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力任せに扉を締めて、メヌアは荒く息を付いた。乱暴に窓を開けて冷たい空気を中に入れると、少し落ち着いた気がする。一つ大きな溜め息を着いて窓際に椅子を引き、荒々しく腰をおろした。
人に会うのは楽しい、とメヌアは思っている。人に会えば普段は聞かない声を聞き、自分とは違う考えを聞くことができる。何よりも自分のことを確認して、その視界にいれてくれる者がで
きる。ここでは彼をその瞳に写すものは、ほんの数頭の動物たちしかいないのだ。
だが、メヌアはずっと人と時間を共にすることができなかった。時間は素早く彼の横を過ぎ去り、置いていってしまう。三十年近くの時をかけても、あの少年とそう変わらないだけしか成長
できないくらいに。十代の半ば頃から止まってしまった時間は、彼の回りでは流れようとしてくれない。
だから楽しいながらも、人に会うと他人と同じ時間を持てない自分を痛感させられて、辛い。
森に入ってくる人は、自分で望んでくるわけではない。楽しい思いもさせてくれるし、彼に辛い思いをさせるのは不可抗力だ。だからこそ、平静を保つことができた。なのに、あの少年は、ルクセイルはなんと言ったか。
「知りたければ教えてやるさ。どうせおまえはここでのことは全て忘れるんだから」
そう。ここでの記憶は全て奪ってやろう。ルクセイルはそうなることなど想像していなかったようだが、ここに入ったものは全て記憶を奪われる。それがこの森を知る人々の真実であり、メヌアとシルヴィアが作り、守ってきた、最良と思われる方法なのだ。
森の中に人が住んでいることなど、外の人間は知らない方がいい。そんなことは誰も望んでいない。だからこれは、メヌアが自らに課した仕事。
「そう、念入りに記憶を奪ってやる。特別の香を焚いて、念入りに暗示をかけて。お前だけのために」
まるで恋を語っているように、メヌアは微笑んでいた。それだけが彼にできること。ここまで外からきた人間に興味を持つのは初めてだった。
そこまで考えて、ふと、思いとどまる。これは彼の自業自得なのだろうか?いくら自分の為、人の為と言ってごまかしても、他人の記憶を奪い続けてきた彼自身の。そういえばあの少年は今までに会ったうちの誰かに似ている気がした。なぜ記憶を奪うかを知りたいなどと言い出したのは、身内にその被害者がいたからだろうか?
メヌアは軽く首を振ってその考えを追い出した。そんなことを思い悩んでも、彼には何もできはしない。
「そろそろ眠ったか」
腹立ち紛れに部屋を飛び出したが、考えてみれば一人にした方が眠るのは早いはずだ。話をしていればそれだけ意識がはっきりするのだし、メヌアがいればルクセイルは何かしら聞き続けるだろう。好奇心の固まりのようで、命の危険にすら気付かない子供だから。
香草、薬草を並べた棚の中から念入りに草を選んでいく。ゆったりと、落ち着いて俺の声を聞けるように。暗示にかかりやすくなるように。この森にいる間の記憶だけを奪えるように、慎重に、慎重に。
出来上がったものを小さな壷の中にいれると、それを大切に抱えて隣の部屋を伺った。
ルクセイルは膝を抱え眠っている。中に入り顔を覗き込んでみても、手をかざしてみても起きる気配はない。
小さくうなずいてきちんと窓を閉めると、メヌアは壷の中に火を落とした。細い煙が上がり、ほの甘い香りが漂ってくる。
彼はそれをルクセイルの前において、部屋を出る。眠りが深くなって、充分香を吸い込んだら、暗示をかけるのを始めよう。
一日か二日。それくらいできっと終わるはずだ。
長くなっても十日とはかかるまい。
「ねぇ、メヌア。朝起きると何だか甘い匂いがするよ」
ルクセイルが二度目の朝を迎えた後も、外の霧はまだ晴れなかった。元気な盛りの子供にとって一日家でじっとしているのは相当こたえたのだろう。小屋の中をうろうろと歩いては立ち止まるというのを繰り返している。台所に近付いた時に朝食用のジャムの匂いをかいで思い出したのか、メヌアの前に屈み込んで聞いてきた。手もとで何やら作業をしていた相手はその手を止めて、顔を上げる。
「甘い匂い?」
