カノンは眠る     − 前 −
                                    

                               


        5月19日、昇り始めた日が地中を暖め、眠る何かの発露を促す朝。 


 S県郊外、愛犬の散歩に息を上げた川渡慶介は、ぬかるむ道に顔を顰め、その横、小山のように積み重なる残土の山を、忌々しく眺めた。 二mほどの柵を軽く越え、日々トラックが運び込む土の山は、大きく高くなるばかりだ。 二晩続いた豪雨に流れた残土の山が緩やかに削れ、その中腹に咲く黄色い花が、奇妙な鮮やかさで慶介の目を奪う。 黒く湿った残土に、鮮やかな大輪の花。 ほう、と目を凝らし、慶介は低く声をもらす。 犬は先を急かし、立ち竦む飼い主に固い頭を擦りつける。 その飼い主は、当分動けない。 

 あれは、花ではない、手袋をはめた、黄色い手、人の手であったから。 
 土の匂いに大喜びの犬が、数回吼えた。



     
美しく繰り返される音色を取り戻すにはどうしたら良いですか?


 唐沢修一は膝に広げたロードマップから視線を上げ、庭の奥、離れから流れる緩やかな優しいチェロの音に耳を傾けた。 姉の佐和子が、それを弾くのは考え事が煮詰まった時と失恋した時である事を、修一は知っている。 静かに始まる主題は繰り返し繰り返し水面を渡る風のように細波立て繰り返し、いつか美しい終焉へと向かう。 

 美しい主題は、正しい調和をもってして、初めて、その美しい色と景色を見せてくれる。 最初が正しく、間違いなければ、ずっと、それは波のように繰り返される幸福と転ずる。 そんな風に、物事を良き方向へ進めたいと願う姉の気持ちが、修一にも痛いほどわかる。 唐沢家の風は、その年予期せぬ形で主題を変え、悪しき方へと道を定めた。


 始まりは一つのウィルスだった。  

 父 博史が、ヨーロッパ市場に手を広げ、コネクション作りに奔走したのは2年前。 栄転か左遷かと噂された大勝負に父は望み、そして今年、ワインブームの波に乗り、王室御用達でも知られるR社、W社の乳製品・加工製品の独占買い付けが実を結ぶ。 商品は、大手デパート数社での取り扱いも内定し、社を上げてのプロジェクトチームも新たに編成された。 

 父の昇格はほぼ決定し、姉佐和子は兼ねてより交際のあった若林との結婚を父に仄めかす。 弟修一は大学を受験を来年に控え、模試に予備校にと忙しい日々を送っていたが、都心からやや外れたキャンパスは通学に二時間弱かかり、それを機に一人暮らしをするのだと申し出て、受かっていればね という、ほぼ賛成の意見を得たとなれば、今努力する少々の苦労は厭わない。 未来は明るいばかりで大人に近づく自分は誇らしくて、そんな高揚する予感に胸を躍らせ、埋め尽くすノートの行間にも、気付けば初めての生活への期待と思いを馳せていた。 皆、浮き足立ち、晴れ晴れと、新たな幸せの始まりに期待した。 その晴れがましい凱旋の先、奈落が待ち受けると、誰が知ろう。 

 ある日、一斉に報じられたショッキングな映像が、良き流れを変えた。 すかすかした脳断面図。 不随意運動を来たし、倒れ込む家畜。 ウィルスは牛や羊の脳を溶かし、食卓は震撼し、人々に危機感を投げかけた。 そして、父が大量に買い付けた諸々は相次ぐキャンセル、取引の一時停止により巨大な損失を招く厄介な在庫となっていた。 そんな時、悪魔は現れる。 悪魔は優しい顔で、弱みに漬け込み死ぬより辛い苦渋を投げる。 

 社内で窮地に立たされた父の前に現れたのは、爽やかな姿の悪魔だった。


 プレシャスフーズの二代目、男の肩書きはそんなだった。 少々強引だが頼もしい二代目と言われる男が父に持ちかけたのは、だぶつく在庫の全買取。 この時期に願っても無い申し出だが、流石に父もいぶかしむ。 しかし男が言うには、現在自分が取引をする中で、大学内学生食堂数十店舗との契約があり、そこに流すに、格安で良質の乳製品は、大いに結構だと笑うのだ。 

