クローバー    《前編
     
            


      一つ葉は孤独。 二つ葉は切ない。 三つ葉の平穏は薄氷のひびの上。

      ―― そして僕らは、




川向こうの工場で、始業時間のサイレンが鳴る。 市民公園の噴水横、忘れ去られたバラ園の脇、10メートル四方のコンクリの上にハルヒはそっと荷物を降ろした。 500mlの緑茶、缶入りのフルーツドロップ、そして革のケースに並んだ48色のチョーク。 土日以外のほぼ毎日、ハルヒはここでコンクリに絵を描いて過ごす。 時々お茶を飲み、ドロップを舐め、伸びをして。 鳩と雀と孤独な老人しか訪れないこの一角で、噴水時計が15時の大発射をするまで、一人、黙々とコンクリに彩色を施すのだ。 それがハルヒの日常であったし、何よりここより他に、ハルヒの居場所はどこにも無かったから。 


この春、母親の再婚に伴いハルヒはこの町へ移った。 再婚相手は地元の資産家で、男にはハルヒより一つ年上の連れ子が居た。 こざっぱり良い物を身に付けた少年は、今まで周りに居なかった上等な匂いがして、だからハルヒは少し気後れして上手く話す事も出来なかったし、向こうからもハルヒに話し掛けてくる事はなかった。 尤も言葉がなくとも、明確な拒絶は伝わる。 少年が、どうやら自分を、強いてはこの縁談を好ましく思って居ない事をハルヒは薄々察した。 あまり近付いてはいけないと、本能が囁いた。 

けれど男と母親は幸せであったし、ハルヒと少年の間に特別トラブルが生じた訳ではない。 ハルヒは良く笑い綺麗になった母親を心から祝福し、同居するのに一つも異論はなかった。 だから同居後まもなく、ハルヒは新しい父親の勧めで、少年と同じ私立高校への編入を決める。 裕福な家の子供ばかりが通うそんな学校への編入は気が重く、せっかく入った学校への未練も、また試験を受けねばならぬ気の重さも無い訳ではなかった。 が、しかし決意をさせたのはやはり母親の笑顔だった。 良い学校へ行けるんだね、お兄さんと一緒に行けるんだね、と喜ぶ母親にハルヒは頷く。 そうして、ハルヒはY学園の制服を着た。 しかし、それを着たのは僅か一週間足らずだったが。

その日、体育の授業を終え着替えに戻った教室で、ハルヒはゴミ箱の中、墨汁に浸る制服を見つける。 制服を置いてあった机には、赤いマジックで 『消えろ』 と書かれていた。 それを皮切りに筆箱、教科書、ノート、上履き、その他色々な物が姿を消し、ロッカーや下駄箱の扉にはバカ、死ね、などの落書きが増える。 これらの問題に、教師らはあからさまな拒否反応を示し 「このような事は過去にない」 「我が校にそんな生徒はいない」 と、暗に被害者たるハルヒ自身の落ち度を仄めかして関わろうとせず、 また級友達もこうした状況に 自分達を疑うのか? と憤り、厄介の張本人としてハルヒを遠巻きに囲んだ。 ハルヒの側にはもう、誰も居なかった。 

けれど物好きな数人が、犯人探しの張り込みを始める。 別段ハルヒに同情した訳でもなく、単に興味本位の捕り物ごっこをしたかったらしい。 彼等はハルヒを立ち合せ、放課後の教室を見張った。 数日は何事もなく無駄話をして終わり、そして更に数日後の放課後、教卓裏に潜んでいたハルヒらは、ついに机に絵の具を搾り出していた犯人を押さえる。 囲まれ小突かれ腕で頭を覆い蹲るのは、ハルヒの兄になった少年だった。 

瞬間、居心地の悪い空気が全体を満たす。 気不味く下を向くクラスメート達を背に、ハルヒは少年の前へ進む。 目の前の少年は蒼白い頬を強張らせ、爪先を睨むようにして黙した。 ハルヒは被害者であったが、怒鳴る事も罵倒する事も出来ず、ただ自分に向けられた純粋な悪意のみを感じ立ち尽くす。 が、先に言葉を発したのは少年の方だった。

