっ た。むしろ、その重みと拘束に酔っていた。すらりと伸びた足が虚空を彷徨い、その爪先 を握り締めては宙を掻いた。  ゆるゆるとペニスは膣内を往復していく。引き抜かれる喪失感と、挿入される充足感が 交互にとまりの下腹の奥を焦がしていった。 「あぁ……、ああっ……、あぁ……ああっ……あぁ……ああっ……」  男の動きに合わせてとまりは小さく悶えた。  後ろから責められていた時と違い、男はゆっくりと動いていた。柔い動きがとまりの肉 を蕩かしているようだった。淡い心地良さに身体が包まれていく。  男は顔をとまりに合わせた。喘ぐとまりに唇を重ねる。とまりはそれを夢中で吸った。 差し出された舌を口内に引き入れ、自身の舌と絡ませる。湧き上がる唾液がぢゅるぢゅる と音を立てると、頭が奥まで痺れるようだった。男の舌が引き戻されるとそれを追って、 男の口内に舌を差し入れた。探り当て、吸い上げる。互いの唇をついばみ、歯列を舐めて いく。とまりは男の頬を両手で押さえて唇を貪った。 「くぅ、ぅぅ……んくぅ……」  全身で、男を感じていた。  密着した身体に圧し掛かる男の体重が胸を熱く満たし、抽迭の度に腰から背筋に震えが 走る。口唇は、息継ぎの間も惜しみ、相手を求めていた。  男の動きが徐々に早くなっていた。とまりの興奮した神経に疼痛が走る。  愛液が裂けた処女膜を濡らして、肉の摩擦から護っていたが限界だった。とまりは終わ りが近づいているのを悟った。 「んっ…!く、ぅぅっ……んくっ…!つぅぅ………」  男の身体にしがみつき、背に爪を立てる。自分の痛みが男に伝わればいいと思い、容赦 なく肉に爪を食い込ませてやった。  男は無言でとまりを責めている。破瓜の傷に障らないように、膣口を抉らない角度で抽 迭させていた。肉の抵抗はゆるやかだったが、ざわりと蠢く肉襞の感触がペニスに残り逆 に性感を高めてくれていた。時折、よじるように締め付けてくる膣にペニスを引き抜かれ そうな快感を感じ、背筋の体毛が逆立った。  もう、それもお終いになりそうだった。限界が近い。  無意識に快感を追ってペニスの抜き差しが早まっていく。背中に食い込んだ爪の痛みを 差し引いても、堪えようがなくなっていた。 「いく、よ……」  男の言葉をとまりは処理できなかった。 ――だされる、の……?  セックスが終わるのだ、との思いだけが浮んだ。  とまりは痛みに耐えながら、ぎゅっと男にしがみついてその時を待った。  抽迭が烈しくなって、ペニスが膣の最奥に挿し込まれた時、男は射精した。  びゅくっ、びゅくっっ……びゅくっ……… ペニスが膨れ上がるように痙攣する。 「あ、あ……あぁ………、あ………」  下腹の奥に、ぬるいものが広がっていく。膣内に射精されているのだった。  三度、四度とペニスがひくついて、精液をとまりの中に注ぎ込んでいく。それを感じ、 ぞくぞくとした充足感にとまりの身体は満たされていった。  とまりの意識の外で、膣がペニスをきゅうぅっと食い締めては、すべての昂ぶりを引き 出そうとしている。男の下腹が強く押し当てられて、股間が痺れて熱かった。  男もとまりも、互いの顔を頭を抱きしめて快感に酔う。  射精が終わってからも、共に性器の感触と余韻を味わっている。  とまりは膣内に収めたペニスと、疼痛と、それらの脈動を感じていた。その間で、胎内 に溢れた精液が滞っているのが分かる。ひくりとペニスが動くと、それに反応するように 自分の膣がひとりでに蠢いた。  自分のではないものが、今は穏やかに胎内に身を潜らせている。それが何故だか自分の 一部分の様にも感じられてくる。 ――ふしぎだな………  汗ばんだ男の肉体を感じながら、ぼんやりと思った。  目隠しした自分には、何も見ることができない。  でもここに、男がいて、自分がいる。  ここで、男の身体を感じて、自分の身体を感じていた。  何の憂いを感じていないとまりがいた。  何もかもを破り捨て、めちゃくちゃにしてしまった自分だった。なのに何の焦燥も後悔 も湧いてこない。セックス直後の高揚と倦怠がそうさせているのだろうかと思った。。 ――でも……  男が身をよじると、硬度を失ったペニスが性器から抜け落ちていった。  とまりの女の場所から、苦痛と陶酔をもたらした器官が喪失するのを感じた。  拘束を解かれた足をシーツに投げ出すと、ふっと、息が入る。  じくじくと痛む股間に神経が向く。