カノンは眠る   − 後 −
                                        
                                   

        
不協和音を取り除くのです。 始まりですか? 流れですか?



 通勤帰りのくたびれた客が居眠りをするバスは、古びた商店街を通り抜け、住宅地の外れに停まる。 自宅からは40分、学校からなら電車を途中下車して乗り継ぎ20分弱、修一は、この道を通うようになった。 木造の古い住宅、トタン屋根の古いアパートが身を寄せ合うこの界隈は、修一の住む町とは空気が違う。 どこかでカレーの匂いがする。 ぎゅうぎゅうに詰り、密度の濃い人の気配が、それらの狭い部屋一つ一つに満ちていた。 

 その一つ、木造二階、無理な増築でやや傾いだアパートの一室に、パクは一人で住んでいる。


 あの朝、パクはまだ眠る修一に言った。 

 『ココの裏を突っ切っていけ。 ぶつかる大通りを右、二つ目の交差点にバス停がある。 時間掛かるけど、オマエ、公園、通りたくないんだろ?』


 修一は、パクに教えられた通り、バスで自宅へと戻った。 早足で道を急ぎ、人の顔など見る事が出来なかった。 バスに乗った瞬間、わっと叫びそうになり、喉に留め拳を握った。 母は急な友人宅への外泊をたしなめ、泥汚れが乾いた服を怪訝な顔でどうしたのかと問う。 悪ふざけしたのだと笑って見せた修一は、風呂場で脱いだソレを全て、こっそり裏のポリバケツに捨てた。 

 生温い湯船に浸かり、痣と擦過傷だらけの身体から思わず目を背け、しかし意を決してそれを指で辿る。 畜生、畜生、ゴシゴシと擦っても消えないそれは醜く、修一を彩る。 涙を流す自分が腹立たしく、惨めさに歯痒く、どぼんと湯船に潜った。 膝を抱え、生温い湯に潜り、思い出すのは、低く静かな癖のある声。 


 ― −−  何でもねぇ、何でもねぇさ、明日になったら全部忘れるさ、 ― 

 忘れられるわけはないが、そう言って欲しい。 水を掻く腕は、あまりに脆弱だった。 脆弱な己を引っ張り上げる、あの、厚みのある太い腕が欲しかった。 明日からは何でも無いんだろ?なぁ、と、あの声に念を押され、もしかしたらホントに何でも無いのだと、修一は強引にでも思い込みたかった。 

 だから、修一は、逢いに行く。 学校帰り、駅二つ先で下車したそこから、あのバスに乗り、震える膝を叱咤して、修一は、パクの住む部屋のドアの前に立った。


 チャイムなど無いドアをノックして、応答の無いドアに凭れ掛かり、息を吐くと緊張が解けた。 隣接する同じような古いアパートの軒先、野晒しの三輪車と正体不明の枯れた植木鉢を眺める。 そこに、小さな子供が住んでるようには思えなかったが、とっくに、大きくなってるのだろうか。 

 ふと、パクも、こんな風にここで育ったかなと思った。 狭い日当たり悪い部屋で、小さなパクが、泣いて暴れる母を抱き締め、何でもない何でもないと、狼みたいな光る目をして幾度も幾度も繰り返すのを、思い浮かべ胸が詰った。 ならば、パクは誰に抱かれ、泣いたのだろう。 

 こつんこつんと鈍い金属音がして、錆びた階段を上ってきたパクが、狼のような眼でドアの前の修一を認める。 汚れた作業服に、弁当屋の袋をぶら下げたパクは、修一を認め、少し目を見開き、しかし何も問わず、入れよ、と開けたドアの向こうを顎でしゃくり促した。 修一は、行き道に買ったジュースのボトルとスナック菓子を差し出し、薄暗い部屋に足を踏み入れる。 敷きっぱなしの布団、小さなテレビ、10年以上は変化が無かったような、質素な部屋で、二人は話す言葉も少なく、数時間を過ごした。


