シナトラパラノイド    《後編
     
        


          Something's gotta give , Something's gotta give , Something's gotta give ,

                      きっと何かが起こるはず


                             **


えぇよく覚えているわ、あれはニコラが流感に罹った年、そう、55年,55年よ。 ドクター・マレイでは手に負えないって夜中に州立病院へ運んだの。 参ったわね、あの日はちょうどノヴァがパイを焼くって皆を集めていて、パイとビールで一同クラクラしていたの。 そこへあの騒ぎでしょう? 一番酔ってない従弟のサミーが車を出して、うんうん唸ってるニコラを乗せて運んだわ。 

それで何の話だったかしら?

違うのよ、ニコラが斜視なのはうちの系列じゃぁない。 違う。 いいこと? 今度そんな言い掛かりをつけるなら私は二度と話さないから! 良い? それで、何だったかしら?イヤね、こう云うの、何かしてる最中にその前の事を綺麗に忘れちゃうんだから、いやねぇ、御隣りの部屋に行ってあれしようこれしよう思っている癖に、部屋に入ると忘れて、出ると思い出して行ったり来たり、  

そうよ、55年、55年の話しね? えぇ、ちゃんと思い出せたでしょ? あれはアステアが歌った、そう、アステアが歌ってレスリー・キャロンが踊ったのよ。 

覚えてるわ、皆でチャイナタウンの近くの映画館へ行ったのよ、皆で行くのは久し振りだったわ。 途中アリエルの子供が愚図りはじめて参ったけど、でも皆ダンスのシーンでは、自分も椅子の下でヒョコヒョコ足が踊るの。 映画から戻って、父のその話しをしたわ。 あの頃父は大分弱っていて、そう、とてもじゃないけど家から出れなかったの。 だけど、退屈なんかさせなかったわ、私は面白可笑しく映画の話しをしたし、上手に踊っても見せたわ。 長い水色のガウンを着た父は、シナトラそっくりの声でこう言ったの。


 「それでは我が家の歌姫に是非御登場を願わねば、」


―― シシィ、歌ってごらん?


えぇ、シナトラは好き。 好きよ。 40年代のクリームみたいな声も素敵だったし、喉を壊した後の力強い声も素敵でしょ? 若い頃、父がピアノを弾くと私はよく歌ったの。 MOONLUGHT IN VERMONT 、 LET'GET AWAY FROM IT ALL 、 ディズニーのあれは従姉のホリーと観に行ったけど、でも良い曲よね、 BRAZIL ・・・・二人でシナトラの曲を歌ったわ。 ハンサムな父はとても子供たちに厳しかったけど、私にだけは優しかったの。 えぇ、他の兄弟たちが居ても、私だけを呼んで、膝に乗せてピアノを弾いたわ。 


――シシィ、歌ってごらん


父は歌う私に頬擦りをした。 


皆、羨ましい顔をしているのよ。 父は私しか膝に乗せなかったし、私にしか頬擦りはしなかった。 何故? 何故って、それは、私が父に似てるからじゃないかしら? 私は歌もダンスも得意で、父の好きな詩も暗誦できたわ。 そうよ、私は特別だったの。 私は父の特別。

     違うッ!

馬鹿言わないで頂戴。 私がこんなになったのはニコラを産んだあと、ジェームスとニコラを年子で生んで、足が弱ってからこうなったの。 違うッ! 違うわ。 前は羽のように軽くステップを踏めたし、クリスマスの夜には上機嫌になった父が私の手をとってダンスに誘ったわ。 「さぁステップは良いかな? お姫様、」 そう言って父は私をくるくると回す。 私は新しい靴を履いてクルクルと回ったの。 くるくる回るとクリスマスの緑と赤と金が目の裏側でクンニャリ飴玉みたいに蕩けて、踊り疲れると今度は歌おうってピアノの前に父が座って私はそう、その膝に乗るの。


―― さぁへザー、パパに歌っておくれ、


 違うッ! 何言ってるの?


―― ・・・・・天使のような声で・・・ヘザー


 違うッ! 違うッて言ってるでしょ? ヘザーがどうしたっていうのよ? 