「・・・え・・んか・」

「?」

くぐもるように囁かれた言葉。

「・・・・・お前なんか認めない。 お前なんか当たり前の顔して、厚かましく押しかけて、シャァシャァと身内面して、どうせ金目当てで親父に取り入った癖に、」

「ちッ、」

「違うもんか、それどころかお前なんかあの女がそこらの親父とヤリ捲くって出来た子なんじゃ ・・!!・・・」

気付けば身体が動いていた。 馬乗りになり、柔らかな髪を掴み、ハルヒは拳を振り上げ打ち下ろす。 クラスメートの声も、転がる少年の悲鳴も聞えない。 やがて誰かが教師を呼びに行き、引き離されても尚、ハルヒは暴力を止めようとはしなかった。 駆けつけた教師が見たのは、クニャリと転がる少年とその傍らにぼんやり立ち尽くすハルヒ。 教師は何があったのかと問い、クラスメートらは 『少年に何かを言われハルヒがキレたのだ』 と報告した。 が、当のハルヒも少年もその件について口をつぐむ。 何故? と再三問われても、恫喝されても、決して真相を口にはしなかった。 

しかし、結果として少年に暴力を振るったのはハルヒだった。 少年は無数の打撲傷と助骨の骨折を負い、誰にも会いたくないと自室に鍵を掛ける。 実子と連れ子の確執に、父親は無言となり母親はハルヒを責め少年に詫びながら泣いた。 そうして新しい制服が届くよりも前に、ハルヒは学校を辞める。 誰も、それを引き止めはしなかった。 皆、何事もない日常に戻りたがっていた。 その為には邪魔者を排除せねばならなかった。 そうして排除されたハルヒは、どこに身を置くべきか教えられぬままに独りきりの存在となった。 父親はその責任として週に三回の家庭教師を雇い、ハルヒは義務として三年後の大検を目指す。 こうして、たった数ヶ月の間にハルヒは社会から少し離れた。 

だから居場所の無い平日、一人きりでここで絵を描いて過ごす。 誰にも邪魔されず、誰も傷つけず、誰に惑わされる事もなく、大好きな絵だけを描いて過ごす。 

そんなふうに、ハルヒは一人だったけれど、寂しくはなかった。 一人の世界で有り余る時間を自分だけの為に過ごすのは、静かで、生ぬるくて、時々退屈な他は取り立てて困る事もなかった。 だけど、ハルヒは二人に出逢ってしまう。 出逢ってしまったから、目に見えない何かが壊れ、生まれたのかも知れない。



「なぁ、これ全部、君が描いたの?」

不意に手元が翳り、問い掛けるのは張りのある良く通る声。 彩色されたアスファルトの上、染みのように広がる影法師が二つ。 ハルヒは灰色のちびたチョークを置いて、そんな酔狂な通行人を斜めに見上げた。 6月の光を逆行に、鼻眼鏡の男と山高帽の男。 鼻眼鏡の男はしゃがみ込み、蛇と戯れる極楽鳥を繁々と眺める。 動きを止めたハルヒに、山高帽の男が更に問い掛けた。

「これッ、これさ、これエイリアンの卵からビュッと飛び出してきたアレだろ? でソッチはETで、うわ巧いなァ・・で、これこれ・・・コレどっかで見たことあんだけど、イヤもっと寂しい色だった感じで、あーなんだ、なんだッけなんだっけコレ? リュウセイ?」

そう振られ、鼻眼鏡の男がアスファルトの作品から顔を上げる。 至近距離で見る、トボケた眼鏡の奥の一重瞼。 目尻に笑みを滲ませて、リュウセイと呼ばれた男がハルヒに確認するように言った。

「モジリアニの 『ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』 オリジナルより色が明るくなってるけど、ほら職員室に掛かってた奴だよ。」  

「そう、それだッ! いッつも呼び出し喰っちゃソレ眺めて、早く終わらねぇかなァ〜ッてあーやだやだ。 けどリュウセイ、おまえホント何でも知ってるな、そんな何でも知ってるのに何で俺ンちの番号覚えられないんだろう、」

「はは、何でだろう?」

逆光を浴び、立ち上がる影がクロコの掛け合いのように揺れた。 奇妙な出で立ちで、燕尾服を着た二人。 二人ともかなりの長身だったが、山高帽はほっそり鞭のようなしなやかさで、鼻眼鏡はみっしり鍛えた筋肉がその骨格を精悍に飾る。 よく喋る山高帽の男が、鼻眼鏡の男を小突いた。 小突かれ少し屈み込み、男はアスファルでもの思う女を指先で示し、 『このジャンヌなら、一人で生きて行けたのにね。』 と言った。