 男は、見てて下さいとばかりに、在庫の三分の一を即座に某所へ流した。 そして、残りの行く先についても僅か数日の内すっきりと手配し、倉庫を空にした。 それどころか、この状況下での取引続行まで取り付けた。 父は男に感謝し、闊達で礼儀正しい男の態度を好ましく感じる。 こちらも助かるんですよ、と微笑む男、羽柴孝夫の黒い真意など、窮地を救われた父には、欠片さえわからなかったのだ。

 それだから、風を正さねば繰り返しは断ち切れない。 

 チェロの響きに励まされ、ジリジリした焦燥を堪える。 
 始まりを葬る為、修一はN県に続く赤いラインを地図の上に辿った。




     
崩れた繰り返しは不愉快なだけ、ならばどうしますか?


 滑りやすい足場の朝露を拭い、パクはソロリ先端へ向かい見下ろす下界に瞬きをする。 風の冷たさより、吐く息の白さが酷く、寒々しく感じた。 きちりと並ぶ住宅とビル。 それは適当に大きく、こざっぱりと洒落た玩具のような配列。 そこに、人が住んでいる、一つ残らず、その美しく快適な家に人が住み、飯を食ったり働いたり子供を育てたりしているのがパクには信じ難かった。 

 パクの周り、パクが口を利き言葉を交す奴らの一人として、そんな家に住む者は居ない。 皆、一様に狭いアパートに家族で身を寄せ合い、事有ればすぐに追い出そうとする大家の目を避けて俯き、身体を張り生きている。 彼らは怠け者ではないし、汗を流す事を厭わない働き者だ。 しかし、頑張っても頑張っても辿り付くゴールがそもそも違うのだ。 その連中とこの連中と、何処で何が別れてしまったんだろう。


 昔、それは昔、楽園への切符を手に、大陸か日本か迷った父は、身重の母に流され日本に留まる。 その後伝え聞く海を渡った連中の暮らしは、とてもじゃないが楽園ではなかったらしい。 しかし残った父が賢明かと云えば、それも難しい。 左官見習の父は、真面目に良く働き、年老いた親方に小さな店をタダのような値段で譲って貰った。 それは、大変な出世だった。 兄の誕生から五年開け、パクはこの家のいわば最盛期に生を受ける。

 楽園ではないこの土地で、父は働きに働き、時折近所の定食屋で家族にラーメンを振舞うのを唯一の贅沢としていた。 あの頃を、パクは薄っすら温かい記憶として想い出す。 しかし、バブル崩壊後の不況は真っ先に父親を襲い、傾いた家業と幼いパク、小学生の兄とノイローゼ気味の母を残し、父は、肝硬変の吐血で一気にこの世を去った。 父の37年は、そんな風に終った。

 それからの数日、パクの人生で最も客が多い数日。 在日に金を貸さない連中は、取立てには素早い対応を見せ、日本語の良くわからない母は、オロオロとわからぬ侭に幾つも幾つも下手糞な字でサインをし、気付けば母子は住む家を無くす。 無くすのはあっという間だが、捜すのはこれが容易ではない。 パク達の始まりは日本人ではなかった。 それは、不幸ではないが、面倒な流れを作っていた。

 母の片言は電話をかければ即座に切られ、イザ貸してくれるかと思えば在日で寡婦という理由に断られた。 日頃それは得でも損でも無いと思っていたが、物事を始めるとき在日である事は厄介であった。 ようやく伝手を頼りに見つけた住処は、6畳一間で風呂は無い。 しかし、親子は其処で暮らした。 もう、其処しか行く場所は、無かった。 

 無口で真面目な兄は、中卒で働きに出て、5ヶ月目に同僚を殴りそれきり行方が知れない。 テメェノクニニカエレ 大人しい兄を逆上させた言葉はそんなのだったらしい。 兄が出奔して、半狂乱の母は、1ヶ月程あちこちを歩き兄を捜したが、二ヶ月目に入った或る夜、捜索から戻った母の手には、黄色い派手なワンピースがあった。 それまでの弁当屋でのパートに加え、母は、スナックでのバイトを始めた。 


