唇で想うこと

「ごめんなさい。お友達とハンバーガー食べてきちゃったから、夕飯はいらない」  そんな嘘をつき、小鈴は自室へと戻った。まずはベッドに腰掛け、薬用リップを丁寧に塗りつける。  本当だ、少し荒れてる。憧れの人にみっともないところを見せてしまった。頬が赤らむ。 「ファーストキス、か」  そんな独り言に恥ずかしくなり、耳の先まで赤くなる。  違う、違う、唇にふれたのは先輩の舌先。刹那の出来事で。だからあれは違う。  でも、あれがキスじゃなかったら、本当のキスをしたら、わたしはどうなってしまうのだろう。  そこまで考えて小鈴は慌てて首を振る。さながら雨に濡れた子犬のように。この場合、振り払い たいのは雨粒ではなく、邪念であったが。 「小鈴ぅ、お風呂沸いたわよぉ」 「うん、入る」  階下からの母の声に助けられた様に小鈴は感じた。変な考えはお湯に流してしまおう。 ―――ここにさっき先輩がふれてたんだ。  湯船の中、どうしても思い出してしまう。何故か切なさの感じられた囁きの後、一瞬だけふれあった。  そのまま目を閉じてしまったら、どうなっていたのだろう。  まひる先輩の唇を自分の唇で感じることが出来たのだろうか、一寸触れただけの舌はわたしの口の中 で、お互いの舌を絡めあう事になったのだろうか。  やめておけばいいのに、つい又蒸し返してしまう…むしろ悪化。おかげで小鈴は。 「あら、お風呂熱かった?そんなに真っ赤になって」  と、母に尋ねられる羽目になった。 「まひる先輩、あれも特訓だって言うんですか?」  枕元にある男の子の人形を手にとり、先輩のつもりで話し掛ける。 人形の無防備で平和そうな笑顔 は、いつも、まひる先輩の事を小鈴に思い出させる。 『そうだよ』先輩ならあっさり答えるかもしれない、それから、『大丈夫だったみたいだから、今度は 本当のキスをしようか』ぐらいは言うかも…。  ぎゅっと人形を抱きしめながら小鈴は呟く。 「そんな事言ったって駄目なんですからね」  キスなんてしてしまったら、きっと先輩は自分にとって男の人になってしまう。小鈴は又呟く。 「だってわたし美奈萌先輩に嫉妬したくないし、それに…」  まひる先輩に、もっと側にいてほしくなってしまうから、その先を求めてしまうから。  ブン、ブン。俯いて首を横に振る。 「ううん、きっといつもの冗談なんだから」  小鈴は呟く。  冗談には冗談で返さなきゃ―――そうだ、今度のデートの時、まひる先輩のほっぺについたクリーム をなめてとってあげよう、きっと先輩目を丸くするはず。そう、こんな風に。小鈴は人形にそのまねを してみせて、くすっと笑う。それから。 「ふぁー」  あくびを一つ。先輩のせいで眠れない夜になるかと思ったのに、先輩のことを思い、眠くなるなんて 不思議と小鈴は思う。  それがあんまりにもふんわりとした幸せだったから。  自分の身体の中に灯ってしまった小さな火に小鈴はまだ気づけないでいた。

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