貴方がそんな風だから、私はこんなに苦しいのです。







                    ***

 かつて、私は詩歌の世界に憧れ、とりわけアブサンの酩酊にも似たヴェルレェヌを耽溺し、その生活様式から背徳までも模倣するほどに心酔してゐた。 挙句、一人の青年に入れ揚げた私は、愚かで見当違いの試行錯誤を繰り返し、母を泣かせ、温厚な父の怒りをもかう。 

 激怒する父は、脳病院に行けと私に命じたが、なかば勘当同然に家を出された私を、こつそりこの街に送つたのは母であつた。 さうして私は今、叔父の監督下にあつて、故郷を遠く離れたこの地で孤独を友とし、じくじくたる思いを抱え、無為な一日を曖昧に過ごす。

  気づけば、またもや私は或る文豪に惹かれ、そこに己を重ねるようになつてゐた。



        三月三十一日 水曜   晴


 昼過ぎ、斡旋屋を営む叔父が子連れの若い男を連れて来訪する。 
 柔和な目元をした三十がらみの男だつた。

「ハイどぉも大家でぇ〜す。 キジマカズオ24歳独身ッ!文豪志望ッ! ダザイって呼んでね、ヨロシク。」

 男はヤマザキと名乗り、軽く私に会釈をすると、今すぐ部屋を借りたいのだと言ふ。

「ナニナニ? 部屋なら二階の真ん中が開いてるけど〜、 今すぐ? 」
「そうなんだよ、カズちゃん! このひと、今すぐ入居出来る所は無いかッてさァ、そんで一ヶ月だけだなんて困るよねぇ?」



 叔父はヤマザキに見えぬやうに私の肘を小突付き、顰め声で断れ断れと言つた。

 しかし実際、あちらこちらで断られ続けたのだらう。 くたびれ果てた子供は、男の首根にコアラのやうにしがみつき、丸い頭を重さうに傾ぎ、男に抱えられて正体も無く眠つてゐる。

「うぅん、ヤマちゃんッてばシングルファーザー? 違うの? 坊や幾つ? 四歳? へぇ〜え、うちはさぁ、短期の賃貸はしてないんだよねぇ〜」
「子連れで寮には入れないんです。 宿泊経費は落ちますが、ホテル住まいをする程には多分不景気だから出ないだろうし・・・ですから、」



 聞けば明日からの社外研修の為、この町にある子会社の工場へ、一ヶ月の出向を命じられたのだと言ふ。 小さな子供を抱えてのそれは大変だらうと、私はヤマザキに大いに同情した。 さすがに叔父も心を動かされたか、眠る子の丸い頬にちよんと触れ、男にかう尋ねた。

「けどアンタ、ここ入ってもさ、昼間子供さんどうするよ?」
「あぁ、駅前の【ほがらかチビッコ園】というのに、」
「「ダァメェッッッ!!」」


 閑静な白昼の住宅地、叔父と私の見事なユニゾンが響く。 
 男はたじろぎ固まるが、我々はこれを注進せぬ訳には行かない。 


【ほがらかチビッコ園】駅前のそれは、カネダと云ふ老女の営む無認可託児所であつた。

 そもそも風俗店を手広く経営するカネダは、同じビルの三階にピンサロ、四階にヘルスを配置し、一階二階の託児所には客の着かない駄目ホステスを保母さんとして適宜雇用してゐた。 なるほど実に合理的であると、不覚にも私は老女に畏敬の念を持つたのだが、さういう問題でもあるまい。 一部では、子育て風俗嬢の母子寮などと言はれ高い評価を得てゐるのだと聞くが、しかし、