 随分と年上に見えたパクは、中卒で働き始め、まだ二十歳になったばかりだった。 社会に出て稼いで生きるパクは、もう、子供の域ではない。 オマエには、オマエに合った生き方があんだろ? と、ボトルのお茶を飲む表情が酷く年寄りに見えて、ジジクセェ・・ともらした修一に、子供の顔でパクが笑う。 パクは、何故来たか、この間の晩何があったかなど、修一に尋ねなかった。 修一も、話さなかった。 20時前、生徒手帳にメモしたバスの時刻を確かめ、腰を挙げる修一に、パクが言う。


 『次来んなら、鍵開けて入っとけよ、鍵は、知ってんだろ?』
 『・・・有り難う・・な・・ あのさ、俺は・・ 俺は変か?  俺は、女みたいか?』


 『変じゃねぇよ、女にも見えねぇし、オマエみたいな女、オレはゴメンだよ。』


 薄く笑って、修一は部屋を出る。 

 − −− やり切れねぇよ・・・  −−−  パクは大きく息を吐いた。 厄介なのに懐かれたと思った。 ああ云うのは見ちゃ居られねぇと思った。 しかし、放っても置けないのは覚悟した。 そんな風に、二人は奇妙なバランスで、時間を共有する。 


 修一は、塾を辞め、週二回のカテキョに切り替える。 個人的に、聞きたい事が増えているのだと母親に言うと、すんなりそれは叶えられた。 味覚は、あれきり一切感じず。 臭いは分かっても味はしない。 時折うなされる修一を隣室の姉は心配したが、曖昧に笑って誤魔化した。 人ごみは怖い。 何所かで、あの男が見てる気がした。 交通量の多い場所も、人通りの少ない道も、掌に背中に嫌な汗を掻き走り出したくなった。 しかし誰かに、言える筈が無い。 

なるべく遠方の大学に進みたかった。 名前の一応知れた関西の大学を進路で選んだのは、ここから離れたい一心で。 秘密を抱える修一は、パクを拠り所にした。 秘密に関わってしまったパクは、修一を抱え込んでしまった。 共通の秘密が二人を引き寄せあい、小さな緊張と、共依存の安堵を生む。 古ぼけたアパートの一室が二人にとっての自由であった。 そこでなら、二人は誰からも追い立てられず、息を吐く事が出来た。 


 『パク、前さ、オマエにはオマエに合った生き方があるって言ったろ? 俺に合った生き方ってどんなのかな?』

 『そんなの、テメェが考えるこったろ?』

 『じゃ、パクらしい生き方ってどんなの? パクはこの先も現場で働く?』


 ぼんやりテレビの画面を眺めていたパクが、すっと目を細めた。 


 『 ・・・・そりゃ、無理だろう・・・・・ 現場は、年取ったら出来ねぇ。 無茶して続けても、オレは監督にはなれねぇ。 ・・・・始まりが違うんだよ、つまりは。 在日で、中卒、身内無し、コネ無し、どれか一個でも充分、オレは企業ってのの中で、人の上には立てない仕組みになっている。 国って後ろ盾もないしな、かと云って金って後ろ盾も今、俺には無い。 けど、それは、オマエとかの生きる流れにオレが入り込もうとするからで、オレに合った流れで、オレに出来る出世を考えれば、そう悲観もするこたネェんだよ。 ・・・・・・・ オレは、金貯めて、商売をしたい。 屋台でも、良いし、兎に角、自分の店を持つ。 自分の流れの中生きれば、オレは自由に進める。 オレは誰かの上に立つ事もないし、誰かに動かされることも無い。 オマエにもあんだろ、そう云う、自分が生き易い流れが。』



 そんな会話を思い出したのも、きっと、流れなんだと修一は思う。 

 だから、修一は、パクに打ち明けた。 
 秘密を葬る為の、もう一つの秘密を打ち明けた。



     
それでも、旋律が乱れるなら、それは主題が間違っているのです。



 恩人の羽柴君。 唐沢家で、その名が父から出ない日は無い。 父の危機を救ったその若く有能な男の話題は食卓のお馴染みであり、その年若い男と父は、ゴルフに釣りにと、親交を深めていた。 家族の誰もがその、まだ見ぬ男に感謝をし、世の中には良い人が居るものだと、性善説を信じ始めていた。 物事の裏など、知らなければそんな物だ。

