シナトラパラノイド    《前編
     
        


                       シシィ、歌ってごらん?


                          * *


大気 安静 栄養、 それが大事なのは偉大なるナイチンゲール女史でなくともわかる。 開け放った窓の外、バサバサと風を含ませるブランケット。 擦り切れた臙脂の縁取り。 吹き上げる風は綿埃を舞い上げ、咄嗟に息を詰めたのは必ずやそこに潜む死に至る者の欠片を吸い込まぬ為。 なんて薄汚い空! 湿った落ち葉が貼り付き、重なり、いっそう惨めな歩道をドクター・ロヒントンがよたよたクリニックに戻るのが見える。


 「さぁ、ちょっと腰を上げて頂戴」

足を前後に開き、メアリ・エレインはその塊を指二本分持ち上げる。 そのくらいで充分。 余計な労力は使わない。 掻き分けるパン生地のような、ぶよぶよの襞。 鼻を突く臭気に顔を顰め、レンジで暖めたタオルでゴシゴシと擦る。 ディスポーザブルグローブのゴム一枚隔てた生温かい柔らかな感触。 考えちゃいけない。 その事は考えちゃいけない。 丸めたタオルを足元のバケツに放り込み、もう一度持ち上げて、僅かの隙間から一気に引き摺り出した水色のシート、代わりに素早く差し込むもう一枚のシート。 毛玉だらけのネグリジェを引いて、叩いたブランケットで塊を隠す。 スプレーはいつも通り3箇所。 オレンジの香りと糞尿の匂い。


 「はい、終わりよ」

白濁した眼球、白い鼻毛が伸びた鼻腔、ポッカリ開いたままの口に蝿が入りそう! 今日も死に掛けの塊は死に掛けのまま、こんなにも手間を掛け続けるのだから。 メアリ・エレインは舌打ちをする。 ラクダ色のブランケットから飛び出た、奇怪なゴム手袋のような腕。 グローブを外し、剥がれたマニキュアの爪でその内側を抓る。 小さな後ろめたさと麻薬の様な高揚。 反応の無い塊はひんやりした腕に、うずら豆ほどの紫斑をつくる。 それは無数の染みに紛れ、メアリ・エレインもそれを無かった事とする。 陰気な小部屋を出て行く間際、テーブルの上の古いカセットデッキのスイッチを押した。


                      Pennies in stream,fallingleaves o' sycamore

                      小川の底に見える1セント硬貨 鈴掛けの落ち葉


母に聴かせてやってくれとジェームス・ソルターは言ったが、それは無意味の極み、全く意味の無い行為。 Snowilight in Vermont 甘ったるいミスター・シナトラの歌声。 どうせ聞こえちゃぁいない。 全く無意味。 サボテンに話し掛けてたトロントの叔母。 行けば食べさせられた、チョコブラウニーの胸が悪くなるようなごってりとした甘さ。 Moonlight in Vermont 月夜のヴァーモント、田舎者の週末、結構! もう結構! ジョン・フラナリーはミスタ・ジェールの孫と、本当に別れてくれるのだろうか? 

   待ち合わせは五時。 


                                 **


                      Let's take anbort to Bermuda
                      Let's take a plane to Saint Paul

                バミューダまで船を出そう セントポールまで飛行機を飛ばそう


   誰が?

                                 * *


喋るなと尻に靴べらの一撃を受け、イジスは声を出していた事に気付く。 が、どちらにせよ鷲鼻の工員は自分を靴べらで打つのだろうし、その為に、自分は呼ばれたのだ。 四つん這いになった腕の間、垂れ下がった山羊のような胸。 きつく麻紐で巻かれた先端がどす黒くスグリのように膨れ、針で突付けばドロリと流れ落ちそうに見える。 


