「ただいま」
 百合は家の鍵を空けると、静かな声でこう呟いた。
 誰も待っていない家……少なくとも最近まではそうであった。
 この家に帰ってくる事がどれほど辛いことか……百合にはこの家に帰ってくることが地獄の拷問にあっているようでたまらなかった。
 原因は父親の再婚にあった。百合の母親は彼女が幼い時に他界し、それ以来父親の男手ひとつで育てられてきた。
 百合もそのことにとても感謝し、父親に迷惑をかけないよう俗に言う『いい子』として仲睦まじく暮らしてきた。
 やがて時が流れ、父親が再婚することになった。相手は伯母が進めた見合いの相手で、最初父親も乗り気ではなかったのだが、いつしか話がとんとん拍子に進み、そして百合が中学三年生の時、ついに結婚して百合に新しい母親が出来た。しかしこの母親は英才教育思考が強く、百合に様々な強制を強いてきたため、衝突も多く、百合が高校進学することになったのを期に、父親と継母は数年前から建築を予定していた新居の方に移ってしまった。そのため、現在百合はここの家屋に一人暮らしをしている……ハズであった。
「あっ、おか百合〜」
 奥の部屋から声が聞えてきたかと思うと、一人の少女がどら焼きを口にくわえながら現れた。
「もう、お行儀が悪いですよ。 食べ物を咥えながら歩くなんて……」
「細かいことは気にしない♪ それよりもさ、今日はなんか嬉しそうだね。 なんかいいことあったの?」
「えっ、そ、それは……」
 百合の顔が上気するのを見て、少女はピンと来たらしく、にやけた表情で百合の顔を見た。
「ははーん……なるほどなるほど」
「な、なんですか?」
「隅に置けませんなぁ四阿さん、えっこのこの」
「ち、違います!! 私は、ただ、その、お昼を通君とご一緒しただけでして……」
 その答えを聞いて、少女は自分の思っていた展開ではなかったのでガッカリした。
「なぁんだつまんないの。 あたしはてっきり、百合ちゃんが通にデートに誘われたかと思ったのになぁ」
「そ、そんな!! で、デートだなんて……」
 百合の頬はますます紅さを帯びていく。
「はぁ、自分の気持ちは、早く伝えた方がいいよ? まぁ、タイミングも大事だけどね」
 少女はそんな百合の姿を見て、過去の自分の姿を照らし合わせるかのようにしみじみと言った。
「ニーナさん……」
 百合は少女の哀しげな瞳を見て、思わず言葉を失ってしまった。
「そ、そう言えば今日のお仕事はないんですか?」
「え? あ、うん。今のところないよ。 だからしばらくはおやすみ、かな?」
 そう答えた少女の瞳には先ほどの哀しみに満ちた面影はなく、いつもの明るいものに戻っていた。
 この少女、星音ニーナはこの世の人間ではない。 既に数年前に、こことは別の世界でこの世を去っている魂だけの存在、即ち幽霊だ。
 何の因果かこの世界に迷いこんできて、ひょんなことから百合の家に居候させてもらうことになった。
 彼女の生前の職業は女子高生にして天才ピアニスト。 そしてもうひとつの顔が怪盗であった。
 そしてニーナは、おせっかいにも百合を怪盗にしてしまったのだ。
 最初百合はいやいやながら仕事を続けていたが、ある事件をきっかけに考え方を改めるようになった。
 もちろん悪いこととはわかっている。 しかし、ニーナを成仏させるためには、他に手段がないのだ。 そして、それはニーナ自身の願いでもあった。
「ところで百合ちゃん、今日の夕ご飯はなに?」
「今日はロールキャベツに挑戦してみようかと思っているのですが……」
「ほんと!? うわぁ〜、楽しみ!」
「ご期待に出来るだけ添えるよう、頑張りますね」
 無邪気に喜ぶニーナの姿を見て、百合はなんだか嬉しくなって自分の部屋に戻ってエプロンに着替えると、キッチンへと向かった。


トップへ    戻る