♯24アフター 『愁霖』 (2)  

 部屋の中は、室内灯でオレンジ色に染まっていた。  二人は戸口に立ち止まる。男はとまりの肩からゆっくり手を離した。ふと、とまりは男 の体温を感じた。今更なのだろうが、それでも自分の高鳴りが男に届いていたかも知れな いと思うと足が動いた。男の傍らから離れ、扉の中へと身体がゆっくり流れていく。  背後で閉じられたドアが、小さく音を立てた。  とまりは、初めて見る場所に目を泳がせていた。  キングサイズのダブルベッドと、擦りガラス貼りのバスルームが目に入ると、どきりと 心臓が跳ね上がる。自分の息が上がっていくのが分かった。  小振りなキャビネットとミニ冷蔵庫がベッドの脇に並んでいる。他に、部屋には二人掛 けのソファにローテーブル、大きなプラズマタイプのモニタの脇には通信カラオケのセッ トやゲーム機などが置かれていた。 ――男と女の、そのための場所  何となく想像の中にあった陰鬱なイメージは、その部屋にはなかった。間接照明に照ら され小洒落た装いに、とまりの中に生まれていた焦燥を薄らいでいった。  とまりに遅れて部屋の住人となった男は、黒くなっているスーツの上着を重そうに脱ぎ、 肩に担いだ。擦りガラスの扉を開け脱衣所から脱衣籠を持ち出すと、そこに上着を投げ捨 てる。とまりに背を向けると。忌々しげにネクタイを振り解き、ワイシャツと共に籠に放 りこんだ。  とまりは立ち尽くしたまま、それを見ていた。白いTシャツが張り付いた上半身は、筋 肉質と言うほどではなかったが、たるんだ感じはなくむしろ締まって見えた。  男が傍らで衣服を脱ぎ捨てていく光景に、とまりは特に感慨を抱かなかった。父親のと も、男子の陸上部員たちのそれとも違うそれだったが、不思議と違和感がなかった。声を 掛けられるまで、ぼんやりと男の背中を眺めてしまっていた。 「先に使うといい」  上半身を裸にした男は、バスタオルで身体の湿りを拭っていながら振り向く。バスルー ムを指差して繰り返した。とまりの視線は、男の指に連られるようにそちらへ向いた。 「先に使いな、って」  部屋とバスルームを隔てる壁はガラスだった。床から足首くらいまでは部屋内と同じ巾 木が貼ってあるが、そこから上は天井までガラスがはめ込まれている。脱衣所を区切って るガラスは総擦りのガラスなのに、浴室の方は高さ5,60センチ交互に擦りガラス部が横 ストライプのように入っているだけだった。バスルーム内の様子を外から見られぬための 障害にはなりそうに無い。透明なガラス部の位置を見た限りでは、むしろ腰や胸あたりは 部屋の者からは丸見えになるかも知れない。そう設計されているようだった。  とまりは自動人形のように、指差された先へふらりと足を向けた。  重いガラス戸を必要なだけ開けて身体を中にくぐり込ませる。淡い光が、最後に一人き りになれる空間を、包み込むように演出していた。ガラスの向こう側で男の動く影が見え る。インターホンか何かで、フロントを呼び出しルームサービスについて尋ねているのが 聞こえてくる。ランドリーサービスを頼んでいるようだった。男の静かな声を聞きながら、 とまりは、自分がもう決めていることを、もう一度だけ確認する。思いを、飲み込んだ。  そして、刹那のあと、制服の黄色いリボンを外した。  脱衣所にはもう一つの籠があった。そこに服を脱げばよかった。  よれよれのリボンを籠に落とす。ついでにブラウスのボタンを3つ4つ外した。肌に張 り付いたポリエステルの生地が、急に不快でたまらなくなった。  スカートのポケットから濡れた財布やハンカチ、ヘアバンドを取り出して小物棚に置く。 携帯が水浸しなのに気付き、ハッするが、電源を切ったままだったので大丈夫かも知れな いと思い直す。ドライヤーで乾かした後、電源を入れれば生き返るかもしれない。  背中のファスナーは、水を吸って膨らんだ布を噛んで引っかかり少し焦れたが、無理矢 理引き下ろした。両肩を抜くと、ジャンパースカートはベシャリと床にずり落ちていった。 