硝子片の月   《中編》              
      
       


       あれから、俺とナガサカは、急速にその距離を縮める。 


話し込む俺達を見てモリズミは

「何時の間にか仲良しだけど、まさか引抜じゃないよね?」

と、声を顰めて言った。 そして、自分の胸をクイクイッと指で示し

「庶民派ホストを捜してるなら一人知ってるッてカミヤ君、是非言っといて、」

そう言うと俺の腕にトンと肘をぶつける。 即座に 冗談! と笑おうとしたが、生真面目なモリズミを見て、もしや本気かも知れないと思い俺はそれに曖昧に頷く。 つまり俺達は、見たとこそのくらいには仲良しになっていた。

そしてバイト終了直前の23時少し前にナガサカは現れ、お茶を買い、駐車場前のガードレールに腰掛けお茶を飲み、煙草を吹かし、バイトの終わった俺はそこでナガサカと23時25分までを過ごす。 何故25分なのかといえば、半からナガサカのバイトが始まるからだった。 ナガサカは、バイト前にコンビニへ立ち寄っていた。 そしてのんびり人心地つき、それから翌朝4時まで働く。 

「じゃ、昼間は寝てるの?」

「んーそういう日も在るし、時々学校へも行く。」

「え、学校?」

驚いた事に、ナガサカはまだ現役の学生だった。 しかも理工学部とか云う、まるでらしくない分野の院生だった。 

「俺、就職から遠い院生だから割とね暇なのよ、ッてあんまり暇そうにしてるのもアレだからじゃァ働いとけと、」

「でも、客商売だから色々あるんじゃない?」

「そうだねぇ・・・・無くは無いけど、でも、俺ンとこは女の人ばっかだからまぁ、それほど凄い事はないかな、」

「ふうん・・・・」

そういうもんなんだろうか。 男の客だと触ったりエッチな事をしたりでホステスしてると大変なんだろうけど、女の客っていうのは割に大人しいのかも知れない。 それに多少の我侭客くらいなら、きっとナガサカは上手くあしらってしまうだろう。 ナガサカは距離を作るのが上手いから、サラリと親しげに擦り抜けるように、相手に負担も掛けず立ち回ってるのだと思った。 加えてあの見た目なら尚更じゃないか? それだから俺は、ホストとしてのナガサカが実は売れっ子なんじゃないかと密かに確信していた。 そしてそれを裏付ける出来事を、俺はその後ちょくちょく目撃する事になる。 

毎日ナガサカは23時前に現れ、仕事の終えた俺は20分弱をナガサカと過ごした。 ほぼ毎日そうしていたが、だが時々、ナガサカが店に現れない夜があった。 寄り道しないナガサカは真っ直ぐ雑ビルへと向かう。 ただし女連れだった。 尤も俺が見たのは2回だけだったが、相手は2回とも違う女だった。 一人は20代そこそこのスタイルの良い女。 もう一人は40後半くらいのいかにも仕事出来ます風なキャリアウーマン。 女はぶら下るようにナガサカと腕を組み、惜しみなく笑顔を振り撒くナガサカは優雅な足取りで女と雑居ビルに消えた。 

初めてそれを目撃した時、馬鹿みたいに動揺した俺はまるで使い物にならなくなってしまった。 上の空でレジを打ち、客に頭を下げながらもまた要らないミスをして。 結局レジはモリズミが変わってくれたが、そうして代わって貰った在庫チェックにしても、見落としだらけでまたしてもモリズミの手を煩わせてしまった。 そうしてバイトが終わり店を出ても、そこにナガサカは居ない。 ナガサカの居ないガードレール、ナガサカが居る筈のあのビルの三階、見なきゃ良いものをわざわざ見て、わざわざ落ち込んで俺は原付に乗る。 なのに翌日、店に現れたナガサカに、俺は前日の不在を聞けなかった。 

昨日はどうしたの? あれはお客さん? 

訊きたくてしょうがないのに、俺は訊かない。 それはプライドなんだろうか? まるで恋人の浮気を咎めるような質問を友達ですらないかも知れない自分が口にするなんて、何だか俺一人が熱を上げているようで―― いや、正にその通りだという事実を、俺は認めたくはない。 ホストのナガサカを認めたくない。 だから俺はナガサカに仕事の話は聞かない。 聞かなきゃ知らないで済む。 でも俺の知らないところで、女にチヤホヤしているナガサカを認めるのが厭だった。 そんなナガサカは間違っているとすら思った。 

つまり俺は、ナガサカの周りの女に嫉妬していた。 
あぁハッキリ言ってしまえば、俺はナガサカを独占したいのだ。 
あの日一目見た時から惚れていた、所謂一目惚れだった。 