 派手になった母は、綺麗だったが、酒に浸るようになり、ちょっとの事でパクに手を上げるようになる。 母は、パクの顔といわず頭といわず滅茶苦茶に殴りつけ、しかし、殴りながら泣くのだ。 もう、死んでしまいたいよ、と。 目が覚めてから眠るまで、安い合成酒を手離せない母のふらつく脛には、青黒い痣が無数残る。 酒に浸りパクを殴り、涙と痣を残し母は、パクを女手一つで育てたのだ、一つも恨む所など無い。

 そして去年の夏、母は、店の客と出て行った。 パクを殴る母は、その男に酷く殴られていたが、しかし、母はその男が必要だったらしい。 そして、必要無かったらしいパクは、一人、薄暗い六畳に残った。 パクは18歳になっていた。 色々無くしたパクは、自分の始まりを改めて作ろうと思う。 出てゆけと言われない場所で、殴られず泣かれず、自分の力で遣って行くにはどうしたら良いか、パクは考えるようになった。 

 幸い身体は大きく、丈夫な骨と筋肉を父に貰った。 泥や砂利を掘り、運び、危険手当の出ない無茶な作業もこなすパク。 そもそも保証されていない人生ならば、別に大した事ではない。 一生懸命働く事。 現金を手に入れる事。 その金で何をするか決めては居ないが、きっと、何か出来る気がした。 けれどまだ、何をしたら良いかパクには、思いつかなかった。 

 そんな折、パクは、修一と出逢う。 
 全くの偶然に、パクは自分以上に無力な者を拾った。




     
追い掛けるメロディは、調和あってこそ、それは美しいのです。



 がたがた風が唸り、奇妙に半音下がったクラクションが、随分遠くに聞こえた。 カラカラに張り付く喉の奥、鉄錆の味、捻じ曲げられた腕はぐるりとガムテープで巻かれ、同様にテープ固定された口は悲鳴も苦痛も外に漏らさなかった。 内臓を焼く熱が、修一を穿つ。 耳元に擦り付けられる湿った吐息。 ・・・ハッハッハッ・・・畜生、まるで犬じゃないか、畜生、畜生どうして、畜生。 悔しさに、見上げるトタン屋根が滲んだ。


           ―        バラバラになりそうだ − 


 気付いたのは二週間ほど前。 

 駅三つ離れた大手進学塾に通い始めた修一は、塾帰りの夜、立ち寄るコンビニで、いつも会う男が居る事に気付いた。 キチリと高そうなスーツを着込み、俳優のTに似た爽やかな容姿のその男は、いつもその時間のコンビニに居た。 店の外に停められた、濃緑のジャガーが多分、その男の車なのだろう。 だから、修一はその男を見知っては居たが、言葉を交わす事も無い、それだけの関係だった。 帰り道には忘れる類の関係であったのに、男がそれを、無理矢理変えたのだ。 

 その日、コンビニに男は居なかった。 珍しいなと、思ったが、そう云うこともあるだろう。 さして気にもせず雑誌を立ち読み、サンドイッチを買い、公園へ続く並木道を歩き出す修一の背後に、音も無く濃緑のジャガーが停車する。 

 『こんばんは。 ねぇ、そこで、良く顔合わせるだろ?』


 ウィンドウが下がり、笑みを浮かべた男が片手を上げる。 
 男は笑顔のままドアを開け、つられて会釈する修一に手招きをする。 人好きのする、感じの良い男。

 『こんな事頼むの悪いんだけど、コンタクトをしてないんだ、それで、どうも地図が見れなくって、悪いけどちょっとこれ見てくれるかな?』


 車の横に立つ男の手には、ガイドブックのような地図が握られている。 アレじゃこの夜道、裸眼では見られまいと、男へと近づく修一は、男から受取る地図を手に、その広げたページ、指の先、そして、突然後頭部に受ける衝撃に膝をつく。 振り向こうとする肩を押さえ付けられ、口にガムテープを貼られた。 咄嗟に外そうとした両手を首の後ろでぞんざいにテープで括られ、転ばされ、アスファルトに顎を擦る。 手入れの良い男の靴が光っていた。