 日曜の深夜、ゴルフコンペの帰り、飲み過ぎた父を送り届けたのは、件の男、羽柴孝夫であった。 よろける父の肩を支え、夜分恐れ入りますとにっこり笑うその男を見て、修一は血が凍った。 忌わしい爽やかな笑み、奥でヒンヤリ刺すような目。 膝が震え、指先が冷たく冷えた。 挨拶もせんで! と、たしなめる父の声が水の底のように遠くで聞こえた。 男と母が、両脇に父を挟み、二階の寝室へと運ぶ。 修一の横を掠め、男がツ、と視線を合わせ、素早く耳元に注ぐ。

 『 ・・・・・・ 待たせたね・・・』


 喉が引き攣り、叫ぶ言葉が糸屑みたいに丸まり固まる。 何もかも、ぶちまけて、何もかも置いて逃げてしまいたい。 やがて、母と男は楽しげに談笑し、階下へ降りてくる。 寝巻きの上にカーディガンを羽織、姉が愛想良く男に挨拶をする。 母は男に礼を言う。 自分の息子をレイプした男に、母は感謝しているのだ。 姉は、御噂はかねがね、と微笑む。 棒立ちする修一に『はじめまして』と、爽やかな男が右手を差し出した。 修一はぼんやり眺める。 

 おまえこの手で、何をした? 

 殴りつけられた鼻の痛みがツンと甦った。 身体中に色を残した、指の痕、醜い痣を思い出し、思わずジリジリ後ずさる。 シュウ、寝ぼけてるの? と姉の声。 寝ぼけてるんならいっそソレが良いのに・・ しかし寝惚けなどではない、今突き付けられたこれは現実だ。 悪魔に捕まったんだろうか? 半年振りの悪魔は、修一を追い詰めたのだ。


 悪魔、羽柴はその手を緩めなかった 画策は家族を捲き込み巧妙に、着々と勧められた。 羽柴は恩人の名を大いに振り翳し、姉、佐和子へのアプローチを隠そうともせず、父には佐和子との仲を取り持つよう暗に示唆するようになる。 付き纏う羽柴に姉は、かねてからの若林との交際を理由にやんわりと拒否を示すが、羽柴は 「待ちます」 の一点張りだった。 しかし、待つだけの筈が無い。 電話、メール、高価なプレゼント、家族ぐるみでの食事への招待。 

 ついに姉が、羽柴の執拗なアプローチに困り果て、父に泣き付く。 大学前で待ち伏せをされるのだと、姉は訴えた。 困惑する父は、羽柴に姉を諦めてくれるよう伝えるのだが、そうですか、と薄ら笑う羽柴は、ここぞと父に圧力をかけた。 それは若林が自宅付近の路上で当て逃げされ、打撲と骨折で病院に担ぎ込まれるのと、ほぼ同時期の悪夢だった。

 父の担当する欧州ブランドの幾つかが、相次いで小さな発注ミスを重ねるようになった。 幾つかは直前に発覚し、しかし幾つかは、致命的ではないが、少なくない損害を被る結果となる。 担当社員を問い詰めても、確かに確認は怠っていないのだと首を傾げ、実際、最終チェックをする父にしても、不可解な幾つかが疑問ではあった。  PC入力されるそれは、パスワードで開かれ、ソレを扱うのは担当社員と父のみ。 担当社員のパスワードを父は知らず、しかし、父のパスワードがあれば最終チェック以降もそれを書き換える事は出来る。 