かと云って俺は、自分がホモだとか、そう云うのになってしまったとかは思っていない。 アイドルを見れば可愛いと思うし、好きな女優だって以前と変わらずに居る。 誰かが教室に持ち込んだグラビア雑誌で おォ! と拍手する事もあるし、その辺り全く今まで通りだと思う。 だけど俺はナガサカにときめく。 サラサラした肌に触れてみたいと思い、ひらひらした指先で触れて欲しいと願い、間近で見る唇やふとした時の流し目に心臓をバクバクさせる俺はそんなナガサカをオカズに抜いた事すらあった。 それは酷く後ろめたい半分、かつて無い、頭が真っ白になる快感を俺は体験した。 

そうしてますます、苦しくなった。

                                      **


その日、23時を過ぎても店にナガサカは現れず、俺はモヤモヤした気分のままバイトを上がった。 どうせ女だ。 それが仕事なのだからしょうがない。 だけどボディバッグの中にはビデオテープが一本、今日ナガサカに返す予定だった古い洋画のビデオだった。 借りたのは先週で、昨日の晩、居間のソファーに寝転び父親のビールを飲みながら観た。 

「俺はさ、コレぼんやり観ながら寝るのが好きなんだよね、」 

そう言ったのはナガサカ。 だから、俺はそれに習う。 

エロビデオでもないのに親が寝静まるのを待ち、俺は暗い部屋でビデオを流した。 場所はどこか、外国の田舎。 アンティーク人形みたいな服を着た女の子が星を数えながら縄跳びをしている。 林檎が浮かぶタライ、その中に浸かる女。 同じ名前の三人の女がそれぞれの夫をゲームみたいに殺す。 気味の悪いゲームマニアの男の子。 絵みたいな景色、綺麗だけど恐い、腐ったなにかとか死体とか、消しゴムが写ったり、眠る女が写ったり、正直良くわからない映画だった。 映画の中、1〜100が隠れているからとナガサカは言ったが、俺は幾らも捜せぬまま、気付けばうとうと眠っていた。 確かに眠るにちょうど良い映画だったと思う。 

でも、俺にはこの映画の意味がわからなかった。 

犯人探しでもないし、どんでん返しがある訳でもないし、そもそもストーリー自体あってないような気もして、うっかり眠った十数分、しかし場面は劇的な変化もなく眠る前と同じ謎めいた意味深の継ぎ接ぎ。

ナガサカは、この映画の何が好きなんだろう? 


ナガサカが好きなものは、大抵俺の知らないものだった。 ナガサカはいつも、俺の知らない事を楽しげに話す。 ふんふん話しを聞いた俺は、後でコッソリそれらを捜す。 けれど捜したそれらはやはり、俺には良くわからない物ばかりだった。 でも、わからないだなんて事、俺は絶対言わない。 ガッカリされるのが厭だから、言わない。 ナガサカは俺の事を無口だと言うけれど、俺は決して無口な方ではなかった。 サッカーとかバスケとか俺にもわかるカラオケで歌えるような音楽の話しとか、そう云うのなら俺はもっともっと喋れると思う。 だけど、そう云うのはナガサカとは重ならない。 若いねぇ〜なんてガキ扱いされたら、俺は多分立ち直れないだろう。 喋らないのはナガサカの前だけでだ。 くだらない事を言って幻滅されたくはない、俺はナガサカ好みの話題を持ち合わせていなかったから。 

良くわからない物が好きな、良くわからないナガサカ。 理解出来ない俺は、自分が歯痒い。 そしてこんな時、ナガサカが大人なんだと言う事を痛感する。 俺はまるでお子様な自分を腹立たしく思う。 俺の日常なんて、ナガサカには子供じみて見えるに違いない。 きっとナガサカは俺なんかより、小難しい話ができる大人の相手が欲しい筈なのだ。 大人の、そう、例えばナガサカと歩いていたあのお客みたいな。 つまり、俺とナガサカは最初から釣り合う筈なんてないのだ。


店の外に出てすぐに、俺は居るはずの無いガードレールを眺めた。 薄いボディバッグの布越しに、ビデオの角が腰骨に当たった。 雑ビルの三階には、今日も蛍光カラーの電飾が瞬く。 しょうがねぇよな・・・・ 原付きのキィを回し、溜め息が漏れたその時、思わぬところから呼ばれる。


