美しい手は、なにも 《前》
要するに、あれは、生きながら死へ向かうような男だと思った。
素っ頓狂なキチガイ騒ぎと傍若無人の振る舞いに騙されて、皆はあれを陽気な変わり者と呼ぶ。何の不自由も無く、恵まれた血筋、資質、抜きん出た容貌は多少の奇矯さも好ましい特権と成り得るだろう。だが騙されるな。あれは、時折酷薄を顕わにする。いや、酷薄などと言う何らかの情を絡めたそんな物ではない。虚無、そう、何一つ持たず求めず残さない無。
あの、贅沢な硝子玉の目が、奈落しか映さないと気付いたのは何時だったろうか?
大正二年5月、西の横綱常陸山は東の横綱大刀山と睨み合い、石屋見習だった親父は姉夫婦の紹介でお袋に会い、何の感想も持たぬまま所帯を持った。そしてお袋は、考える間も無く石屋の女房になり、四年後に俺を身篭る。実際、間に二人居たらしいが、一人は月足らずで産まれ乳を吸う事が出来ず、もう一人は流行り病で、どちらも生まれて間も無く死んでしまったらしい。
尤もそんなのは当のお袋の口からではなく、下世話な職人の女房が暇潰し、ガキだった俺に漏らしたのだが。いずれにせよ、俺は長男だった。そしてその後生まれた妹は良く泣き良く食べる丈夫な性質で、何の心配もかけず、ただ、親父もお袋も子供二人抱え、毎日キチキチで生きていた。日々、喰う為に必死で。
だからそりゃぁ一大事だった。
その日、親父の目玉に、親子灯篭の花崗岩が飛び込んだ。
割れ硝子のような職人の怒鳴り声。お袋と俺は裸足で作業場へ向かう。くの字に腰を曲げた親灯篭の足元、丸虫のように身を縮め、低く呻いている親父の汗ばんだ背中。油蝉鳴く八月、母屋で泣き叫ぶ妹の声が耳の裏側で轟々と水音に変わった。水音は耳鳴りになり、戸板を剥した俺達は「目ン玉が、目ン玉が、」と繰り返す親父を押さえ付け、近所の医者へと駆け込む。
医者は騒ぎにも動じず手早く親父の瞼を裏返し、微かに眉を上げたあと「此処では難しいな」と言った。ならば、どうする? 詰め寄る職人頭に構わず医者自ら車を出し、親父はお袋と真っ白な後の席に押し込められる。「君はこっち」前を指されたのはきっと、暴れる親父を押さえつける人手だったのだろう。
初めて乗る車に、俺とお袋は身を強張らせていた。俺は医者の隣、背凭れに凭れる事も恐れ多く出来ず、お袋はといえば抱きすくめた親父が痛みで身を捩る度、白い其処に泥を付けるのではないかと気が気でなく冷や汗を掻く。
そうして着いた先、見上げる壮大な建物に俺達は再び凍りついた。俺達庶民にとってN病院とは、当時そんな場所であったから。一方、痛みに苦しむ親父は、まさか俺達が直ちに家にとって返したいなどと思いもせず、そこで目玉のキワに刺さる二つの破片を取り出し、そのまま6日間の入院となる。確かに医者は親父の目玉を治してくれたのだが、正直、目玉なんて片ッポでも良いじゃないかと惨い気持ちになるほど、告げられた治療費はとんでもない額であった。
「こんなガラクタのせいでッ」家に戻るなり、亀杓を握り作りかけの灯篭にジャブジャブ水を掛けるお袋。本当は蹴り倒したかったんだろうが、仕上げて漸く飯の種。急で探す内職の口も見つからず、夜毎台所の板の間に座り込み、お袋は声を殺し泣いた。そして病み上がりの親父に何か漏らしてしまう自分を危ぶんだのか、その面会には必ず、俺を連れて行った。
だから切掛けははお袋だった。
水差しを交換に行った水飲み場で、思わぬ知人にお袋は出逢う。「あら、まァまァ」とその人は、懐かしそうにお袋の肩を叩いた。
嫁入り前の一年ばかり、お袋は知人の口利きで、ある金持ち華族の家に花嫁修業を兼ね女中として入っていた事があった。女中といってもきつい下働きをさせられるではなく、三人居る娘の細々した身の回りの世話。外出時の身支度を手伝ったり、時に話し相手になったり。主人はしばしば年の近い娘らと一緒に、母にも庭球だのダンスだのを遣らせた。世間体だの常識だの、あまり気に掛けず破天荒で、少々変わり者の主人であったらしい。
声を掛けたのはその真ん中の、お袋より二つ年下の娘。訊けば特階に、息子が入院していると言う。何処も身体に悪い所は無いのだが、何故か食が細り蚊蜻蛉のようになってしまったのだと、シネマ女優のようなその人はハンカチで目頭を抑えた。
わが身の貧窮を忘れ、姉さん風を吹かし、慰めの言葉を掛けるお袋。にっこり笑顔に戻ったその人は
「でもね、御医者様のお力か此処に来てから随分精もついてきて、今は退屈の虫が騒ぐらしいのよ。」
と、何故か俺の頭をポンポンと撫でた。
「幾つ?」
10歳だとキヲツケをして答える俺。すると更にニッコリして言うのだ。
「ね、御母様が御父様と御話しする間で良いから、あなた息子の相手をしてくれないかしら?」
厭だなどと言えるだろうか?