 ―― そう云うのうっかり忘れちゃうでしょう? 僕は、昔住んでた家の電話番号なんですよ・・・


 父は、ふと思い出す。 いつだったか、パスワードの度忘れについて、羽柴と話し、その時父は自分も忘れる方だから娘の誕生日を使ってるのだ、と 話した事があった。 姉にアプローチし続ける羽柴が、姉の誕生日を知らぬ筈がない。 しかし、だからといって、羽柴が画面を改ざんした証拠もない。 そう、証拠など何処にもないのだ。 修一を襲った出来事も、若林の事故も、今回父が抱えた細かで厄介なアクシデントも、そもそもそこに羽柴が存在するその理由でさえ、問い質せる確かな何かなど一つも無かった。 何一つ証拠は無いけれど、疑いの芽は水面下でそれぞれの弱さを蝕んでゆく。 表面では変らずも、父と羽柴の間にも、一種の緊張が生まれていた。 


 その頃から自宅には、無言電話が掛かるようになった。 深夜に数回、それは唐沢の家に響く。 それが羽柴だという事を、修一は知っていた。 何故なら、修一が出るそれは無言ではなかったから。 


             ―― ・・・・・・・・・・・・・・   キミノコトヲヒトリジメシタインダキミトノアイヲタシカメタインダ
                              キミハボクヲジラシテイルンダロウツカマエタ
                              ツカマエタ
                              ツカマエタツカマエタツカマエタ
                              ツカマエタツカマエタツカ
                              マエタツカマエタ
                               ツカマエタ
                              ツカマエタ
                              ツカマエ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                  ―― 

 声に出せない恐怖に、修一の内側が切り裂かれる。 

 助けて、助けて、助けて!!


 修一は、学校と自室以外、神経を尖らせねばならぬ日々を送る。 あの日、深夜に羽柴が訪れたその翌日、通学路の路肩に濃緑のジャガーを見る。 シャドウ硝子で中は見えないが、無言の脅迫に耳鳴りを覚え、カタカタ震えはじめた身体を叱咤し、今にも叫び喚き散らして走り出したいのを修一は必死で堪えた。 何かの間違いだと思いたかった。 単に偶然同じ車種を見たのだと思いたかった。 けれどそんな希望など、砂糖菓子のように崩れる。 それ以後、修一は、行く先々で濃緑のジャガーを目にするようになる。 いつも、同じ濃緑のジャガー。 何度か家に横付けされた、羽柴のそれと同じナンバープレートのジャガー。ナンバープレートには見覚えがあった。 

 通学路で、家から外出するその先で、脅える修一の視界に入るように、チラリとでもそれが確認できるように停車してあるそれに、修一は足を竦ませる。 けれど、別に、何をされたわけでもない、犯罪ですらない。  しかし、修一はその頃から匂いを感じなくなった。 味覚に続き二つ目の感覚を失い、一人での外出時、しばしば眩暈と吐き気に襲われ、毎日の通学にすらそれまでの倍以上時間がかかるようになった。 人が怖くなり、クラスで孤立するようになった。 見えない悪意に追い詰められていった。 何もかもが、羽柴の作為に満ちていた。

 修一は、自室で子供のように震え、声を殺し嗚咽する。 通学の行き帰りを見張られては、あの心休まるアパートへも行けない。 パクと容易に逢う事が出来なくなったのが、何よりも辛かった。 唯一の拠り所を失い、ならばいっそ羽柴に縋れば良いのかと、修一は思考の泥沼にずぶずぶと沈む。 こんなじゃない、こんなじゃない筈だ。 本来、修一の人生には、修一に合ったものが用意されていた筈だ。 なのに今、この流れは何なのだろう? これは正しい流れではない。 これは歪に捻じ曲がった流れ。 修一の人生を羽柴に委ねるべく、無理矢理に捻じ曲げられた流れである。 