「あすこは駄目だよ、絶対駄目。」
「お勧めできねぇなぁ〜、だぁって劣悪過ぎるだろ?」
「でも、じゃ・・・どうしたら・・・・・・・」


 見開くヤマザキの目元から、あつけない冬の落日のやうに、ほつとする笑みが消えた。

 抱きしめる子の愛らしい旋毛に、そつと頬を押し当て途方に暮れる様は余りに頼り無く、私はもうじつとしてゐられない。

「アアアあのさ、わかったよヤマちゃん、一ヶ月だろ? 一ヶ月でインだろ? だったらココ入んなよ。」
「ホントですか?」
「カァズちゃんッ!」


 一瞬にして輝きを取り戻す瞳。 

 安堵し破顔する様は、清楚な白百合が花開くが如く。 私は激しく心を打たれ、それ故、要らぬ提案まで口をつく。

「なーなー子供さ、昼間オレ見てるから、どーせ一日家に居るし、」
「う〜ん、カズちゃん無職だしねぇ」
「でも、あの、」
「コレも縁つーか、な? 仲良く遣ろうぜ。」


 さう差し出した私の手を、ヤマザキはおずおずと握つた。 
 
 並ぶと若干目線が下になり、私のはうが少し上背があるらしい。 節の目立たない指が、無骨な私の手背にしつとりと巻き付く。 

「有り難う、宜しくお願いします。」

 ああそんな顔をしては、いけない。 

 まるで母犬から引き剥がされた仔犬のやうに、無防備な、そんな手放しの信頼を海の者とも山の者とも知れぬこの私に託すだなんて、まつたくどうかしているぢやないか?

 胸が、締めつけられるやうであつた。 

 憐れみと、愛おしさと、もしも情念の檻があるならば、私はヤマザキを一生涯、其処に閉じ込めて愛でるだらう。 ごちやまぜに湧き上がる高揚に煽られ、五臓は急速に不届きな熱を持つ。

 守れねば、この存在を笑みを、如何なる手段を用いようとも断固として死守せねばと、その時硬く心に刻んだ。 

 苦しい、恋の始まりであつた。



        四月一日 木曜  晴/曇


 ヤマザキの子を連れて、花曇りの商店街を歩く。 

 出掛けヤマザキは子供の着替えと玩具を詰めたリュツクを私に差し出し、息子を宜しく頼む、とふかぶか頭を下げた。 整え過ぎぬ前髪が俯いた額にはらりとかかり、それにより生まれた得も云はれぬ憂ひに、けなげなその頭蓋を思はず抱き寄せたくなる衝動を、私は必死で堪へた。 

「へぇえ〜〜僕、シュンちゃんて言うのかぁ?」
「ホントはねぇ〜 シュンスケ ってゆうんだよ〜!」
「そッかぁ〜お兄ちゃんもホントは キジマ って言うんだけど、みんなは カズちゃん て言うし、その正体は ダザイ って言うんだよ〜」
「わかぁんなぁ〜〜い!!」


 とことこ、茶運び人形のやうに、
 道幅一杯をあます事無く使つて、子供は私の数歩先を歩く。

 開店直後の暇潰しなのか、八百屋と肉屋の二代目コンビが隣り合う店先にたって、何事かを楽しげに話してゐた。 ふと、八百屋二代目が子供に気付き、やぁやぁ何処の子だ、坊やいくつかい、などてんでに質問を浴びせ、よつてたかつて小さな丸い頭を撫で突付いたので、大喜びの子供はきゃつきやつと小猿のやうに、声を上げて跳ねる。

 八百壱の弐代目が、ルビイのやうな苺を半ケエスばかり取り、店先ではしやぐヤマザキの子に手渡した。

「やーカズちゃん見直したよう、その子だろ? 面倒見るッてのは、ハァ〜、プーでゴクツブシの道楽大家とはいえさァ、そりゃァなかなかできるモンじゃねぇよなァ! ソレ持ってけ!」
「ぼくねぼくねプーさんのぼうしもってるー! でもゴクツムシはしらなァ〜い!」

 それに習つて肉屋の二代目が、まだ温かなコロツケを、三角に折つた茶色の紙に包んで私にそつと押し付け言うのだ。

「てっきり俺ァ〜誤解してたねぇ〜! 親も見離したロクデナシのボンクラだってアンタぁ、有名だったからさぁ〜」
「ねーねーロクレナシンってなーにー? ボンクラーってポケモンにでてくるの〜?」
「さッ!シュン君、公園行こうッ!なッ?」