 『君のせいだよ、もの欲しい女みたいに、君がズルイんだ、』


 男は懐から筆箱のようなケースを出し、取り出した小さな注射器を躊躇いなく、修一のTシャツの肩に突き刺す。 爽やかに笑う男の冷ややかな眼、物を見るみたいな、嫌な目。 爽やかで気持ち悪かった。 骨に響く鈍痛、そして脱力。 上げる悲鳴も許されず、修一は闇に沈んだ。 男の真意など、わからなかった。 死ぬのかな、と、思った。


           ―    全部、バラバラになりそうだ  


 圧し掛かる重みに胃がせり上がる。 熊手のような物と竹箒が目の端に映った。 物置のような薄暗い小屋。 間近に男の顔があり、冷やりとした感触に竦み、剥き出しの尻を意識した。 生々しい舌の感触、ナメクジのような生き物を想像し、嫌悪に背骨が引き攣る。男がぼそぼそと呟く。

 『・・こうでもしなきゃね、こうでもしなきゃ仕方ないんだよ、君はズルイなぁ・・・』


 二つに折られた無様な己は尻をむき出し、押し当てられた熱に恐怖を感じ思わず身を捩ったが、躊躇の無い拳に鼻を殴られ、喉の奥で悲鳴を上げる。 男が強引に腰を押し付ける。 切り裂かれる苦痛、粘膜の裂ける激痛と屈辱。 

 『初めての振りしても駄目だ、君はズルイ、君は女みたいに僕を誘ったんだから、騙されないぞ、君はこんなの馴れっこだろう? 君が誘うからイケナイんだ、これ見よがしに、ズルイな、』


 男が怖かった。 鼻の頭に汗を掻き、喋りつづけ自分を犯すこの男が恐ろしかった。 この男は自分など見ては居ない、この男は何か、知らない何かを犯している。 痛みは脳天に響き、突立てられるそれは途方もなく大きく熱く思え、内臓を破るのではないかという恐怖に、身体が硬直した。 ぽっかり開けた目は、ただただ涙を流す。


           ―      助けて、バラバラになりそうだ  


 関節の痛みに気付くと、修一は下半身をむき出したまま、小屋の中に転がっていた。 破棄されたマネキンのように、湿った土の上、掃除用具の散らばる小屋の中に放りだされていた。 男の姿はない。 しかし、この有り様は、現実。 ゆっくり立ち上がりかけ、貫く痛みに膝を付き、その腿を伝う赤と混じる白濁の正体に涙が出た。 現実を、最悪のカタチで悟った。 そして、テープから解放された唇は、ようやく細い悲鳴をもらした。 

 身体を押し付けるように開けた引き戸の向こう、シーソーと遊動円木。 目と鼻の先、訝しげに立つ、作業服の青年が居た。 外套に照らされて光る、狼みたいな目。 青年が口をすいと開き、何かを言おうとしたのだが、二人の一言目はまだ交されず。 血の引く冷たい流れに吸い込まれ、修一の身体は崩れ落ちた。 そして、その無力な身体を、青年は受け止めた。 

 受け止めたのは、多分身体だけではなかったのだが。




   
美しい主題を、それぞれが追いかけるのです。 それにはタイミングが重要。



        懐かしい匂いがした。 


 子供の頃、親に隠れて姉と食べた、湯きりする篭った匂い、そしてソースの匂い、修一は自分が見知らぬ部屋に寝ている事に気付く。 すぐ傍のちゃぶ台で、インスタントのヤキソバをすする青年が、上体を起こした修一に目を留めた。 

 『医者だの警察だの呼ぶべきだったかもしんねぇけど、ワリィけど、どっちも苦手なんだわ、オマエ気付いてホッとしたよ。』


 一本調子に喋る青年は、濁音とサ行に、独特の特徴がある。

 『骨、イってねぇみたいだけど・・・』


 青年の腕が、修一の顔に伸びた瞬間、耳元の荒い息、湿った空気、ナメクジの感触、殴打された顔面、コマ落しに再現される光景に目玉の後ろが 熱くなる。 ささくれた獣のような咆哮を発したのは修一自身だった。 そして闇雲に腕を振り回し、喚き暴れる修一の身体を青年は躊躇なく抱き締め、殴られるに任せ、ただ低く静かに繰り返す。