「カミヤ君・・・・カミヤ君ちょっと!」

ハッとしてあちこちを見回すが、姿は見つからない。 

「……ナガサカさん?」

からかわれてるのかと、少し低い声で呼んで見る。 すると、

「あぁヤッパそうだ、カミヤ君、ここ、路地、」

「路地?」

俺は原付をその場に置き、いつものガードレールの先、路地入り口から中を覗く。 すると入り口から2メートルくらい入ったところで、黒っぽい服を着たナガサカがひらひらと手を振って居た。 表通りの光が僅かに差し込む程度の薄暗い路地、闇に溶け込むようなナガサカのぼんやり浮き上がる白い顔。 途方に暮れたような顔をして、そこにナガサカは棒立ちしているのだった。

「あの、そんなとこでどうしたんですか?」

「来ちゃダメッ!」

「え?」

近くに行こうとした俺をナガサカが制する。

「あぁゴメン、違うんだ。 実はコンタクトがそこらに落ちてる筈なんだ、だからねぇカミヤ君原付だよね? 悪いけど、ここン中照らしてくれるかな?」

そう言ってナガサカは、自分が居る路地を指で示した。 俺は言われるがまま原付きを押し、ナガサカの居る路地入り口まで運ぶ。 

「ココで良いですか?」

「うん、そっから照らしてよ、」

頭を路地の中に向け、エンジンの掛かった原付きが路地裏を照らした。 幅1mちょっとの路地裏、思ったほど汚れては居ないが、空き缶、コンクリの塊、横倒しの捨て看板、狭い通路に散財するガラクタがライトに照らされて歪な影をアスファルトに伸ばしていた。 

「ここ、通ってきたんですか?」

「や、いつもは通んないんだよ、物凄く急ぐ時とかだけね。 ・・・この辺りなんだけど・・・何かに躓いて、ポロッと・・・・」

そう言ってナガサカはしゃがみ込み、アスファルトに指を翳し捜し始めた。

「見えますか?」

「うん、片目は入ってるからまぁ何とか、」

路地入り口側から、俺もアスファルトを眺める。 そうして捜しながら、ふと ―― 今ここにナガサカが居るって事は、何もこんなとこ通らなくても充分バイトに間に合うんじゃないか? ―― と思った。 コンビニに顔を出すいつもの23時前よりかは遅いけど、本来のバイト開始よりはまだまだずっと早い。 ならば、何でわざわざこんな近道を通ったんだろう? ナガサカが物凄く急いだ理由 ―― バイトに間に合わないのではなく、コンビニに寄るのが間に合わなくなるから? それって俺に会う為? ―― 身勝手な想像に、自分でもウンザリした。 でも、でももしもと、密かに期待して血を昇らせ、浮かれる自分が馬鹿みたいだと思った。

そうして、内と外から俺たちはジワジワと進む。 影が邪魔しないように、俺は片側の壁に張り付くようにして進んだ。 壁際にしゃがむ俺のホンの数10cm先、俯くナガサカの小さな頭があった。 

「あッ!」

アスファルトに片手を着いたナガサカの、もう一方の手の人差し指の先、鱗のような硝子がチカリとライトに反射する。 

「やった、あった! 見つかった!」

摘んだ指を突き出して、ナガサカが嬉しそうに俺を見上げる。 一気に緊張が解れた俺は立ち上がり、擦れて白茶けた膝を払う。 ナガサカがひょいと曲げた膝を伸ばした。 そして大きくよろける。

「わッ 」

咄嗟に手首を掴んだのに、他意はなかった。 しかし初めて触れたナガサカに、細い手首の危うさに、俺の中の何かが呆気なく崩れる。 

「アリガト神谷君。 ・・・・あー、膝笑っちゃったよ、」

手首ごと引き上げれば、右手にコンタクトを摘んだまま、見上げるナガサカが乱れた前髪越しに笑った。 綺麗に吊り上がった唇。 開いたシャツの襟元、ライトを浴びてクッキリ浮かぶ鎖骨の艶かしい陰影。 グルグルする頭と飛び跳ねそうな心臓と、何故とかどうしてだとか考えるより先に、もう俺の中で答えは出ていた。 

「カミ・・ッ?!・・・・」

凝視する切れ長の目。 引き寄せ押し付けた唇のしっとりした感触。 身を捩るナガサカだが左手を掴まれ、右手の先にはコンタクト、密着した俺を押し退ける事も出来ず、不安定に背中を反らせたまま浅く息を詰めて真上からのくちづけを許した。 薄い上唇の輪郭を舌で辿り、僅かに開いた隙間を割れば微かな溜め息が漏れる。 互いの舌先が触れた時、ナガサカはもう一度大きく身を捩り、そして不意に緊張を解いた。