 間違っている。 

 故意に捻じ曲げられた、全く悪意に満ちた流れ。 
 そして今にもそちらに流れて行きそうな自分に脅え、吐き気を催すほどの自己嫌悪に苛まされる。

 このまま自分の人生を羽柴に引き摺られるのは、なんとしても避けねばならない。 その為に自分は何をすべきか、何が出来るのか、修一は震えるばかりで無く、先に進む事を決意した。 それが世間で正しいかは疑問だが、正しさは一つの基準では図れない。 修一は自分にとっての絶対を、真っ直ぐに信じて行こうと思った。 そしてそれは、真っ直ぐに信頼する唯一の存在の助けを借りねば成就しない未来であった。



     
主題が間違っているならば、やり直せばいいのです。



 S県郊外、寒波が上空を覆う、氷点下の深夜、修一は額に汗し、スコップを振るった。 


 寒さなど、闇夜など、そんな物は恐れる物ではない。 寒さは動けば凌げる、闇はいずれ明ける、しかし、真の恐怖は脅かす物。 ―― もう、いいだろう ―― パクが穴の縁に立つ。 そして、二人は、脅かす物をそこに落とした。 鈍い墜落音が、やけに大きく響き、修一は闇雲に土をそこに盛った。 二人で土を盛った。 

 もう、後戻りは出来ない。
 そして、先に進むのだ。 やり直したら、進むのだ。



 修一が姿を見せなくなって二ヶ月近くたっていた。 何かあったのか、もしくは、もう、自分を頼らずとも進む方向が見えたのか。 もともと友情とは少し違った関係ではあったが、同世代との交流の薄いパクにとって修一との時間は、穏やかで心地良い物だった。 頼られるのも、悪くないと思っていた。 パクにとっても等身大で自分を語るのは、修一だけだったから、パクは今少し変化が出てきた自分について、修一に聞いて貰いたかった。


 パクは、来年、3月に北海道の現場に行く事になった。 一年という長期に渡り、作業する事が可能な、現場経験がある作業員、その条件にパクは乗った。 きつい内容に伴い、賃金は此方の仕事に比べ破格に良い。 パクは、そこで一気に金を貯め、今までの貯金と合わせ、ホルモン焼の店を出そうと考えていた。 パクは所帯持ちでは無いし、喰う寝る所が保証される北の現場で、使う金の出口は無い。 金を貯めるには持って来いではないか。 

 ホルモン焼は懐かしい母の味。 安い臓物を少しずつ買って、祖父母譲りのタレで漬け込み焼いてくれた。 パクは、そのタレを作る事が出来る。 パクの温めてきた夢が、ようやく近付いた事を、修一に話したかった。 このまま、数ヶ月たち、修一に会わぬまま北へ向かうのは、躊躇われた。 

 今日も現れないのか・・と、帰宅したパクは、ドアに鍵が掛かっていないのに気付く。 部屋の中、ダッフルコートを着たままの修一が、小さな電熱ストーブにあたり よお と、片手を上げた。 久し振りに見る姿は酷く憔悴していた。


 『パク、頼み事、聞いてくれないかな・・・』

 修一は、おもむろにそう、切り出す。 
 戸惑うパクに構わず、浮かされたような目をし、修一は続ける。


 『来週の土曜日、18時から深夜まで、俺の部屋に居て欲しいんだけど・・・』


 見つめる修一の眼の下は、土色の隈が浮いている。 サラリと口にするが、きっとこれはそう容易いお願いではない。 こいつも、覚悟を決めたのか? パクは、修一の目を覗き込み、条件を出す。


 『・・・・・・ 頼み事、あぁ、任せろよ、けど、その前に聞かせろ。 オマエ、何をしようとしている? 一体何にやつれた?』


 瞬間、修一の表情が強張り、くしゃっと泣き笑いになった。 ハの字の眉の下で、懇願する瞳が焦点を滲ます。


 『俺、あいつを殺そうと思うんだ、あいつを殺して、俺は元の生活を取り戻す。 俺は、でないと俺はアイツに引き摺られてしまう。 引き摺られて捻じ曲げられて、もう、まともではいられない、もうまともじゃないんだ、ずっと見張られている、ずっとあいつに見張られている、今日も授業を抜けてここに来た。 でないと、あいつは下校を見張る。 気が狂いそう。 俺、もう半分おかしいんだよ、狂ってるんだ、狂っちゃったよ、助けて、助けてよパク、お願い、手を貸してくれ、お願いだ、お願いだよパク、お願いだ、お願い、もうこれきりだから、これで終わりにするから、お願い、パクだけなんだ、おまえしか居ないん・・・・・・・・』

