貧者の一灯、眩しさに竦む     − 前 −
     
       


捨てられたなどと、間違っても勘違いしないで欲しい。 


ミヒロという女は、詰まるところずっと女だったのだ。 女らしい、魅力たっぷりな女であったから、ミヒロは母にはなれず、母になれぬミヒロがあまりに憐れだったから、俺達は解放して遣ったのだ。 それだけのこと。 だから捨てられたなどという表現は間違っている。 だから、間違わないで欲しい。 俺達は、哀れみの対象などではない。 



ミヒロは正直者だ。 常に優位に立ち、常に注目を浴び、常に羨望の的で在りたいと願い、それを隠そうともしなかった。 それだからその正直ゆえ目的の為に手段を選ばず、障害には尽く立ち向かう強さもあったから、俺達はミヒロの意に添うべく遣ってきたのだ。 厄介な事にミヒロは俺達の母親であったから、争うにも厄介な事この上なく。 ならばつまり -- 誇らしい自慢の息子達 -- そう云う役回りを俺達は進んで演じた。 

尤も、テルキが演じてああしているとは思えない。 テルキのは、あれが地なのだろう。 無意識無自覚で人を和ませ、邪気の無さが毒気を抜く解毒剤のような弟テルキ。 テルキと過ごす俺は、暫し己の欺瞞を忘れる。 もしかしたら俺は、恵まれた家庭の、誰もが羨む優等生なのかも知れないと、テルキの芝犬みたいな笑い顔に誤魔化しを許してしまう。 勿論、それは錯覚に過ぎなくて、俺は、所詮顔色を伺う贋物なのだ。


しかし不幸ではない。 断じて不運な子供であったなどと、俺は認めない。 そう、単に何か足りなかっただけなのだ。 足りない何かはいつも俺の半身に寄り添い、ここに隙間が空いているぞと念を押す。 お蔭で俺はそれを忘れた事が無い。 テルキとの間で、ほんの少し、それは姿を薄くするものの、やはりそこに存在するのだった。


そしてミヒロは女である自分を励ます手段として、幾人かの男を度胸試しの使い捨てにした。 大学生だの会社員だの医者だのと、息子の友達筋、学校関係者に手を出さなかったのが不思議なほど切れ間無く。 所詮甘い父は、いさめても尚治らぬミヒロの度胸試しを、遊びならしょうがない悪癖となぁなぁに片付け、その終い、打ち止めがワタラセであった。 




『あぁ、君の事は、良く伺っている。』

優秀なんだってね と、そのがっしりと上背のある眼の細い男は、途方に暮れる俺とテルキにカレーパンを差し出す。 電話一本で深夜駆けつけたその男は 「ちょうど食べようと思ってたんだ」 と、水溜りのダイニングでカレーパンを差し出し、即座に受取り食いついたテルキを愉しそうに眺めて笑った。 笑うと目は糸になって、糸は緩むと俺の眉間の皺で留まる。 俺は生まれて初めて、無精髭というのを間近で見た。

父ヒロシは、旭川へ2週間の出張中。 母子三人の深夜、突然の水漏れにダイニングは通り雨の惨状となり、慌てたミヒロは遠距離電話で父に八つ当たる。 困惑した父が事後処理に送り込んだのが、目下の父のお気に入り、ワタラセだった。 配管を含む内装業を興したばかりのワタラセは、いずれ父が自社に引き抜く心積もりの信頼厚い隠し玉であった。 

『ホラ、君の分もあるって。 案外美味いんだぜ。』

毛羽立ったハーフコートのポケットから取り出したのは、チョココルネ。 ミヒロが時折立ち寄る小洒落たベーカリーの類ではない、安っぽいビニールに入ったコンビニなんかで売られる駄菓子のそれ。 男はそれを俺に差し出し、なぁ、嬉しいだろう? と、いった顔をして笑う。 

俺はそんなもの、記憶を遡ってもまず、食べた事はない。 食べたいと思った事すらなかったが、何故だろう。 男の大きな骨ばった手からそれを受取ると、勢い良くビニールを剥がし、三角の角に齧り付いたのだった。 安っぽい、粉っぽい、チョコもどきの甘ったるさが口に広がる。