随分と身体が軽くなる。跨いで足を退けると、脱水前の洗濯物のようなそれも籠に入れた。  水を含んだ制服の重さに少しだけ心が翳る。  ふと鏡に自分の姿を見た。濡れたなりの長い髪は、だらしなく垂れ下がり、ブラウスは べっとりと肌に張り付き、下着を透けさせている。その姿が惨めに見えた。  目に、じわりと熱いものが浮かんでくるのが分かる。しばらく忘れ去っていた感覚に驚 き、慌ててごしごしと手で擦りつける。  鏡を見ないでいると直に消えていき、とまりは何故だか安堵した。  苦労してブラウスを脱ぎ捨てると、晴れ晴れとした開放感を味わえた。ブラジャーを外 そうと両手を背中のホックに回したところで、自分が服を脱いでいく姿が擦りガラス越し に映っているであろうことに気付いた。ゆっくりとブラジャーを外してポトリとそれを籠 に落とし込む。  映し出される影を、ガラスの向こうで男は眺めているのだろうかと、とまりは思った。 急激に胸が高まり、顔が紅潮していくのを感じたが、少し前屈みになって、パンティに指 を掛けた。柔い生地はいつものように滑らかには脱げず、くるくるに生地を巻き込んで紐 のようになってしまう。それに濡れた太腿を潜らせるようにずり下ろしていく。膝下を過 ごした辺りでゆっくりと右足を、ついで左足を抜き取った。くしゃくしゃになって手に残っ た下着をとまりは少しだけ見やり、籠に捨てた。そして一度だけ、男の居るだろう方へ向 けて、擦りガラス越しに視線を送り、浴室への扉を開けた。  広い洗い場と大きいが深さのない洋風のバスタブが目に入る。想像通り、壁は遮蔽の用 途を果たしていなかった。ベッドの全景が見える。ただ、男の姿は視界にはなかった。知 らずに高まっていた緊張が、少しだけ抜ける。 ――あたし、ほっとしてるんだ。見られていいつもりでいたくせに  小さく頭を振って、考えを沈め、タイルの上に足を踏む出す。ひんやりしたタイルの温 度が沁みる。背筋に震えが甦り、何より早く温まりたいと、とまりは思った。  とりあえずはシャワーだけよかったが、後に入るだろう男の事を考え、とまりはバスタ ブに湯を張ることにした。サーモ式らしい混合水栓をひねると、適温に合わさった湯が凄 い勢いで吐き出されてくる。 「すご…」  家庭用のものとは、給湯能力が桁違いらしい。これなら身体を洗う内に湯が貯まってし まいそうだった。こうしたホテルの風呂に、色々と便利な配慮がなされている事に、とま りは一瞬状況を忘れて感心の声を漏らした。   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *    たっぷりと降り注がれるシャワーの湯は、冷え切った肌に心地いい。身体に染み通って いく温くもりに、とまりは陶然となった。  ごうごうとバスタブに注ぎ込まれる湯とシャワーの音に閉ざされた空間で、とまりは解 放されていた。何故だか何の憂いもなかった。これまでの事も、これからの事も、何もか もどうでもよかった。目を閉じても、辛い事は浮かんでこなかった。 わざとはずむの事を思い出そうとしても、どうしてだか瞼にははずむの顔すら像を結ばず 散っていく。  ふいにドンドン叩く音が耳に聞こえ、はっとしてそちらを振り返る。咄嗟に胸を両腕で 庇う。腰が逃げかかる。脱衣所を隔てるガラス戸に人影があった。 「っ、何!?」  自分の鋭い声にとまりは驚いたが、男も虚を突かれた様子だった。 「あ、あぁ。驚かしてすまない。ルームサービスで服のランドリーを頼んでたんだが、も う受け取りに来たんだよ。悪いと思ったが、君の服を預かるよって声を掛けようとしたん だ。……いいね?」  男はそう言うと、ガラス戸越しに、とまりが脱ぎ捨てた衣服の入っている籠を掲げた。  とまりは待ってと言葉に出しかけたが、一瞬の躊躇の後、お願いしますと、小さく答え た。  どうせあのままの服に袖を通せる訳がなかった。一番上に脱ぎ捨ててあるブラジャー や丸まったままのパンティを見られてしまった事が恥ずかしかったが、もう仕方ない。  