アポりナリスの情人 《前編》
あるものはあるままに、ないものもないままに。
おまえたちは、始まりを知っているだろうか?
深い深い闇の中、沸々と泡が膨れ、膨れては弾け。 むかし、あぁそうだとも、途方もない大むかし。 そんな泡の塊が彷徨う何かを呼び、激しく逆らい、12たび火花を散し、13度目の火花が刃のような光りで泡の幾つかを切りつけた時、そう、その時だ。 その時、全ての始まりである偉大なる父デヲド・母デヲドは生まれた。
父デヲドは母デヲドと281回交わり、母デヲドは182人の子を産み44人を亡くし135人を育てた。 おや、計算が違うと? ハハ、急いてはいけない、ちゃんと続きがある。 数に入らぬ五人は形を為さぬ肉塊として生まれ、再び泡の大地の懐に戻され、間も無くして五人は一つの肉塊となり独りの「種人(たねびと)」として生まれ直した。 こうして生まれた種人は男でもなく女でもなく、勝手気侭に父母デヲドの135人の子等と交わり、977人の子を生み、779人の子を生ませた。
途方もなく増えたそれぞれは「始まり人」としててんでに泡の地に散り、ぶよぶよの泡を踏み固め、自らの穢れと幸いを一抱えずつばら撒き、やがてその足元には清濁併せ持つ黒々した大地が生まれる。 黒々と湿った何も無い、誰も居ない大地。 さすがに些か殺風景だと思ったのだろう。 彼らの一人が足の小指の爪を剥ぎ、退屈凌ぎに動き回る何かを創った。 はしっこく小賢しい、少々愚かだが憎めない生き物・・・ハテわかるかな? それは、人だ。 人は、デヲドの子らの退屈凌ぎに生まれた。
人はてんでに交わり諍い集い、やがて幾つかのコロニーを為し、即ち国になる。 わらわらと動き回る連中の為にデヲドの子らは更に新たな生き物、つまり人の助けになる、豚だの牛だの山羊だの大麦だの、今やお馴染みの諸々を創り出し、国は豊かで人は何不自由なく暮らした。 そして創造主たる始まり人はその国を治め、王と呼ばれた。 全ての雑事はデヲドの子らの手を煩わせず、より最初に作られたものらを族長とし滞りなく回った。 そうなってしまえばもう、始まり人のする事など一つも残ってはいない。 再び暇を持て余すようになった始まり人らは、皆てんでにのらりくらり好き勝手に過ごし、不老不死の長い時間を暢気に退屈に怠惰に過ごした。
そんな退屈な始まり人の一人に大蛇のグルドが居た。
知っておるかね?
蛇はそれはそれは精が強く、腹を裂かれても交わりを止めない淫猥な性質であると。
グルドは父母デヲドの72番目の子が、男の姿であった種人を追い掛け、その菊座を犯して生ませたという子だ。 白銀の髪を伸ばし、氷のような目をした震え上がるほどの美丈夫で、よく動く舌とよく動く指と、滑り気がある隆々とした身体には薄ガラスのような鱗を持ち、緩く巻きつけた腰布の下、大蛇のような男根は常に鎌首を高々ともたげ、押さえきれぬ迸りをその口の端からホタホタと垂らす。
湿原を闊歩する我等が 「始まり人」 グルドに、男どもは畏怖と羨望の眼差しを向け、女どもはしっかと顔を覆った指の隙間から、恐れと恥じらいと抗い難い誘惑を味わったが無論、誘惑に敵うものなどはない。
グルドは美しい処女を攫い、その妻とした。 グルドは娘を沼地の神殿に住まわせ、交わり、子を為すようにと命じた。 が、娘らは主のあまりの精の強さに三日と三晩を寝台で叫び、ついには花が枯れるように果て、四日目の朝、ぬかるむような寝台の上、グルドはカサカサの葉切り虫に変わってしまった娘を見つけた。 一人目、二人目、三人目、次々と娘は葉切り虫になり、虫たちは神殿の周囲、沼地の下ばえを仲良く几帳面に刈り込む。 誰も、グルドの子を為さなかった。
そしてついに、19番目の娘がグルドの寝所に呼ばれる。 美しい娘だった。 白い肌は夕闇に浮かぶ睡蓮のようで、両の目は鳩の血よりも赤く、濡れたように輝いた。
グルドは娘の赤い目に尋ねる。
「おまえもカサカサした虫になってしまうんだろうか?」
訊ねても、娘は答えない。 娘はおしだった。
娘は答える代わりにグルドの大きな手を取ると、そっと自分の右の乳房に押し付けた。
こうしてグルドと娘は交わったのだが、さぁておまえたち、この娘どうなったのだと思う?
