美しい手は、なにも  《後》
  
       


丈夫でへこたれない俺は、其れに見合った働きを求められ、南方の小さな島に向かう。

頑強な身体を存分に使い、考えない頭をぬかるむ黒土に擦り付け、味方など居ないその辺境で出来る限り生き残れ、そして死ねと。そう云う有り難い使命こそ、御国が俺に振り分け役割だった。したがって生き延びるという当座の目標は、俺の未来から9割9分外れた。

小さなバケツの中、共食いするザリガニのように、俺達は訳も分からず其処で殺戮を続ける。理由など、もう、どうでも良かったから。虫の反射そのままに、脳味噌は命ずる。

――目の前の敵を殺れ――


如何せん、逆らえぬ命令なら仕方ないのだが、俺にとってすこぶる運が悪い事が其処には一つだけあった。俺の上官となった男、貧弱な日本猿に似た小男、此れが全く使えない足手纏いで、どうにもこうにも戦うに厄介な存在であったのだ。立場から見て、まァ、学は有ったんだろう。しかし、此処、この凄惨な土地には全く馴染まず不似合いだった。頑丈な体躯を持って戦えと命じられる俺のような類ではなく、つまり、お前はもう、其処で死ねと。

男は暗に死ぬ事を期待され、此処に送り込まれた軍の厄介者なのだと俺は解釈する。現に使えなかった。使えないなんてモンじゃない。始終ぶつぶつ弱音を吐き、暗がりでは女のようにヒャァと言う。兵士の癖に敵を撃つ事すら侭ならず、それどころか必死で戦う俺ら下っ端に罪の意識云々を語るからコリャ始末におえない。そんなじゃ兵隊は、士気を削がれるばかりじゃないか?

けれどもこの男はそうした軟弱者や頭デッカチの類を外れ、狂いもせず、逃げもせず、ただ、厄介者として其処に蛆蛆と留まった。居るンなら何とかせねばならぬし、修羅場の戦場では正しく目障りで邪魔。 巻き添えを食うのは面倒だと敵襲に遭う度、すッこんでろと引っ込ませていたのだが。それをこいつはどう勘違いしたか、妙に俺に纏わりつき、今じゃすっかり腰巾着宜しく、よたよたオドオド何処までも張り付いて来る。

そうして俺の戦いっぷりの上等であった褒美か、幾度かの敵襲を逃れ、何人かを倒し、逃げ込んだ密林の葉陰、気付けば俺は、この疫病神と二人きりになっていた。何て事だ、全く辟易する。


座り込む尻が、ヌルヌルした泥濘に浸かりむず痒かった。空腹凌ぎに齧る青臭い果実のせいで、舌も咽喉も渋柿を喰らったようにイガイガ痺れ、飲み込む唾液はべたついて苦い。男は先刻からの渋り腹に呻き、引っ切り無しに茂みへ駆け込んでは、壊れた蛇口みたいな糞を垂れている。貧相な顔はやつれ、猿の干物のようだ。だから、黙っておれば良いものをこの馬鹿野郎は、またしても、くだらない事で俺を苛々させる。

「き、木場君、き、君は、こ、こ、こんなのが、こ、怖くないのかい?」

此れだよ、何で言うかね、この状況で。
眠った振りで返事をしない俺に構わず、男は尚も続けた。

「ぼ、僕は怖い、こ、怖いと言っても一言じゃ、い、言えないのだけれどね、ぼ、僕は此れまで、自分という存在は、無意味で、無価値で、つ、つまり死んでも構わない物だと、そ、そう思っていた。なのに、ぼ、僕は、こんなとこで、こ、こんな、選りによって、大勢に、ひ、人を殺すなんて恐ろしい命令を、上から、偉そうに、言いつける立場になっていて、は、はは、お、可笑しいだろ?や、役立たずのボ、僕が、ひ、人殺しの役に立つなんて、は、はは、」

