204号のちび    《前編
     
        


     もしも、今日がよく晴れ上がった朝ならば、

僕らはベランダのサッシを開け放ち、ボイルのカーテンをお転婆娘のお下げみたいに両端で括る。 切り取られた空、五角形の空の蒼、真鍮の花台には緑の噴水みたいなジャコバサボテンの鉢が一つ。 その葉陰、蔦の葉模様の小皿にこんもりと、甘い、赤い苺ジャムを一匙、

     ちび、ちび、  こんなに空が青いよ、
                             ちび、ちび、ちび?




     僕らがちびと出逢ったのは七月。
     夜半まで続いた雨がやみ、突き抜けるように晴れた木曜の朝だった。
 

その頃の僕たちというのは、ツザキの通勤圏内にマンションを買い、一緒に暮らし始めてまだ間もない微妙な時期にあったと思う。 会社勤めをするツザキと、家で帰りを待つ僕と、それは世間で言うところの新婚生活だったのかも知れない。 でも、実際大の男二人が暮らすのは楽しいばかりじゃあなかった。 取り分けツザキが会社に出掛けた後、一人家の中に残る僕は、何とも云えない所在の無さを感じた。 なんだか、社会から取残されているような感じ。 といっても僕は無職ではなかったし、同居後ツザキに喰わせて貰っていた訳でもない。 留守中の家事全般を引き受け、それ以外の時間はこれまで通りに細々と翻訳の仕事を続け、実質一人の時よりも緩い自分だけの時間は少なくなっていたと思う。 仕事に関して言えば、贅沢は出来ないけど、のんびり生きるには丁度良い収入が僕にはあった。 だから何も、誰にも気に病む事は無い筈だったのに、何だろう、この無気力は。

一つにツザキの激務が続いていたのも、原因かも知れない。 大手食品会社へ勤務していたツザキは、この春海外マーケティングを行う部署へ移動になった。 入所時からの希望が今頃通るのも皮肉な話しだと思う。 そしてその最初の仕事と云うのが、マニラに在る加工工場とのパイプ役だった。 ツザキは慣れない英語での交渉に四苦八苦し、まだ引継ぎ途中の前任者と共に連日の残業は軽く日付けを越えた。 でも、遣りたかった事だけあって、本人はやる気満々、別段、連日の激務も苦にはしてない様子だった。 充実した毎日ってトコなんだろう、それはそれで結構な話しだとは思う。 だけど、僕はそんなツザキの隣りで所在無さを感じている。

昨夜も、ツザキの帰宅は深夜を大きく廻った。 僕は、急ぎでもない仕事をしながらその帰りを待つ。 でも、同居を始めてからやたら夜が眠くて夜更かしが出来ず、0時近くにはもう目がショボショボして限界を感じた。 已む無く、ソテーした豚肉をコンソメで煮た温野菜と大きなプレートに盛り付け、「冷蔵庫にスープ」のメモを沿えてテーブルに並べたのが1時。 二人で居るのに話す時間なんて殆んど無い。 一人で潜り込むベッドはやけにだだっ広く寒々感じた。 やがて、ベッドの軋みと共にボディソープの匂いが隣りに滑り込み、ツザキがギュッと抱きついてきたのは3時近くだった。 「おやすみ」 と頬に落とされたキス。 けれどこちらが身体の向きを変え、名を呼び覗き込んだ顔はもう、スゥスゥと心地良い眠りの中にまどろんでいた。 

行ってらっしゃいの次はおやすみか・・・・・・寝顔を見つめてまた、胸の中がモヤッとするのを感じた。 付き合い出してから3年、ささやかな波風も体験した筈だけれど、一緒に暮らし日常を重ねるのは単に 「住む」 以上の意味も難しさもあったのだと思う。 今までのようにキチンと、二人の為に開けた時間だけ会うのとは異なる、これまで見えて無かったツザキの日常に僕は思う以上に戸惑っていた。 例えばこうした忙しいツザキを、それをただ隣りで見ているのは思う以上に堪えた。 御互い、通い恋愛で十分だったのではないか? もしかして、一人で暮らす方がツザキも楽なのではないか? 果てはマンションのローンの事までツザキの足枷になっているのではと気になり、取り留めなくもやもやしたまま、気付けばツザキの目覚ましで朝を知った。