『オイオイそっちから齧るか? なぁ、イケルだろ? ま、そこに昇って見てろよ。』

男の指が、水害から逃れたイタリア製のダイニングチェアーを示した。

すっかり機嫌を悪くしたミヒロは、寝室に篭ったきりだ。 17歳の誕生日を先月済ませた俺と15歳のテルキは、とうに子供の域を越えていたにもかかわらず、水浸しの床の上、椅子によじ登り、膝を抱え菓子パンを齧る。 手際良く天井裏を探り、階上・階下の家へと交渉に行き、災害処理をこなす男は仕上げに俺とテルキの頭をぽんぽんと叩いた。

『俺、けっこう、頼りになんだろ?』

スゲェなぁ! と、テルキが懐く。 言葉が出遅れ表情を強張らせた俺の頬を、武骨で器用な指が摘んで引っ張った。 指先は、少しガサガサ硬い。

『気ィ抜けよぉ、ちっとはなぁ・・・』

おどけた口調とハの字の眉。 


ワタラセは、男だ。 手品みたいに甘い菓子を振る舞い、汗を流し、大仕事をこなし、大きな身体と器用な手を持ち、直球な言葉で信頼と尊敬を瞬く間に集めてしまうガキ大将的な頼りになる男であった。 手を汚さぬ洗練と賢さで人の上に立つ父とは対極であり、ワタラセには身体を使うブルーワーカーの匂いがした。 


そんな大人は、俺の周りに居なかった。 そんな大人はきっと、水を飲むように、美味そうに当たり前に、隙間を埋める術を知っているように思えた。 頭でっかちで気が抜けない俺には、それがなんとも心地好く、それ故、俺はワタラセに傾倒してゆく。 理屈抜きに魅了され、憧れたのだ。 




俺ならその場で終わる出会いを、弟は、いとも容易く次に繋げる。 


無邪気なテルキは欲しいものを口にして、大抵は意のまま手中に収め、かつ、邪気の無い依存が相手に喜ばれたりする。 あの深夜、帰り支度のワタラセに、テルキは課題の折り畳み椅子を手伝ってくれと頼んだ。 オジサンならちょちょいだぜ!と、自分の事のように威張った顔をするテルキに、オジサンってのは20代に酷いな、と眼を細めつつ、ワタラセは後日の訪問を約束した。 

週末、よれたジャケットを引っ掛け現れたワタラセは、的確で要領の良い指示をテルキに出し、自分が直接手をつける事なしにチョチョイと椅子を完成させた。 作業の合間、傍で文庫本を読む、読むふりをして傍に居ようとする俺に、ワタラセは何だかんだと話し掛け、気付けば俺は開いたページをそのままに、夢中になって話し込む。 

ワタラセは、俺を子ども扱いしなかった。 かと云って、大人扱いもしなかった。 俺は意見を言っても諭されず、愚痴を言っても受け止めて貰える会話と言うものがある事を知った。 泣けてくる安らぎと言うのが、あるのだと知った。 その時、確かに隙間は消えた。 隙間の埋まった俺は、安心でホッとして、そしてきっと弱くなったのだと思う。


一方、ミヒロは午前中からの大工仕事に良い顔をしなかったが、作業が正午を回る頃、気だるげにタバコを燻らせ、寿司でもとろうかと居間の三人に声をかけた。 ならばカツ丼にしてくれないか? と、ワタラセがミヒロに頼む。 腹に貯まらんのは苦手なんですよ と、大きく笑う豪快さは、届いた丼を掻き込む様とも同じ。 

その日、珍しくミヒロ自らが午後の御茶を入れる。 ワタラセは、いつの間にやら用意され、飾りみたいな洋菓子を、おつまみみたいに二口で食べ「実は、甘党なんです」 と、指先で口元のクリームを拭った。 普段行儀に口うるさいミヒロが、何故かそれを楽しげに眺めていた。 

やがて日も落ちかける頃、また来てね! と、テルキが言い、おうまたな! と ワタラセが言う。 是非、また今度はお食事でも とミヒロが言い、出遅れた俺にワタラセが 今度は釣りな! と、片手を挙げる。 

当たり前じゃないか。 
そんなワタラセに、俺たちと同様、ミヒロが惹かれたって、それは至極当たり前だったのだ。 


だけども、ミヒロは女の目をしていなかった。 性的な駆け引きを挑む、お馴染みの悪癖を出さないミヒロは、例えるなら、そう、子供の目をしていた。 大好きな兄を慕う妹の目でワタラセを見つめるミヒロは、今まで俺が知っているミヒロの中で一番に穏やかであった。 優しく、愛らしく、穏やかであったから、二人の間でどんな交流が実際あったか俺は知らない。 