コリャ、駄目だ。
男はクシャッと顔を顰め、幼児のようにオイオイと泣いた。

冗談じゃねぇよ。可笑しいかどうかッたら笑うしかねぇ気持ちなのは、この俺だろう?メソメソするお荷物上官を引き摺って、一体どうやって此処を遣り過ごす? ウゥッと声を殺し、男がしゃくりあげ鼻水を啜る。耳障りな鳥の声に混ざり、遠くで微かな破裂音が聞えた。

まだ、遠い。まだあれは遠い。

眠った振りをする俺は、何故だかあの目を想い出している。底冷えする、何もない、空っぽの奈落の目。何も無く何も感じぬあの目を、今、俺は酷く懐かしく思っている。そうだ、あいつ、あいつこそ、今この場に尤も相応しい男だ。尤も相応しく、尤も死に近い男。

夜半過ぎ、腹下しの身体を豪雨に打たれ、役立たずは高熱に震えた。カチカチと歯を鳴らし、土色の顔で泥濘に転がる姿は下手な屍骸よりも屍骸らしく、覚醒時の正夢のように不吉だ。

冗談じゃねぇ。冗談じゃない事はもう一つ。先刻から闇の向う、徐々に徐々に銃声が近付いて来ている。パスンタタタと玩具の兵隊のようだった其れは確実に、じわじわと、「死」という御土産付きで、俺達に近付きつつあった。

あぁ、冗談じゃねぇ。俺は、こんな所で、こんな奴と、こんな風に 
――そりゃ、今更だろう?―― 
そうだとも今更だ、兵隊なんてのは殺して何ぼ、死んで上等、終わりは唐突に、犬みたいにごろんと逝っちまうのが常だろう? そりゃそうだ、そんなのわかってたさ、そんなこたァ重々承知で俺ァ軍人になった、どうせ死ぬんなら稼いでから、元を踏ンだくッてから、遣るだけ遣っちまってから逝っちまおうってな、あぁ、そうだ、そうなんだが、何故迷う、怖いか? 死ぬのは怖いか? 今更怖くなったか? 
――無意味で、無価値で、――
ウルセェ!
――つまり死んでも、――
ウルセェよ!
――つまり死んでも構わない物だと、―― 
俺は死なねぇよッ!

パンと頭上を掠めた銃弾が、俺を現実に引き戻す。

近い。 

近いが、こちらを狙っているという訳じゃぁ無い。 
――捨ててくか?―― 
脇に転がる男は目を硬く閉じ、あの世の端ッ子を散歩中。此れじゃぁ逃げるはおろか、歩くも起きるも無理だろう。 
――こいつ、捨ててくか?―― 
敵は近い、しかし近いだけならまだ、俺に退路は有る。俺に生きる望みは一分でも有る。――ならば、捨ててくか?―― 
手持ちは既に極僅か、敵は複数、下手に撃ち合えば底をつく。だがしかし、逃げる事は出来る、今なら間に合う、西にルートをとり此処を抜けよう、奴らは東南の海岸から上がったに違いない。船を着けられるのはあの辺りが唯一だ。だから、俺は岩場の多い西の海岸へ向かおう、なに、目と鼻だ。お荷物付きでも容易に行ける。あそこは潜り込むに都合の良い窪みや穴が沢山ある。適当な岩場に身を潜め、遣り過ごし、そうすれば、だから、だから俺は、 

――ボ、僕は怖い、――

腰抜けめッ!


俺はのろのろ屈み込み、掴んだ貧相な足首をずるずると引き摺った。背後の銃声は更に近く、爆音は腹の内側を引き攣らせる。泥濘を滑る頭蓋が膨れた木の根を通過して、男が小さく声を上げる。畜生、畜生、畜生、悪態を吐き、恐怖に逆毛を立て、厄介者を引き摺った俺は西へ西へとまどろこしい行進をする。