 「見ろよ! 立派な尻尾が生えた!」

工員がディルドを捻じ込む。 拳の形をしたそれは御丁寧に、お茶目な目と口がペイントされていた。 瞬間イジスは息を吐く。 粘膜が裂けるかと思う痛みも、内臓を破りかねない恐怖も、まるでお構い無しに、客は新しい遊びを試す。 股座から巨大な大便の様に突き出た、下三分の一のディルド。 男が誇らしげに手元のスウィッチを押す。 芋虫のように動くそれは、柔らかなそこを抉じ開け無数の傷を創るだろう。 


                      Let's get away from it all;
                      We'll travel round from Town to town

                 すべてを忘れてのんびりしよう 街から街へと旅をしながら


   それは良い考えね、

歯を立てるなと男が頬を張った。 イジスはまた自分が喋っていたのだと知る。 何を? ズルリと口から滑り出たそれを、そっと舌を突き出し咥え直した。 カクカクと機械のように頭を振る。 忘れる事なんて出来るのだろうか? もしそれが叶うなら、どんなに素晴らしい事だろう。 ゾクゾクするような声。 頭蓋骨の中、直接注がれた甘いビロードの声。 イジスはそれが誰だかを思い出そうとする。 


 「そこッ どうした雌犬ッ!」

慌てて舌を巻きつける。 暴れまわるディルドが膀胱を押し、イジスは俄かに尿意を感じた。 忘れるべき事が多過ぎる。 We'll travel round from Town to town 旅をした事は無いが、街から街へ移るのは幾度か経験済みだ。 そうして行く先々で家畜のように打たれ、股座に何かを突っ込まれ、言葉を発する事も許されず、端金を貰うイジスの素晴らしい旅の思い出。 だけど、もう止めても良いのではないか? 甘いビロードの声がイジスに動けと命じる。 さァ動け。 さァ動け。 さァ動け。

   これは始まり?

イジスは大きく口を開け、そして思い切り閉じる。 なにしろ、一度してみたかったのだ。 溢れ出る血液。 鉄錆の味。 獣の声を上げ蹲る男の腹に、忘れ物を吐き出して寄越す。 そして屈み込み、ディルドを抜いた。 開放されたそこは、まさに自由だった。 

   すべてを忘れて、

優しい声、誰よりも優しかった祖母は一昨年の冬、ジェイコブスの店先で足を滑らせ、たった五段を転げ落ちて死んだ。 Let's get away from it all; イジスは楽しくなって歌う。 大声で歌う。 壁際に壊れたこうもり傘を見つけた。 忘れてのんびりする為に、イジスはその尖がりで男のこめかみを狙った。 一際大きな叫びと短い痙攣。 どのみち、ここの主人はそのくらいでは驚かない。 イジスは動かなくなった男を跨ぐ。 


   出掛ける前の放尿をした。


                                   * *


                      There's one thing I'm certain of
                              Return I will to old Brazil

                      心に決めていることが一つだけある 
                              あの懐かしいブラジルに帰ろう



   兄は、知っていたのだろうか?

                                     **


市場から戻ると、台所にはもう男が居た。 汗染みのついたシャツ。 捲り上げた袖から丸太のような腕が覗く。 男は小山のような背中を丸め、丹念に爪にヤスリをかけている。 食べ溢しだらけの机の上、落ちて行くヘロインのような粉。 いつ来たのか、何をしに来たのか男は答えない。 顔も上げず、黙々とヤスリを掛ける男。 テーブルの下に、空瓶が二本転がっていた。 つまり男は、午後から工場には戻らないと言う事。 ここに残るという事。 ならばリョサは大量のじゃが芋を茹でる。 

せがれが捕まったのだと、八百屋店主は嘆いた。 街の伊達男はけちな盗みに加わった挙句、仲間に売られたらしい。 だが、良くある事だ。 女が身体を売るように、母親が子供を殺すように、ここじゃ在り来たりの事だ。

 ―― 覚えておおき、おまえが一人前の男ならば母の眼を古井戸のように窪ます馬鹿はしてはならない、老いた父の心臓を冷たい魔女の手に触れさせるような真似を決してしてはならない ―― 

店主の萎れた掌が、硬貨を数えるリュサのこめかみを滑った。 リョサはフォークでじゃが芋を突付く。 ふすりと沈み込むギザギザ。 こんな風だったか?