父の仕事がらみの諸事も進み、二年をかけ、ワタラセはすっかり家族になっていた。 ダイニングの左端、ワタラセは父と晩酌をし、ミヒロは二人の間で笑う。 時にはテルキが挑むゲームに興じ、一緒にはしゃいで、手加減すらせぬそんなワタラセの純朴さに、俺は癒される。 

『だってお前、凄く頑張ってるじゃないか?!』


ワタラセはそう言って、俺の頭をワシワシと擦った。 家の事、自分の事、学校の事、何もかも。 俺は事有るごとワタラセに相談し、愚痴をこぼし、そしてその一言を言って貰えば、すぅっと澱みが払われる。 進路調査の紙切れの余白、漠然とした将来ではあったが、もしも父とワタラセが事業を興して行くなら、そこに自分も参入出来やしないかと、そんな事すら考え始め、俺は進路を建築科に定めた。

おかしな話だがワタラセが加わる事で、俺達の生活はかつて無く家族を意識したものになった。 実業家の父と美人で専業主婦の母親、優等生の長男とヤンチャな次男。 些か芝居じみたきらいは無くもないが、今までの殺伐とは比較出来ないほどに、トビタの家は御茶の間になっていた。 ワタラセを媒介に、団欒と言う言葉をトビタ家は漸く手に入れたのだ。


そんな風に、語り、笑い、はしゃぎ、穏やかであった夏の終り、父は、結婚20年目にして妻と片腕を無くす。 


手紙は二通、居間のテーブルに、クリスタルの灰皿を重石に、置かれていた。 1通は父の名。 もう一通は畳まれもせず、広げられて、ただ一行。


―――  母親になるのは、無理でした。


悲しくは無かった。 泣ける事でもない、が、居ないも同然だった母がホントに居なくなると言う事態は、意外なほど想像の範疇では無かった。 

何故だか、ミヒロは何だかんだと結局、この家で生活してゆくものだと思っていた。 悪戯を繰り返し父にたしなめられ、甘やかされ、その母性は俺たち子供にも期待されず、いつまでも少女じみた夢を見ながら、ずっと、キャラメル色のソファーに身を投げ出し、気だるげにタバコを燻らし、年老いてゆくものと思っていた。 そのミヒロは選りにもよってワタラセと逃げた。 

父は、無言で書置きを読み、俺とテルキに言う。

『お前たち、血は半分しか繋がっていないらしい。 まァ・・・・・・だから、どうと云う事ではないな・・・。 どうと云う事じゃ、ない。』


所謂、出生の秘密。 驚くものか、そんな事薄々気付いてはいた。 俺は父親と微塵も似ちゃいない。 事実とわかれば寧ろ、わかりやすくスッキリして良い。 俺たちはミヒロの子だが、父の子では無い、それだけの事だ。そのミヒロが今更父を捨て、ワタラセに何を托したかは知らない。 

どうでも良いのだと言う父は、言葉とは裏腹に憔悴した。 疲れ果て、力ない笑みを浮かべるようになり、接待の席も断る事が重なって、時に深夜の書斎で、嗚咽する。 俺は、父がミヒロを、恐ろしく消極的な逃げ腰ではあったにせよ、思う以上に愛し、ある意味依存していたのだと知る。 


憔悴する父を、励ます術も無く、一層大きな隙間を抱え、後遺症的な進路、忌々しい建築を大学で学ぶ俺は、その燻る感情を持て余していた。 




『寂しかないさ、なぁ、きっと、まぁ、なるようになんじゃねぇの?』

大量の白菜をぐつぐつと煮ながら、テルキが豚バラを並べる。 父の皿に春雨を取り、俺の皿に葱の柔らかいのをほっぽり込み、なぁ、色々あったけど、鍋は美味いよなぁ と、つけダレに肉片をからめ、大きく口を開けたテルキは、何を考えていたのだろう。 

テルキ、お前は、誰の事を言っている? 