他の18人と同じく、四日目の朝、虫になったのだと思うか?
いや、娘は虫にはならなかった。 白い肌を薔薇色に染め、赤い目をいっそう潤ませている娘は、四日目になっても美しくしどけないままだった。 そして四日目の朝、一回りも縮み、息絶え絶えだったのはなんとグルドだった。 娘は滅多無いほどの持ち物を持っていた。 それだからグルドは生まれて始めて恐ろしいほどの快楽と貪られる恐怖を味わう。 事の途中、グルドは何度か娘を押し退けようとした。 が、娘の持ち物はグルドの大蛇を貪欲な沼地のヒルように吸い付き、貪り、干上がれといわんばかりの強引さで精を搾り取り飲み干す。 けれど、グルドは毎夜の如く娘と交わった。
何故? あぁ、小さいおまえたちにはまだわからないだろうが、こう云うのは理屈じゃァない。 頭より先に欲してしまうのさ。 だからグルドはどんどん縮んだ。 どんどん縮んでついには娘の手の平に乗るほどになった。 それなので娘は金箔を貼り付け蜘蛛の巣のような細工した卵の殻にグルドを入れて、毎日一匙の蜜を舐めさせ世話をした。 卵の殻に入ったグルドが幸せだったのは言うまでもない。
さて、そんな折、娘はグルドの子を宿す。 腹は見る見るうちにお化け瓜のように膨れ、5日後の明け方、娘は一人の赤子を産み落とした。 それが、アポリナリス。 誘惑と淫夢を司るアポリナリス。 アポリナリスは滑る鱗の白い肌と、鳩の血のような赤い目と、ひんやりした白銀の髪を持ち、男でもなく女でもない、産み落とされたその日の内に キスをしてくれ と母親に強請り、三日後には最初の迸りを経験し、七日目の夕暮れ時、散歩の途中だった皮剥ぎ職人の息子を誘い、恐るべき手腕を持って憐れな魂の抜殻にした。
抜殻になった皮剥ぎ職人の息子は薄皮一枚のペラペラになり、アポリナリスはそれをヒラヒラした指で摘み上げ、沼を一周する長い回廊の柱の一つに、タペストリィのように鋼のピンで止めた。 憐れなペラペラ息子はそこで、夜も昼も未明の明け方も、不実で薄情な美しい情人への賛辞をうわごとのように歌う。 けれど、何しろ筋金入りの淫猥の質、アポリナリスは次々と人々を誘い、淫夢を仕掛け、そして瞬く間に骨抜きにしてペラペラを柱に留めた。 男も、女も、若いのも、歳をとったのも、回廊の柱に貼りつき不実な情人を想い、嘆くように歌った。 柱が全て埋まるのにはいくらも掛からなかった。
斯くも誘惑的で美しい、淫らなアポリナリス。
落ち葉を拾うように、無造作に、人の心攫い、使い捨てる不実な情人。
ある夕刻、アポリナリスはその両親と神殿の広間で食事をしていた。
高く高く吹き抜けになった天井、沼を渡る湿った良い匂いの風が三人の間を通り抜けて行った。 テーブルの上には、こんがり焦げ目のついた鴨が一羽。 くちばしには香草を咥え、お尻からはふっくらした米や甘いナツメの実がはちきれんばかりに飛び出している。 母親が卵の殻の中から父親を摘み出し、テーブルの上、銀の皿に浮かんだ睡蓮の葉の上にそっと置いた。 蓮の葉に座り、父グルドはアポリナリスに 「鴨を取り分けろ!」 とキーキーした声で命ずる。
しかしアポリナリスはそれに応じず、変わりにこんな言葉を洩らした。
「どれもこれも何かが足りなくて、一番の恋人が見つからないんです。 すぐにこれじゃぁないと気付いてしまうのです。」
母親は我が子の馬鹿馬鹿しい悩みに呆れ、手にした銀のナイフで宙に文字を走らせる。
―― 欲深は本当を見つけられない。 すべてはおのずと求められ、あるべきかたちで手に入るもの。
文字を読み上げた父親は 「全くその通りだ!」 と、母親の賢さを誉めた。
しかしアポリナリスは尚も続ける。
「求められてはいます。 けれど問題なのは、そこにわたしが求めるかたちがないという事なんです。」
再び母親が、銀のナイフで文字を綴った。
―― おまえの求めるかたちとは?