そうして送り出した朝、二人分のプレートをシンクに運び、蛇口のレバーを押し上げる。 冷たい水が心地良く、丁寧に泡だらけのスポンジでクリーム色にこびり付いたベーコンの脂を擦った。 大きなプレートは瓢箪型のアイボリィ。 揃いのマグカップとスープ皿がセッティング出来るようになっており、ここに越してくる前、裏通りの雑貨屋で選んだ物だった。 あの時、 「新婚気分だろ?」 そう囁いたツザキに、自分も満更でもない笑みを返した記憶が蘇る。 若かったよなァと、高々一ヶ月前の自分に言ってやりたかった。 そうして先刻、出掛けにツザキとしたキスを想い出し、馬鹿みたいに顔が赤くなるのに一人でジタバタとうろたえた。 ひんやりした水に両手を浸し、頭に昇った血を醒ます。 こんなにも気恥ずかしい新婚生活に、何でもやもやするのだろうと、また、気分が落ち込んで行った。 

その時、

コトン と、小さな物音がしてベランダを振り返る。 両端で括ったカーテン、全開の窓、青空に不躾な洗濯物がはためき、その下日当たり良い場所へ出された真鍮の花台の上には小さなジャングルの様なジャコバサボテンの、

・ ・・・・・

猫? サボテンの鉢の陰、真ッ黒で小さな猫、仔猫? ちっちゃな三角に口を開け、音の出ないニャァを言った小さな黒猫がこちらをお皿のような目で見つめ、そして今度は

ニャァ、

きちんと発声をして、もう良いでしょう? と目を閉じる。 陽射しを浴び、ふくふく風を孕んだ毛足は少し長い。 拳骨くらいの頭を鉢の縁に擦り付け、サボテンの葉陰、仔猫は満足げな顔で両足を揃えて座った。

「・・・・ おまえ、どこの子?」

部屋は4階だった。 近くに昇れる木もないし、きっとベランダ伝いにどこかの家から迷い込んだに違いない。 マンションはペット禁止だった筈だが、でも、それが必ずしも守られていないのはどこも暗黙の了解なのだろう。 濡れた手を素早く拭い、そっと、脅かさないように仔猫に近付く。 薄目を開けた猫は髭をさわさわさせ、キチンとお座りをしたまま逃げ出す気配は無かった。 しかし、騙されてはいけない。

「ちょッ、どこ行くの?」

ピョンと花台からジャンプしたのは、しなやかな黒い小さな獣。 狩をする優雅な足取りで、するり足元をすり抜け、真っ直ぐに向かう先はリビングを抜けた廊下突き当たりのドア、ツザキが仕事部屋にしている四畳半の洋間。

「そこはダメだよッ!」

と、追いつける筈も無く猫はトンとドアに体当たりして、半開きのそれは忍び込むに充分な隙間を作る。 ツルリとドア向うに消えたシッポの先。

「ちび?!」

咄嗟に呼んだのは安易な名前だった。 しかし、仔猫はその名が気に入ったらしい。 ツザキの仕事部屋、ドアから少し入った床の上、振り返った仔猫はお行儀良く座り、新しい名前に ニャ と短く鳴いた。 そうしてまた視線を室内に戻し、繁々と、さながら視察でもする真剣さで仔猫は部屋を眺める。

「さ、ちび、こっからは出ようね、」

声を掛けるが仔猫は室内観察を続ける。 隈なく見て遣ろうとする熱心さで、視線は小刻みに移行し、薄いピンクの鼻はヒクヒクと嗅ぎ取りを続けた。 そして仔猫は急にこちらを振り返り ニャ、ニャ、と短く二回鳴いた。 グッと背中を丸めブルッと立ち上がった仔猫は、ピンと尻尾を立てて、続けと言わんばかりにツザキの部屋を出る。 すれ違いざま、ポンと長い尻尾が僕の脛を叩いた。 

「ちび、」

早足で、廊下を横切りリビングを通り抜ける仔猫を僕は追う。 「ちび」と呼ばれ、その都度仔猫は短く小さく鳴いた。 そうして元居た花台の上に、ポンと仔猫は飛び乗る。 一仕事した後のように、几帳面に前足の先を舐める小さな真ッ黒の塊。 突き抜ける青空を背景に、仔猫は黒い染みの様に見えた。 ジッと見ているこちらに気付いたか、ピクリと耳を立て凝視する金色の目、瞬きしたあと細められた目。