「だって幸せそうだろ?」

同意を求める目がハルヒを覗き込み、頷くハルヒを見て日焼けの頬と潔い口元が微かに笑みを浮かべた。 


そう、彼女は死ぬべきじゃなかった。 つらくとも悲しくとも彼女は生きるべきだったとハルヒは思っていた。 そしてこの男は多分、この絵の中に自分と同じ事を感じている筈だった。 ハルヒは嬉しい動揺に困惑する。 自分と思いを共有出来る人が、ここに居た。


そうして、良く喋る山高帽の男がひょいとハルヒの手を取ると、物語の王子のように跪き大仰な仕草でお辞儀をする。

「この素晴らしい芸術に、栄えあるゴールデンラビットを贈呈致しますぞ!」

男の手が離れた瞬間、ぴょんとハルヒの掌に現れたスポンジの兎。 えッと驚くハルヒの胸ポケットからもウサギはチョコンと顔を出す。 

「あはは、大成功!」

呆気にとられるハルヒに、得意げな男はサンメイと名乗った。 モデルだといっても通じる、華やかな容姿をした男。 そしてもう一人はリュウセイだと言い、ここで初めて鼻眼鏡を外した。 現れたのは潔さのある若武者のような顔。 兎を一匹摘み、手に平に乗せたリュウセイが言う。

「吃驚したかい? サンメイは手品師なんだよ。」

「で、コイツがパントマイムすンの。 と言っても 《壁》 とか 《エスカレーター》 とかあぁいう王道じゃァないんだな、 《電車の居眠り客》 とか 《寝坊した朝》 だとか、そういう日常ネタをやんの。 ま、つまり俺らね、路上芸人なんですよ。」

さらりとサンメイは言ったが、確かにそうとしか言い様の無い出で立ちではある。 初めて見る路上芸人にハルヒは 「凄いですね」 とだけ伝えた。 それを受けサンメイは 「だろう?」 と悦に入り、 「冗談みたいだろ?」 とリュウセイは苦笑する。 そんな二人は土・日の公園で、半年くらい前から芸を見せているのだと言った。 平日は閑散としているここも、週末は人々で賑わうらしい。 出し物は手品とパントマイムだが、それらはある物語をなぞり演じられる寸劇仕立てのものだった。 普段練習するのは、もっぱら互いの家や大学の空き部屋を無断拝借していたのだが、今日は野外の感覚を掴む為、人気の無い平日を狙いここで練習するつもりだったのだと言った。

「実は前から君の事、気になってたんだ。 あぁ勿論、君自身の事は知らない。 でもほら、絵が残ってるだろ?」

「そうそう、君ここに絵を描くのここ二ヶ月とかそんなだろ? ある日突然の芸術に俺ら吃驚しちゃッてさ、まァその内それが土・日の楽しみになったりして、そんで、こういうの描くの誰なんだろう? どんな奴なんだろう? って興味深々。 やや、思ったより若くて吃驚したよ。 どっちかというとこう、ムサイ系を想像してたから。」

「俺たちね、君に会ってみたかったんだ。」

目標達成! と、サンメイがおどけた声を上げる。 腰を屈めたリュウセイは、また、まじまじと本日の作品を眺める。 ハルヒはこの不思議に胸が震えた。 見た事も無い誰かが、自分の知らぬ場所で自分についての想像を膨らませている。 そうして、会いたかったと言ってくれたのだ。 

「何か、不思議な感じだ・・・・・・」

「ん? 俺らが芸人だから?」

「うぅん、そうじゃなくて俺、ずっと一人で描いていて、ずっと独りだったから、だからなんか、なんか俺の事知らない誰かが見ててくれたんだって思って、それって、」

言葉を詰まらせるハルヒを目で遣って、サンメイがリュウセイを伺う。 そしてリュウセイが伝えたのはハルヒ自身の言葉。

「不思議だよね。 こうして出逢えたのが不思議で嬉しい。」

人は不思議。 出逢う事とは一つの奇跡。 


独りのハルヒはこの時、もう一人を求めていた自分に気付く。 そして図らずも、今この瞬間ハルヒは平穏な三人へと変わった。 変化したハルヒが何を失ったかはまだわからない。 わからないが、もう、独りきりでは無い事は事実だった。 何故ならハルヒは出逢ってしまったから。 だから、