だから厭だった。自分一人うだうだ悩んで、怖いだの遣り切れないだの、理不尽だのそんな事、誰も口にしない当たり前をこの男は垂れ流し、てめぇの混乱に周りを巻き込んで振り回す。折角非日常に浸って忘れた振りをしている諸々を、この男は無遠慮に無差別に、勝手に呼び起こして揺さぶりをかける。

だからイケ好かねぇんだよ、てめぇだけ辛い顔しやがって、まんまと土壇場で巻き込みやがってこン畜生ッ。

やがてポッカリ口を開く晴天。青黒い其処に向かい俺は足を進めた。暗がりに慣れた目玉は久方振りの陽光に、柔な粘膜をチリチリと焦がす。 
――其処だ、ほらよ、すぐ其処だ―― 
潮の匂いに土臭さを払われ突き抜ける空の下、見渡すのは地平線に貼り付く海と空。

 抜け出した開放感、そして即座に悟る絶望。 

――誤った?――  

所謂、断崖の石舞台に間抜け面の俺はズタボロで立ち尽くす。 

おいおい、冗談だろ?こりゃ岩場なんて優しいモンじゃねぇ。隠れる場所はおろか人一人抱えてよッこらしょと降りられる場所など、此処には何処にも有りはしなかった。見下ろす波間は小さく泡立ち、岩壁を打ち壊さんと叩く。俄かに跳ね上がる体温と、急速に冷えてゆく背筋。

汗に滑る手の平を擦り、御荷物を掴み直したその刹那、乾いた複数の破裂音と頬を掠めチリリと皮膚を焦がした濃厚な熱。
右の瞼が痙攣をする。
その場に伏せるのがやっとだった。
左腕が抱えた男はピクリとも動かず、しかし火のように熱い。
右手が機械的に狙撃準備を進め、滴る汗を拭い銃口を向けたその先、一際激しい乱射音が響けば、後は水を打つ静寂。

静寂は、恐ろしい。其処に何も無く、或いは何も無いかの如く見える恐怖に、俺は息をつめ無意識に男をぐるりと腕で囲う。パチパキと枝を折り踏みしだく足音。見方である筈がない、場違いな口笛
―― 来るぞッ―― 
咄嗟に引いた引き金は軽く弾切れだよと言った。不本意ながら役立たずの上官と俺は此処で心中するらしい。
――畜生ッ――


身を躍らせた宙空。
風を切り墜落する俺達は虚無とは何かを知り、多分其処で一度死んだ。
ただ、関節を砕かんばかりの鈍い身体の痛みに、海とは乱暴な野郎だと思ったのが記憶の最後だった。


         ***

「驚いたッて? 驚いたとも、そうさ驚くだろう? 蒼い空碧ッ羅の海ッ、波間にぷかぷか浮かぶ箱と猿ッ!ヤァヤァそれにしたってキミ、死に掛けの猿なんて抱えて、なんだい、南方で猿回しでも広めるつもりだったのかい?」
「礼は充分した筈だろう……。」

         ***

結論から言えば俺は、俺とあの役立たず関口は、あの時、九死に一生を得た。

溺死寸前の俺達は仲良く海原を潮に流され、そして、航行中の海軍に拾われる。船は島生活には異世界の極楽だった。羽振りの良い、纏まりの良い、荒みの少ない一団。そんな一団には余程、切れ者で優秀な上官が付いているのだろう。

事実その通りだった。遣り手の切れ者は、確かに居た。三途の川からから引き戻されて、最初に見た異形。異形だろう? 場違いな平静を纏う白皙。声を失う俺に、奴は人を喰った能天気で捲くし立てる。

『ソォラ御目覚めだ! ごきげんよう! 久し振りだね箱君!こうして晴れて命の恩人となった僕に君は心から感謝と畏敬の念をもって此れからも尽くし従うように! おい、何をぽかんとしてる? 僕が此処に来たからにはキミ達は、千人の味方を手に入れたと同じ、あぁ、お供のサルなら生きてるよ、死に掛けに毛が生えたくらいだけどね』