「ミルク、飲む?」

思いつき、小さな硝子の器に牛乳を注いだ。 

「低脂肪なんだけど、どうだろうねぇ・・・・ちび?」

振り返れば、もう、小さな姿は無い。 ただただ青い空、ジャコバサボテンの影は真上から花台に広がり、その隣りにはもう、あの仔猫は居なかった。 手にした器の牛乳を、そのままカップのコーヒーに移した。

その夜、僕は眠らずにツザキを待っていた。 ノルマより少なめに仕事を切り上げ、リビングのソファーにぼんやりと寝転び、週末に買ったワインをちびちび飲みながら、あの猫の話しをしてやろうとツザキを待った。 やがてウトウトが熟睡になろうとした頃、ガチャリと鍵の音にハッとして、ツザキの帰りを知る。 時刻は2時を廻っていた。 ソファーの僕を見てツザキはおやという顔をする。 

「寝てりゃ良かったのに・・・・」

腕捲りしたYシャツのまま、ツザキはソファーの僕を引っ張り上げる様に抱き締めた。 ぶら下がるようにして、起きているツザキと熱烈過ぎないキスを交わす。 甘やかされてるなと思いながら、色々忘れそうになり、唇が離れた瞬間さァ話すぞと息を吸い込んだら、先手を打ったのはツザキだった。

「・・・明日言おうと思ったんだけど・・・・丁度起きてたし、」

「なに?」

「来月マニラに行く事が決まって、」

「マニラ?」

ツザキはガサゴソと鞄を開け、細長い封筒を内ポケットから取り出して手渡す。 トラベラーズチェックの広告が印刷された封筒、中には航空券が一枚。

     ―― キャセイパシフィック航空 ナリタ発マニラ 

「13日・・・・来月って言っても、もう一ヶ月ないじゃない、」

「ごめん。」

「や、ツザキが謝る事じゃないんだけど、でも、ちょっと吃驚したから、」

「ごめん。」

宥められるように背中を撫でられ、二人並んでソファーに腰を降ろす。 僕は、今日一日忘れてたもやもやが胸の中に広がるのを意識しながら、ツザキが煙草を吸うのを眺める。 長く紫煙を吐き出したツザキは独り言のように、急な決定だったのだのだ と言った。 行く予定だった一人が急病で倒れ、急遽そのチケットごと廻っていたのがツザキだったのだと言う。

「午後、急に部長に呼ばれて。 ソノダ先輩もそこに居て、良い機会だから行って来いッて。 俺も突然だし、随分急ですねって言ったんだけど、でも、・・・・・君独身だろう? 二週間、海外旅行気分も味わえるじゃないか? って、  ごめんな、」

「・・・・・まぁ、仕方ないよね」

なら、仕方ない。 ならもう、何も言えない。 
言えないけど、押し込められた何かがむくむくと膨らむ。 咽喉の所まで出掛っている何か。 

そんなはち切れそうな自分を騙しつつ、僕はツザキを残しソファーから立ち上がった。 お腹空いてるでしょ? と、鍋の肉じゃがを暖め、糠付けの胡瓜を切り分け、炊飯器の蓋を開けながらも僕は自分の中のもやもやを振り切れないでいる。 何でこんなに噛み切れない気持ちなんだろう? これまでだって、ツザキが出張で会えなくなる事は何度もあった。 数日の事もあったし、ほぼ一ヶ月丸まるというのだってあった。 それに比べたら今回は二週間、海外とはいえさほどべら棒に長い出張ではない。 赴任じゃないんだろ? そう、赴任じゃない、すぐに帰ってくる。 だけど、妻帯者じゃないツザキにその任務が廻って来ない保障はない。 そうなったら一年、二年、或いはもっと、

「なに考えてんだろう・・・・・」

ツザキがリモコンでテレビをつける。 途端に騒々しい深夜番組の声に、思わず洩らした呟きは巧い事掻き消されてくれた。 女々しく蛆蛆した気持ちを隠して、僕はツザキが胡瓜を齧るのを眺めた。 結局、その日猫の話は出来なかった。