言える筈が無い。
すぐさま美しい人に手を引かれ、異世界のような最上階へ俺は向かう。そして、開かれた白い扉白いだだっ広い部屋、俺は、あいつに出逢った。
「ヤァヤァ、母上は人買いのように子供を攫ってきましたか?! キミ、キミは売られて来たのかい? ウゥン違うぞ、飴玉にでも釣られたか? しかし言っておく、僕は断じて子供の使用人なんて雇わない。そして此処に飴玉は無いッ! 僕が欲しいのは使いッ走りでなく家来だ、家来も家来、主人の為なら火の中水の中、そう云う忠臣が欲しいのだッ! キミはそうなれるかい? どうかい? とっとと主人を置いて逃げる口かい? まァ良い、キミは箱に似ている、きっと何も洩らさず、ギュウギュウ詰め込めても頑丈なんだろう、ならば良し、手始めにこうしよう、二人で其処の羊羹を食べよう!!」
白状すれば、色んな意味で俺は恐ろしかった。
部屋に居たのは、見た事も無い綺麗な子供。硝子ケースに収まった御大層な西洋人形のような、そんな白い顔の、薄茶の目の、何処も彼処もぼやけたように色素の薄い子供が、だだっ広いその部屋で一輪車を漕いでいる。クルリクルリと滑らかに八の字に、歳は俺と同じか少し下か? 病人の癖に寝巻きなんて着ていない。白いシャツ、黒っぽい半ズボンは裾に折り返しがあり、漂白したような細く白い脛は黒い長靴下で覆われている。あぁ、確かに蚊蜻蛉のように痩せてはいた、薄い身体はシャツの中で泳いではいたが、しかし、今にも死にそうな良家の子息というには、これは、あまりに程遠いではないか?
詰まる所、こいつはキチガイなのでは? 恐る恐る母親である御婦人を振り返ると、奇天烈な息子の言動に動じる訳でもなく、その人は羊羹を切っていた。羊羹なんて。
俺達が、毎日喰うに切り詰めちィちィ言ってるそんななのにコイツときたら。こんな異人の服を着て贅沢しやがって。思わず睨みつける俺にそいつは全く介さず、作り物めいた顔を奇妙に突き抜けた笑い顔に変え、勢いつけて喋り出す。
「さァ、箱君!食べるんだ!羊羹は嫌いかい?」
いつの間にかキュッと真横に滑り込んだそいつは、俺の顔を見つめる。薄茶の瞳孔が日向の猫のように縮んだ気がして、俺は咄嗟に目を伏せる。
「アハハ!見かけに寄らずキミは照れ屋なのか?しかし照れていても羊羹は食えるだろう?美味いぞッ!」
にゅいと差し出された皿の上、黒もじの刺さったそれを奇妙なそいつの勢いに押され、殆んど反射で齧りつく。上等の甘さ。柔らかい小豆と栗。飲み込んだ後、即座にあぁ勿体無いと思う滅多口に出来ない味だった。
「美味いか?!」
問い掛けるその瞳はまた、ヒュッと縮まった気がして。
それは腹の底が重く冷える、理屈で説明のつかない生理的な恐怖に似ていた。経験の無いこのざわつきに、俺はきっと動転していたのかと思う。咄嗟に口に出したのは、全く意図せぬ言葉。
「お前、何を見た?」
ほぉうと面白がり、薄笑いで覗き込む目はまた、猫のように縮まる。
「うちのノラがよく、部屋の隅や庭の藪をそうやって眺める。俺には何も無いように見えるンだが、けど、何かが其処に在るンだと思っている、ノラには何か見えて、だから警戒したり狙ったりしてるンだと思っているが、お前、お前の目、其れと同じだ」
「何も無いさ、」
「え?」
「特別に、何も無い。在り得ない景色は、見られる筈が無い。僕は、在る物しか見る事は出来ない。其れは君と同じだ。君が見ていないものを見る事は出来ない。あぁ、ただし、僕のイカレた目玉は厄介で、キミの見たモノなら、見る事が出来るぞ。――御父上は災難だったな・・・灯篭?・・・二つ在るな、」