するとアポリナリスは父親すら頬を染めるような笑みを浮かべ、うっとりとこう言った。
「鞭のようなしなやかな身体で、指を差し込めばキュッと擦れる亜麻色の髪、鼻は大き過ぎず低過ぎず、月の無い夜のように黒い目、ふっくらした果実の唇から発せられるイタチの腹のように滑らかな声、うつ伏せれば蛇のように背中の骨が動き、しまった腰、エクボの出来たお尻、薄桃色の菊座は慎ましやかでいて驚くほど自在に愛撫に応え、長すぎず太すぎずハート型に開いた持ち物は瞬時にして鋼の堅さを持ち、何度でも達する事を厭わない・・・・」
―― 馬鹿な子! 見てくればかりじゃぁないの?!
「見てくれだけで充分! 考え事ならわたしが代わりにしますから。」
母親は怒り、手にしたナイフをテーブルにに叩きつける。 ナイフは悲鳴のような音を立て跳ね返り、砕けた水差しと一緒に部屋の中を走った。 そのそのあまりの騒々しさに、テーブルの上の鴨が飛び跳ね、そしてとうに虚空を彷徨っていた暢気な魂に噛み付き、飲み込み、これ幸いと走って逃げる。 愚かな息子の為に夕食を失った父グルドは激怒し、小さなカケスの羽を突きつけるとアポリナリスを断罪した。
「愚かな息子よ! そんなに真実の伴侶が欲しいなら俺が力を貸してやろう! おまえなぞ暫くカエルにでもなってしまえ! そしておまえにくちづけする物好きが居たなら、其の者との幸福を約束しようぞ!」
そう怒鳴りつけるや否や、カケスの羽は真っ黒の煙になりアポリナリスをすっぽり覆う。
そして煙がゆるゆると消えたそのあと現れたのは一匹のちっぽけな緑のカエル。
カエルは椅子から転げ落ち、そして床の上でゲロロと鳴いた。 ゲロロゲロロと悪態を吐き、カエルのアポリナリスはヨタヨタ離れの回廊を渡る。 カエルのアポリナリスに、ペラペラたちは歌った。
―― 不実で愚かな愛しい人! 今はカエルの醜い人!
不愉快になったアポリナリスは部屋に鍵をかけ、分厚いカーテンを閉ざし、寝台横に置かれた小さな飾り箱の中に飛び込む。 箱の中には使い古した絹のハンカチが、何枚も詰まって居た。 その中にもぞもぞと潜ればともう、何一つ音も光も届かなかった。 音も光も届かぬ箱の中、腹を立てたアポリナリスは引篭もる。 醜い自分の姿を誰にも見せたくなかったし、何よりうっかり自分で見てしまいたくなかった。 そうしてそのままトロトロと眠った。 時間もなにもわからず、いつまでも眠った。 眠っているうち、父親の気が変わってくれやしないかと願いつつ眠った。
さぁて、ここで、忘れちゃいけない物語の始まりがある。
なんだって? ハハ、ペラペラたちの事ならもう、あれで良い。 あれはあれで幸せなのだから、そう、彼らは幸せなのだ。 だから今ここで話さねばならないのは、これから幸せになる誰かの話だ。
誰かの。
少し話を前に戻そう。
そう、アポリナリスがまだ美しかった頃、そのギリギリだったあの夕餉の場面に。
母親がナイフを叩きつけ、そのけたたましさに走り出した鴨の事は覚えているかね?
そうだ。
こんがり焦げ目がついた、あの鴨の事を覚えているかね?
鴨はあのまま一目散に神殿を離れ、沼地を走り抜け、湿原の端、裕福な義足屋の軒先でほうと息を吐いて、咥えたままだった香草をもしゃもしゃと食べた。 そうして人心地つくと不意にある事を思い出す。 一度死んで生き返った鴨は、誰かの願いを叶える力があるのだと。
そこで鴨は 「誰か」 と 「願い」 を探す事にした。 どこかに誰か居ないか? 叶えるべき願い事はないか? 鴨は軒下を出て、ヒョコヒョコと庭を横切る。 そして向かった離れの入り口、覗けば小さな寝台が一つ。 寝台には女が一人眠っていた。 女はこの家の女中だった。 女の腹は小山のように膨れ、産み月が近い事がわかった。 女は大きなおなかを抱え、海老のように背を丸めスヤスヤと寝息を立てている。
「そら御覧!」 と鴨は心の中で叫ぶ。
「うってつけのがココに居たじゃないか!」
鴨は、この女の願いを叶える事にした。 くちばしで戸の隙間をこじ開け、寝台へと近付く。 近付いて、女の鼻先をくちばしで二度突付いてやった。 願い事を聞いてやるために。 ところが女はパチリと目を開けるや否やおもむろに鴨の首を掴み、ふっくら詰め物の詰まった腹に齧り付く。
呑ンべぇで役立たずの亭主が、まさかこんなご馳走を持ち帰ってくれたとは!
