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その森はアデミールの城下からそう遠く離れてはいなかった。はるか昔、狩りをする貴族達の遊び場でもあったらしいその場所も、今は出入りする者もいない。森番と呼ばれる者たちが近くに住まい、今以上に広がらないようにしている、ただそれだけの場所。
その森番たちとて、好きでそのような所に住んでいるわけではない。できれば城を挟んだ反対側、城下町の方に暮らしたいのだ。それでも、彼等はその大切な役目を放り出すわけにはいかな
かった。万が一この恐ろしい森がこれ以上広がり、城を被ってしまったりしては大変だから。そして、誰かが森を傷付けるようなことをしても大変だから。怒った魔物が外に現れてくる理由は、僅かでも作ってはいけない。数百年前の過ちを、繰り返してはいけないのだ。その恐怖を迷信と片付けるには、森に残った傷痕は生々しすぎた。
そう、ここは魔の森。その中心部には恐ろしい魔物が住むという。外から何かを仕掛けないかぎり、おとなしくしている魔物。それは美しい人の姿をしていて、恐ろしい力を操ると言われて
いた……。
「だけど美しさなんて、関係ない」
大きな青い目を輝かせて、ルクセイルは前を見据えた。城下を囲む高い屏にのぼると、森をよく見渡せる。生い茂る鮮やかな緑色のじゅうたん、美しく陽の光の中に映える森。そこに邪悪な
ものが住むなどとはとても信じられない。だが、あそこに行ってから彼の兄は変わった。どういう訳かあの森に迷い込んでしまってから、何もかもを忘れてしまったのだ。
五年前、今のルクセイルと同じ十才の時に行方不明になった彼の兄は、森のそばで眠っているのを見つけられた。物に手を触れることなく動かしたり、何もないところで火を付けたりできた
優しい兄は、彼の自慢だった。それなのに帰ってきた時の彼は何も覚えていなかった。両親のことも、弟のことも。
不思議な〈力〉も無くしていた。両親がそのことにあからさまにほっとしていたのを、幼いながらも彼はよく覚えている。
「あれは、兄さんじゃない。兄さんの顔をしてるだけだ」
兄の記憶を奪ったものがたまらなく憎かった。何故そんな事をするのか、確かめなければ気が済まないくらいに。もちろん今の兄が嫌いなわけではない。むしろ優しくて大好きだった。ただ彼は、昔の兄がとても好きだったのだ。その喪失を許せないほどに。
「おい、こんなところで何をしている? 危ないぞ」
屏の上を見回りにきた男を見て、ルクセイルはさっと立ち上がった。ここは子供の入るべきではない場所ということになっている。見つかるだけならともかく、いつまでもぐずぐずとここに
いたり、捕まったりすると小言を食うのは目に見えていたから。
「ごめんなさい。今帰ります」
素直に返事だけをしてすぐに立ち上がり、立ち去るために階段の方に歩き出す。そうすると見張りの男も、追ってきたりはしないのだ。だが素直に返事をした胸に、小さな思いが秘められていた。小さくても、強い思い。
「僕はあの森に行く。絶対、誰にも邪魔はさせない」
数百年前に森が焼かれたことがある。理由は伝わっていないが、火を付けたのは森の近くの村だったという。その時、森の魔物は輝かんばかりに美しい姿を現して雨を呼んで炎を消し止め
た。そうして村の不幸を予言して去った。数年後にはその村に住む者がいなくなったというその予言は、大まかな内容さえ伝わっていない。伝えられたのはその美しい魔物の名前だけ。女の姿をしたその魔物は、自らシルヴィアと名乗ったという。
「シルヴィアはただ森を守っただけだ」
大人達は訳知り顔でそう言った。だがルクセイルにとって森の魔女がどんなものかなんてことは関係ない。それは彼から優しい兄を奪った者。それだけだ。
ようやくあの時の兄と同じ年になれた。ルクセイルは兄とそっくりの姿形をしている。忘れていても昔と同じ者を見れば、魔女とて何か思い出すかもしれないし、動揺するかもしれない。
やっとそれを実行できるくらいに大きくなれたのだ。自らの胸にあの時の怒りをもう一度刻み付けて、ルクセイルは森に向かった。時間は昼を過ぎたばかりで、この時間なら町を出るのに何