テルキは、ミヒロが消えても、父が沈みがちになっても、さして変化の無い日常を送っていた。 鍋を囲めば、5人の食卓を、思い出す。 六脚の椅子が三脚余れば、消えた二人を思い出すが、テルキ自身、どこか、そんな想い出に浸っていたのだろうか。アメフト三昧の高校生活を謳歌し、父に小遣いを強請り、俺に宿題を押し付けようとするテルキの変化の無さ。 

計算出来ない筈のテルキだからと、侮っていたんだろうか。 しかし、それに救われていた事は事実だ。 当時、家の中の大黒柱、俺や親父が隙あらばぶら下りたがる梁を支えたのは、まさしくテルキだった。 テルキの平静に甘え、親父はどっぷり『逃げられ亭主』に浸り、俺は鬱々と遣る方無い喪失に酔う事が出来た。


後にも先にも、食事を抜くほどにテルキが酷く落ち込んだのは、正月明け、可愛がってたウサギが死んだ時だけだった。 17歳の大きな身体の大きなテルキが、空っぽのゲージを抱いて、声をあげ、二晩おいおいと泣いた。 けれどその様は、不思議と、少しも滑稽ではなかった。 丸めた背中は純粋に、深い苦しい悲しみであった。 


泣いて、泣いて、それでも少しづつ落ち込みから脱出するテルキが、再び、またそのうちウサギを飼いたいのだと口にするようになる頃ーー 所謂、木の芽時に父のテンションは、俄かに異常に上がり始める。 

急に幾つも服を新調し、頻繁に出歩くようになって、ここも手狭になったものだと、二人も減った家の有り様を無視して、マンション購入を計画したりしはじめた。 そして、ミヒロが消えて一年に満たない初夏の夕飯時、父は再婚を切り出す。 


 『俺は、再婚するから。』

するから?

こちらに選択は無いらしい。 わざとらしい顰め面に、なのにどうしようもなくにやけてしまう幸せを隠して、父は、その人に会って欲しいと言った。 尤も、既に、その席は行きつけの割烹にチャージされており、かくして俺たちは新しい母と、驚く事に新しい兄弟とまで会う事になる。 

この歳でイキナリ兄弟が増える・・が、俺は、あくまでも長男らしい。 弟が三人になった。 テルキはといえば、やはり、単純に喜んでいた。 

――― アニキと、弟、どっちも増えるなんて、俺スッゲェな!




はっきりしたのは、父は面食いだという事だ。 綺麗な人だった。 小さな季節料理屋を経営していると云うその人は、ミヒロとは反対のタイプの美人だった。 


『あたしの事は、マキコと呼んで下さいね。 急に、お母さんってのもアレよねぇ。』


華やかで凛としたその人に、父はすっかり参ってしまっている。 見掛け倒しに受身の父には、多分、こんな風に強く惹き付け、甘やかしてくれる人が似合いなのだろう。 きっと二人は上手く行くと、初対面ながら確信した。 けれど、それに手ばなしで賛成だった訳ではない。 父の区切りは付いたのだろうが、俺の区切りは一つも付いては居ない。 


俺の中で、ミヒロはまだ、過去ではない。 ワタラセもまた、過去ではなかったのだ。 過去にならず、続いている以上、そこに新しい家族の線を引く事は出来ない。 平行する線の上、ふらふらアッチへコッチへ渡る芸当など出来るものか。 
まして、あんな忌々しい男を、弟と呼べるものか。


連れ子二人は、作り物めいた、母親似の兄弟だった。 弟は、まだ伸びた背に追いつかぬ少年の域。 マネキンみたいにかしこまり、口数少なく、しかし喰えない雰囲気を持っている。 熱を孕んだその目の奥に、一瞬、既視感を覚えたが、その出所は思い付かず。 

そしてその兄、ルツと云う名を持つその男。 忌々しい滅多無い美貌で周囲を圧して、姿に似合わぬ悪舌で煙に巻く。 散々人を品定めした挙句、まんまとテルキを手懐け、見透かす目をして挑発をする。 さぁ、喰い付けと言わんばかりに。


だが、残念だがその手に乗るか。 

俺はこの手を嫌と云うほど知っている。 これはミヒロの遣り方だ。 度胸試しで散々ひけらかした、ミヒロの遣り方で、この男は俺を挑発する。 冗談じゃない。 この男とは暮らせない。 この男は、あまりにミヒロを想い出させる。 

ヤツの何もかもがミヒロに繋がり、ミヒロとの時間を喚起させて、今更のように執拗に俺を追い詰めるから。  性質の悪い事に、俺自身がそれにどうしようもなく引き摺られるであろうことを予感していた。 それに捲き込まれるだろう自分を確信していた。 だから、俺はこの再婚に反対したかった。 もうううんざりだ。 もう、掻き混ぜられるのは、うんざりだった。 


けれども、うんざりする俺なぞに構う事無く、俺たちは家族になった。 



家族なんて、減るのも増やすのも、そう大層な事では無かった。