メヌアの声にルクセイルはうなずいた。気付いたのか、と小さく呟いたメヌアの声は聞こえなかったようだ。
「ジャムみたいな匂いじゃなくて、もっと柔らかい匂い」
ほんの一日の間で、二人は冗談を言い会う程度には仲良くなっていた。ちょっとしたわだかまりさえ取ってしまえば、メヌアとて人と話をするのは楽しい。それが無邪気で、素直な少年とあればなおさらだった。自分がその年頃の頃にはできなかった、当り前の友情を持つことができるような気がする。そして今までなかったことに、そうしたいと思うほどには彼のことを気にいっていた。
だから、ここで何と応えるか。少しだけ迷いはしたのだ。
「……それは、香の残り香だろう」
結局本当のことを言ったのは、何故だったのか。
「こう……って何?」
言葉が少し難しすぎたのか、ルクセイルはそう聞き返してきた。一番肝心な言葉を。
「香を知らないのか? これだよ」
昨日の夜も焚いた香をメヌアはルクセイルの手のひらに落とした。ほんのりと爽やかな甘さの漂うその固まりを少年はもの珍し気にためつすがめつしている。
「香にはいろいろな効果がある。その香は、気持ちを落ち着けて、相手のいうことをよく聞くようにするためのものだ」
一呼吸おいて、メヌアはルクセイルに向き直った。
「この香を身体いっぱいにすったら、お前は俺のいうことには逆らわない。逆らえない。この森の中のこと、ここであったことはすべて忘れてもらう」
言った声は平静だったが、言った本人は平静とは程遠い。メヌア自身も驚いていた。何故これ程動揺しているのか。元々全てを教えるつもりだったのだ。忘れさせることを前提として。何も動揺する必要はない。喩え事実を知ってメヌアのことを嫌ったとしても、ルクセイルは嫌ったことも、メヌアのこと自体をも忘れ去るのだから。
気に入ったと言っても、珍しい小鳥を見付けたという程度だと思っていたのに。
「……どうして……」
「どうして、だって? 仕方がないじゃないか! 俺は他の方法なんて知らない!」
ルクセイルの傷付いたような顔を見ると、何かがメヌアの胸を走る。かすかな痛みだ。気にするな。彼は忘れる。何度もメヌアは自分自身に言い聞かせるように呟く。それでも胸に走る痛みは止まらない。
「そうしないと迷った子供たちは殺された。俺達はここに住んでいられなかった!」
「殺……される……? どうして? 子供でしょう?」
言い出した言葉は止まらなかった。メヌアが言い過ぎた、と思った時にはもう遅い。ルクセイルは彼の袖をしっかりと掴み、離そうとはしない。それが彼が森に入ってきてまで欲しかった答えだったのだから。
しばらく無言のにらみあいが続いた。どちらも一歩も引かない。引くことはできなかった。メヌアにとっては思い出したくもないこと。そしてルクセイルにとっては知りたくて仕方ないこと。だが、先に視線を逸らしたのはメヌアの方だ。そっとルクセイルの腕を解く。
「はなせよ。説明してやる」
待ってるようにだけ言って、メヌアは一度席を立った。隣の部屋からかすかに水を使う音がして、しばらくすると茶碗を持って戻ってくる。暖かな湯気を立てたそれからは、爽やかな香りがして、それまで部屋に満ちていた甘い香りが吹き飛び、すっきりと目が冷めてくる。ルクセイルが何の香りかと問うと、琳琅という花の香りだとの説明がなされた。
そしてメヌアは真っ直に彼の方を見る。
「昔、シルヴィアはこの森に迷い込んでくるものを、外に導いてた。それなのに、せっかく外まで連れていったものが、また戻ってくるっていうんだ……」
メヌアは唐突にそんなところから話し始めた。口を挟むことは許さないというような、強い口調ではない。それでもその表情はとても厳しくて、何も言うことができない。
「初めは何が理由か判らなかった。同じ者は絶対に三度目には戻ってこない。みんな必ず二度だけだった。不思議に思ったシルヴィアが調べてみると、森の端で明らかに殺されたのが分かる子供の死体を見付けた」
ルクセイル自身、息を飲むのが判った。嘘だと言いたくてあげた顔は、反論を許さないほどに強いメヌアの瞳に阻まれる。言葉を継ぐことができない。そして自分の記憶と照らし合わせてみて、愕然とする。兄が何もかもを忘れて帰ってきた時、両親は明らかに安堵してはいなかったか?