の咎め立てもされない。また、森までゆっくり歩いても、夕刻には着くはずだった。
ただただ、ルクセイルは歩いていく。彼の頭には今、森に入ってシルヴィアに問い質すことしかない。勿論今日中に家に帰ることができるはずもなく、それがどれ程家族を心配させるかも分
かってはいなかった。
必死になって歩いて歩いて、やっとたどり着いた森はとてもうっそうとしていた。城の回りを大きく迂回して森番の小屋から離れた場所に立って見上げた森は、震えがくるほどに大きい。黒々と広がる様は、とても美しいなどと言えるようなものではなかった。勇んで家を飛び出してきた元気が、一気に萎えていくのが分かる。それでも、ここまで来て引き返すことなどルクセイルの頭には浮かばなかった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
落ち着け、と自分に言い聞かせるように小さく呟いて、ルクセイルは荷袋を背負い直した。森番はこの森をぐるりと回って見張っているという。それに見つかってしまっては元も子もない。
せっかくここまできたのに、連れ帰されてしまう。
「いこう」
一気に駆け出した。そうしてある程度中に入ってしまわなければ、二度とこの森の中に入る勇気が湧かないような気がしたのだ。
ただひたすら駆け続け、息を付いた時には周りには高くそびえる木があるだけだった。もう、どちらからきたかも分からない。後戻りすることすら、できそうにない。
「だいじょうぶ」
ルクセイルはもう一度小さく呟いて、前に向かって歩き出す。進まなければ、必死の決意をしてここにきた意味がなくなる。
小鳥が鳴いている。可愛い花がそこかしこに咲いている。ここにもたくさんの命が生きているのだ。そういったものが、彼の恐怖をいくらか紛らわせてくれた。
初めは周りの景色に夢中になっていた。それでも、暫く歩くと誰もいない隣がとても寂しくなってくる。そして一度気付いてしまうと、その思いは拭うことのできないほど大きなものに膨れ
上がっていた。
「だいじょうぶ、ちゃんと元に戻れるさ」
そう言ったルクセイルの声は、少し震えていたかもしれない。その言葉に何の根拠もないことは彼にだって分かっていた。ただそう言って自分をごまかさなければ、今にも泣き出してしまい
そうだったのだ。
ルクセイルは上を向いて歩いた。泣かないように、泣かないようにただ交互に足をだす。次第に早足になっていくのが自分でも分かる。
「いたっ……」
もう薄暗くなり始めている道を、足元も見ずに歩いていたのだ。不確かな歩みは木の根に捕らわれ、大きく転んでしまう。手や足をすりむき、鈍い痛みが走った。ずっと我慢していた恐怖が、吹き出してくるのが分かる。
「痛いよ……」
そう言っても誰もそばには来てくれない。それがたまらなく寂しかった。何でこんな所に来てしまったんだろう、などと苦い思いばかりが浮かんでくる。切実に帰りたいと思うのに、今はも
う帰るための道すら分からなくなっている。
「痛いから、……涙が出るんだ……」
自分で決めてやって来たのに、恐くて泣いたなんて思いたくなかった。今涙が出るのは手足のすり傷がいたいから。そう思って最初の一筋の涙が出てしまうと、後はもう止めることなんてで
きない。後から後から、涙があふれてくる。気付いた時には声を上げて泣いていた。
起き上がることすら出来ずにただ泣き続けて、いったいどれくらいの時間が経っただろう? ルクセイルは泣くことにすら疲れてきた。痛む手足を無理に動かして何とか起き上がると、涙に
濡れた顔を袖口でふく。いつまでも泣いているわけにはいかない。
「でも、どうしよう……」
落ち着けば落ちついたで、逆にどうしていいのか彼には分からなくなっていた。後ろにはもう道はない。来た道はすでに分からなくなっている。かといって前にも道はない。行く先に何かが
ある確証はないし、第一道にすらなっていないのだ。
背中の荷袋を開けて一口、食べ物を口に放り込む。ルクセイルは目を閉じてゆっくりと森の大きさを思い出してみた。正確な大きさはもちろん知られていない。だが言われている大きさで一