榎木津だった。

榎木津は、遣り手の切れ者将校としてこの船で茶を啜り、花札の合間に俺達を杓った。俺は図らずして竹馬の友との再会を果たし、厄介者関口は、この瞬間、腐れ縁という迷惑な絆を雑に硬く繋ぐ。


         ***


「まァッたくキミときたら、奇跡の生還と朋友との再会に心震え感動してたのかい? 鳩が豆鉄砲喰らったようなポカンと間抜け面で、ハハハ、感謝で言葉もないだったか? そう、キミは運が良い、僕と知り合い僕に助けられ全くキミは運が良いのだ!」
「―― そんなじゃねぇよ、脳天気め」

再会に、生還に、けれど俺に言葉は浮かばなかった。いきなりの口上に驚いたのではない。そんな軽妙さは張りボテの作り物だ。こいつは変わった。良い方にじゃない。厄介な、何か寒々した物に、こいつの中身は変わってしまったのだ。


         ***


――てめぇ、なンて顔してやがる?―― 

有り得ない異質に身が竦んだ。 ほんの数年前まで見慣れた筈の奴の顔、整い過ぎて人形めいたその顔は、此処には有り得ない異形である。

――しかもどうだ、あの目―― 

久方振りに見る薄茶の瞳、其処にかつては微かに存在した人らしさは皆無、今や喜怒哀楽に染まるべく色味すら持たない硝子玉、

『なんだいキミ、人生の走馬灯は助かる前にするもんだろう? イヤしかし、其れは僕か? 僕の顔だ、若いな、うん、実に愛らしい子供だったではないか!』

寝台に圧し掛かるように榎木津が顔を近づける。
そして白い美しい手の平が、片方の目を覆った。

『―― 弾がね、当たってね。照明弾の欠片だったが、こっちは生憎殆んど見えない。そら、こうして近付いても、キミが四角いんだか丸いんだか、』

至近距離で見る薄茶の瞳孔。覗き込んでも何も反応しない硝子のような瞳孔。より深まった虚無の闇は、戦場という咽返る殺戮の場ですら空っぽで。その底なしの奈落に目を奪われ、吸い込まれる自分を恐れ、俺は、散々殺した己の手を硬く、硬く握った。

『・・・・・ふうん、箱君、優秀だぞッ! キミ、あそこじゃ中々の活躍だったじゃぁないか?』

ひょいと遠ざかり、真上から見下ろす白皙は不穏な両眼を晒す。厭味なほど似合う軍服にはこれまた厭味なほど様になる将校の証。そしてスウィッチが切れたような凝視をする榎木津 
――奴が、俺の記憶を覗く―― 
しかし、覗き込む目が猫のような伸び縮みをする事は無かった。
ただ、ポッカリ無明の闇が広がるだけ。

どうした? 視力を失ってそうなったか? それとももう、人の頭ン中は見飽きたか? 見飽きるほど感情を無くすほど、お前、あれから一体何を見て来た? 

『箱君、取り敢えずは再会の握手だ』

薄笑いを浮かべ、屈み込み、榎木津が手を差し伸べる。間近に見るその手は尚も美しく、長い指は逆剥け一つなく優美。綺麗な美しい白い手。

『やっぱ綺麗な手じゃねぇか……』
『おいおい、手だの目玉だの。妙なものをキミは見せてくれるなぁ! ややしかし、その手、最初のは僕の母親のだろう? あの猫目石には見覚えがあるぞ。 そして次のはヤァ、僕だな、僕のだぞ! ん、箱君、キミは、そうかッ! うん、キミの知りたい事が今わかったぞ!! キミはあの料理女の事を言っているのだな? あの話しを、君は訊こうというのだろう? そうだろう?!』