翌朝、トーストに落とし卵をのせるツザキに、僕は漸く猫の話しを切り出す。

「真ッ黒くてね、外国の血が混じってるのかな、長毛種の綺麗な仔猫なんだ。 ジャコバサボテンの影にすっと現れてね、」

「へぇ・・・・仔猫か、この並びのどっかで飼ってるのかな?」

「うん、多分そうだと思うけど、人馴れしてたし野良ッて感じじゃなかった。」

「んー・・・・猫か、猫・・・・・そうだ、昨日社内に猫が紛れ込んだらしくってさ、」

付け合せのトマトを一口で飲み込み、ツザキは話を続ける。

「秘書課の女の子たちが廊下をウロウロしてて、今そこに猫が居たんだって・・・うん、丁度部長に呼ばれて部屋入る前かな、あんな街中のあんなビルに猫が入り込めるもんかねぇッて・・・・第一目の前国道だろ?」

「で、見つかったの? 猫、」

「いや、見つかってないと思う。 直接確かめてないけど、その後そう云う話し聞かないから」

「どこ行ったんだろう?」

「会長室にある秘密の猫部屋?」

都会のクールな猫なんだろうかねぇ と、ツザキは話しを纏め、ご馳走様と洗面所へ向かう。 

白日のオフィスビルに、紛れ込んだ猫。 僕はあの無機質で巨大なビルを、昨日見たあの仔猫が悠々と闊歩しているのを想像した。 ピンと尻尾を立てて優雅にロビーを横切る仔猫を、スーツで隙なく武装した大人がゾロゾロと追い掛けている。 猫撫で声でち〜びちび、と呼ぶツザキ。 猫は得意げに ニャ と鳴くだろうか? 

なにやら可笑しくて、クスクスと笑った。 久し振りに、声を上げて笑った。


そして八時前にツザキを送り出し、洗濯物と洗い物を済ませ人心地着くと実感するまた一人になった時間。 まだ九時前の半端に朝を引き摺る時間。 晴れ上がる空を眺め、窓を大きく開き、花台を日当たりの良い位置へずらす。 ふと、ベランダから乗り出し辺りをキョロキョロしたが、そこらに猫らしい姿形は見当たらなかった。 暫くそうしてウロウロしていたが、急に馬鹿馬鹿しくなり、部屋に戻り仕事の続きを遣っ付ける事にした。 部屋はツザキの仕事部屋の向かい、同じ間取りの四畳半。


   ―― 大きな魚の船に乗り、レモネードの海を僕たちは旅するんだ。

カラフルな挿絵、作者は聞いた事の無いフランス人だったが、アニメの洗礼を受けた日本のそれとは違うどこか誌的な物語。 子供向けの絵本の翻訳は訳していても楽しい。 ここ数年、僕が手掛けているのはこうした子供向けの小品や、化粧品の使用説明、料理のレシピ。 ベテラン翻訳家にしてみればつまらない仕事なんだろうけれど、短い文章に生活とか匂いとかが凝縮されている気がして、苦痛にならず愉しみながる続けるには、これが僕には丁度良い仕事量だった。 取り分け料理のレシピは、面白い物を訳すと自分で作って見たりもして、ツザキもそうした幾つかを美味いと食べた事がある。 

   ―― さぁ! ぐらぐらジャムが煮えたぞ! 
                            甘ぁ〜いジャムをアイスクリームにかけろ!

ジャム? ふと冷蔵庫の中、苺ジャムの壜がある事を思い出した。 先日、長野へ旅行に行ったツザキの妹が送ってくれた一つ。 辛党のツザキは甘いものがダメだから、これはきっと僕にと送ってくれたんだろうと思う。 急にそのジャムの味見がしたくなり、立ち上がろうと椅子を引いた時、ヌラリとした感触を裸足の足の甲に感じた。

ニャァー

「ちび?」

狭苦しい机と椅子の隙間、黒い仔猫が座り込み、覗き込むこちらを見上げもう一度ニャァと鳴いた。 

「・・・いつから居たの?」

振り向けばドアが少し開いている。 猫がドアを開けるのは昨日ツザキの部屋ので見た。 その仔猫は机の下、目の前にゆらゆらする僕の足を両手でスタッと掴み、緩く歯を立てチラリとこちらを伺う。 そうして意外に固い額をグリグリと擦り付け、幸せそうに目を細めるのだった。 纏わりつく仔猫に おいで と声を掛け、僕はキッチンへと向かう。 見れば当たり前のように、仔猫は僕の少し前を進んだ。 ちび、と呼ぶと振り返り ニャ と鳴く。 