女は久方振りのご馳走を、大喜びで食べた。 そして鴨は、今にも喰い尽くされそうな己の身体を眺め、あぁついていないと思いつつ、一応短く生きた証に一つ願い事を叶える事にした。 しかし女は食べるのに夢中で、鴨に願い事を話してくれそうにない。 だから鴨は、この際自分が知っている願い事でもかまわないだろうと思い、それにすることにした。
―― 鞭のようなしなやかな身体で、指を差し込めばキュッと擦れる亜麻色の髪、鼻は大き過ぎず低過ぎず、月の無い夜のように黒い目、ふっくらした果実の唇から発せられるイタチの腹のように滑らかな声、うつ伏せれば蛇のように背中の骨が動き、しまった腰、エクボの出来たお尻、薄桃色の菊座は慎ましやかでいて驚くほど自在に愛撫に応え、長すぎず太すぎずハート型に開いた持ち物は瞬時にして鋼の堅さを持ち、何度でも達する事を厭わない・・・・ そんな子供がこの女に生まれますように!
間も無く鴨はしゃぶり尽くされた骨だけになり、母屋の赤犬がこっそり拾い、大事に裏庭に埋める。
犬はそこに骨があるという事実だけで、何年も幸せな毎日を過ごした。
だから鴨にとっても、これはこれで、なかなかに良い人生だったといえよう。
ところでおまえたち、カエルのアポリナリスをまだ忘れてはいないだろうね?
アポリナリスは寝台横の箱の中、古いハンカチに埋もれ、うつらうつら、随分長いこと眠って居た。
光も音も届かぬは箱の中は眠るにちょうど良く、それにもとよりする事もなく怠惰な性質であったから、ましてや不埒な戯れに耽る事も出来ないとあればもう、眠るしかあるまい。 そうしてアポリナリスは長い間そこで眠った。 長い間眠り、そして不意に思いつきに駆られ、ミシミシと手足を伸ばす。 伸ばした手足はもさもさとハンカチの山を押し退け、スゥと乾いた空気が鼻を擽れば、アポリナリスはピョンと箱を飛び出した。 箱を飛び出し、房のついたカーテンの紐を引っ張り、久しく浴びていなかった日の光に目を細め、確かにまだカエルなのだと思い知る為に小さくゲロロと泣く。 そしてそのままヨタヨタと部屋を出て、回廊へと進んだ。
回廊の柱には、相変わらずペラペラたちが貼り付いていた。 が、良く見れば随分と色褪せていた。 アポリナリスはペラペラたちに、自分はどのくらい眠っていたのかと訊ねる。 ペラペラたちは悲しげに歌う。
―― 花咲く季節が18回・・・・それでも美しいあの方は戻りません・・・
つまり18年もの間、アポリナリスは箱の中に居たという事。
18年という月日は本来アポリナリスにはたいした月日ではなかったが、カエルにとってはどうなのだろうとヨタヨタ庭に降り、沼の縁へと近付き、光る鉛のような水面にそっと自分の姿を写して眺めてみた。
なんということ!!