「・・ン・・・・・」

鼻に抜けるナガサカの声。 そのナガサカの口腔を探る。 絡めた舌を何度も何度も吸い上げ、歯列を擦るでこぼこした感触にゾクゾク鳥肌が立った。 伏せられたナガサカの瞼、ほんのり赤い目尻。 されるがままのナガサカに俺はどんどん我を忘れる。 けれどナガサカの舌は自分から応じる事はなかった。 

そして俺は手首を開放し、身体を預けたままのナガサカを路地の壁に押し付ける。 解放された腕はそのままだらりと下がった。 華奢な首筋を支え、ヒンヤリした細い髪の感触を味わい、角度を変え執拗に唇を貪る。 ナガサカは全く抗わなかったから、だから俺はその行為を続ける事しか考えていなかった。 唾液が上向いた顎のラインをツツツと流れそのまま首筋を伝う。 それを追いかけるように唇を這わせ、そして鎖骨のラインをキツク吸った。 背中に回した手の平はサラサラしたシャツを捲り、意外に暖かナガサカの肌に触れる。 ビクリとナガサカが震えた。 その時、だらりとさせていた腕が一瞬、俺の背中を掠める。 が、手の平は密着する胸に割り込み、行為に没頭する俺を引き剥がすように押し退ける。 

チュッと濡れた音がして唇が離れた。 俺は濡れた唇をぼんやりと眺める。


「お終い。」

素っ気無いナガサカの、いつもより掠れた声。

「もう良いんじゃないの?」

突き放すように言われ、俺は呆然とナガサカを見つめる。 潤んだ瞳に余韻は残っていたが、そんな甘い蒸し返しが出来ぬほど、ピリピリした剣呑さが目の前のナガサカを覆っていた。 そしてナガサカは自分の右手を見て、その指先に何もない事を認め小さく息を吐く。

「お、俺は、」

「だからもう充分でしょ? したいようにしたじゃん、」

そう言って唇だけで笑うナガサカは、ゾクゾクするくらい綺麗だけどいつものナガサカではなかった。 笑ってるけど笑っては居ない、酷く攻撃的で親しみなんか微塵も見当たらなかった。 そんな初めて見るナガサカに、俺はもう言葉が続かない。 固まる俺の横をナガサカは擦り抜けて歩き出す。 

「待てよッ」

ライトに目を細め、手を翳し、歩き出す細い肩を咄嗟に俺は掴む。 後退りするナガサカの足元で、ガシャリと硝子が砕ける音がした。 気をとられた瞬間、掴んだ腕は乱暴に払われる。

「まだ何か用?」

「俺、ナガサカさんが好きだ、」

一瞬、ナガサカの視線が僅かに俺から外れた。 

「俺ナガサカさんが好きなんだ、ずっと好きだったんだ、だから、」

逡巡する目は目の前の俺を掠めるように揺れる。 が、またすぐに射るような眼差しに戻り、

「カミヤ君、ゲイなの?」

と、ナガサカは問う。 

俺はゲイじゃない。 ナガサカは好きだけど、他に好きになった男はいない。 こんな事したいとも思わない。


「いや、俺はそう云うのじゃなくて」

「じゃ興味本位なんでしょ? だったらもういいじゃない、」

「でも、」

「でもってまだ俺にナンカさせんの? 何で俺がカミヤ君の下の世話までしなきゃなんないの? そこまで義理立てする付き合いでもないでしょ? ・・・・・だいたいさ、俺、ガキの相手苦手。」

そう言って眉を顰めたナガサカは、さも厭そうに顔を反らした。 

そしてすいと身体をずらし、晧々としたライトの向うへと歩き始める。 後姿が語るのはあからさまなな拒絶。 もう、声を掛ける事も追い駆ける事も出来なかった。 取り返しのつかない事をしたのだと悟った。 指は無意識に、唇に触れる。 ついさっきまでココに触れていたのに、この腕の中に居たのに。 見ればナガサカの居た場所が、キラキラ光を弾いている。 屈んで見ると、砕けた硝子片だった。 さっきナガサカが踏んだ奴だ。 キラキラした空色の欠片を、そっと摘み上げる。 間近で見れば薄汚れた欠片だった。 屈めた腰に押し付けられる、鞄の中のビデオ。 返せなかったビデオ。 俺にはわからなかったビデオ。

摘み上げた欠片を、俺は握り締める。 チリチリした痛みを掌に感じ、それが唯一の本当だと、失ったものなど無いのだと、そこに居ない誰かなど最初から居なかったのだと俺は自分に言い聞かせる。 
 

     ―― 100まで数えたら、あとはおなじ ――
 

誰がそう言った?


     いや、俺は何も失っちゃ居ない。 

     手に入れてすら居ないのに、一体何を失うと云うんだろう?




                                                前編へ戻る 後編へ続く