視線は俺に向けられ、俺を通過して何かを追視している。
―― こいつ、俺を覗いているのだ――
そう思うと恐怖より腹が立ち、張り飛ばそうと振り上げた手は意外な力で抑えられ、
「おいおい箱君、僕はこう見えて病人なんだぞ! 言ったろ?在るものは見えると、其処に見えるように在るのだから、見えてしまっても仕方ないだろう? それとも何かい?キミは羊羹を食べようとして羊羹しか見ないつもりか? 皿は? 楊枝は? 皿に付いた縁取りや、差し出してる健気な僕の手など絶対自分は見ていないと言うのか?」
「わ、わかんねぇよッ! けどもウッカリ見えちまうんなら、見ない振りッてもの礼儀だろッ?!」
「あぁ・・・・」
巻き付いた指が蛇みたいに離れ、支えを失った俺の腕はストンと肩からぶら下がる。奴はと言えば 「見ない振り、そうか、見ない振り、見ない振り……」 ぶつぶつ繰り返し、おもむろパンと拍手を打つなり満面の笑みを浮かべ俺に言った。
「見所あるぞッ! 箱君ッ! 見ない振りッ! 僕は此れを座右の銘にする事に決めたぞッ!」
上機嫌だった。
そして上機嫌のそいつは、一輪車をくるりと回すと右手を差し出して言う。
「さァ、握手だ、家来から特別に知り合いに昇格だぞッ! 僕は榎木津礼一郎、そら、箱君、キミも名乗るのが礼儀だろう? 名前は? きょうだいは? あぁ大事な事だぞ、キミの母上は料理上手かい?」
知り合いと家来の差なんて目糞と鼻糞だと思う。腑に落ちないもののボソボソ名乗る俺は、いつの間にか小さな包みを握らされ、明日も此処に来る約束をさせられていた。
「じゃァ、ごきげんよう!明日!」
――明日なんて来るものか、何故わざわざこんな奴と―― そう思っていた筈なのに、俺はあいつに 「おう」 と答える。後ろ手に閉めたドアの向う、振り返れば薄茶の目がポッカリ空いた穴のように見えた。ヒラヒラ振られた手の平の生ッ白い残像。
持ち帰った細長い包みは丸々一本の、あの羊羹だった。そしてお袋は榎木津家の女中として、給料の前払い等と言う破格の待遇で雇われる事が決まっていた。つまり、親父が退院しても俺達は、今後とも付き合いのある関係となった。
こうして俺はしばしば、いや、かなり頻回に、榎木津を訪ねるようになる。
「箱君! 無駄な気遣いは似合わないから止めたまえ! 僕はたまたま冴えてたキミに 見ない振り を座右の銘に貰ったんで、少しばかり恩義を感じてるから言わせて貰えば、キミはこの場合見られなかった振りをすべきと僕は思うぞ!」
お袋の職について礼を言うと、奴はこう言って大袈裟に顔を顰めた。確かに今此処での事ならば、見られなかった振りも出来るかも知れないが、なにせ奴が見るのは過去の事。過去なんてのは何時、何処のへんを指すのか膨大過ぎてこっちも分からない。
「第一、お前が何見たのか何時見たのか、俺にはわかンねぇんだから一方的に俺のが不利じゃねぇか、」
「なるほど!」
口ばっかりだ。
奴は人の話しを会話として聞かない。内容として捉えてはいるが流れのような物は殆んど無視しているので、会話は続くが何時も可笑しな方向にずれ、最後は狐につままれたように終わる。息継ぎが分からぬような多弁にも、最初は度肝を抜かれたが、何、言いたい時は大声で遮れば良い。遮ってもまた、どうせ次々と違う事を言って来るんだが、しかしそれでも腹は立たなかった。勿論、子供らしい争いがなかった訳では無いが、そう云う榎木津に何かを見られていると知っていても尚、不思議と嫌悪感は無かった。
何故だろう?