あぁそうだとも。
そうだ。俺は、それが気になって、ずっと気になっていたのだ。

蚊蜻蛉のようにやつれた榎木津。綺麗な手だからと料理を任されたお袋。俺達が出逢い、つるむようになった長い年月とは、全て其処から始まったのだ。

瀟洒なカップを口元に寄せ、一口飲み下した榎木津は歌うように言った。

『―― 君の母上の手は美しい、実に美しく実に清らかであった。だがしかし、あの手はいただけないだろう? あの女のあの手は醜い。汚い。 あの手で米をとぎ、青菜を摘み、肉を叩き魚を捌くのは、どうにもこうにもいただけないだろう?』

丸窓からの青空は、井戸の中、呆然と見上げる辿り着けぬ景色に似ている。
逆光になった長身の影法師、二つの硝子が瞬いたのは気のせいであったのか。


そもそも榎木津家の厨房には中国人の料理人が居た。美食家である父――幹麿氏が南京のホテルから連れて来たお気に入りの料理人であり、その道では名の在る料理人であったらしい。男は黙々と料理の腕を振るい、そして20年目のその年、故郷南京に帰らせてくれと主人に告げる。当時六十半ばだった男は、残りの人生を故郷で送りたいと言った。ならば、引き止める事は難しい。

こうして料理人は多額の餞別を手に、夏が来る前の南京へと帰って行った。已む無き事情とは言え、幹麿氏の落胆は大きく、次の料理人探しも投げ遣りであったらしい。折角連れて来ても、何かしらの難癖をつけ辞めさせてしまう有り様だった。

其処に、その女は現れた。

女はI県で割烹を営んでおり、それなりに賑わっては居た。けれど、亭主が相場に手を出し大きな穴をあけ、結果、土地も、全て失う破目になる。怒った女は亭主を追い出し、そして其の日、榎木津家を訪れたのは、店の再建と当座の生活の為、幾らかでも融資して貰えないかという、切羽詰った借金依頼であった。幹麿氏は、しばしば其処を訪れる上客であったらしい。

『馬鹿親父め、亀子亀子と大ハシャギして、』

かつて店の中庭には瓢箪型の池があり、其処には十数匹の銭亀が居た。幹麿氏は女に、あの亀はどうしたかと言う。亀は知人にに預けてあると、女は言った。すると幹麿氏は、こう女に告げる。

――君、今日から此処で住み込みなさい。ちょうど料理人が居なくなってしまったから、次のが見つかるまで此処で厨房を頼みますよ。ただし亀も一緒です。――

そうして幹麿氏が提示した賃金は願ってもない額だったので、女は直ちに数十匹の亀と、榎木津家に入った。幹麿氏は庭に亀の為の立派な池を作らせ、亀らは其処で暢気に暮らす。そして厨房に入った女は、予想以上の腕を振るったが、其れを、奴は口にする事が出来なかった。

『此処でね、鼻と口をこう、押したんだ。』

ひらひらさせた右手の掌。

『わかるかい? 麻の葉の、産着に包まった猫みたいに小さな……』

ひらひらした白い手。宙を追視する、薄茶色の硝子の目。

『そして、此処で胸を押したんだ。ポーンとそっくり返ってね、雪の石段を、ゴロゴロと転がっていったよ』


新しい料理人を見物してやろうと厨房へ入った榎木津は、其処に、其れを見てしまう。

―― 言ったろ? 在るものは見えると、其処に見えるように在るのだから、見えてしまっても仕方ないだろう? ――

あぁそうだ。見ようとした訳では無い、其処に在るものを奴は見た、其れだけだ。其れは女のせいでもなく勿論奴のせいでもない。だが、其れは見てはならないものだった、見るべきではないものだった。

女は、まだ子供みたいな娘だった女は、
最初の亭主と生まれて間もない子供を殺した。

働かない男だったらしい。飲んで打って女房を痛めつける屑だったらしい。喰うにも困り、乳も出なくなり、散々痛めつけられ何度か気を失った其の晩、女は泣き止まぬ我が子を其の手の平で押さえた。涙と汗が、ポタポタと産着の麻の葉を濃い臙脂に染めた。