                      The morning found me miles away
                      With still a million things to say

            たくさんの事を残したまま 朝になると僕は何マイルも離れたところにいたんだ


茹であがった芋を大きな鉢に移し、机の真ん中に置いた。 変色したリンゴの皮を床に払い落とし、代わりに塩の壺を男の近くに置く。 男はまだ爪を削っている。 男は指先に息を吹き掛ける。 濁った目がリョサを捉えた。


 「・・・・おまえも、行くのか?」

ひび割れた声。 また酔っているのだと思った。 酔って言い掛かりをつけ、逆らえばもっと酷い目に遭うのをリョサは十分知っている。 


 「・・・俺を、置いて行くのか?」

リョサは黙ってじゃが芋に塩を振る。 静かに待てば、通り過ぎる事もあると。


 「歌うなッ!!」

払い除けられた鉢。 バラ撒かれたじゃが芋。 伸び上がる男はリョサを引き摺る。 咄嗟にしがみ付いた机が横倒しに倒れ、足の下で潰れたじゃが芋が滑る。 呆気ない転倒。 二回、三回、丸太のような腕が自分を打ち据えるのを、瞑った瞼の隙間からリョサは眺めた。 Someday soon  声は「きっとすぐに」と囁く。 しかし 『すぐに』 は、 『今』 ではないらしい。


 「・・・・ぁああ・・・・・・・止めてくれ・・・言わないでくれ・・・・歌わないで・・・」

いつしか男は号泣していた。 床に転がるリュサを忘れたかのように、泣きじゃくり、嘆き、壁を殴りつける拳。 薄っすら血が滲む拳。 だが不意に、男はリュサを思い出す。 無骨な指が、奇妙な繊細さでリュサのシャツの釦を外した。 そうして男はリュサを抱く。 大きく足を割られ、リュサは人形のように揺れる。 


 「・・置いてかないでくれ・・俺を、一人にしないでくれ・・・・」

男はリュサを犯すがリュサを見てはいない。 何故なら男は、繰返し別の名を呼ぶから。 


 「サラ・・・サラ・・・・・サラ・・」

母は店の常連客と、逃げた事になっていた。 しかし、本当は違う。 母は男に刺された。 男は虫の息の母を担いで出掛け、半日後に一人で戻った。 以来、母親の所在を問われれば、客と逃げたのだとリュサは答える。 誰もが疑わない、似合いの、在り来たりの嘘。 その頃から男はおかしくなった。 ブルッと男の身体が震え、リュサはそれが終わった事を知る。 突き立てたまま呆けたように宙を見る男をリュサはそっと押し退け、流しに吊るしたボロ布で厄介な後始末をした。

    Someday soon    きっとすぐに

それはいつなのだろうか? どのくらい先なのだろうか? 甘いビロードの声。 繰返し頭の中で歌う、心地良い何者かの歌声。 兄は、自分を置き去りにして逃げてしまった兄は、

   すぐに?

背後で微かな金属音を聞いた。 振り向けば、銃を手にしている男。 濁った目。 血走った眼球。 男は安全装置を外す。 そして準備の整ったそれを、リュサに握らせる。


 「・・・・・置いてくなら、撃ってくれ・・・・」

男は銃口を握り、己のこめかみに押し当てる。 


 「撃ってくれ、」


   Someday soon    きっとすぐに

言葉が真実なら、これがその時なのだろう。


 「撃てッ!」

リュサは引き金を引く。 
パンと高めの銃声。 割れたスイカの様に散らばる男の残骸。


   兄は、全部知っていたのだろうか?



   跪き、父親の破片を拾った。











                                         後編へ続く