多分、其れは、あの目だろうと思う。綺麗だけど、ポッカリ空いた穴のような目。
例えば言い争っていても、馬鹿騒ぎの最中でも、奴の目は何時もポッカリ開いた穴だ。俺は、その、穴のように感情の無い眼が怖かった。トスンと何処までも落ちるような、其処まで皆目のつかない深い深い穴。
――あんな目ぇすンのは、生きてる奴じゃない、開いてるけど何も見ちゃいない目――
死んだ母方の伯母をふと思い出しゾッとする。何人も職人を育ててきた親父は良く俺に言った。
―― なに考えてンのか、どういう奴になるかァなんてナァ、目ェ見りゃ一発でわかるもンさァ ――
すると何も映さない榎木津は、何を考えてどういう人間になると言うのだろう?
随分経ってから、ある言葉を俺は覚えた。其れはまさしく奴に俺が抱いていたイメージそのままで、漸く手に入れた形容詞になるほどと思う半分、矢張りと納得してしまう事実に俺はうろたえる。
その言葉とは「虚無」。
空っぽ、何もない、空っぽ。
虚無という言葉に榎木津が重なると、どうしようもない歯痒さを感じた。金持ちで学もあって見てくれもあの按配で、何でも持っている榎木津なのに、あいつの中は空っぽ。唯一違うのは 「何か」 を見ている時で、その時だけは瞳孔が伸び縮みする例の猫のような眼差しになる。ためつ眇めつ、狩りをする生き物の眼差しで、まるで空っぽを埋め尽くそうと、自らの奈落に手当たり次第引きずり込んでいる様に見えた。そしてその時だけ榎木津は、ちゃんと此処に生きている気がした。
それだから、俺は、覗くなと奴に言えない。どっちみち、俺は隠し事が下手だ。その上、奴を押し退けて喋るのも面倒だった。ならば、勝手に眺めろ、そして勝手に判断しろ。奴が見なかった振りをするンなら俺は見られなかった振りをしてやるまでだと、開き直り居直るに時間はそう掛からない。何より穴みたいな目を見るのは堪らない。そんな目をした奴を見るのが怖かった、怖くて、哀れだと思った。
虚無は、埋める事が出来るのか?
親父が退院して、お袋が榎木津家で女中を始めていて、奴に呼びつけられた俺は、何度か小石川の広大な屋敷に足を運ぶ。
「箱君! キミの母上は実に美味い飯を作るねぇッ! 僕は煮っ転がしに目が無いのだ!」
そのお袋の仕事というのは、榎木津本人だけの為に三食料理を作るという何とも奇妙な物であった。料理女は別に居たはずだが、榎木津はお袋に飯を作らせ、お袋自身に運ばせ、自室で一人食事をした。
「あの女中とは星の巡り合わせが悪いのだ」
とか
「台所の方角が僕には凶と出たのだよ」
とか訳のわからぬ言い訳を並べる榎木津だが、なにしろ蚊蜻蛉になった前科もあり家人は奴の好きにさせたらしい。お袋が早く帰る時、止むを得ず休む時、日持ちする弁当をこさえさせるほどに、其れは徹底していたと言う。
確かに、お袋は料理上手と言えた。 だが、上等の喰いものを食べ慣れた榎木津にとって、そこまで執着するほどに其れが美味いのかどうか、其れはチョット難しい。尋ねると榎木津は「素晴らしいのだ」とか「君は幸せだ」とか大仰に口先で喚いていたが、ふと声を落とし呟いた。
「……手が、綺麗じゃないか?」
「手?」
其れきり黙ってしまった榎木津はなにやら一層表情の読めない顔付きになり、話し掛けても生返事になったので俺は已む無く屋敷を後にする。道々想い出す遣り取りは、矢張りどうにも解せぬ事ばかり。「手が綺麗」 ? 変な答えだ。お袋は別段綺麗な手じゃァない。見苦しくは無いが、白魚のようなヒラヒラした手なんてのじゃァない。それを言うなら奴の母親なンて正に其れだろう。
綺麗に手入れをされた行儀の良い細い指、飴玉みたいな石がキラキラ其処を彩って、綺麗ッてのはあぁ言うのを言うもンだ。そう、榎木津自身も綺麗な手をしていた。ひび割れも、マメも、逆剥けも無い、何も作り出さない、汚れを知らない白い細い指を持った綺麗な手。