 次第に落ち着きを無くし、指先からの震えを自らを抱き締める事で押さえようとする修一の話をパクは辛抱強く聞いた。 

がしかし、うわ言のような語尾が掠れた嗚咽に代わり、咽喉の奥をヒュッと鳴らして大きく頭を降る修一はもう限界だと思えた。 だから、その身体を抱き寄せた。 グロテスクなほど骨の浮き出た身体を、まるで厚みの無くなった細い身体を抱き締め、背を摩り、あの時のように、大丈夫大丈夫とパクは泣きじゃくる修一に繰り返し繰り返し囁きつづける。 パクに縋り付き崩れる身体は、あの日宥めて抱き締めたそれよりずっと心許無く不安定で、身体の傷こそ無いが、見えない柔らかな内部を深く抉られたであろう修一の切迫を物語る。 ひとしきり泣き、修一は、パクに身を寄せたまま、あの夜の事、二月前の悪夢、そして、今回の計画を語った。 不思議と、動揺の無い自分をパクは冷静に見つめていた。 どこかでこんな結末を覚悟していた自分を、パクは確信していた。 パクは、最後まで黙って耳を傾けてから言った。


 『S県に、調度良い場所を知っている。 あぁ、オレが付いて行くから心配するな。 前に行った時は**駅からの夜行でそこまで行った。 おまえの家を深夜に出ると、ちょうどそれに飛び乗る事ができる。 あっちで落ち合うにはちょうど良い時間だ。  それで、終るんだろ? 終らせよう。 オレは、三月、北海道に行く。 だから、もう、オマエとも逢えないかも知れない。 そんな顔すんな、そもそもおまえと俺に接点は無い。 無いけど出会っちまったからな、だけど最後だからな、おまえに出会ってこれが最期だからおまえのこれからの為に、俺も、手伝うさ。』



 そうして二人は計画を寝る。 修一はその日、無断外泊をした。 後悔は無い。


 土曜、修一は頭痛を訴え、自室に篭った。 母親は夕食前に内線で「吐き気がするから夕食はいらない、もう寝る」と 受け、静かになった部屋は21時近くに一度、トイレに行き来する物音を立てた他、静まり返っていた。 翌朝、遅い朝食に起きた息子のやつれた顔を見て、医者に行くか? と母親は問うも、修一は気だるげに首を横に振り、ホットミルクを口にした。


 パクは、21時前、わざと音をたてベッドから降り、廊下向いのトイレへ向かった。 そして、布団に潜り、腕時計を睨む。 約束は12時。 そして23時半、階下の母親が就寝したのを見計い、そっと部屋を抜け出した。 窓から庭へ、民家を数件通り抜け、隠しておいたボロイ乗り捨て自転車で二駅先までがむしゃらに疾走する。 時間は待ってくれない。 今このチャンスを逃す訳には行かない。 真冬の空気に鼻がもげそうになるが寒いとは思わなかった。 こんなにも誰かの為に動くのは、生まれて初めてだと思った。



 20時、混み合うハイウェイの公衆電話から、修一はダイヤルをプッシュする。 悪魔に魅入られたなら、逃げても無駄だ。 悪魔を誘き寄せ、すみやかに祓わねばなるまい。 誘き寄せる自信はあった。 何しろ餌は自分だ。 そして、案の定、悪魔は話に乗る。 21時半悪魔は修一に逢いに現れる。 仲間から離れ、殺されに来てくれる。 