 火の粉の落ちる場所と知りつつ、わざわざ油に濡れてぽくわんと立つ馬鹿もゐまい。

 両手で苺を掲げた子供をぶら下げるやうに抱え、紙包みを顎下に挟み、私はその場をそそくさと離れたのであつた。 

 さて、私たちは午前と午後の小一時間づつを児童公園で過ごした。 さうしてたっぷり汗を掻き、もう歩けないといふ子を背負つて私は自宅へと戻る。 着替えをさせるとおやつが食べたいと言ひ、おやつに焼き菓子をたらふく食べた子供は日暮れよりも早く、遊び途中のミニカーを手にしたまますとんと呆気ないほどの速さで眠ってしまつた。

 すやすや平穏な寝息を立てる子の満ちたりた寝顔を眺めつつ、灯りも点けぬ部屋で、私はひつそりヤマザキの帰りを待つ。

――― 子供もイイよなァ〜〜パパッ! とかな、テヘ。 いやまてよ、ヤマちゃんがパパだから俺ッてばママか? ママ? ・・・・・ダブルパパってのもこの際アリだろ? アリ!


 やがてカシンカシンと階段を踏む足音が聞こへ、息を切らし赤い顔をしたヤマザキが、邂逅とでも名づけたひ一枚の絵画のやうに、愛すべき我が安普請のドア口に立つ。 するとどうだらう、まるで見えない手に揺すぶられたかのように子供はハツとして目を開ける。

「パパ〜〜!! きょーダザイくんとコーエンでポリレンジャーしてあそんだのー。 おみせやさんにイチゴとコロッケもらったのー!」
「そうかヨカッタねぇ〜!」
「でね〜でね〜パパしってる〜?ダザイくんすごいんだよ〜プーさんでゴクツムシでロクレナシンのボンクラーなんだってぇ〜かぁっこいいよねぇーみんながいってたー!」


 こら、と子供を嗜め向き直るヤマザキは、私の目をじつと見つめ、静かに言つた。

「ダザイくん・・・・・僕は・・・そう、思わないよ」

 ・・・・・・ や、    思ってもイイよ、



 私はその日、真実ゆえに人は傷つくのだといふ事を身をもつて知つた。
 誰も、悪くない。 誰も、恨まない。



        四月六日 火曜  曇天


 朝からはつきりしない空模様を気にして、終日を子供と室内で過ごす。

「なぁシュン、ママってどうしたの?」
「ん〜? とおく〜」
「遠く・・・・って、どこ?」
「ん〜〜わかんな〜い。 スッゴイとおくにいっちゃッた〜。 ねーダザイくん、シアゲミガキしてぇ〜」


 その時私の心の中には二つの感情が生まれ、今まさに、二つが凌ぎを削りキユウキユウとひしめきあつている事を、幾許かの後ろめたさとともに自覚してゐた。

 ひとつは憐れな幼子を捨て何処へと出奔した、惨い母親へ向かう激しい憤りと、もうひとつは、その絶好とでもいふべきタイミングを見計らい、劣情を果たさんとしてゐる己の、卑怯で浅ましい渇望とを。

「ホイ、ブクブクしろ――!!」
「べぇーー・・・・・・・・・あ、パパ、パナシら〜」
「あ?」
「やりっパナシなの、ハブラシおカタしてない〜」
「コレ、パパの?」
「うん」


 いつたい、私は何がしたいのだろうか? 