そのそばに、猛々しさを無くしたペニスがあった。 とまりの内腿に身を寄せて休んでいるみたいだった。そっと手を伸ばして触ってみる。自 分を責め苛んだものとは思えないほど、柔らかで弱々しかった。精液と、おそらくは自身 の血でぬめったそれをやわやわと弄んでやると、男が小さくうめいた。  そこからはもう、女を支配する魔法は、消えていた。 ――なんだか、柔っこくて、頼りないかんじ……  男と身を重ね、鼓動を重ねていた。  初めての性を経験したのに、それを乱暴に棄ててしまったのに、その感慨はなかった。  男の肉体はとまりを身も心も翻弄したのに、もうそれも余韻の中にしか残っていない。  今は、股間を疼かせる痛みがその痕跡だった。 ――あ……  とろりと、性器から溢れるものを感じた。  ひどい生理の時、胎内から抜け落ちていくおりものの感覚に似ていた。 ――なかに、だされた、……の?  苦く、舌に絡んだ味。喉を焼くような残滓。  男の肉欲。女への執着。  ねばく、ぬるく、青い臭気。  じっとりと、性器を流れ出て行く粘液にとまりは知らず怖気立った。 「あ、か…ちゃん、できちゃう…の、かな………」  呆然と呟いた。こぼれた言葉が胸裏で反復される。 ――あかちゃん、できちゃうの……?  リアリティのない言葉がリフレインし、崩壊していく。 ――まって……、まって……、まって………、  空白の思考を埋める言葉が出てこなかった。  男と女の性が結ぶ、その必然に戸惑っている。 「……ん」  男がとまりの呟きを拾ったように反応した。  固まるとまりの両の頬に手を添えると、すっと滑らせて目隠しを取り払ってしまった。  目の前に男の顔があった。  いつのまにか部屋の明かりは落とされていた。片隅のテレビが、暗い部屋の輪郭を蒼く 照らしている。  薄く開いた眼差しに覗き込まれた気がした。  血が沸騰しそうになる。  胸を突き上げる鼓動は、男に届いているはずだった。 ――あたし…、このひとのあかちゃん、産んじゃう……の、かな………  自分の言葉に、嫌悪を感じなかった。ただ、底の無い不安だけがあった。 「中で………」  出したね、と続けようとした。非難するつもりではなかった。それを男は遮って言った。 「ああ、ごめんね…。でも赤ちゃんはできないから大丈夫だよ」 「………え?」  意味が分からなかった。  胎内には、男の精が残っていた。  とまりも、性交すれば必ず妊娠する訳ではない事は分かっていた。  ただ、こんなに男の性を感じてしまった後では、自身の女が不安だった。  体が、男の精を受け入れてしまうかも知れないと、どこかで思った。 「僕は子供をつくれないんだ」  男が言った。  「………えっ?」  未だ、意味が分からず、とまりは返す言葉を繰り返した。 「無精子症なんだ。……だから女の人は、僕の精液では妊娠しない」 ――むせいし、しょう…?  聞きなれない言葉に、当てる字が浮かばなかった。  男は、自分の言葉の意味を理解してないとまりの顔を、少し面白気に見ていた。ややあっ て、おもむろに続けた。 「いくら女の人が受け入れてくれても、ね。……生まれつき、精子をつくれない体だった んだ。だから僕は自分の遺伝子を残せない」  精子のない精液があって、女の胎内に子を生さしめないもの。自分の性器に注がれ、股 をつたい落ちる精液はからっぽなのだという。 「……子供を、産んでもらうことも……できない男」  ぽつりと、小さな声がとまりの耳に響いた。 「僕は人としては役立たずなのさ」  男の瞳を、とまりは見ていた。吸い寄せられるように見つめていた。 「好きな人に、もっと愛したいものを、あげられないから」  光の無い黒瞳だった。 「そんなだから、ひとりでいなきゃなんないのは、しょうがない……よね?」  その奥底にあった感情は、遠い過去に拭い去られてしまったように思えた。  闇のような黒に、とまりの顔が浮かんでいる。  白い翳は、光を呑みこんでいるように見えた。  こわい、と感じた。 ――何を………?  とまりは背筋に走る悪寒に、不安の根源を知った。  ふいに、はずむの後ろ姿が浮かび、逃水のように遠ざかって消えた。  それは、とまり自身が後ろへと、彼方へと引き戻されていく感覚だった。  男の瞳に映る自分は、泣いていた。  とまりは、嗚咽をこらえて言葉を搾り出した。 「自分がいなくなるのって、こわい……。