全部覚えてる〜忘れたくないU〜(1)  

 いつも見つめていた、彼女を。  屋上の植物達と共にフルートの音色に酔いしれていた。  時には向日葵が太陽の日を全身に浴びる様に、彼女の音楽にうたれ、月の光の元に咲く 待宵草の様に優しい調べに包まれていた。     そんな彼女の事を――。  あの日の僕は自分の中に残っていた男の部分で彼女を抱いた。欲望に従って。  じゃあ、今の僕は?  これからの僕は彼女の事を綺麗な気持ちのまま愛せるのだろうか。  それが怖くて――。  あの日以来、僕はやす菜ちゃんにキスどころか指すら触れていない。ろくに話すら。    夏休みだったからやす菜ちゃんや――皆とも会わないようにしようと思ったら出来なく もなかった。携帯も電源は入れてるけど、殆ど誰からの電話も出られないでいた。  ベッドに寝転がる。見慣れた天井。やす菜ちゃんもきっと見たであろう景色。  彼女はどんな事を思っていたんだろう。  階下からお母さんの声が聞こえる。 「はずむ。とまりちゃんから電話やで」  僕は寝転んだまま返事する。 「いないって言っといて」 「……あんた、とまりちゃんと喧嘩でもしたん?」 「違う……でも、今は話をしたくないんだ…あとでちゃんと電話するからさ、お願い」  不意にメールの着信音が鳴る。枕元の携帯をとる。  やす菜ちゃんからだ…件名、大事な話があります。 『大事な話があります。直接はずむ君に伝えたいので会ってください』  大事な話――別れ話。そんな単語が頭をよぎる。    僕はのろのろと起き上がり、制服に着替える。  とまりちゃんの事だ。僕の居留守なんか見抜いて今度は家に直接来るだろう。  その前に学校に行こう。  お母さんに何も告げずにそっと家を出る。  いつもより遠回りで学校に向かう、とまりちゃんに会わないように。 「はずむ、家にいたのかよ」  背後から声をかけられる。驚いて振り返ると、そこには明日太がいた。僕は何も言わずに 逃げる。  でも、元々脚の早い明日太に女の僕が逃げ切れるわけもなくて。結局、公園を抜けて行こ うとしたところを捕まる。 「はずむ、何逃げてんだよ」 「痛いよ明日太、手を離してよ」  僕に言われて慌ててに明日太は手を離した。  なりゆきで僕達は二人並んでベンチに腰掛ける。 「急に家に来るなんて珍しいね」 「だってよ、はずむ、全然電話にでねーし、お前んちの電話の番号知らねーし」  そっか、その分とまりちゃんより早く明日太が来たのか。  ぼんやり考える僕に明日太が言う。 「はずむ。聞いたか、神泉の事」  ドキン。自分の胸の鼓動が一つ大きく聞こえたような気がした。 「やす菜ちゃんの事?」 「あぁ。ニューヨークの音楽学院に留学するって話」  言葉の意味がわかっているのに。嘘だなんて思っていないのに。僕は明日太に問い返す。 「それ…本当の事?」 「あぁ、吹奏のダチが教えてくれた、部の練習の時に顧問が説明して、神泉がみんなの前 で挨拶したって」  とまりちゃんの電話もやす菜ちゃんのメールも、この話だったのかな。 「神泉と話とかしたのかよ」 「何で?」  僕は笑顔で問い返す。自然な笑顔に見えるように苦労して。明日太には不自然に見え たって構わなかった。  明日太は僕の様子なんか気にも止めずに言葉を続ける。 「神泉と付き合ってるんだろ。このままさよならって訳にはいかないだろ?」 「関係ないでしょ」  素っ気無く返す。明日太が食い下がる。 「そんな訳無いだろ…黙ってられるかよ」 「あれ。明日太ってやす菜ちゃんの事が好きだったんだっけ」  明日太がぐっと歯を食いしばり、眉をしかめ、本気で怒った時の表情を見せる。  「違う!俺は大佛はずむが俺の親友だから、お前が何か悩んでるみたいだから……」  僕の頭に瞬時に血が上る。この場で躊躇い無く『親友』と言える明日太に腹が立つ。  勢いよく立ち上がり、明日太を睨むように見下ろす。  「明日太に何がわかるんだよっ!」  当り前のように男のままでいられる明日太に。 「明日太なんか……」  悔しくて、嫉妬して。僕は無意識に両の手をぐっと握り拳にする。  目をぎゅっとつぶって僕は強い口調で言う。  「明日太なんか、まだ、セ……スした事も無いくせに!」  口を開けたまま、一瞬、明日太が固まる。 「な、お前、今、何て…言った?」  僕は答えずにそのまま走る。 「わ……悪かったなぁっ!まだ童貞でよぉっ!!」  明日太の大声を背に受けながら。

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