「その子供が余りにも不憫で、シルヴィアはそれが何故だか調べた。理由は精霊憑きだ。子供たちは一様に不思議な〈力〉を持っていた。森に入ってきた子供にいくつか質問すれば、そのことは簡単に分かる」
言ったメヌアは一息つき、茶を口に含む。それは自らを落ち着けるために行っているようだった。茶椀を持った手が、わずかに震えている。
「要するに、厄介払いだったわけだ。だけどそれではあんまりだと、その元である〈力〉をシルヴィアは奪った。それ自体は大体の場合そう難しいことじゃない。だけどそれだけでは不十分で、そんな〈力〉がつかえたことを忘れさせる為には記憶も奪わなければならなかった。その人間の大切な記憶を奪うことに心は痛むけどね。そうして森の外に出たものは、二度と帰ってこなかったし、殺されたりもしなくなった」
これが事の真相。記憶を奪うのは〈力〉を奪いとり、その力があったことすら忘れさせるため。森に入って来るのはほとんどが子供で、家に帰りたがる。その鳴き声が余りに切なくて、シルヴィアにはそうすることしか思いつかなかったのだろう。親とて子供を手放したかった訳ではないから、いつまたおかしな〈力〉を使うか、と思いながらも帰ってきた真っ白な子供を受け入れる。今では前例がないせいで、〈力〉は戻らないと信じられている。メヌアはぼんやりとそんなことを思った。
「それが現実だ。お前の兄も、父親に連れられて森の入口まできた。森のごく浅いところでじっとしているように言われたと言って、動かずに待っていた。さすがに暗くなると恐くなったのか、父親を呼びながら走り出したけど、走った方向は森の奥に向けてだった」
そう。これが現実。メヌアは今まで森に迷いこんで記憶を奪った者のことを全て覚えている。シルヴィアがそうであったように。あるいは、自分がそうであったかもしれない者達の姿だから。
「お前の兄は元気に暮らしているだろう?お前の両親は記憶を失った者を受け入れただろう? それが現実だ。だから俺は森に入ってきたものの記憶を奪う」
ルクセイルのことを見たことがあると思ったはずだった。彼は兄に良く似ていたのだ。彼も可愛らしい子供だった。ルクセイルを見ていると、その時のことを思い出す。
そうして、全てを告げ終わるとメヌアはただルクセイルを見つめた。全てを告げ終わった今、もう何の迷いもない。自分にできるのは彼の記憶を奪うこと。それ以上のことはできはしないし、する気もない。
美しい琥珀の瞳。見詰めるだけで、息が詰まりそうなほどに悲しくなってくる瞳。何かとてつもない悲しみがその瞳の中に巣くっている。ルクセイルはメヌアのその瞳を見ているだけで、胸が苦しくなる気がした。
「メヌアはどうして、ここにいるの?」
「俺は頑固者だったから……」
メヌアは溜め息混じりにつぶやいた。捨てられた、だけではきっと納得しない。
「香や暗示くらいで記憶を失ったりしなかった。力もなくならなかった。外に戻るのも嫌だ。いつ誰が刃物を振り上げるか分からない場所だから。いつ話している笑顔が恐怖にひきつってその瞳が怒りを宿すか分からない。そんな所にはもう戻りたくなかった」
「メヌア……」
自らが逃げていることをメヌアは知っていた。だが逃げる以外の方法を彼は見つけることができなかったのだ。全てを忘れて帰りたいとも、今更思うことができない。
「この森のことを覚えてる必要はない。俺はお前の記憶も奪うのだから」
そう言い切ったメヌアの表情が余りにも冷たくて、ルクセイルは胸が締めつけられる思いがした。これが彼の本意ではないことが分かってしまったから。
「メヌアは森から出ないの? いつか不思議な〈力〉を持つ人が嫌われなくなっても?」
「……そんな日がきたら、あるいは……」
そう呟いた表情はその日が来ることを信じてはいない。ルクセイルにはそれが痛いほど分かった。
「じゃあ、いいよ、どんなことをしても。僕はメヌアのことだけは忘れないから。そしていつか森の外でメヌアと会えるように僕が頑張る。だから……」
ルクセイルは自分から兄のことを口にはしなかった。だから、それはメヌアが覚えていたということだ。自分の事を忘れていく者達のことを、メヌアはずべて覚えていたというのだろうか? そう考えると鼻の奥がツンと痛くなってきた。ルクセイルは昔、兄がしてくれたようにそっとメヌアの背中に腕を回す。やさしく、ゆっくりとリズムをつけてその背を叩き、力を入れて抱き締める。
「だから、もう泣かないで」
不思議と、胸が熱くなるのをメヌアは感じた。自分よりもずっと小さな少年の腕の中なのに、そこはずっとくつろいでいたくなるほど暖かい。だけど、それはメヌア自身の選んだ場所ではない。そして目の前の少年がいつの日か変わっていくであろうことが、ことのほか恐い。