でも………」  独り言なのかも、自分で分からない。 「自分を覚えてくれてる人がいなくなってくのは、ずっとこわい、よね………」  ただ、吐露している。 「あたし、ね……置いてかれるんだって、わかるのが……こわかったの……」   苦しかった。 「でも、あたしから、ひとりになるなんて……、やっぱり、やだぁ………」  目が熱くなっていく。じわりと滲んで、ほろりとこぼれ落ちるものを感じた。 「うん…、そうだね………。」  目の前の相貌が、蒼白い暗がりでそっと微笑んだ。それは、なんとなくゆがんで見えた。  頬をつたうものが、熱い。 「ひとりは……こわいよね………」  優しく、儚い声だった。  なんの力も無い、なのにあたたかい声だったのが、とまりにはひどく哀しかった。  蒼白い部屋にしばらく、くぐもった嗚咽が小さく響いていた。   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *  とまりが動かないので、男は先にシャワーを使っていた。  止め処ない嗚咽が治まった後も、とまりはシーツに包まって膝を抱えていた。手には汗 と、こぼした涙で湿った部ヘアバンド握っている。ただ、ぼんやりとサイドボードに置か れたデジタルカメラを見つめていた。  そこにはとまりの痴態が記録されている。自分で性器を晒し、ペニスを咥えて舌を這わ した姿も、後背位で処女を捧げている姿も写っている。訳が分からなくなっていた最後の 方も、きっと残されているだろう。男は、とまりの望むように、すべてを粛々と終わらせ てくれた。  股間がしくしくと痛むのを感じる。ベッドの敷布には、染みがぽつんと残されていた。 とまりの、純潔の印だった。何かへの、訣別の印のように思えた。 ――なんてことをしたんだろう  今なら、もう分かっている。  自分がはずむに何を求め、はずむから何を求められたかったかを。  こうならなければ、自分が何か決定的に壊れてしまったのかもしれないことも。  だから、巻き込んでしまった人への後悔があった。 ――セックスなんて、男とか女なんて……、なんでもないのに  知ってしまえば、そんなもので変わるものなど何もないと分かった。  性の衝動に溺れ、純潔を失っても、終わってしまえばとまりはとまりでしかなかった。  もしかすると、本当にすべてに絶望して煉獄へ堕ちるかも知れないが、それはとまりが ひとり残された後なのだろうと思う。  はずむの心を道連れにするには、残された時間は少なく、とまりの世界は小さかった。 今をおいて、心と身体の両方を棄てる機会は無かった。  それも、もう終わってしまった。  心も身体も、穢れたと感じない。 ――そりゃ、そうだね………  結局、自分が選んだ人に、初めてを捧げた。  この人ならと、そう思ったからここにとまりはいる。  彼のことを、誘われるまま、自分の処女をうまうまと奪った浅慮で厭らしい男とは思う ことが出来ない。今も、好意以上の感情しか湧かなかった。  雨の中で瞳を覗かれた時に、もう心が助けを求めていたのかも知れないと思う。 ――あたしって、甘えんぼで軽薄だ  未だ、喪ってしまうものの大きさだけが、心を変わらず占有している。  自分がいなくなることと、自分を思ってくれるひとがいなくなることは同じだと、気が 付いた。とまりは、はずむに必要とされていないと感じることで、自分が寄る辺を無くし、 消し去られていく不安を抱いてしまった。そうして、怯えて泣いていた。 ――でも………  射精された後、男の身体を感じ、溶け合うような安らぎに浸った。  身も心も重なったように感じた。セックスのもたらす錯覚なのだと今は思う。  でも、それが錯覚でなくなればいいのにと思った。  自分とはずむとが身体で結ばれることがなくなって、心でもすれ違って、そのままふた りとも消えてなくなるのは、嫌だと思った。 「そろそろ、服が戻ってくるよ。身支度しないと」   男が脱衣所から出てきて、とまりに声を掛ける。再び促されて、今度はとまりもシャワー を使おうと思った。痛む股間をかばうように腿を開き加減で歩くと、なんだか滑稽で気恥 ずかしい気分だった。  逃げ込むように浴室に入り、全開に開いたシャワーで汗を落とす。  股間から溢れつたう精液の残滓に、ゆるく絞った湯流をそっと当てる。  じくっと痛む。足元を流れる湯が、紅く染まった。  