 脳裏に浮かんだ或る愚かしい企てに、がうがうと血潮は唸りをあげ不埒な脳天を目指し、つひには故膜を破らんほどの興奮を私は覚える。

――― か、間接キッス・・・・・・というよりむしろ間接ディ〜プの趣きが・・・・・い、イタダキまっす〜 上の歯ぁ〜〜〜〜下の歯〜〜〜〜前歯〜〜〜奥歯ァ〜〜〜ベロもぉ〜〜ふふふふふふふふふ・・・・・


 愚行は、ヤマザキの子が、大便をしたいと大声で騒ぐそのときまで続いた。 


 かうして私はいまだかつてない充実を味わい、ひとり、密かな官能の余韻にもやもやと浸る。

 いつもより遅い六時前、帰宅したヤマザキを目にすれば、さかしまな官能は蘇り、つひつひ口元に視線を彷徨わす有り様とあれば、まつたく阿呆としか言ひやうのない私なのだつた。 
 
 故に、ヤマザキが発したその言葉に、どれほど私が凍りついたのかを、どうか、想像して欲しい。

「あれぇ? シュンー、パパハブラシで歯磨きしたかー?」
「してないよー、シュンちゃんアンパンマンのでやったよォー」
「そぉ? 変だな、出しといた筈なんだけど・・・・」
「お、俺ですッ!」
「ダザイくん?」


 私は必死の自制心を持つて冷静さを装い、出しつ放しであつたそれを、自分が仕舞つたのだと言つた。 なあんだ、とヤマザキが笑い、釣られて子供も笑つた。

「あぁならいいんだよー、これもうバサバサだから、パパおトイレ磨いちゃったんだー、シュン使っちゃったかと思ってちょっと焦っちゃったー!   ん? どうしたの? ねぇダザイ君どうしたの? きもちわるいの? え? 吐く? 吐くの?」


 そら、どうだ、呆れた阿呆がここにおるぞ。

 なのに性懲りの無い私ときたらば、擦られた背の感触を思ひ震え、止め処なく高まる劣情にはいとも容易く流されるのだつた。

 己が失策に枕を濡らす夜、果てる私は下履きをも濡らした。



        四月十七日 土曜  雨


 ヤマザキから電話を貰つたのは、怠惰な午睡から覚めた午後4時近くの事であつた。

 出し抜け、肉が良いか魚が良いかとヤマザキは問い、肉だと答えると、ぢやあ今買つて来るから子供と待つてゐてくれ、日頃の気持ちだから夕食をご馳走させてくれ、とさう言つてせつかちに電話は切れた。 

 間も無く小さなノックの音がして、小さなお客が顔を出す。 私はすぐにも戦ひを挑みたさうなお客を部屋に招き入れ、腹に溜まらぬやうな菓子を探しに、台所を漁った。 すると、お客は何かを発見して叫ぶ。


「あァッ!このおねーちゃんシュンちゃんのママににてるぅ! ねーなんでーねーなんでおねぇちゃんハダカなの? ねー」

 ああ穢れなき幼子よ! なぜ、わざわざ禁忌に触れるのか?


「うわぁ〜〜〜! ごほんこんなにたくさんあるぅ〜〜!!」
「見、見ちゃイカァンッ!!」


 うろたへる私を尻目に、子供は四つん這いになり、座敷の押し入れにからだ半分を突つ込んで、我が門外不出の蔵書をかうかうとした蛍光灯の下に、あつけらかんと陳列するのであつた。


「サーしまおうなー、コンナン面白くねぇよなー、あッそろそろマンガ始まるぞッ?」
「やだー! シュンちゃんこのごほんよむのー。 ね−おねぇちゃんおようふくないのかな−、なんでー? オフロー?」
「そ、そうッ!!御風呂なんだよ、みんなで御風呂に入るところなんだよー」
「おじちゃんもハダカー・・・・・おねぇちゃんないてるのォ?」
「鳴いてる・・・泣いてる・・・・・こ、このおねぇちゃん病気なんだよッ、お風呂でどっかイタクしちゃッたんだなッ? だからお医者さんがカラダにイイ体操をしてるのだッ! でも、ココはお風呂だからお医者さんもハダカなんだなァ〜、だなッ、よォしポリレンジャー出動ッ!! 不祥事ボンバーッ!! とォッ!」
「おうッ!!」



 それだから子供とゐうのは、他愛ない。

 このやうに、私の巧みな誘導に乗せられて、すつかり戦い遊びに興味を移されてしまつたのだつた。 それなので、私は繰り出される攻撃を避けつつ、子供にばれぬやうに、禁断の蔵書を押入れの上段奥へと隠した。 さうかうして、二人で荒く息を吐いてゐるとヤマザキが戻って来た。 

 ヤマザキは、卓袱台(ちゃぶだい)の横で、大の字になつて伸びてゐる我が子に屈み込み、よゐ子にしていたかい、と相好を崩す。

「シュンちゃんねーごほんみてたのー」
「へースゴイねー!」
「おふろやさんでねーママみたいなおねぇちゃんがねー」

 ――― し、しまいまで言うなァッ!!