「あ、そうだよ、名前聞いてなかったじゃん、」

「な、まえ?」

「画伯君、僕ら否応無しに君とお友達になりたいから、名前、教えてくれませんか?」

「俺は・・・・・・」

だからハルヒは、二人に名前を告げた。 
そして久方振りに呼ばれた名前は、何故か、酷く切なく感じた。


                         **

こうして、ハルヒの日常に新たな彩色がされた。 まっすぐで、にぎやかで、落ち着きない初夏の午後みたいな二人に出逢ってしまったから、ハルヒは初めて自分の孤独を知った。 と同時に、二人と過ごす心地良さが当たり前になり、三人で見る景色が日常になった頃、たまに向き合う二人と云うのがどこか切ない事も知った。 一つ掛けた二人は寂しい。



「へぇ〜、本日のゲイジュツは美女!」

突然落とされた真上からの声。 見なくたって誰だかは分かる。 目を上げると案の定、燕尾服のサンメイが居た。 山高帽のつばに目元は影になり、薄く形の良い口元がニンマリ小憎らしい笑いを作る。

「ヤヤヤ、ハルちゃんもお年頃かぁ・・・ちょっと熟女入ってるかな〜、ウン、」

「ルノアールだよ、カレンダーとかで見た事あるでしょう?」

「俺、カレンダーは無地しか使わねぇもん、あ、あとヌード! コイツはクローゼットのドアの内側とかに張るのがツゥなのよ、ククク・・・・」

ハルヒは止まらないサンメイのお喋りを聞き流し、まどろむ女の頬に仕上げの珊瑚色を重ねた。 容赦無い陽射しを仰ぎ、サンメイが煙草を咥える。 てらてらした黒い生地は、よく見ると所々ほつれていた。 そしてハルヒは無意識に、もう一人の影を探している。 一瞬、サンメイの視線が斜めに走った。

「リュウセイはパシリ。」

「え?」

「コンビニ寄って来るッて言ってた。 はぁ〜ハルちゃんてば 『え?』 とかトボケてヤだね、バレバレだッつうの、」

「な、何が?」

「何がってリュウセイでしょ? ハルちゃん 『リュウセイが居ない』 ッてウルウル来たんでしょ?」

「・・やだな、変な事言わないでよ、」

「さぁー変かどうかは知りませんが、ハルちゃんはリュウセイが好き。 いつでも何処でも隠してても好き好きビームピカァ〜ッて、俺通り越してアイツの事捜してる。 切ないなァ、コンナに俺、ハルちゃん好きなのに、」

大袈裟に溜め息をつくサンメイは、帽子からハンカチを取り出し目元を拭う振りをした。 しかしハンカチは花束になり どうぞ とハルヒに差し出され、けれどハルヒが受取る直前に消え、伸ばされた掌にはキャンディーが一つ。 

「義理でもイイから飴どうぞ」

「・・いただきます。」

放り込んだ飴玉はパイナップルの味がする。 俺のはイチゴ! とサンメイが舌の上の赤を見せた。 そんなサンメイだから、またこうして誤魔化されてしまうけれど、でも、ハルヒがリュウセイを目で追うのは事実。


二人に出逢ってからの毎日は、目まぐるしく忙しなく時間を追い越すスピードで流れる。 そんな息切れするような日々、サンメイは事有る毎にハルヒ誘い、あちこちへと連れ出した。 ビルの地下で観る前衛的なお芝居、店も客も雑多と無国籍な焼肉屋でのランチ、某巨匠のリトグラフを観たのは教会のような美術館で、気後れするような小洒落たカフェに行けば、ぼんやり溜め息を吐く若手俳優を見た。 スマートな所作で垢抜けてるサンメイはどこに居ても人目を惹き、不思議と場に馴染むのが早い。 サンメイに連れ出されハルヒの世界は広がったが、何故サンメイが自分なんかを誘うのかが疑問だった。