そんな風に俺達は長い事断続的につるみ、そして離れた。
戦争が始まった。
此処らは微妙に戦災を擦り抜け、まだまだ長閑な様ではあったのだが、しかし、今まで通りと言う訳には行かない。何しろ俺は石屋の倅で、奴は御曹司と来ている。俺ら庶民は生きる為に働き、狡すっからく知恵を絞らねばならない。喰うに困らぬ御華族様と、同じ毎日は送れない。生きる道なんてのは真っ二つに分かれて当然。寧ろ此れまでつるんできた其れが不可解な偶然なのだから別に、其れはどうという別れでもなく、じゃぁなと手を振る程度のものであった。
俺は同じような労働者の倅達とささやかな悪さをしたり馬鹿騒ぎをしたり、ありきたりの戦時下を過ごす。たまに思い出すあの目は、ゾワリと五臓を冷やしたが、其れは其れ、極たまにの一瞬。毎日は慌しく、立ち止まる余裕などない。一日は流れを止めず、当たり前のように明日になる予定だった。だが、御国の情勢はそうも行かぬというらしい。
だから俺は、食扶ち稼ぎの術として、自ら軍人になった。
目玉が悪い事になってる親父は運良く兵役を其れを免れたが、俺は至って頑丈だ。24の秋、盛大に旗を振られ送り出され、あっという間に戦い頭の俄か兵隊は出来上がる。戦争は、始めドンドン調子で進め進め、やがて進退侭為らぬ袋小路へと入り込んだ。ならば御国の為、その袋小路を突き破らんと俺達は当たり前の毎日から脱却する。
せねばならない。
けれど言って置くが、実の所俺はあれが嫌だった訳じゃない。「国の為」という大義名分が有り、「命令」によって生き死にする軍隊の生活。楽じゃねェかと、俺は思った。楽じゃねぇか? テメェに何一つ責任は無い、考える必要もない、ただ言われた通りすりゃぁヨシヨシと誉められる、てんで楽なガキの手伝いじゃないかと俺はどっぷり馴染む。
飯が不味いだの、殴られ蹴られるだの、死という結末が常に近くに在るのだとしても、其れはきょうび何処でも一緒だろう。幸い丈夫な身体と腹がある。俺は、元気だった。簡単に死なないだろうと、根拠の無い自身に溢れるほどに、結構其処に馴染み俺は元気でやっていた。
麻痺していたのかも知れない。余りに身近な「死」に、自ら誰かの命を奪う非日常に。己の脳味噌を使わない軍隊という世界で、俺は生理的な恐怖やそれらを誘発するだろう危機回避に対して、人として持ち得るべき大切な諸々が、最早取り返しのつかぬ状態まで麻痺していたのかも知れない。
そして、感覚を無くした俺は、ジワジワと腐った屍へと近付く。どうしようもない。てめえで其れを歓迎してた節も有るのだから、どうしようもないトンチキ野郎では無いか?
やがて、雲行きは更に輪を掛け怪しくなる。何かの終焉が近付く気配はした。だが、諍いの炎は下火にならず、尚も焼き尽くそう貪り尽くそうと天を焦がし舌舐めずりをする。逃れられぬ業火に身を捩り頭を縮める俺達の毎日は、一層凄惨さを増した。
どう言い繕おうと無駄だ。俺達の国は、明らかに劣勢だった。
この戦、日本は負ける。
其処で戦う俺等に、其れが分からない訳は無い。しかし、誰一人其れを口に出しはしなかった。怖かったのだろう。認めてしまえば「麻痺」は解けてしまう。直面する絶望、死ぬ事、殺される事への恐怖は簡単に人を壊す。
何人かが逃げた。何人かが味方に撃たれ、何人かが狂い、何人かは其れこそ最良と決め自ら命を絶った。皆、恐怖の刷毛口を何処かに向けずに居られず、些細な事でいがみ合い仲間内での制裁は陰惨を極めた。しかし、其処でも俺は至極平静だったと思う。
どうしようもないなら、出きる限りそのように生きて見れば良い。他に打つ手は無いのだから、出来る限り体力を温存して待って居れば良い。いざと言う時の為に。生きて戻れるその日の為に。
―― で、それが仇になった訳だが。
つづく
続くの、なんかね、うん。
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