そおっと、股間をなぞるように洗う。ぬるついた精液はしつこく肌に絡んで落ちない。 指を性器に添わすと疼痛が走るので、怖々なぞっては洗い落としていく。 ――ぁ、つっ………   湯が、傷にしみる。滲みでる血がいつまでも内腿を濡らす。  シャワーの音がとまりを覆っている。数刻前までいた、雨を思い出す。 『とまりちゃんのことをよろしくね』 ――ばか  絶対忘れない。  はずむがどんなふうにとまりの事を思ってても、絶対忘れてやらない。  自分の墓石に刻んででも、薄情なはずむの事は、ずうっっと先まで語り草にしてやる。  長い髪を激しいシャワーになびかせながら、とまりはそう決めた。   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *  浴室にいた間に、脱衣所には下着や制服が戻されていた。  肌を拭き、髪を乾かせる。鏡は見ないようにした。ここへ来た時の自分がそこに残って いそうで嫌だった。洗いざらしの髪は備え付けのイオンドライヤーと櫛入れだけにした。 乾いた下着を身に着ける。パンティに足を通す時に痛みが走ったが、出血は止まっている ようだった。ブラウスに袖を通し、ジャンパースカートと上着を纏う。リボンは結わなかっ た。くしゅん、とくしゃみがでる。シャワーばかりで湯冷めしてるのかと思った。 「あの時は、あんなに熱いかったのにな……」  言ってしまってから、その独り言に後悔する。脱衣所から出にくくなるが、いつまでも 篭もっている訳にもいかない。  部屋では、男は先に身支度を終え、窓際で紫煙をくゆらせていた。 「ポニーも可愛いけど、髪を下ろすとすごく美人だね。口説きたくてしょうがないよ」  とまりを見て、そんな軽口を叩く。  時間が巻き戻ったみたいな軽妙な口調に、とまりはすこし呆れた。  気を遣っているのか、そういうタチなのか分からない。 「送ろう。雨も上がった」  男は先に立って部屋を出ていく。あわててとまりはわずかばかりの持ち物を確認して、 後に続いた。  自分の格好が鹿縞高校の制服そのままなのに気付き、人目が怖かったが、部屋から廊下 へ、エレベーター、エントランスホールと誰にも出会うことはなく、とまりは安堵した。  走り出して時が過ぎても、ふたりの間に言葉はなかった。  男は火をつけないまま、煙草を咥えている。  唇を動かしては煙草の先端を踊らせて、遊んでいるようだった。  そんな男の横顔を、とまりはずっと見ていた。  無言の車内には、変わり栄えのしないFM放送が流れている。  時計は22時を回っていた。夜の早いこの街では、車窓にはもう街灯と信号の光しか映っ ていない。時々、とまりは人通りもまばらな舗道をちらりと眺めた。車は市街に通り、鹿 縞本駅を過ぎていく。  男が車を止めたのは、ふたりが出会った車道脇だった。  秋を濡らした霖は、もう彼方に過ぎ去っていた。  雨上がりの道路は、もう水溜りもない。  湿ったアスファルトだけが、あの時の涙の跡に思えた。 「ここでお別れ」  男がとまりを向いていった。  黙って助手席のから降り立ったとまりに、男は車中から声を掛ける。 「これ、忘れ物」  閉じかけたドアの向こうから放られたものを、とまりは胸元で受け止めた。  デジタルカメラだった。 「え、でも……!?」  確かに忘れていた。でも中のメモリーだけでよかった。戸惑うとまりに男は首を振って 答えた。 「僕はいらなくなったから……、君もいらないと思ったら、棄てて」  男は助手席側に身を乗り出してドアハンドルに手を掛けた。 「さよなら」  はにかんだように微笑むと、男は内からドアが閉めた。すぐにウインカーが出され、車 は走り去っていく。暗い車道にテールランプの赤が滲んで消えていくまでとまりは立ち尽 くしていた。  車が見えなくなってから、別れの言葉もなかった自分に気付いた。  明かりに乏しい住宅街の道を、冷たい風が渡っていく。  背中を冷気でくすぐられ、小さくくしゃみが出る。手の中にあるカメラをポケットに入 れて、とまりは歩き出した。  ひょこひょこと家路を辿りながら、母親への言い訳をまとめておく。  振り仰いでも、愁霖の上がった夜空には、未だ星影は見えなかった。  ただ、薄墨のような雲が流れているだけだった。   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *  その夜、とまりは発熱した。  