ヘザーは音痴でビッコで、えぇ話にならないわ、あの子はいつも私を羨ましそうに見てた、父に可愛がられてる私をお腹の減った犬みたいに物欲しそうに見てた可愛そうな子! でもしょうがないわよ、あの子は陰気で、それに緊張するとドモる癖があったわ。 だからたまに父が気紛れにヘザーを呼んで、何か遣らせようとしても、手は震えるし、何言ってるかわからないし、真っ赤になって突っ立ってるあの子に父は 「おまえが今話してるのは誰だい? 人喰いトロルなのかい?」 って。 

あぁホントに駄目な子! 可哀想なヘザー!

・・・・・ それに、あの子はとっくに死んだわよ

そうよ、ヘザーは列車事故で死んだの。 貨物に撥ねられて死んだの。
             死 ん だ の よッ!!

 違うッ! 違うわッ! 

あれは違う、違う、あれは私、私なのよ、私よ、だってそうでょ? 


                      Who know what the fates have in store
                      From their vast mysterious sky

            この広々と不思議な事だらけの空の下 どんな運命が待っているかわからない


運命?・・・・何がよ、何が? あれが私の運命? 

馬鹿言わないでちょうだい、私なの、父のお気に入りは私なの、父を看取ったのも私なの、それって、父が心底安心出来るのが私だったって言う事でしょ? 違うわよッ! そりゃ、えぇ、父が寝付くようになったのはヘザーが事故に遭ったすぐ後くらいだったわ、父はぴあのに鍵を掛け、歌わなくなった。 でも、

でも違うッ! 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、 違う、


     ・・・・・ わかったわ ・・・・・・・・・ アンタね? 

          何しに来たの?  ヘザー?


ねぇヘザー、アンタは私が立ち上がる時いち早く手を差し伸べるけど、それがどんなに不愉快だか一つもわかっちゃいないのよね? 誰も居ない木曜の午後、ピアノの前に座ったアンタは私にCの音を教えようとしたわ。 何度も何度も何度も何度もえぇウンザリするくらい何度もアンタは鍵穴の少し先のそれを人差し指でひいて、シシィわかる? シシィ、少し高いわ。 シシィ、ちゃんと音を聞いて。 シシィ、もう一度よ? シシィ? シシィ? 聞いてるの? シシィ? 

おだまりッ! 当たり前の顔して父のピアノに座らないでちょうだいッ! 当たり前の顔して、それが当然みたいな顔して、一人だけ新しい靴を買って貰ったからってそれをコッソリ私に譲ろうとするアンタが私は吐き気がするほど嫌いなのよッ!


だから私はアンタに耳打ちをしたわ。 内緒で相談したい事があるから、製材所跡に来てくれって。 あはは、バカねぇ! ノコノコ遣って来たアンタを見て、笑いを堪えるのに本当、苦労したわ。 アンタは私をキョロキョロと捜す。 隠れて見てた私は、ワクワクしながらタイミングを計ったわ。 アンタがそこに来るタイミング。 私を捜すアンタは、工場全体を見渡そうとしてその土手に上がる。 土手に上がって発見するのは枕木に横たわり、さようならを言う私。 アンタは真青になッて私を担ごうとした。 張り付いたように動かない私を引き摺り持ち上げ、何とか馬鹿な事止めさせようと躍起になった。 お優しいこと!

そこへ、汽笛が聞こえる。


シシィッ!! 列車よッ!!!

真青になってアンタが叫ぶ。 

だけど私はまだあと数秒を堪える。 堪えて、堪えて、そして私はアンタの手首を掴む。 


     さよなら、ヘザー。


ドンと突き飛ばしたアンタが後向きに転げ、訳もわからぬまま貨物に巻き込まれる瞬間。
 え? って顔したアンタに ざまをみろ と私は笑ったかも知れない。 

     ざまをみろ!

軋むブレーキ音を聞き、私はここぞと大きく悲鳴を上げる。 

     誰かッ! 誰か助けてッ! 
     姉さんが轢かれたッ!  姉さんが貨物に轢かれてしまったッ!


さよなら、ヘザー

あんたは要らない子なのよ。 要らない子なの。 要らない子なの。

そうして、私はアンタの代わりにそこに座る。 

座ろうとしたわ。 

座ろうとした。 


幸い父は歌わなくなったし、モルガンの店で買った洒落たズボンを履いた私は、静かに滑るように歩く遣り方を覚えて、えぇ誰も気付かなかった、走りでもしないかぎり、もう誰も私の事『アヒル走り』なんて言わなくなった、私は綺麗になった、私はシシィが入る筈だったボストンの女学校へも一番で入った、一番でよ?