「サンメイ、ホントはモテるんでしょう?」

騒々しいパチンコ屋の店内、咥え煙草で並ぶサンメイにハルヒは声を掛ける。 整った横顔はやけに真剣に、発射され続ける玉を追う。 返事が無いのを肯定と取り、幾分怒鳴るようにハルヒは質問を続けた。

「美人の彼女とかいるんじゃないのかなって、ねぇ、だったら俺なんかじゃなくてそういう人と遊んだ方が良くないの?」

「えぇ? なになに?」

「・・カ ノ ジョ と 遊べば良いのに、」

更に怒鳴っても、声はたちまちに掻き消される。

「彼女? あーハルちゃんイイ事言うな、パチンコは我侭な彼女と同じなのよ。 宥めてすかしてソレェッて攻め時掴まないと、 イヤン! もう嫌いィッ! てなエライ目に遭う ・・・・ッてハルちゃんは彼女とか居ないの?」

「俺?」

逆に質問を返され、意表を突かれたハルヒはシドモドと答えを捜す。 

「お、俺は、あぁ、彼女って言うかそういうのは、」

素直に居ないといえば良かったのだろうが、口から出るのは変に言い訳じみた返答だった。 自分と過ごすサンメイは解せない。 けれどサンメイが自分をつまらない奴だと思うのは嫌だ。 大人のサンメイに、子供だと思われるのが嫌だった。 同年代の社会から弾かれたハルヒにしてみれば、誰しも知っているだろう事を知らず、皆よりとり取残されるのが恐かった。 そんな歯切れ悪く口篭もる様を、サンメイは愉快そうに見つめる。 そしてこんな事を言うのだ。

「ふぅ〜ん・・・・・・。 よッしゃ、ハルちゃんはまッさらと見た! ならば一つこのサンメイに任せなさい! あー人ッてのは巡り会いだよねぇ、縁なんだよ、俺今神様の声を聞いたよ、 「サンメイ、汝ハルちゃんの最初の男になりなさい」 ってアハハ、幸せになろうよ、大事にするからハルちゃん、」

「・・・馬鹿・・。」


けれどその日から、サンメイの口説きトークは始まった。 顔を見れば 『好きだ』 『愛してる』 と飽きもせず、歯の浮くような台詞にハルヒが嫌な顔をすれば、更に嬉しそうに新たな口説き文句を次々と繰り出した。 がしかし、サンメイは動かなかった。 時に際どい台詞もさらりと言うが、その都度怒ったりうろたえたり赤くなったりするハルヒを、サンメイは楽しそうに眺めるだけであった。 それは、ハルヒがリュウセイに寄せる思いに気付いてからも同じ。 ハルちゃんハルちゃんと纏わり付いて置きながら、ふと気付くとハルヒとリュウセイを残し、サンメイはするりとその場を離れる。 そしてハルヒが再び一人になった頃、何処からとも無く現れて 「切ないなぁ」 などと言う。 

サンメイは風だ。 強く弱く熱く寒く、ハルヒを甘やかしハルヒを翻弄する、気紛れで掴み所の無い風だった。 風は一瞬のざわめきをハルヒの中に起こし、スゥッと頬を掠め、流れ、通り過ぎて行く。 留まらないサンメイだから、ハルヒは安心してその場の感情をぶつける事が出来る。 受け止める責任を考えず投げ返す事が出来る。 ハルヒはサンメイに甘えていた。 そしてそんなハルヒをサンメイは甘やかしていた。

けれどリュウセイは違う。 

余程暇そうに見えるサンメイとは反対に、リュウセイが顔を見せるのは週に1〜2回、バイトとバイトの合間にちょっと顔を出す程度。 「アイツはバイトの鬼だから」 とサンメイは言うが、特別贅沢をしている訳でもなく、どちらかというと裕福な家の部類のリュウセイが何故そこまでバイト漬けなのか? ハルヒは疑問に思ういつつ、本人にもサンメイにもそれを尋ねる事は出来なかった。 踏み込んではいけない気がした・・・ と言うより寧ろ、踏み込み受け止める事が躊躇われたのだった。 何故ならリュウセイは水だから。

流れ、染み込み、並々と満たす水は、容赦なくハルヒを流し、ハルヒに染み込み、爪先から天辺まで余す所無くハルヒを満たしていった。 そして水は姿を変え形を変え、その存在の痕跡を残す。 ハルヒはリュウセイの存在を、自分のあちこちに見つけた。