番広い所を端から端まで歩いたとして、四、五日くらいの距離だったと彼は記憶している。冷静にそのことを思い出してただまっすぐ歩くことにした。森から出てしまえば何とかなるはずだ。たとえば森の反対側、城から遠い方に出てしまったとしても。森から出てしまえば方向が分かるはず。万一のためにリュックに詰め込んできた食料もそのくらいの間ならもつはずだった。
決めた後のルクセイルの行動は早かった。さっさと立ち上がり、これと決めた方向に歩き出す。
「諦めたわけじゃない。きっと、大きくなったらまた来るんだ」
そう呟いた顔には、もはやさきほど泣いていた少年の影は残っていなかった。
「また誰か迷い込んだのか……」
川を覗き込んでいた少年は小さく呟いた。彼が覗く川には本来映るべき彼の姿はなく、別の少年が映っている。黒い髪に青い瞳、小さな袋を背負った少年。何やら気を吐き、ひたすら前に向
かっているのだけど、どこを目指しているのかは本人にも分かっていないようだった。
「あれは城の方か……。全く、面倒ごとを増やしてくれる」
溜め息混じりに言った少年は川面に手を落とし、ゆったりと水面を切る。揺れが収まった水面にはやっと彼の姿が映った。ゆるやかにうねる柔らかな肩までの亜麻色の髪と、琥珀の瞳。肌も
白く、一見女のようにも見えるこの外見が彼は嫌いだった。比べて先ほどの少年の何と男っぽく見えることか……。もちろんまだ子供なのだが、長じれば惚れ惚れするような美丈夫になることだろう。
「そんなこと考えてる場合じゃないか。眠り草はどこに置いたかな……」
この森に入ったものの記憶を奪うのは、彼が自分に課した役目だった。彼の命の恩人がずっとしてきていたこと。だが彼女は、好きでそうしてきていたわけではない。だから、彼が変わったのだ。彼女と、迷った人間のためを思えば、薬草で眠らせて暗示をかけ、記憶を奪うことなどなんでもなかった。
立ち上がると、手早く眠り草を用意する。小さな手鍋に湯を沸かし、薬草を数枚放り込む。煮詰めたそれを冷ませば、甘い、眠りを誘う薬湯ができる。道案内する振りをしてこの小屋まで連
れてきて、これを飲ませる。後は香を焚いて気持ちを落ち着けさせて、何日かかけて暗示をかける。眠ったままの人間を森の外まで連れて出るのは少し骨だが、彼がここに残っている理由を使えば、そう難しくはない。いざとなれば鹿か狼でも呼べば運んでくれることだろう。
「今回は子供だし、俺一人でも大丈夫かな。少し距離もあるし、さっさと呼びに行こう」
この森から出ることを諦めた彼にとって、喋る相手が来るのはちょっとした喜びでもある。もちろん話をしたくもないような人間が来ることもあるが、ほんのしばらく話すだけなら大抵の人間は特に問題がない。
走るようなスピードで、ゆったりと歩く。目的の少年がいる場所に付くのに、そう時間はかからないはずだった。
初めに自分で決めたように、ルクセイルはただひたすらまっすぐ歩いていた。だがそろそろ陽が落ちてきたのか、辺りが本格的に暗くなり始めている。そうして暗くなり始めたらもう、すぐ
に真っ暗になって前も見えなくなっていた。
「もう無理かな……。これ以上進むと、分からなくなりそう」
実際、もうすでに道は分からないのだが、それでも多分まっすぐに歩いてきているくらいの自信はあった。それを崩したくなかったのだ。手近な木切れを拾い、進んでいる方向に向けて大きく矢印を書く。今日はここで休んで、明日明るくなったらまたその方向に進めばいい。だけど、眠る訳にはいかないような気がした。何が出るか分からないし、結構冷えている。ルクセイルには暖を取る方法がなかったのだ。
−−−−−−−−−……。
「歌……?」
木の根本にしゃがみ込んで眠るまい、眠るまいとしていると、何か音が聞こえてきた。次第に近くなってくるそれは、やさし気な子守歌のように聞こえる。はっきりと歌詞が分かる頃になっ
て、ようやく微かな足音も聞こえてきた。軽い、小さな足音。それが近付いてくるにしたがって、ルクセイルは身を固くする。それがどういうものか分からない。この森に人が住んでいるなどという話は、一度も聞いたことがない。魔物の話も、シルヴィアが余りにも有名すぎて、他の話はかけらと出てこない。どんな動物が住んでいるのかさえ、知る人はほとんどいないだろう。
−− 僕は生きてここから出られるんだろうか?