なのに、どうしてそこは私の席じゃないの?


58年のクリスマス。 ラジオからはシナトラのホワイトクリスマスが流れていて、リビングからは歌いはしゃぎ喜ぶ子供達の声。 幸福なクリスマス。 父はベッドから身体を起こしていた。 珍しく上体を起こし、シナトラに耳を澄ませていた。 およそ厚みのない身体。 肉の落ちた背中が痛まない様、私はヘッドレストとの間に手早く三つのクッションを挟む。 メリィクリスマス、そう言って私は父にプレゼントを渡したわ。 ねぇ開けてみて? って、えぇとても素敵なガウン、淡い卵色に金茶の縁取りがパイピングしてある、柔らかで軽い暖かなガウン。 きっと父には似合うと思ったわ。 これを来て、早く、もう少し元気になって欲しいって、私は心から願っていたわ。 

だけど、父は綺麗にラッピングされたそれを、いつまでも開けなかった。 イヴが終っても、クリスマスが終っても、父はそれをベッドの足元に置いたまま、開けようとはしなかった。 まるでそんなの無かったように、貰った事すら忘れてるように。 

   ねぇ、素敵なのよ? ねぇちょっとだけ、ちょっとだけでも見て欲しいの、

街は新年の準備に明け暮れ、慌しく浮かれる。 
私は焦れて、水差しに手を伸ばす父に、プレゼントの包みを押し付けて頼んだわ。

   ねぇ、お願い、


―― ・・・何で、ヘザーだったんだろう? ・・・・


プレゼントの包みを膝に乗せたまま


―― ・・・何で、ヘザーの方だったんだろう?・・・・


   どうして?! 


―― ヘザー、歌ってごらん?


     アンタなんかもう一遍死ねばいい! もう一遍地獄に落ちればいい!
     アンタなんか!  アンタなんか!  アンタなんか!



                           **


                  Oh, let's tear it up   あぁ、すべてを壊してしまいたい


                           * *



     すべてを壊してしまいたい?


芳しくない昨夜を思い、メアリ・エレインは芳しくないその部屋のドアを乱暴に開けた。 

ヘロウ! ヘロウ! ご機嫌いかが? 死に掛けマダム! 

部屋にはシナトラが流れる。 いつから? オフィスへ出かける直前、ジェームスが気を利かせてつけたのだろうか? 優しく夢見がちなジェームス。 三十過ぎても覗き込めば顔を赤くする、ウブで不器用なジェームス。

    まぁ坊や、ママにシナトラを聞かせ まー ちー たー か− ?  あぁうんざり。


 「おはようシシィ、昨日は眠れたの?」

声を掛けるのは思い遣りではない。 ひと仕事前の単なる習慣。 こんもり盛り上がるブランケット、古びてはいるがこまめに洗濯の行き届いたブランケット。 ラクダ色のそれは無様な塊を隠し、死に近いものとして唯一晒されるのは、ひっ詰めた灰色の頭、膨れた身体よりも随分小さな皺だらけの顔。


 「さぁシシィ、あんたを綺麗にしてあげる」

メアリ・エレインはいつものように足を前後に開くと、その塊の下に上に向けた掌を差し込む。 と、感じる尋常でない温度。 ずっしりした低温を掌に感じ、咄嗟に引っ込める手。 ローストを待つ冷凍のターキー。 無毛の体表面。 メアリ・エレインは指先をエプロンで拭う。 まるで意味の無い事と知りながら、何度も指先を掌をガサガサしたキャンバス地のそれで拭う。 


 「・・あぁ、うんざり!」


               Let's tear it up        すべてを壊してしまいたい


壊れてしまった。 塊はもう永遠に壊れてしまった。 壊れた。 死んだ。 死んでしまった。 原因なんかわからない、痰を詰らせたのかも知れないし、急に心臓が怠けたのかも知れない。 だがなるべくようにして、ようやくそれは死に至る。 大好きなシナトラを聴きながら。 吐き気がするほど甘ったるい優しい歌声に抱かれて、ミセス・シシィ・ソルターは、ようやく神の国へと召された。 

人の都合も聞かず、なんて勝手なのだろう?