 もはや、夕食の御章半に預かる気力が、私には微塵も残つてゐなかつた。
 刺すやうな視線には、間違ひなく軽蔑と落胆が混じつてゐるだろう。

 一人残された六畳半。
 今宵十三夜のもどかしく満たされぬ月に、歯痒く切ない我が心情を重ねた。 


        四月二十二日 木曜   晴天

 たうに月半ばを過ぎ、私の中の遣り切れぬ思ひは、ぐんぐん加速して膨らむ一方であつた。
 激しい焦燥感が、心中に渦巻く。

 例の禁書回覧の翌日、ヤマザキは私に合鍵を渡し、自身の部屋で子供を見てくれるやう念を押した。 口調は穏やかであるがなんともゐえぬ気迫があり、私はうんうんと張子の虎のやうに頷いて、それに同意したのであつた。 尤も子供にしてみれば好都合であるらしい、何しろそこにはありつたけの玩具が揃い、遣ひ勝手も知れてゐるのである。 

 そして、こんな遣い勝手も子供は熟知していた。 大家たる私ですら知らなかつたのだが、その便所は、ドンと扉を叩くと掛け鍵が外れるのである。 

 小便をする私に、子供がそれを実証して見せる。

「じゃー−んッ!」
「ぅわぁ!」
「わ〜〜ダザイくん、ちんちんくろいねぇッ!! スゴーーイ!!」
「そ、そうか? まな、コレでアレよ、アレだからハハッ! スゲェだろ? シュン!」



 何にせよ、手放しで賞賛されれば面映く、嬉しくない筈がない。 恥ずかしながら学生時代の私は、悪名高きモラトリアムを実践する、無計画で自堕落な生活を日常としてゐた。 自由恋愛などとていの良い言葉で括り、些か節度に掛ける交際を繰り返してゐたのだつた。

「スッゴイねぇ〜〜!!」 
「ワッ、触るなッ!」
「ぅ・・・・・」
「なななな泣くな、ねッ? 泣かない泣ぁ〜かないッ! で〜もぉ〜触っちゃ駄目だよぉ〜〜〜ねぇ〜〜〜ゾウさん吃驚しちゃうぅ〜大事な場所なんだからねぇ〜〜」
「・・・・・ココ、腐ってるのかなぁ?」
「や、腐ってないの、イイ按配に今が旬なの。」
「シュン! ボクぅ〜?  あのねーシュンちゃんのパパはねー、ちんちんクロくないよ〜。」


 瞬時にそれを再現する、己が大脳皮質の勤勉さに、私は今こそ感謝せねばなるまい。

「へ、へぇえ〜〜そぉなの? パパはそうなの? へぇえ〜そうかぁ!」
「こんな色。」


 そう言って子供は、すぼめた桜色の唇を指差すのであつた。

「ブッ、     イヤン、リアリズム・・・・・」


 絶景かな絶景かな、天然色の彩色を経て更にリアルさを増す脳内映像の見事さよ。


「そんでおッきいの。」
「ナニ?」
「パパのほうがちんちんおッきいよ〜! オッキクてながいの〜」
「ォォおおおオッキクて長いのかッ?!」
「うん。」


 新たな証言に脳天をしたたか打たれ、驚愕に目が眩みそうな私であつたが、しかし、それは如何程なのだらうと、兼ねてより並以上と自信のあつた我が逸物をしげしげと眺め、それより長くそれより太いと言ふヤマザキの持ち物を、ここに改めて再現せよと大脳に命じた。 

 果たして、結果や如何に?