遅ればせながら、初めてルクセイルはそのことに思い当った。逃げようと思っても身体は疲れ切っているからか恐怖のせいなのか動かず、立ち上がることさえできない。
小さな明かりが見えた。ちょうど人なら、手にぶらさげているような位置だ。もしそうなら、どれほどいいか……。
「誰かいるのか?」
ルクセイルの耳に柔らかな声が届いた。やさし気なのに、どこか冷たい。こんな所に人などいるはず無いのに、というような声。
草木を割り、ルクセイルの前に現れた姿はまだ子供のものだった。彼の兄とそれ程年の変わらないような、少年とも少女とも取れるような子供。手に持った明かりに琥珀の瞳が映えて、吸い込まれそうなほどに美しい。
「シルヴィア……?」
知らずのうちにルクセイルは呟いていた。これがシルヴィアだろうか? とても美しい魔物だと聞いていた。それがこれなら、分かるというものだ。だが目の前の子供ははっきりと首を横に振った。
「違う。俺の名はメヌア。この森に住むものだ。お前は?」
聞いたところでたいした意味はないが、と彼が呟いたのは口の中でだけで。ルクセイルには聞こえるはずもない。
「僕は、ルクセイル。あの……この森に住んでるって……」
ここは人の住まぬ森。なのにルクセイルの前にいるメヌアと名乗った少年は、ここがまるで庭であるかのように歩いている。この恐ろしい森の中を、こんなか弱そうな少年が。
「ついてこい、ル−ク。すぐに外に案内してやると言いたいところだけど、これから二、三日は霧が出る。収まるまで俺の小屋にいるといい」
それだけを言うと、メヌアはくるりと背を向けて歩き出した。ル−クというのが自分のことだとやっと気付いた少年は慌てて立ち上がり、後を追う。彼の呼び名はいつでもセイルだった。ル
−クと呼ばれたのは初めてだ。
これは願望が見せた幻か、人を惑わす魔物の類なのだろうか? それとも本当に信じてもいいのだろうか?
ルクセイルには判断が付かなかった。それでもついていったのは、有無を言わせぬだけの迫力がその少年にあったから。そして、その姿に魅入られたから。
「あの……俺の小屋って……」
何とかメヌアに追いついたルクセイルは横に並びながら相手の顔を覗き込んだ。そこには先ほどまでの冷たい物言いとは裏腹の。笑みを含んだ顔がある。
「少し歩くけど、外に出るよりは近い。俺は外側よりも中の方に詳しいから。外に向かうと迷うことになる」
それはルクセイルの望んでいる答えからは微妙にずれているのだけど、とりあえず事実として納得することにする。そうしてもう一度、確かめる様にメヌアを見上げた。
聞こえる声は少年のもの。だが、まるで大人のような喋り方をする。兄と同じ年頃に見えるのに、ルクセイルは兄よりもずっと年上の、父親くらいの男と話しているような錯覚を覚えた。
「父さんや母さんと一緒? どうして森に住んでるの?」
黙っているのが耐えられなくて、何気無く聞いただけだったのだ。そんな答えが返ってくると分かっていたら、彼は絶対に聞きはしなかっただろう。
「どうしてって、俺はここに捨てられたからだよ」
ルクセイルを連れて小屋まで戻るには、少し時間がかかった。思いのほか疲れていたらしく、歩みが遅い。泣き言をも言わずについてきたのには感心したが、しつこく話しかけてくるのにメヌアは閉口した。だがそれも、ある言葉を境にピタリと止まる。
メヌアはこの森に捨てられた。もう随分昔の話だ。顔すら覚えていない両親は、憑いている精霊を恐れて彼を捨てた。その時には悲しみもしたが、今となれば仕方のないことだと割り切れるようにもなってきた。彼には人にない〈力〉がある。自分にできないことをする者を人は恐れるものだということが、最近になってやっと分かった。理解することはできないけど。
「ついた。中に入れよ」
すっかりおとなしくなってしまった少年をメヌアは中に誘った。入ってすぐの部屋にある敷物の上に座らせ、奥の部屋に入り先ほど用意した眠り草の薬湯を持ってくる。腹を空かせているようだから、その辺りで摘んできた薬草類を煮ただけのスープも持っていってやることにする。固形物がなくてかわいそうだとは思ったが、ここにはそれしかないのだから我慢してもらうしかない。記憶を奪うつもりがあるとはいえ、悪意があるわけではないのだ。いや、いっそその事実が罪悪感から親切心を湧き起こさせる。
「ありがとう」
素直に、本当に素直にルクセイルは笑う。そんな笑顔を見ると、メヌアは何か悪いことをしている気になる。いや、実際にはこれからするのだけど。
「道に迷っちゃって困ってたんだ。メヌアはずっとここに住でるの? 凄いよね」
簡単な食事を終えて落ち着いたのか、ルクセイルはほっと息を付いた。大きな青い瞳が物珍しそうに小屋の中を見回している。
「メヌアはシルヴィアって知ってる? 僕、その人に会いたいんだ」
眠り草を煎じたものを飲んだというのに、ルクセイルには眠る気配がなかった。薬の利きにくい体質なのか、ただ興奮しているだけなのか。
メヌアは仕方なくもう一杯薬湯を持ってきて、話に付き合うことにする。この物怖じしない少年に、何だか興味を覚えたのかもしれない。
「森の最奥に住むっていう魔道士だろう。それが何か?」
「『マドウシ』って言うの? 人の記憶を奪うっていう、森の奥の魔物。僕、どうしてそんなことをするのか知りたいんだ」
言った少年の目は強く輝いていた。ただの興味本意とは違う、強い意思を感じる。
「メヌアはどうしてか知ってる?」
ごくり、と息を飲む。膝の上、掛け布の下に隠した手を、強く握り締める。一瞬で身体が固くなるのを、メヌアは自覚した。この少年は、〈力〉ある者、魔導師ではなかったのか?