擦りガラス越しに手を振って了承を示すと、男は何事もなく脱衣所から出て行った。  のぼせたように、とまりのは頬が熱かった。擦りガラス越しとはいえ、自分の裸身を、 男に見られた。少なくとも身体のラインは知られてしまったろう。備え付けのボディシャ ンプーの泡を肌に伸ばしながら、とまりは起伏に乏しいように見える自分の身体を疎まし く思った。  太いふくらはぎだけはしょうがないと諦めている。が、いつまで経っても変わらない、 薄い胸と小さなお尻と低い背丈は、とまりの自信をいつも損なってくれる。  ふくよかでいて、すらりとしたやす菜の女の子らしい身体を思い浮かべ、とまりは頭を 振った。両手で乳房をすくい上げてみる。わずかな抵抗の後、あっという間にツルリと手 のひらから逃げ去っていく。お尻の肉にも手を這わしてみる。薄い肌ごしに、張りつめた ような肉質を感じる。お尻からふとももの方にまで、両手で撫で下ろすと、ぷりんとした 手触りが残った。  洗い場の鏡に背を向け顧みてみる。鏡に自分のお尻が見える。締まっていて形は悪くな いと思うが、弟の尻と大差ないようにも思えた。少なくとも、グラビアを飾る水着姿の女 の子達のヒップとは別のもののように感じる。 ――多分、あたしの身体は男にとって魅力はないんだろうな  そんな風に思う。  はずむも、とまりを女の子として見てはいなかった。自分とは正反対に思えるやす菜に、 はずむは惹かれていったように感じる。やす菜は顔も身体つきも柔っこく、言葉遣いも立 ち振舞いも自分が思うところの、女そのままだった。 ――あたしは、無理だったんだ  そもそもから、自分は失格していたんだと、とまりは思った。唇を噛んだが、別に涙が 出てくる気配はなかった。  湯に当たりながら、髪止めを外し、結ったお下げを解く。シャワーの温度を下げた湯に 髪を当てる。長い髪が奔流に泳ぐのを、手櫛でゆっくりそれをほどいてやる。密かに自慢 の髪だった。競技に障る前にと思い、何度か切りかけたが、今に至るまで出来ないでいる。 ――とまりちゃんの髪、綺麗だね  中学に入って伸ばしかけていた髪を、誰よりも先にはずむが褒めてくれた。その事が嬉 しくて、それ以来髪を切らないでいた。化粧っ気は同級生らの誰よりも無いのを自覚して いたが、髪の手入れには小遣いを割いている。  髪を手に取り、その毛先を眺める。まだ、はずむが褒めてくれた時ものがそこにあった。  あの時のはずむは、着慣れない学生服に照れていた男の子だった。  そのはずむは、もうどこにもいない。夢のように、あっさりと消え去った。  思い出を残された自分だけがいるばかりだった。  滲みかけた想いを、とまりは頭を振って消し払う。  洗い終わった髪をまとめ上げると、少しだけ湯船に浸かろうと思い、とまりはバスタブ を跨ぎ、ゆっくりと身を沈めた。  身体を伸ばせる風呂は気持ちがよかった。目を瞑ってると眠り込みそうな怖さがあった から、100数えて上がった。もったいないような気もしたが、湯を抜いて張り直してお こうと思い、バスタブの排水栓を抜いた。  身体を拭き、大きなバスタオルを身体に巻いて脱衣所の化粧台の前に立つ。頬に血色が 戻り、湯気をまとっ顔は先ほどまでとは随分と違って見える。それでも、変わらず昏い目 をした自分がいて、それが顔、表情全体に翳を落としたままにしていた。 ――鏡に映った女は、誰なんだろう   乖離感に囚われている。  雨の中を拾われ、流されるままに車に乗った。そして自分の意志でここにいる。  見知らぬ男と一つの部屋にいる。自分は湯を浴び、裸で鏡の前に立っている。  男と女が、つながる場所で。  男が女の、女が男の、からだを求める場所で。  ここで、自分が何をしようとしているのか、男が何を期待しているのか、とまりには判 かっていた。それを意識すると、心拍数が跳ね上がっていくのが感じられる。  経験は無かったが、セックスの知識は年相応にある。男達が、女に向ける興味の大半が セックスに繋がっている事もなんとなく分かっている。  