「シャァァアア〜〜〜〜〜ッッ!!」


 致して愉しく、致されて愉快。
 驚くべき低モラル、或いは柔軟性の勝利とも言えやう。

 その夜、鉄板を囲み、かつかつ肉を喰らうヤマザキを、なんとはなしフェミニンな気持ちで私は盗み見るのであつた。 

 願わくば、優しく奪って欲しい。 覚悟はたうに、できてゐるのだから。



        四月二十九日 木曜   晴天


 別れは、間近に迫つてゐた。 

 さうしてもう、二度と我々が出逢うことなどないのだと、私は十分に承知してゐた。 ヤマザキを想ひ、ヤマザキを綴り、ヤマザキを夢に見て、狂おしい一日をまたひとつ終える。 悪戯な時の神は私のそれだけを、日に半刻づつ、皆より早く進めたのではあるまゐか?

 時は私になにひとつ残さず、そこになんらかの証拠を残す事すら、許さなかつた。 叫びが咽喉よりあふれ、獣の様にヤマザキを欲する己を持て余してはいたが、しかし、私はいつも通りの一日を当たり前に過ごし、今、ヤマザキの部屋で夥しい数の空き缶に、埋もれさうになつてゐるのであつた。 

 果たして、これを僥倖と呼ぶべきか否か。


「寝ちゃったよ、」

 滑るように、隣の和室から出て来たヤマザキが、声を潜めて言った。 
 さうしてストンと腰をおろし、小さな卓袱台(ちゃぶだい)の角を挟んで、私たちはひつそりと向き合う。

「あぁ寝てくれた・・・・・・さ、ここからは大人同士だね。」

 立てた膝をゆるく崩し、飲みかけのビールに口をつけるヤマザキは、ほうと深い溜め息を吐き、じつと見ていた私ににつこりとした。 途端に鼓動は跳ね上がり進軍ラッパは高らかに鳴るも、私はといへば、ただあの、その、とどもり、知恵足らずのやうに南京豆の皮を剥く。 
 
 やうやく口を吐いたのは、小学生のやうな一言であつた。

「さ、寂しくなりますね」
「ふふ、ダザイくんたらどうしたの? そんならしくない、」
「や、ボクはホントに寂しいです、あの、ボクは、」
「ほらダザイくん、飲みなよ!」


 さも可笑しそうにヤマザキは笑い、私に新しいビールを勧め、自分もぐいつと煽つた。 と、唇の端に飲み干しきれぬ液体が溢れ、上向く首筋を伝い、釦二つ外れたシャツの襟元から仄白い日に当たらぬ内側へと流れる。 

 駄目だ、駄目なのだ。 これ以上見てはいけない、考えてはいけない、

「君には感謝している・・・・あぁ本当に、君があの時Yesと言ってくれなかったら、僕は今頃こんなふうに酒を飲んでいられただろうか?」
「お、オレは別に、ああのシュンは可愛いし色々ご馳走になったり、あの」


 いけないけれど、でも、このまま何もせずに永劫別れるつもりなのだらうか?

「・・・ダザイくん・・・?」
「あのッ、」


 口篭もる私をヤマザキは急かさず、覗き込み、じつと次の言葉を待つた。

 ゆっくり瞬きする薄茶の目。 口の中がからからに乾いて、粘つく唾液に私の舌はもはや使い物にならない。 手の平と背中に、じわりと汗が噴き出てきた。 

「あのですねッ、」
「・・・バレたかな・・・・」
「え?」


 急に私から視線を外し、ヤマザキが独り言の様に呟く。

「気付いたんだろ?」

 困惑するやうな自嘲するやうな、曖昧な表情をして、ヤマザキは再び、私を視界に捉えるのであつた。 そしてはあぁとまた溜め息を吐き、ばれては仕方ない、最後だもの仕方ない、と唄うようにつぶやくヤマザキは、およそ平常心に欠ける私の膝にすと、白い掌をおゐた。

 私は息をつめる。

「良いんだ、君の言いたい事はわかる、君はきっと気付くと思ったんだ・・・・でも、それはそれでしょうがないともね、」

 気づいてゐたのか? 