森に入ってくるのは、誤って入ってきた者か、森に捨てられた者だけだ。今までずっとそうだった。だから迷い込んだものはここでの記憶だけ奪い、森に捨てられたものはその捨てられた原因を奪った。それでよかったのだ。そうすれば誰もこの森に係わろうとはしない。誰もが自分とシルヴィアを放っておいてくれる……。
そう思って改めて見直してみると、確かにルクセイルは妙だった。ちゃんと荷物を持っているのだ。ここに来る者はほとんどの場合何も持っていないのに。
「それを確かめるために、自分で森に入って来たって言うのか?」
メヌアの声は、知らず怒りに震えていた。彼が自らに課した、他人の記憶を奪う役目。相互の命と、心の平静とを守るためにしていることとはいえ、他人の大切なものを奪うのだ。罪悪感を伴わないわけじゃない。そんな思いをしなければいけない行為も、それが相手の為にもなると思うからこそ実行できた。耐えることもできた。だが、今彼の目の前にいる少年は、彼の手間を自ら増やしにきたのだとうなずいた。そしてその瞳は一歩も引こうとしとない。
「知るものか! 俺はここにいるだけだ。シルヴィアのことも、魔導師のことも、なにも知らない。霧が明けたら、すぐにでも森の外につれて行くからな! 馬鹿なことを考えてないで、さっさと寝てしまえ」
ここでの記憶を全て消してやろう。固く決意して吐き捨てるように言い置く。小屋を出るなと付け加えると、メヌアは荒々しく席を立った。大きな音を立ててドアが閉められ、ほっそりとし
た姿が消える。何が起こったのか理解できず、なにごとかを言いかけたままのルクセイルを残して……。
メヌアが出ていってしまった部屋で、ルクセイルはただ茫然としていた。何故急にあんなふうに怒鳴っていったのか分からない。始めのうちはかすかな笑顔を浮かべて聞いてくれていたのに。
「どうして怒り出したんだろう?」
ルクセイルは声に出してみたが、答えは出なかった。背中を丸め、足を抱え込んで、頭を膝に預ける。そうすると何か安心することができるのだ。
「どうしてメヌアはここに住んでいるんだろう?」
捨てられたから。彼は確かそう言った。ルクセイルよりわずか四つか五つだけ年上らしい少年。一体どれだけの時を一人で過ごしてきたのだろう、メヌアの言動は、彼をはるかに大人に見せた。
「メヌアにも、兄さんみたいなことができたのかな?」
親が子を捨てるという理由を、ルクセイルは他に思いつかなかった。彼の兄も森に捨てられたのだ。幾ら両親が必死に隠そうとしていても、それくらいは分かる。だが、それとて理解しているわけではなく、ただ事実として知っているだけだ。
丸まってそんなことを考えていると、随分と眠くなっている自分にルクセイルは気付いた。部屋は適度に暖かいし、お腹もふくれている。一日歩き回って疲れてもいた。そして何よりも、彼の知るところではないが、薬湯が効いてきているのだ。
眠って、目が覚めれば、難しいことは何もかも分かるようになっているだろうか? 兄のことも、メヌアのことも……。
そう思った時には、ルクセイルはもう眠りの中に引き込まれれていた。
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