だから明日太がはずむに向ける視線が気になり、以前より明日太と上手く付き合えなく なっていた。 ――そんなにいいのか、女が  それと知っていても、とまりには理解出来なかった。その、衝動が分からなかった。  中学生になり、とまりがはずむと手を繋がなくなって久しくして、はずむには男の友達 が出来ていた。曽呂明日太だった。どこでウマが合うのか、時折いらっとくる事もある程、 はずむと明日太は一緒にいた。二人は本当に親友だったのだと、とまりも思う。そんな風 に一緒にいられる明日太を、うらやましく思う気持ちがあった。  はずむが女になり、それが変わった。明日太の挙動に男を感じ、それに汚らわしさを禁 じえなかった。  男が女に向けるいやらしい衝動が忌しく、とまりははずむがそういったものから永遠に 遠ざかった事に、心の中で安堵さえしていたのかもしれない。  事実を、事実として知らされたあの日から、そんな明日太への言い知れぬ嫌悪も、急速 に薄れた。  はずむの傍らに立ち、戸を開け、物を持ち、して欲しいことを尋ねる。母の身を気遣う、 幼い少年のような明日太がいた。はずむがいなくなることを、ただ子供のように恐れてい る明日太の姿があった。  とまりは、はずむに何もしなかった。家に帰っても枕を抱いているだけだった。  吹っ切ったように、やす菜ははずむと歩を合わせ始めている。あゆきは、あの涙を後、 おだやかに自分を取り戻した。二人とも、何事も知らなかったような日々に帰ろうとし、 それははずむとの時間の中に何らかの意味を見出そうとしているように、とまりには見え た。  焦燥するばかりで、自分の感情も思いも整理出来ずに暗闇に逃げ込んでいる自分だけが、 一人残った。早くはずむの傍に戻りたかったのに、自分がそれを拒否し続けた。  幾つかの夜を眠れぬまま過ごし、逃げ疲れた自分を何とか押えつけた朝、再び誓った。 ――はずむは、あたしが守るんだ  結局、とまりには出来なかった。  自分に宛てた、空元気にもならなかった。 ――大会の頃、はずむは、……もう、いないんだ  その頃、自分も何処にもいないだろうと感じる。いや、そのずっと前に自分は壊れてし まうだろうと、とまりは思う。  思い出の中の少年は自分だけの幻だったかのようにいなくなった。そして今を紡いでい る想いすら夢散しようとしている。  驟雨の中で、自分にも届かない慟哭の中で、分かったことがあった。  はずむのいなくなる世界に、もういたくなかった。二度もはずむを失った後で、何かを 自分を言い聞かせて過ごしていくなんて、耐えられない。  そんな思いをするくらいなら、自分がいなくなりたいと思った。  はずむや、あゆきや、明日太や、…やす菜とも、出会うことのない世界に身を置きたい と願っている自分に気付いた。  鏡の中の女は、どこも見ていない瞳にとまりを映していた。  もう、合わせ鏡の向こうの誰かと、交代しなければならないのかも知れないと、茫漠と 感じた。  女は空虚な目で、とまりに問い掛ける。 『雨の中で見知らぬ男からの誘われ、車に乗ったのね』 ――そう 『降りようと思えば降りられた。なのに、ついて行ったのね』 ――そう 『ここがどこだか分かってる?』 ――ラブ、ホテル…と思う 『何をするところ?』 ――セックス…… 『誰と、いるの?』 ――知らない、男の人 『その人と、セックス、するんだ?』 ――そう、多分する…はず 『そう……』  彼女は起伏の無い言葉で、平坦に会話を閉じた。   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *    男は、浴室のとまりを覗く事は無かったようだった。その気なら、とまりの尻も乳房も 興味のまま鑑賞できるはずだった。とまりも見られてもいいつもりでいた。男が脱衣所に 現れた時は胸がつぶれそうになったが、浴室に入って来られたとしてもとまりは受け入れ ようと決めていた。  男の、求めるまま、応じようと思ってついてきた。  