 色素の薄い唇が言葉を紡ぐのを、およそ現実味の無い作り物の風景の様に私はぼんやりと眺める。 気づいてゐたと云うなら、ならば、私は、

「だ、黙ってらんなくなったんですッ! オレ、オレは、」
「しッ、シュンが起きる。」
「・・・・・」
「最後の夜だから、そう云うのもアリなのかも知れない・・・・」
「そう云う?・・・・・・」


 ヤマザキの顔が近づく。 少し厳しい表情のヤマザキは、何かを決意してゐるやうに見えた。
 さうしておもむろに、私の肩を掴み言うのだ。

「ね、約束してくれるね? 今夜限りの事だとどうか君、約束して欲しい、でないと僕は、」
「わ、わかってます、今夜だけでイインです、一度だけでもイインです、」
「・・・・・・今夜だけの一度きりだからね、」
「は、ハイッ!!ありがたくイタダキますッ!!」
「そんな、ご馳走みたいに、」
「もの凄いご馳走ですッ!」
「じゃ、存分に食べて、」
「ハイッッ!!」


 両肩に乗せられた山崎の指に、ギュッと力が篭もり、こちらに傾く上体が真上からの蛍光灯で黒い影となり、威圧的な黒は私に圧し掛かるやうに思えた。 咄嗟に目を閉じたのは我ながら生娘のやうだと笑えたが、だがしかしそれに相違はない。

 もしもヤマザキに、今夜私がいたされるのなら、私はまさしくそれだ。 その証拠に見よ、世の生娘が初めての床入りに想像するあらゆる妄想と不安を、私は既に、そして今も、息苦しい自分を持て余し、尽きぬあらぬ想像に浸る。 ああ何しろ、ヤマザキは太くて長いのであるから、

     ――― ボク初めてなんです、お願いヤサシクして・・・・

「ジャジャ〜ン!」
「は?」


 素通りした気配。 

 振り向けばなにやら得意げなヤマザキが、スチール棚から一冊の本を取り出して、さながら御褒美のメダルのやうに掲げた。 

 本のタイトルは【実用 冠婚葬祭丸わかりガイド】。 
 しかしヤマザキはその本を、かちりと縦二つに割つた。 

「!!!」

     【 *爆乳* 美少女診察室  潮吹きスペシャルVOL3. 
      ::素人オンリィ:::  センセイ、あそこがオカシイの ::: 】


 ヤマザキはそれを、やれやれといつた表情で私に差し出したのであつた。

「ハイ、ダザイくんも人が悪いんだから・・・・・・いつ気づいたんだい? 留守番してるとき家捜ししたとか?」
「いや、お、おれはあのべつに、」
「まァいいさ。 今日の今日まで言わずに我慢してたんだろうし・・・」
「違ぁぁうッ!」


 咄嗟に大きな声を出した私の口元にヤマザキは人差し指をたて、小さな子にでも言うやうにしつと、音を立てる。

「まぁまぁ、・・・時々妙に思い詰めて俺の事見てるから、なあんか相談でもあるのかなぁって思ってたんだけど、ふはは、そう云うことならね、」
「・・・う・・・・・」
「明日の朝返して。 約束だからね? ダビングすんのは構わないけど、くれぐれもテープ痛めたり、あと写真に染みとかつけないでよ? 秘蔵の一本なんだから、」
「・・・・はい・・・・・」



 さうして、選りによつての最後の晩、私はひとりきりで乱雑な部屋に篭もり、年端もない少女達の戯れを眺め、猛り狂いつつ泣くといふ、器用な芸当をこなした。 途中、泣きぼくろのある娘が身を捩り、ああこれがヤマザキ一押しの娘であつたかと想ひ出せば尚更、悲しみは止まらなひのであつた。 