 修一は電話をきると、素早く車に乗り込んだ。 姉の車を無断で借りた。 不便だ不便だと家族のぼやいていた遠い駐車場が、今日ほど有り難いと思った事は無い。 姉は、社員旅行で今頃温泉に浸かっているだろう。 その隙に拝借した車は後部がたっぷり広く、計画には好都合だった。 免許は無いが、以前、友人の兄らと遊び、ふざけて運転をさせて貰い、オートマの運転には自信がある。 N県の大型スキー場まで、飛ばせば3時間掛からない。 そして今はもう半分にも近づいている。 ゆっくり数回息を吸い込み、修一は再びエンジンをかけた。 この先に、本当の明日があるのだから。



 21時31分、N県のスキー場で、嬉々として友人らから抜け出した男は、側頭部を殴打され、意識を失う。 待ち伏せた少年は、ビニール袋に詰めた雪をザラザラとそこらに捨てた。 そして、男の腕、脚、口をテープで固定し、レモンイエロウのスキーウェアーを着てアシカのように転がる男を、停車しておいた車の後部に積んだ。 吹雪き始めた雪が容赦なく剥き出しの頬を叩く。 雪は、何もかもを隠してくれるだろう。  車は、雪道をS県へと向かう。



  最後の土を均し、終ったなと、パクが、呟いた。 
  有り難う と、修一は答えた。 

 始まりが間違ったから、やり直すことにしたのだ。 本来の調和が捻じ曲げられたから、折り曲げようとする悪意ある力を今、葬ったのだ。 もう、これで、本当に終わりだと、修一は思った。 サ、急げ、とパクに促されるまで修一は足元を眺め笑った。 可笑しくも無いのに、楽しくも無いのに、笑いが溢れ、止まらなかった。 

 ホラ終わりだ、ホラ、もうお終いだ!!


 あの日捻じ曲がって、耳障りな旋律を奏でた、悪意あるカノンは、終ったのだ。

 忌わしい主題は、この、足の下で眠る。




 ハンサムな若社長、羽柴の失踪は、ちょっとした事件にもなった。 しかしその後強迫めいた動きも無く、大人が何時の間にか消えたという他、何も手掛かりは現れず、二ヶ月も経てば、報じられる事も無くなった。 羽柴の社会的地位からすれば、些か呆気ない終わりの気もしたが、このままいっそ掘り返されたくない澱みが、羽柴サイドの周辺にあるのだろうと、修一は不安定な心に折り合いをつける。 

 だから、気に病むことは無い。

 春は、確かに遣って来た。



 3月、予定通りにパクは何人かの仲間と北海道へと向かった。 

 修一の姿は、あの晩以来見ては居ないが、出発前夜、何時の間にかドアノブに、カップヤキソバが十数個詰ったビニール袋が下がっていた。 頑張れよ、とパクは呟いた。 修一に向けて、そして、自分に向けて。


 3月末、修一はK府のアパートに荷物を運び、雑多とした物に囲まれ、しかし満足げに部屋を見回す。 

 新しい生活、新しい自分の世界。 何もかも、満足だった。 まだ寒い室内、吐く息も白く、エアコンを付けるまで、炬燵とストーブで過ごそうとそれを荷物の山から引っ張り出す。 


 思うのは狼の目をした、懐かしく、頼もしいパク。 

 いつか、もっともっと自分が大人になり、全部本当に過去に出来たとき、パクに、いつか逢いに行けるだろうか? 突然逢いに行く自分を、あの目は凝視して、少しは吃驚するだろうか?

 それは、酷く楽い未来だと思えた。 楽しいワクワクする未来。 
 屈託無く笑える日々を、一緒に作ってくれたパク。


 ねぇパク、流れは、これで正しいんだよ。 君が一緒に作ってくれた、僕らの正しい未来、正しい旋律。




 春は、間違い無くそこに来ていた。



 新たに繰り返され、重ねられるメロディは、
 間違い無く正しく、確かに、美しかった。




 それだけは、譲れない、真実。






December 16, 2002




      *  『カノンは眠る』 と云うタイトルで金魚と愛人的シリアス。

         冒頭が、火曜サスペンス。 じきにカタヒラナギサが出て来て色々仕出かすと思われ