見知らぬ男に抱かれ、女になる。それは今までとまりにとって思いだにしない行為。今 に続き、先へ繋がっていく世界から脱け落ちていく。恋しい人と肌を合わせる事なく、自 分の女だけが、男達の間を彷徨っていく世界。他人事の、遠い世界であった。  そこの住人でいたなら、自分ははずむとも、あゆきとも、明日太とも、そしてやす菜と も交流することはないだろう。自分からも彼らからも、互いからいなくなる。  心も身体も、深淵に沈めてしまえばいい。そうすればはずむを想い、悩むことも、その 立場も、資格も、何もかも無くしてしまえる。 ――あたしには、何も出来ない。何もしてあげられない  鏡の中の自分に、とまりは言う。 ――あたしは、はずむの、心残りの一つでしかない  怖くて言葉に出来なかった思いが溢れる。 ――見守る事もできないあたしなら、はずむの中からあたしがいなくなったらいいんだ  とまりに一瞥し、歩み去るはずむのイメージがこぼれていく。 ――あたしがいなくても、みんながはずむを最後まで見守ってくれる  にこやかな笑みで包まれる、満ち足りることの無い空間がだった。 ――あたしはもう、ダメだ…  一緒にはいられない。きっと自分が何かを壊し、全てを加速させてしまう。 ――なら、あたしが…いなくなろう  はずむがいなくなる前に、自分が先にいなくなればいい。はずむの事で、もう悲しむ事 も悩む事もなくなる。それに…もしかしたらはずむは、とまりへの心を残したまま逝って くれるかも知れない。 ――消えてしまった、来栖とまりだったあたしの事を、嘆いて、哀しんで、きっと最後に 顔を思い浮かべてくれる  闇色に染まった心は、とりとめもなく昏い情動をふつりふつりと沸き立たせていく。  誰とも知れぬ男に、処女を捧げること。  それは最後の最後に、はずむの心を独り占めするための儀式。  はずむの知る来栖とまりから遠ざかっていく、その端緒。 ――どこかの男達に、あたしが女にされてしまったのを知れば、はずむは悲しむだろうか。  それとも……悔しがったりも、するんだろうか  はずむが、とまりを女にすることはもう在りえない。  とまりが、どこかしらで抱いていた初めてへの期待も、叶うことはなくなってしまった。 それなのに、心の奥底に、はずむと過ごす初めての時間への想いだけが、澱のように残っ ている。 ――それも、もうここで流してしまおう  とまりは、鏡に映る顔に別れを告げる。醒め切れないまどろみも、もう終えようと思っ た。    踵を返して鏡から離れるともう一度浴室に入り、空になっていたバスタブに新しい湯を 注いだ。よく見ると湯量タイマーらしきパネルがあったのでスイッチを入れておく。  化粧台の前で、あるものを使って髪を手入れしている間に、ちゃんとタイマーが仕事を 果たしたらしく、湯は張り終わっっていた。随分と長湯して男を待たせている。早く場所 を開けてやらねばならない。纏っていたバスタオルを取り、着替えようとして下着も制服 もないことを思い出した。 ――どうしよ……。バスタオル一枚でいなきゃなんないなんて……  きょろきょろと脱衣所内に助けを求めると、厚手のタオル地のバスローブが目に入った。 素裸の上に、その袖を通してみる。小柄なとまりには少し大き目だったが、余分に前を隠 せるのが逆に有難いかもしれない。ブラジャーもパンティも着けずにいるのは頼りなかっ た。バスローブの内紐をしっかり結わえ、前が肌蹴ること無いよう腰紐もきつく結んだ。  洗いざらしの髪は軽くポニーにまとめ、ポケットから出してあった小物を備え付けのエ チケット袋に入れ、手に持った。そしてもう一度、身支度を確認してから、とまりは脱衣 所を出た。  男はソファーに腰掛け、ビールを飲みながらテレビに映る何かの洋画を見ていた。上半 身は肌を晒しているが、肩からバスタオルを羽織っている。下は、これもバスタオルを巻 いたなりだった。すねが覗いていて、思わずとまりは視線を反らした。 「あ…あの、お風呂、先にいただきました。