例えばこんなふうに、


「ジャンヌ・エビュテルヌ・・・ハルヒはあの絵が好きなの?」

長閑な平日の公園、ハルヒは跳躍する蛙をアスファルトに写し、写しているのに夢中の振りをして、その癖全身は耳になり、傍らにしゃがむ男の言葉を一音たりとも聞き逃すまいと緊張する。

「す、好きッていうか・・・どっちかというと嫌いかな・・・」

「へぇ、そうなんだ、模写出来るくらいだからてっきり好きなんだと思ってた。」

リュウセイはシャツのポケットを探る。 白地に青いロゴ、金のキャッスルがチカリと光を弾く。 この間、それと同じ煙草をハルヒはこっそり買った。 買った所で吸う訳でもなく、ただ同じ物を手に入れたという小さな高揚と満足感だけの為にそれは机の引出しの奥、大事なお守りのように仕舞い込まれていた。 そんな自分をハルヒは滑稽だと思う。 遣る瀬無く、滑稽。

「・・・・ 俺は、なんであの人は死んだかなって、思ったんです。 散々辛かったり、苦労したり、けどそうまでして好きな人を助けたかったんでしょう? 助けたかったのは、一緒に生きたかったからでしょう? だったら自分は生きなきゃ駄目だって俺、思うんです。」

ハルヒはリュウセイに語り、自分自身にも語る。 

ハルヒはジャンヌ・エビュテルヌの生涯を、酷く理不尽な生涯だと思っていた。 理不尽で矛盾だらけの生涯。 画家モジリアニの愛妻であり、アルコールと抑鬱に溺れ病に取り付かれた男を、最後まで献身的に支えたジャンヌ。 けれど男は不遇なまま、行き倒れ同然に36歳の生涯を閉じ、ジャンヌはその後を追い、数日後にアパートから身を投げて死んだ。 はたしてそれは、美談なんだろうか? 。

「自分が死んじゃ駄目ですよ、絶対。 途中で死ぬって言うのは途中で終わっちゃったって事で、それって悔しいですよね、無念ですよね。 ましてそれが好きな人とかだったら、もし俺なら、その人の途中を絶対、自分が最後まで終わらせて見せるって思う。 後追いしようなんて思わない。 生きなきゃ。 だから、いつも悲しい顔をしてるジャンヌに苛つくんです。 笑ってよって、遣り切れなくなるんです。」

いつだって、生きて幸せになる為に頑張って来たのだ。 男を励まし、勇気付けて支えてこれたのは、他でもないジャンヌ自身が未来を信じていたからではないか? ハルヒの中、ジャンヌと重なるのは父親を事故で亡くした直後の、衰弱し、萎れた母の姿だった。 それだからこそ、たとえ男は死んでしまっても一緒に見る筈だった夢を、未来を、自らが生きて叶えるべきだとハルヒは思う。 

そんなハルヒの言葉に、リュウセイは黙って耳を傾けていた。 
やがて長く、溜め息のように吐き出す白い煙。

「ハルヒの、言う通りかも知れないね。」

「リュウセイ?」

「・・・そうだよね・・・・人は一人一人別物だから、幾ら理解し合っても重なり合っても、二つ纏めて何て事はないんだよね。 例え片方が欠けても、その人の遣り残した事を、残された片方が遣り遂げてあげる事はきっと出来るんだよね。」

言葉は決して軽々しくは無かった。 ハルヒの話しに流れを合わせたとか、そんな上滑りさのない、それどころかリュウセイ自身の奥底に起因する、そんなおろそかに出来ない踏み込めない領域の言葉だった。 

リュウセイはもう一度、 「生きなければならない」 と呟いた。 独白のような呟き。

静かに佇むリュウセイには心に、踏み込めない何かがあるのだとハルヒは感じる。 けれど、ハルヒは触れなかった。 水は、接した者に明らかな痕跡を残すから、触れれば濡らし、流し、いずれその深みに嵌るだろう。 だからこそハルヒは恐れた。 リュウセイを知りたい、もっと近付きたい、リュウセイを独占して、もう、一人きりには戻りたくはない。 ハルヒはリュウイセイを自分に縛り付けて置きたかったが、むくむく広がる独占欲を持て余して恐れる。 それにより自分が何かに飲み込まれる事を恐れ、しかし、気付けばリュウセイという水に溺れ、息が詰まりそうな苦しさを感じた。 