アポリナリスは大きく後ろに飛び退り跳ね上がる呼吸を整えると、もう一度そっと近付き、ゆらゆら写るその姿を見つめた。 そこに居るのは大きく、イボだらけで、目玉ばかりがギョロギョロした一匹の痩せガエル。 アポリナリスは恐る恐るゲロロと鳴いてみた。 すると水面のカエルもゲロロと鳴く。 今度は意を決して、二度ばかりヒョコヒョコ跳ねてみた。 水面のカエルも、みっともない四肢を伸ばし、ヒョコヒョコと跳ねた。 アポリナリスはがっかりしてしゃがみこんでしまった。 せっかくの思いつきが台無しになったと思った。 思いつきとは自ら湿原の集落を回り、自分に恋してくれる誰かを探すという事。 けれど、これほどに酷いカエルの自分では、望みはネズミの髭ほどにもないだろう。
失意のアポリナリスは、沼の下ばえを掻き分けヨタヨタと歩く。 水気たっぷりの草を、葉切り虫たちが並んでシャクシャクと齧る。
と、その時アポリナリスの足の下で小さな悲鳴が聞えた。
「早くどいてくださいよう!!」
見れば後ろ足の下、ピチピチ暴れるミミズが一匹 胴中を踏む足を早くどけてくれ! と騒いでいるではないか。
アポリナリスは慌てて後ろ足を持ち上げようとして、待てよと、もう一度踏み直す。
「どうして? なんでまた踏むのですか?」
胴中を押さえる忌々しい後ろ足を尻尾で打ち、ミミズはアポリナリスに抗議した。
アポリナリスは答える。
「おまえにお使いをしてもらおうと思ってね。」
「お使いなんて厭です! あなたにそんな義理はありません!」
けれどカンカンになったミミズに、アポリナリスはこう続けた。
「義理? 義理ならある。 たった今、わたしはおまえを解放してやろうと思っている。 この後ろ足をどけてね。 するとおまえは、あぁ助かったと思うだろう? そう、この後ろ足をあげた瞬間、わたしはおまえの恩人になる。 恩人の為に、役に立つ何かをするのは当たり前の事。 つまり、為すべき当たり前の義理が、おまえはわたしにあるということ!」
そしてミミズが何か言い返すより前に、アポリナリスは後ろ足を持ち上げる。 解放されたミミズは、踏まれてへこんだ胴中を膨らまし、二度ゆっくり伸び縮みをする。
そうして二度身体を波打たせ、ミミズは上目遣いに目の前の悪どいカエルを眺めた。
「で、あたしに何をさせようってんです?」
アポリナリスはカエルらしい不愉快なゲロゲロ声で言った。
「わたしの写し身になるのさ」
「なんですって? あたしがあなたみたいな気味の悪いカエルの?!」
アポリナリスは、ふんと鼻を鳴らして言う。
「冗談じゃぁない、こんな不愉快な姿ではない。 おまえはわたし本来の姿の写し身になるのだ。 そしてわたしの写し身としてこの湿原の国を回り、わたしの為に健康で見目の良い若者を連れてくる。」
そうさ。 自分にふりかかった術が解けないなら、他の誰かに術を施せば良い。 アポリナリスはぬらぬらした前足で、後退りするミミズの頭をツルリと撫でる。するとどうだろう、たちまち現れたのはすらりとした身体に白銀の髪、鳩の血のような瞳、黒土に足を投げ出し気だるげに上体を起し、口元には淫蕩で魅惑的な笑みを浮かべる、見目麗しきアポリナリスその人の姿。
「あぁ、これはなんとも・・・・・」
あまりの素晴らしさにアポリナリスは、自分自身と知りつつ思わず溜息を洩らす。
なるほど、アレになら魂を売っても良いとすら思った。 見惚れるアポリナリスに、ミミズはイタチの腹のような滑らかな声で、 「散々だ! 酷い目に遭った!」 と騒いだ。 騒ぐミミズの足元、花弁のように揃った爪先に前足を掛け、 「アポリナリスはさぁ行け」 と命ずる。 だが命じてからハタと思いつき、沼の縁より長い葦の茎を一本毟ると、しどけなく投げ出された足をヒョコヒョコとつたい登った。 そうして 「くすぐったいですよ!」 と身を捩る写し身の腰骨の上に立ち、交差した足の間を葦の茎で示し、アポリナリスは嗄れ声で厳かに叫ぶ。
「ここを快楽に使う者はたちどころに厄介者の金蝿になるだろう!」
こうして写し身となったミミズに術を掛けたアポリナリスは
「どんな狼藉者が居るかわかったものじゃないからな」
と、満足げに呟いた。
そしてミミズはというと、そんな場所にどんな快楽があるのか見当もつかず、わかるのはとても厄介な事を自分が背負い込んだと云う事で、清々と前を行くカエルに続き、慣れぬ二本足でトボトボと神殿へと向かった。 旅支度を整えた写し身が恋人捜しの旅に出るのは、それから半刻ほど経った後の事。
沼のグルリを回る写し身を見送り、アポリナリスは満足げにゲロロと鳴いた。
後編へ続く