…遅くなって、ごめんなさい」  とまりは俯いたまま男に声を掛けた。こんな格好を他人に見られるのも、他人のあんな 姿を見るのも初めてである。とまりは沸きかえる羞恥に耳まで赤く染まるのを知った。 「ああ、僕もこんな格好で失礼してるよ。頼みこんだんだが、さすがに服が戻るまで2, 3時間は掛かるみたいだ。ゆっくりと待つしかないな。君はどこかに連絡しないでよかっ たの?」 「携帯、今無いんで…」 「掛けるんならこれ、使いな。俺が風呂に入ってる間に掛けたらいい。発信履歴の消し方 は、大体分かるよね。ぶっ壊さない程度に好きにいじってくれ」  ローテーブルに置いた携帯電話を示すと、男は立ち上がり少し身を竦めがちなとまりの 脇を通り過ぎて、浴室に向かった。脱衣所に入りかけて立ち止まり、振り返って言う。 「冷蔵庫の飲み物やなんか、好きに飲んでて。喉とか、渇いてるだろ」  もう、これ以上彼に掛ける迷惑もあったもんじゃないだろう。普段なら恐縮して固辞し てしまうだろう事も、素直に甘えようと思った。男の言葉は、するりととまりの胸に入り 込んでいた。 「……はい、ありがとう」  ん、と男は返事すると脱衣所に入りかけて思い出したように言葉を加えた。 「そうそう、君さ…」 「はい?」  あたしが何だろうか、いぶかしげにとまりは男を顧みる。 「髪、綺麗だね。ポニーテールがかわいいよ」  男は目尻をさげて、ふにっと相貌を崩した。そして今度こそガラス戸の向こうに消える。  とまりは一瞬何を言われたのか認識できなかったが、男の笑顔に当てられたように胸が 急に鼓動のペースを変えたのが分かった。そして、じわりと言われた言葉を思い起こして、 顔が熱くなるのを自覚した。 ――なに赤くなってんだ?あたし……  頭を振って、おかしな感情を払いのけ、ミニ冷蔵庫を覗いてる。喉が渇いていた。幾つ かのウーロン茶やコーラの缶、缶ビールなどが入っている。何を飲もうかと少し思案しつ つ、とまりは缶ビールを手にした。アルコール自体を飲んだことがない。自分に飲めるの だろうかと、ふと考えた。  缶はよく冷えていて、持つ手が凍える。すこしドキドキしながらプルタブを引く。ブシッ という音に遅れ、細かい泡が缶口から湧き出してくるのを眺める。んっ、と心を決めて目 をつむり、口をつけ一息に呷る。口内に流し込んだものをゴクリと飲み干す。冷たさと、 想像以上に炭酸ガスの刺激が強かった。それらが喉を灼き、滑り落ちていく。すこしだけ、 舌の奥に苦味が残る。胃が熱くなる感じがした。きついが、悪くない刺激だと、とまりは 思った。もう一口、二口と喉に通してみる。 ――冷たいのに、喉やお腹の中が焼けるみたい  ふうっ、と息をつく。味はともかく、父親が美味そうに飲んでるのが理解出来そうだっ た。一気に、缶の半分以上を飲んでしまったとまりは、じわりと血の温度が変わるのを感 じ、慌ててそれをローテーブルに置いた。男が置いていった携帯が目に入る。 ――家に電話しといた方が、いいかな……  一瞬だけの躊躇の後、テーブルの携帯を手にとり、自宅のナンバーを押した。数コール 後に母親が出る。雨にやられた事、先輩の家に避難していてついでに、明日までにしなきゃ ならない、大会の日程変更に合わせたスケジュール変更を考えてる事、もし帰るのが遅く なりそうだったら先輩の部屋に泊まらせてもらう事にしている、などと伝えた。自分でも 驚くほどすらすらと、もっともらしい嘘が流れ出ている。母親は何の疑いも持たない様子 で、帰れないなら又家へ連絡する事と、先方へ失礼のない事を案じて電話を切った。娘が 何をしようとしているか、何の疑問も持っていない母だった。  ちょこちょこといじって発信履歴を消し、テーブルに男の携帯を戻す。なるべく母の事 を思わないようにして、ベッドの端に腰掛けた。ふらりと、身体が浮かんだような感覚が ある。アルコールが回り出しているようだった。とまりは浴室の方へ目を向けた。

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