 『何でもねぇ、何でもねぇよ、何でもねぇ、何でもねぇんだよ、明日になったら何でもねぇさ、』


 仕事帰り、近道をした公園で、幽霊みたいなこの少年とパクは出逢った。


 ― −− コイツは、怖がってて、それから俺を見てホッとした ―  −−  解ける緊張に瞳を揺らした少年はその場で糸が切れたように崩れ落ち、咄嗟に支えたパクは、已む無く少年をアパートまで担ぐ。 厄介事は避けたかったが、捨てて置くのは嫌だった。 −− ― 何故なら、コイツは、酷い目に遭ったらしい ― −− そう云うのは、パクも良く知っている。 圧倒的な強さに、理不尽な暴力を受けることの恐怖、苦痛を、パクは良く知っていた。


 引きっぱなしの布団に少年を転がし、躊躇ってから泥だらけのシャツとジーンズを脱がした。 脱がさねば良かったと思う惨状だった。 点在する擦過傷、腐った果実のような痣、そして、何があったか明白な、大腿に擦られた出血と汚れ。 パクは、湯で湿らせたタオルでソレを拭い、布団で覆った。 気が付かなかったらどうしようかと思ったが、呼吸は規則正しく、顔色は大分良い。 上品な、裕福が滲み出る少年の寝顔。 本来、虐げられ、力に屈服する事など無い生まれの少年が、何故こんな目に遭ったのか。 

 眠る少年は弱々しく、戦うすべもない無防備さ。 パクは、腹の奥で憤る。 何故踏み躙る、何故、支配する? そして、目覚めた少年の拳を頭に肩に受け、物悲しい悲鳴を聞き、パクはその身体を抱き締める。 かつて、母にそうしたように、母にそう伝えたように、抱き締め、受け止め、大丈夫だと繰り返すのだ。 

 何でもねぇから、明日になったら何でもねぇから、
 横を向かずに先に進めと、パクは静かに繰り返すのだ。


 『・・・・ヤキソバ、冷めちゃったな・・』
 『かまわねぇよ・・・もっぺん作るけど、オマエも喰うか?』

 返事を待たず台所へ向かう背中を、所在無く、修一は目で追った。 軟弱な自分と違う、がっしり大きな背中、親の脛を齧るのではない、力を使って稼ぐ背中。 

 ― −− だから、その腕は強いのだ 

 取り乱した挙句、見知らぬ青年に抱き締められ宥められた事を意識した途端、急に修一は、羞恥を覚える。 湯を沸かすシュンシュンいう音。 質素で狭いが、家族の匂いのする部屋の中、しかし、ここには青年しか居ない。


 『ここ、一人で住んでるの?』
 『・・二年前からな、前はお袋が居た。 今はオレだけだ。 ほらよ、』

 差し出されるヤキソバを、修一は黙って口に入れた。 ソースの匂いと、安っぽい青海苔の香り、青年は大きく掬い取り、冷めた物と新たに作った物つ二つを瞬く間に平らげる。 ヤキソバに、何故か味はしなかった。 修一の舌は、何も味を感じなかった。 記憶するのは鉄錆の味。 箸が止まる修一に青年が続ける。


 『無理して喰うこたねぇさ、後でオレが喰ってもいい。・・・オマエ、帰れんのか? 一人で。』


 小さなテレビの上、時計は11時を廻っている。 塾から戻らぬ自分を親は心配しているだろう。 しかし、修一は、夜の闇の中、外に出るのが怖かった。 ココが何所かわからないが、あの公園の近くを通るのは嫌だった、そう思うと指先が痺れた。 身体がガタガタと震えた。 パクは、少年の瞳が、焦点を失いかけ、硝子みたいに冷えるのを見た


 『泊まってくなら、電話しろ・・・俺は明日5時に出る。 鍵は郵便受けに突っ込んどいてくれりゃいい。 朝なら一人で大丈夫だろ? 俺はパク、パク・ヘドン・・オマエは?』



 こうしてパクと修一は出逢った。 
 変化は新しい道を作り、二つの波を一つに纏めた。 



 二つの波が奏でるのは、穏やかではあったが何所か、切ない音色だった。