結果、ハルヒはリュウイチの差し出す手を握る事が出来なかった。 勿論リュウセイの接近とは、ハルヒの望む形のそれとは異なる。 しかしリュウセイ自身もハルヒの中に、自分と同じ匂いを感じたのではないかと思う。 だけど疾走するようなサンメイとの接触と違い、リュウセイとのそれはいつまでもいつまでも腹の底にずしりと残った。 だから、ハルヒはリュウセイの手を払った。 

嬉しくてどうしようもない逢瀬を、素っ気無い態度で、愛想の無い言葉で、取り付く島もない態度をとって、ハルヒはリュウセイと苦しい接触をした。 そうでもしなければ本当に溺れてしまう。 真っ直ぐなリュウセイの眼を、見つめる事なんて出来なかった。 そしてその遣り切れなさがサンメイに向かい、サンメイに癒されてるのにも気付いていた。 自分の卑怯さに呆れ、涙が出そうだった。 だから二人で過ごすハルヒは、独りの時より一層、孤独になった。


「ハルちゃん素直じゃないんだもの。」

「ほっといてよ、もう」

ガリリと噛み砕かれたパイナップルの欠片。 好きなのにぶっきらぼうなハルヒを、サンメイが非難する。 

「あーホントに遣り切れない、浮かばれない、何で皆あの男にピピピと来るかね? リュウセイなんか無駄に優しいわ、好き嫌い無いわ、年寄りに席譲ンの上手いわ、野球は補欠の癖に試合前には手弁当どっさり貰うわ、」

「普通にカッコ良いじゃない、それ、」

「あーそうも言う。 要するにえらくおモテになるんだよリュウセイは。 ・・・・・けども、いくらモテたってハッピィになれなきゃ意味ねぇだろ?」

不意にトーンダウンしたサンメイの語尾。 その違和感に目を遣れば、ぶつかる眼差しにサンメイらしからぬ微かな動揺が走る。 けれど一瞬。 再び口を開けば、いつものハイテンションなサンメイだった。

「なぁ聞けよハルちゃん、俺は御得だよ、得も得ッ! 奥様が開店二時間前から並ぶッちゅう、そういう破格な御買い得じゃねぇかな? 事実、俺はヤツより足が長いし体脂肪も少ないし親父譲りの金持ちだし母親似のこの美貌! おまけに優しくて キャ〜サンメイ君ッてオモシロォ〜イ! ッてギャグのセンスも抜群。 なのに所詮 『味のある顔レベル』 で、趣味バイトで、散歩が似合う爺臭い落ち着きようのリュウセイ如きに、何故こうも負け続けるのかが解せねぇよ、わかんねぇよ、やってらんねぇよ、畜生。」

ダンと足を鳴らすサンメイだが、言葉と裏腹ハルヒが思う以上にリュウセイを理解しているのだと、ハルヒは何となく思った。 と同時に、サンメイが時折見せるリュウセイへの遠慮、微妙な躊躇いとは何か? サンメイはリュウセイの何を知っているのだろう?

「サンメイって、喋り過ぎなんじゃないの?」

「えぇッ? リップサービスはモテル色男の嗜みでしょう?」

「でも、カッコ良い人が喋り過ぎると有り難味が無くなるかも知れない。」

「・・・・・・ なるほど、」

神妙なサンメイの肩越し、小さな子供が噴水で遊ぶのが見えた。 黄色い帽子が向日葵のように映える。

「じゃ、コトバ必要最低限ってとこで、なァハルちゃんココらで真面目にお付き合いをしよう、取り敢えずチュウからでどうだろう?」

傾けた頬をクイクイと指で示すサンメイ。 馬鹿、と発する言葉より先に、ハルヒはその人影を見つける。 風を孕む白いシャツ、黒いTシャツ、ジーンズの足は大股に。 ぶら下げたビニール袋の中には、水滴浮くペットボトルルとアイスキャンディー、

「おッせぇぞッ!」

笑いながらサンメイが怒鳴る。 

そしてハルヒは眩しくて、もう一匹の蛙を空の蒼で塗った。


                                         後編へ続く