「好きにするといい。俺はお前の記憶を奪うためにできる限りのことをしてやる。そうして明日にはお前を森の外につれて行く」
ぐっと腕を伸ばしてルクセイルの腕の中から抜け出すと、俯いたメヌアはそれだけ言った。顔も見せずに背を向けて、さっさとドアまで歩いていく。部屋から出て扉を締める時に、囁くような声が流れた。
「俺は、泣いてなんかいない」
部屋からは甘い香りがする。これがメヌアの選んだ香の香り。ルクセイルはその夜部屋から出ることなく、その香りに包まれて眠った。それが強力な香だとは知っていた。メヌアができる限りのことをすると言ったのだから。そうして引き込まれた眠りの中で、優しい声を聞く。歌うように、囁くように。何を言っているのか分からなくても、その声が聞いていてとても心地いいものだということは分かった。
頭の端では理解していた。このままじっとその声を聞いていれば、記憶を失ってしまうのだろう、と。それでも逃げることなくじっとしていたのは、メヌアのことだけは忘れないという自信があったからだ。何故そう思ったのかは分からない。会ってほんの数日しか経ってもいない。それでも彼はルクセイルにとって大切な友達だった。ずっと年上だと聞いたけど、同じ年くらいに見える。不思議な美しい少年。
見たこともなかったシルヴィアにはあれほどの憎しみを持てたというのに、メヌアを憎むことだけはどうしてもできなかった。彼こそが、あのやさしかった兄を奪った張本人だというのに。 だって彼は、大切な友達なのだ。
「僕は、絶対に、忘れない」
初めに聞いた、メヌアの歌声が聞こえる。やさしい歌。包み込むような、眠りを誘うような。
「僕は、絶対に忘れたりしない」
小さくそうつぶやいた声は、ルクセイル自身にさえ聞こえていなかった。
「ほら、ぼうず、起きろよ。こんな所で寝てると風邪ひくぞ」
軽く揺すられて、ルクセイルは目を覚ました。途端に強い光に目をさされて、慌てて手をかざして目を閉じる。薄く、少しずつ目を開いていき、やっと開けれるようになった時には見たこともない綺麗な子供が目の前にいた。
男? 女?
そういった困惑が顔に出たのか、目の前の子供はぶぜんとした表情で「俺は男だ」と、まず言った。
「お前、何でこんな所で寝てるんだ? もう少しで森に入っちまうってのに」
ルクセイルの前に立った少年は彼を立ち上がらせると小さく溜め息を着いた。柔らかく波打つ亜麻色の髪。美しい琥珀の瞳。ルクセイルはどこかで見た気がするのに、それがどこだか思い出せなかった。甘い香りが、邪魔をする。
「僕、ここで寝てたの?」
思ったことをそのまま口にしただけだというのに、美しい少年はやってられない、という顔をした。ルクセイルの兄とそう年が違わないように見えるのに、その表情は何故か大人を思わせる。
そして表情だけでなく動作も大人だった。ルクセイルの服に着いた埃を落とし、荷物を取ってくれる。
「道のあるところまで送ってやるから。家まで帰れるな?」
うなずいてから、ルクセイルは首をかしげる。
「僕、どうしてここにいたんだろう?」
「さあな」
言った少年はもう歩き始めていた。ルクセイルも慌ててその後を追う。少年は背に小さな荷袋を背負っていた。薬草でも摘みにきていたんだろうか?
「親と喧嘩でもして、家出してきたんじゃないのか?」
からかうように少年は言ったのだが、それは少し違う気がする。何かが頭からすっぽりと抜け落ちている気がした。
「あなたの家、近いの? 僕の家、城下の方にあるんだ」
何でもないことを話しているうちに、森を外れて大きな道に近付いてくる。少年はうまく話を聞いているだけで、自分のことはほとんど喋らない。道にたどり着いた時も、ルクセイルは彼の名前すら知らなかったし、それを不思議にも思わなかった。
「この道をまっすぐに行けば、城下の方につく。気を付けて帰れよ」
「うん。ありがとう」
少年の指差す方角に見慣れたものを感じたのか、ルクセイルは素直に礼を言って、ふんわりと笑う。いくら案内されていると言っても、右も左も分からない森のそばではやはり少し恐い。自分が何処にいるのかわかって、やっとほっとしたというところだろう。
「じゃあな、ル−ク」
しばらく歩いた背に名を呼ばれたことに気付き振り向いた時には、少年はもうそこにはいなかった。まるで始めから誰もいなかったかのように。
不思議に思いながらも、ルクセイルは歩き出した。この道をまっすぐ歩いていけば、家に帰ることができる。どうしてあんな所にいたのかは分からないけど、家に帰れば、全てがよくなるような気がした。
「じゃあな、ル−ク」
メヌアが二度目に言った声は、誰にも届かなかった。
END
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