 明け烏鳴く頃、私は慎重に、それをダビングした。



        四月 三十日 金曜   晴天


   さやうなら、さやうなら、私の愛した百合のやうな貴方。

 まつたく色々な事が脳裏を過ぎり、一睡も出来ずに、私はこの日を迎えた。 寝起きの口を漱ごうと洗面台の前に立った私は、幽鬼のやおうな己の憔悴振りにぞつとし、もうやめよう、こんな恋はもうやめやうと、決して守られぬ誓いを虚しく立てたのであつた。 

 さうして朝早くヤマザキを訪ね、件のテープをそつと渡す。

「ひゃー! ダザイくん駄目だ、ヤリ過ぎでしょ?もう、太陽が黄色く見えるでしょう?」

 ぱしぱしと私の背中を叩きながら、幾分高揚して見えるヤマザキは、にやりと厭な笑いを浮かべ、切なく見つめる私に言ふのだつた。

「どのコで抜いた?」 

 さう、こんなにも惨い貴方を私は愛してゐるのだから、

「・・・・4番目・・」

 さう、こんなにも欲望に正直な私だから、貴方にも正直でありたかつたのに、私は最後まで、胸の内を言えないでゐるのだつた。


 マニアだねえと、大喜びのヤマザキはきつと、なにもわかってはゐないのである。 それどころか、いよいよ自宅に戻る喜びに満ち、既に心はここに無いのである。 

 やがて一台の軽トラックがアパート前の私道に横付けされて、ヤマザキ父子は有り難う有り難うと私の手を握った。 

「ダザイくん、また遊ぼうねー!」

 幼子よ、または無いのだ。
 君はここをすぐに忘れ、私は君たちの忘却の中に、終の棲家を構えるだらう。

「ほんとに有り難う! あぁ是非ね、あっちの自宅の方にも遊びに来てくれよ、ね?」
「えと、オレは」


 だから誘わないで欲しい。 

 そんな場所に私を誘わないで欲しい、さうしてこの恋から逃げられぬやうにあざとい企てをしないで欲しい  ――― と、今まさに涙を堪える私に、ヤマザキは衝撃の告白をしたのだつた。


「是非ね、君に遊びに来て欲しいんだよ。君には世話になったし、何しろ妻が君に会いたがっている。」
「つ・・・・妻?」
「うん、漸くブラジルから帰って来たんだ。いやぁ〜参ったね、妻の出張と研修が重なるなんて思いもしなかったから、」



     ええ、それはまつたく思ひもしませんでしたね。


 斯くして、ヤマザキ親子は来た時同様に慌しく、そしてあつけなく、この部屋を、町を去つて行った。 ばいばいと手を振る子供の甲高い澄んだ声が、何故か一日中耳につく。

 抜け殻のやうな一日を私は送ったのであった。



        五月 三日 月曜   晴天


 私を緩々と満たし始めてゐる、曖昧で自堕落な日々。
 この日、一つの小包が私宛に届く。

 差出人はヤマザキトミコ。 さうだ、ヤマザキの妻ではないか。 
 そしてダザイを名乗る私はやはり、この名にとどめを刺されるらしい。 

 送りつけられた中身は、珍しい腸詰の詰め合わせであつた。 
 私はその内の一本を、大鍋で茹でて、昼食代わりに齧ることにした。 

 さあ太く、長い腸詰を食べやう。 恋しい男の、妻からの贈り物を食べやう。

――― シャウエッセン?・・・   や、違うだろ、コイツは最初 h じゃん、

 片手でからうじて握れるくらいの、一筋縄で行かぬ太いそれを、だうやら昨日の弁当に付いていたらしい割り箸でぷすんと突付き、その片端をしげしげ眺めたのち、私は、かしゆつと噛み千切るのであつた。 

 じゅわつと肉汁が広がる。 

 旨味をゆつくり飲み込んで、これがべつの、かつて思い描いた物であればどんなに幸せだらうと、もう一口、齧つた。




      あ――――スッキリしねぇッ!!










      :: おわり ::



  * 彼の過去はココ  街角 詩人Kの日常


                百のお題  100  貴方というひと