夏の夜だった。其れが最初だった。
そして次は冬。

女は寂れた神社の境内で見を屈ませて震えている。時期外れの、粗末な薄地の着物。裸足の爪先は赤く晴れ上がり、割れた裾から覗く脛は魚の腹のように白い。白い脛に腐った桃の暗赤。温まりはしない手の平を擦り合わせ、女はじっと待っている。やがて、ゆらりゆらり古ぼけたハンチングを被り、千鳥足の男が上機嫌で石段を登る。どんより浮腫んだ赤黒い顔。だらしの無い口元が大きなゲップをする。そうして男は最後の一団を登り方と荒い意気を付いた。

其の時だ。

走り出た女は男の胸元をドンと突き飛ばす。見開いた驚愕のままに、石段を転げ落ちる男。雪降る闇の中、男の姿は消える。女が己の手の平を見る。脹れ上がった指の、アカギレだらけの手。


『おっと、箱君、誤解するな。僕は女を責めては居ない。責められるものか、僕は飢えを知らない、貧乏を知らない、理不尽な暴力に泣いた事も無ければ、怯えて毎日過ごした経験も無い。其れは僕のせいでは無いが、僕が所謂世間知らずの範疇なのは否めない。そして知りもしない事に後付けをするほど、僕は愚かではない。

・・・・・・単にね、厭だったのだ。

あの手が作り出すものを、口にするのが厭だったのだ。あの女を見ると、僕は見えてしまうだろう? あの女が作った料理を見れば、思い出してしまうだろう? あの手を、あの瞬間の醜い汚れた手を。 

はは、いやしかし、君には良い事を教えて貰ったよ。見ない振り、見なかった振りか、全くだ。箱君、君には感謝しているぞ。しかし其れを真に体得するのに、こんなに時間が掛かってしまったよ。こんなに長い時間、しかもほら、あの女の比ではない。この手を見ろ、この手は何人殺した?』

ふわりと空気を混ぜるように両の手の平は上を向き、胸の前軽く開いた腕、真っ直ぐこちらに向かう硝子の目。さながら天からの救済、癒しを懇願切望する殉教者の其れに似て。

だから、俺は其の手を引き寄せる。ひんやりした白い指。薄茶の目には動揺

――そら見ろ、遣ればてめぇも人らしく出来るじゃねぇか?――

手繰り寄せた指を、手の平を、俺は己の角張った頭蓋に押し付け言ってやる。

『気にすンな。 良く見とけ。
汚ねぇもんなンざ俺のこの箱ン中にゃ佃煮にするほど詰まってる。
――な、生きてるもんはどれも似たり寄ったりだろ? 
お前の手は綺麗だ。
喰えない中身にゃ勿体無いくらい、白くて綺麗で上等の手だ。
てめぇばっか死にそうなツラすんな。
ちっとばかし見え過ぎるからって死んだ振りもするな。』


         ***


「あぁ、そうだ、そうだとも、キミは十分に礼節を尽くし僕に其の人生を捧げてくれたね!」
「捧げちゃいねぇよ、」
「ハッハァ! だって箱君、キミの生きた証、全てを見せてくれると言うのだから、其れ即ちこの僕に己の人生を託す、其れくらいの気合で僕と友情を育みたいと言うのだろう? 偉いぞッ! 晴れて忠臣に昇格だッ!」


そうして、馬鹿騒ぎに付き合う俺は、三十路を過ぎて尚、この男と断続的な付き合いを続ける。奴は何も変わらず、寧ろ人としてどうかと思う方向へと邁進しているのだが、それに比例して生き物らしい匂いは薄くなっていった。

しかし、奴は死人なんかではない。

「サテと、」

白い美しい手が、俺の頭蓋を覆う。薄茶の奈落に、微かな色が滲む。

―― さァ、覗け、人は死に人は生き俺はこうしてお前の前に居る。――

俺は箱だ。
お前に綺麗も汚いも見せてやる、ギュウギュウに詰め込んだ箱なのだ。





                             2004/01/02




       ほれ、キバエノ、キバエノだって、

        新年早々、厭な感じで終了。