「ね、今日こそミルクぐらい飲んでってよ」

フローリングの日向、伸び上がってはゴロゴロ縦に転がる仔猫を眺め、僕は硝子の器に冷たいミルクを注ぐ。 コンと目の前の床に置くと仔猫は髭をサワサワさせて慎重に近付き、やがて小さな舌が白い表面をぴちぴちと忙しく舐める。 見る見るうちに内側の蔦の葉模様が、白いミルクの縁から覗く。 

「美味しい?」

そうして自分は、冷蔵庫からジャムの壜を取り出し、少し考えてから保存壜の中のクラッカーに一匙塗りつけて齧った。 甘酸っぱい。 糖度が低いから保存は効かないのだとツザキの妹は言ったが、なるほど、ジャムというよりはコンポートの趣きがある上品な味。 思わずもう一枚のクラッカーを取り出し、心持ちこんもり匙で杓ったその時、

「え?」

いつの間にかシンクの縁に登った子猫がサリサリと、頂戴と強請るように匙を掲げた僕の肘を小さな爪先で引っ掻く。 

「なに?」

咄嗟に尋ねた僕に、仔猫はナァーと訴えるように鳴く。 そして視線は一度僕をジィッと見つめたあとスイッと流れ、宙ぶらりんに掲げたままの匙に留まった。 匙を凝視する仔猫がもう一度ナァ〜と甘え調子で鳴いた。

「ジャム? ・・・・だって、ちび、これは、」

ナァ〜〜ン

仔猫は一際長く甘えた声を上げる。 小さな前足が焦れたように肘を掻き、そのまま両手で掴んでカプリと甘く噛んだ。 痛痒い、くすぐったい、小さな歯と舌の感触に堪らず声を上げる。

「わかった わかったよ・・・・でも、ホントに?」

ニャ と、すかさず鳴くのは そうだよ! の意味なのか? 訴える目に急かされ、空になったミルクの皿に半匙のジャムを、半信半疑でポンと落として仔猫に示した。

「さ、ちび、どうぞ」

そう言うや否や、仔猫は皿に鼻先を擦り付けるようにして、ふぬふぬくぐもる声を上げ、ささやかなジャムの赤など瞬く間に舐め取られ消える。 やがて最後の一舐めを終え、仕上げにチロチロと口の周りを舐める仔猫は、ナァ〜とまた甘え鳴きをして擦り寄り、僕の脛を後ろ足で立ってカリカリと掻いた。

「・・・もっと欲しいって言ってるの?」

ナァァ〜〜〜ン

悪食のペットが居ると聞いた事はあったが、せっつく愛らしさに押され瞬食するちびに、ついついジャムをもう一匙、もう一匙と盛り付ける。 が、4匙目を食べ終ったところで、いい加減まずいと思い、ニャァ見上げる小さな身体をヒョイと抱き上げてしまった。 

ニャ、ニャ・・・

抗議する三角の口。 両掌に収まる小さな小さな身体がモゾモゾと居心地良いポジションを捜す。 そんな風に丸くなろうとするふかふかの首筋に、キラリと巻き付く何か。 首輪? そっと指先で柔毛を掻き分ければ細い仔猫の首筋に、華奢なシルバーの首輪が出窓の陽射しに反射した。 

「ちび、おまえ洒落たのしてるねぇ。」

チェーンではなく、細い流線型の半円が二つ両端を接続させた首輪。 品の良い女物のブレスレットのようなそれは、真ッ黒の仔猫にとても良く似合っていた。 と同時に、あぁやはり飼い猫なのだと納得がいった。 見れば流線型の全面、若干太くなっている側面に数字が刻まれている。 

     ―― 204 ―― 

204? 何だろう? 

「ねぇちび、おまえ、もしかして204って名前なの?」

仔猫は答えず、首筋を弄られたまま目を細める。 ニィマルヨンかニヒャクヨンかわからないが、名前にしては些かシュール過ぎると思った。 ともあれこの子は飼い猫だったかと、ホンの少しガッカリした自分を馬鹿だなと思い、小さな重みと温みを掌に感じていたが、仔猫は不意に身を震わしたかと思うとひらり床にジャンプする。

「帰るの?」

ナァ〜

サヨナラなのだろうか? 振り返り一言長く鳴いた仔猫は、あっという間に花台を飛び越え、そして慌ててベランダに出て見た時は、もうどこにもその姿はなかった。







                                         後編へ続く