とりあえず救急車だろうと思った。 そして、うんざりするシナトラを追い出す。 


―― シシィ、歌ってごらん?


どこか懐かしい声を聞いた。 懐かしいが、誰かはわからない。 赤いマークのついたボタンを押す。 デッキがラベルの擦れたテープを吐き出す。 几帳面な文字でSINATRA 。 人差し指で、茶色のテープを手繰り出す。 細い、ペラペラした、言葉を刻むテープ。 そして、勢い良く引き出した。


 「さよなら、シシィ」


                              **


                      Let's take anbort to Bermuda
                      Let's take a plane to Saint Paul

裸足で走ってゆく痩せっぽちの街娼。 折れ曲がり、奇怪な魚の骨のように捻れたこうもり傘を、パラソルのように差して走る街娼の、喜びに満ちた顔。 屎尿の臭い。 乱雑な木賃宿の床、起き上がり、首を傾げ、剥き出しになった局部を見つめる鷲鼻の男。 機械油に塗れた人差し指で、こめかみを二度、ゆっくり擦り、煙草を探す男。


                               **


                Oh, let's tear it up        あぁ、すべてを壊してしまいたい


                               * *


                      There's one thing I'm certain of
                         Return I will to old Brazil


蒸し風呂のような熱気。 澱んだ台所で男は目を醒ます。 「いつから寝ていた?」 「さっき」 机の上には茹で上げたじゃが芋。 息子は塩壺を机の端に置き、そして、膝を着くと男にくちづけをした。 果実はもう熟れている。 未発達な性、亡き妻の面差しは此処にも、其処にも、溢れ返る記憶が男を息苦しく絡める。 ならば、溺れる前に泳ぎ切れ。 背中で潰れるじゃが芋、隣家で子供を叱る母親の金切り声、逃げた長男は今頃、極彩色の神に我等の幸福を祈るだろう。 


                               **


                 Oh, let's tear it up        あぁ、すべてを壊してしまいたい


                               * *


     メアリ・エレインはポケットから携帯を取り出す。 
     素早くダイヤルを押し、二回目のコールで聞くミセス・ゴードンの眠たげな声。 


 「ハイ、わたしよ。 仕事を紹介して欲しいの、すぐ入れるわ、えぇ、年寄りが良いわね、寝たきりでもOK」


事実とは、たった今、貴重な収入源を失ったという事。 

ただそれだけ。

そしてなすべき事とはまず、食い扶ちを探す事、危険な痣の確認、そしてジェームス坊やへのお知らせ。


メアリ・エレインは塊を見ないように窓際へ回る。 立て付けの悪いサッシは、絞めた鶏の様な声を上げ生温い室内に11月の風を迎える。 頬を差す冷気。 生乾きの落ち葉、ぬかるむアスファルトが薄曇の陽光を弱々しく弾く。 昼前の通りは人影もまばら。 標識に凭れ、しゃがんだ浮浪者がかじかんだ手を擦り合わせる。 その横を、毬のように走る着膨れした子供。 やがてバンは交差点を曲がり、見下ろすアパルトメントのポーチに停まる。 初めに二人の男。 後からの二人が、細長い担架を降ろすのが見えた。 メアリ・エレインはポケットから煙草を取り出す。


                         I'm dreaming of a white Christmas


夢など見た試しが無いが、街が賑わう頃には、少しは神の溜息に触れる事が出来るのだろうか?
今より少し、ほんの少しだけの幸せ。

クリスマスにはまだ早いけれど、


     階段を走り上る足音。 忙しないノックは三回。


 「まだ早いわよ、」




     咥えた煙草に火を点けた。













12/29/2004











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  * 1、銃で、自分の頭を狙ってクレと願うキチガイ。 2、鉛の銃弾は脳ミソにむけて発射される。
     3、 死ぬ。ガ、生き返る。

                      ↑          というお題で書く。

  文中、フランク・シナトラ ナンバーより MOONLUGHT IN VERMONT 、 LET'GET AWAY FROM IT ALL、
  BRAZIL 、 SOMETHING'SGOTTA GIVE 歌詞引用(宮治ひろみ氏 訳)