「よかったね百合ちゃん。お目当ての本が見つかって」
「はい。でも夢中になって読んでたら、なんだかお腹すいちゃいました」
「私も。ちょっと頑張りすぎちゃったかな?もうお昼時だもんね」
百合と夕奈は図書室を出ると、誰もいない無人の廊下を歩いていた。耳をよく澄ませると二人の足音が聞えるくらい静かだ。
「そう言えば今日って、確か草吹先生の当直の日じゃなかったっけ?」
「あれ?今日、でしたっけ?」
「うん、間違いないよ。ちょっと物研に寄っていこっか?」
「ご迷惑じゃないでしょうか?」
「きっと大丈夫だよ。草吹先生も忙しい人じゃないし」
「そう言われればそうですよね……草吹先生って、いつもタバコ吸ったりネットに接続したりしてますものね」
「ひょっとしたら、草吹コーヒーご馳走になれるかもよ?」
「そうですね。行ってみましょうか」
「うん」
二人は一路、物理研究室の方角に方向転換した。
妹尾高校の名物教師、草吹奏は日曜と言えども学校に来ているのは、決して珍しいことではない。理由はなんでも自宅にいるよりも快適だからだそうで、物理研究室は最早彼女の私室と化していた。
校内では禁煙であるにもかかわらず、シャーレを灰皿代わりに使って喫煙を敢行したり、備え付けのガス台を使って料理を作ったり、学校の備品であるパソコンを使ってインターネットに接続し怪しげな情報をダウンロードしたりと、まさにやりたい放題のことをやっていた。
中でも『草吹コーヒー』と呼ばれる幻のコーヒーは生徒達から人気が高く、彼らの間では伝説となっていた。
『草吹コーヒー』というのは草吹奏オリジナルのコーヒーで、コーヒーメーカーをつかう代わり三脚の上に網を引いて三角フラスコを置き、アルコールランプで熱するという、とんでもないシロモノだ。その精製されたコーヒーを口にしたものは未だ皆無で、いくら頼みこんでも決して口にさせてもらえない物であった。
「そろそろ物研ね……あれ?」
夕奈はふと足を止めた。
「どうしたんですか?」
「あ、あれ……」
夕奈がそう言いながら指差す方角を、百合もみる。
そこには彼女達が目指していた物理研究室があった。しかしいつもと様子が違って、ドアの隙間から白い煙がモクモクと噴出している。
「ゆ、百合ちゃん……」
「とにかく、開けてみましょう」
「あっ、ま、待ってよ」
異変を感じた百合は咄嗟に駆け出した。その後方を夕奈がついて来る。
草吹はヘビースモーカーなので、タバコの不始末でなにかに燃え移って火事になったと言うことが充分に考えられた。煙の量から最悪の事態も想定できる。
「草吹先生!!」
百合は勢いよくドアをあけた。中に充満していた白い煙が一気に噴出してくる。
「夕ちゃん、窓あけて!」
「う、うん!」
夕奈は百合に言われたとおり、窓をあけた。
白い煙はそこから外の世界へと流れ出て行く。
「先生!!大丈夫ですか!?」
ぼやけた視界の中、百合は物理研究室へと足を踏み入れた。何かの焼けるような香ばしい匂いが鼻をつく。
「なんだ騒々しいな」
「えっ?草吹……先生?」
だんだんと煙の量が少なくなるにつれて視界が開けてきた百合は、その光景を見て唖然とした。
「おっ、なんだ。四阿君に鴻上君か。一体どうしたんだい?」
「どうしたって……先生こそ、一体なにを?」
「何って……もちろん、見ての通りだが?」
椅子に腰掛けていた草吹は怪訝そうな表情を作りながら立ちあがった。
物理実験室にも置かれている物をミニサイズにした緑色のテーブルの上には三脚が4つほど長方形をかたどるように設置されており、その上に金網が置かれている。さらにその上には魚が3匹ほど同じ方向を向いて並んでいて、下に設置されたガスバーナー2本によって、ジュウジュウとおいしそうな音を立てながら焼かれていた。
「あの、先生……ひょっとして、秋刀魚(さんま)、焼いてたんですか?」
「ああ。なんだ?ひょっとして火事だと思ったのか?」
「は、はい……」
「はっはっは。私がそんな不祥事を起こすとでも思ったのかい?」
「い、いえ、それは……」
「冗談だよ冗談」
草吹は笑いながら再び椅子に腰掛けた。
「たしかに換気が不十分だったかも知れないな。余計な心配かけてすまなかった」
「いえ、なにもなければそれに越したことはないんですけど」
「そうだ。お詫びといっちゃなんだがお昼食べていかないか?」
「ええっ!?お昼を、ですか?」
草吹の思いがけない申し出に、百合と夕奈は思わず顔を見合わせた。それを見た草吹はイタズラっぽく笑うとこう続けた。
「なんだい?私の料理は食べられないって言うのかい?」
「い、いえ、そんなことありません。喜んでご馳走になります。ね?夕ちゃん」
「そ、そうだね」
「そっか。ならいいんだ。とりあえず君達はそこに腰掛けていたまえ」
「私達はなにか準備、しなくてもいいんですか?」
「心配いらない。ほら、丁度ご飯も炊きあがったようだ」
草吹はコンロにかけてあった蒸し器の蓋をあけた。
中は銀杏とキノコの炊きこみご飯が入っており、ふっくらとしたおいしそうな見た目や芳醇な薫りが、二人の食欲をかきたてる。
「やっぱ秋といったら炊きこみご飯に秋刀魚だからな」
草吹はどこからともなく食器類を取り出すと手際よくそれらを盛りつけ、冷蔵庫から大根おろしを取り出し、焼き立ての秋刀魚に添えて二人の前に出した。
「おいしそう……」
夕奈は感嘆のため息を漏らしながらそう呟いた。
「まぁ、見た目だけじゃなく味も保証するから心配しなくってもいいぞ」
「それでは先生、いただきます」
「いただきます」
百合と夕奈は手をあわせて草吹の料理に箸をつけた。
「……おいしい。先生、本当においしいです」
「なんだ?私の作る料理はまずいとでも思っていたのかい?」
「いえ、そんなことないですけど……先生が料理得意だったなんて、意外です。ね?百合ちゃん」
「うん」
「おいおい酷い言われようだな。それじゃあ私がまるでなにもできない女みたいじゃないか」
「あっ、そんな風にはいってませんけど、でもこれでいつでもお嫁さんにいけますね」
「なんだ。学生の分際で偉いマセたこと言うんだな」
「ご、ごめんなさい……」
「ま、いいさ。相手がいないからね」
「そうなんですか?」
「ああ。それよりも、君達こそ恋人がいるのかね?教師として教え子の実態を把握しておく必要があるからな。なぁ、鴻上君、四阿君?」
「わ、私はその、そんな人いないです」
「わ、私も今のところは……」
二人があまりにも真剣に答えるものだから、草吹はおかしくなって吹き出してしまった。
「ははははは。いやぁ、悪い悪い。冗談だ。しかしまぁ、二人とも恋に現(うつつ)をぬかしてないでしっかりと勉学に励んでいるようで、安心したよ。恋愛も大切だが、学生の本分は学業だからな」
草吹はフッと笑うと草吹コーヒーを口にした。
それから3人は、夕方になるまであれこれ雑談に花を咲かせるのであった。