ひどく眠りに誘われ、昼夜なくまどろんでいた。  何の夢を見ていたのかは覚えていない。その夢にはずむがいたかどうかも、もう分から なかった。  気が付いたら寝込んで三日が経っていた。身体はふらついたが、明日からは登校できそ うだった。もう痛いところも無くなっていた。  ベッドの中から吊るした制服が目に入った。ポケットにカメラが入ったままだったのを 思い出した。  その発見から逃げるように布団を頭から被り直す。包まって少し悩んだが、結局起き出 してポケットからデジタルカメラを取り出す。  操作方法がよく分からないが、どのボタンを押しても何の反応もない。  電池式らしいので取り替えてみたが、やはり動く気配が無かった。  イラついて、ファインダーを覗いてみると、白く曇っていた。細かい水滴に覆われてい るのようだった。拭ってもどうにもならない。内部に入り込んだ水のようだった。 ――壊れてる……?  でも、あの時は確かに動いていた。何度もフォーカスとシャッターの音を聞いたし、フ ラッシュが焚かれたのだって目隠し越しにも分かった。  こちょこちょいじくって、中のメモリーを探す。 ――あ、あった……  携帯のメモリーカードと同じみたいだった。もしかすると携帯で見れるかもしれないと 思い、携帯を取り出す。帰ってから入念にドライヤーを当てたから生きてるはずだ。  やはり同じタイプのメモリーだった。自分のを抜き取って、カメラから取り出したもの を挿し込んだ。  胸がざわめく。何時しか鼓動は早鐘を打っている。  見るのが怖い。  永い眠りの間に、あの夜のことも夢だったような気持ちでいた。  何もかも、なかった事に出来そうに思っていた。  見てしまうと、すべてが現実になる。  何より、あの時の自分に返ってしまいそうな怯えがある。 ――でも……  もしかすると、男がカメラを替えていたのかも知れない。  だとすると、このメモリーには何も入っておらず、とまりの姿を収めたものは男が持ち 帰ったことになる。 ――ネットとかに流されたり、とか……  自分の考えに怖気が立つ。でも、そんな人ではないと信じたかった。  とまりは意を決してメモリー内を覗いてみると、凄い数のjpgが入っていた。その中の ひとつを再生する。ややあって、小さな画面一杯に写真データが映し出された。  全体が暗く、靄のかかったような映像だった。どの部分を見ても何が映っているのか分 からない。画面のそこかしこが半透明だったり歪んでいたりしていて、焦点自体もぼやけ ていた。被写体の色が白かオレンジか判別できない。 ――あれ………?  どのファイルを見ても同じ有様だった。  何かが写っている。だが、人か物かも分からない状態だった。  何枚かの写真が、奇跡のように画面の端に人肌のような部分やシーツを写し込んでいる だけだった。  すべてのファイルを隅々まで見終えて、とまりは大きく溜息をついた。ベッドの上に携 帯を放り出す。傍らのデジタルカメラを手にして見つめた。  多分、あの雨を被ったカメラは中にまで水が入り込んだのだろう。それでレンズやファ インダーに水滴や結露が出ているのだと思った。それでも健気に役目を果たそうと奮戦し たが、結局水分が回ってショートし壊れてしまった、ということなのだろうか。  思えば、途中からは写真を撮っている感じがなくなっていた。 ――お芝居だったのか……  目を瞑って、身を倒した。安物のベッドがぎしんと鳴った。  胸に置いたカメラに両手を合わせる。 ――ばかな子だと、思われたんだろうな……  目頭が熱くなる。  くやしくて、かなしくて、ほっとしてて、そしてさよならも言えなかった事を思った。  夢の中で出会った人のように、その面影も消えつつあった。  闇の中で聞いた息遣いと囁き、熱く大きな手、そして男の匂いと与えられた感触だけは まだ思い出せそうだった。  それを、とまりは意識の底に沈めた。  洟をすすり上げ、滲んできた涙を拭う。   明日、学校ではずむと会う。  会っても何も話せないかもしれない。  でもひとつだけ分かったことを伝えたかった。 「はずむを、ひとりになんてさせないから」  だから…、 ――どこにも、いかないで   ――  終 ――   

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