092 マヨヒガ
貴方を待ち侘びて噛み締める椎の実は苦いわ
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視界がぶれたのと後頭部の衝撃はほぼ同時だった。
もんどり打ち倒れこんだ部屋の隅、軽い脳震盪を起こし揺らいだ現実感、殴打された頬の熱、頭蓋が膨れそうな鈍痛、途端に広がる鉄錆の味、を、味わう間も無く二回、三回、馬乗りになり奴は無表情で俺を殴りつづける。 あぁ情け容赦ない。 振り上げられる拳は何の躊躇もなく滑らかに機械的に振り下ろされ、痛みというより痺れ、単調な鈍痛に神経が慣れた頃、シャツの襟ごと引き起こされ、床に叩きつけられてヒュッと数秒息が止まった。
期待と興奮とついでに恐怖も満喫中の俺。
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女は、耐える事こそ理解する事なのだと信じ、恋愛は自分を押し殺してこそ成就するものなのだと頑なに信じて疑わなかった。 いやはや、姉といい弟といい、それはアンタんちの伝統芸ですか? と。 そうしておまえたちは俺を追い詰め、吊るし上げ、一ミリの隙間さえも奪って息苦しくさせる。 厭味ったらしい無言の糾弾をして、コッチはいっそ言葉で非難された方がマシなくらいの生殺しなのに、これでもかかと『ボクらなにをしましたか?』 ってな《清らか》アッピールしやがって、トボケんじゃねぇよ、ホントに罪作りでオメデタイきょうだい。
そうしておいて、女は、奴に俺を責めるなと言ったのだ。 自分は全て承知のことなのだから、全部わかっててしたことなのだから、どうか責めないでくれと、女は泣き腫らした顔で奴に懇願したのだ。
ソリャ、お優しいことで。
だけども俺は、女のそうした部分を憎んでいた。 無垢である事を武器にする、彼女の胸糞悪いヒロイズムに、いい加減辟易していたのが本音。
なぁんて今、正直にカミングアウトしたらマジで殺されちゃうかも知れないし、半殺しでヤラレちゃうッてのもナンだかなぁと思うし、いやまてよ、そんなしてもコイツはまだ俺に乗っかるつもりなんだろうか、やっぱ萎えるかな、でもこいつマゾだから怒り心頭ギンギンに 「もっと酷い事言ってぇ!」 な感じにおっ立てて、傷付いた顔しながらも俺、ヒィヒィ言わすかな、どうなのかな、うわ〜楽しみッ!
で、ヤッたあと仲良く落ち込めッてのかよ、冗談じゃねぇぞ馬鹿野郎。
――― あの人さ、何やっても何しても許してくれるんだもの。 怒らせても泣かしても、最後ギリギリのとこで諦めた目になって、何でも全部、受け入れちゃうんだもの。 ・・・・・あんまり誰かさんそっくりでさ、ハハ、ついつい酷い事もしましたけども・・・・
吊るし上げられて息がつまる。 その腕の力が瞬間抜け、膝が着き、見下ろされた目の滅多見た事の無い色。 おいおい殺す気かよと口に出しそうになり、ホントになったら怖いから止める。 ひんやり氷点下の炎で焼き尽くそうとする、凶暴な殺意を持った目。 おまえ凄い目ェするねぇ! 目が眩みそう。
―――・・・四つも年上なのに、可愛いじゃない? すぐ赤くなってさ、何度もしたのにキスだけで緊張して、
締め付けられた喉、喋ればガサガサした咳が出た。
「・・だからって、」
――― だから何?
それでも俺の舌は休まない。
――― 勘違いすんなよ、騙しちゃいないよ、二番目でいいなら遊ばない? って口説いて、まァ、最初から遊びだってあの人も知ってたんだよ、知ってんのに、マンションの前で待伏せなんかしててさ ・・・付き合ってる人が居るのは知ってます・・・でも、諦められないんです・・ なぁんて抱きついてきちゃったりして、
抱き締めた柔らかい身体は無条件に愛される可能性を秘めていて、それ故に俺は絶望的な自分を自覚せざる得なくなる。
そんな女の今時珍しい純愛ッぷりは、なかなかに見物だったけれど、そこまで純真を強調されると、煽られるのは罪悪感よりも嗜虐心。 なので心置きなく踏み躙り、裏切り、誰かさんと違って泣いたり傷付いたり萎れたりする様を、俺は存分に充分に楽しませて貰ったのだ。 けれども、似ても似つかないきょうだいは、時折気味が悪くなるほど同じ顔をして同じ目をして、同じ裏切りをする不実な俺を見つめた。 砂粒ほどの感情を無数にみっしり腹の中に押し込め、コッチ側との間に紗をかけた、この世に未練のある死人のような眼をして、女は弟のレプリカの様に、俺を見つめた。
それが、唯一、耐えられなかった。
女に酷い事するのに躊躇は無かったが、その目で見つめられるのは堪えた。
わたしね、あなたの事、好きよ。
女はそう言って、俺を、あの死人の目で見た。
止めろ、止めてくれ、そんな目をされるともう、もう俺はどうしようもなくなってしまう、胸糞悪いつくり笑いを凍りつかせ、足元にしゃがみ込み、鼻を垂らし、もうしません許して許してとオイオイ泣きじゃくってしまいたくなる。
だから俺も、姉に見せたのと同じ顔で同じ舌で、弟のおまえも欺いてみせよう。
――― けどアハハ、キミのねぇさんも、その付き合ってるってのがまさか自分の弟だとは普通思わねぇしな、
どうせ暴いちゃ貰えないんだから、
――― 俺の本命はさ、おまえなんだろ? だから 俺はね 彼女を捨てたんだよ
*
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例えば真昼の陽光さえも届かぬ暗緑の木々茂る山中、枝摺りのざわめきと魔物の悲鳴しか聞こえないようなそこで、半ば崩れ、打ち捨てられた廃屋に女がただ独り、いつまでもいつまでも、幻の愛人との逢瀬を待ち詫びているのです。
愚かな女だと笑いますか?
**
――― で、おまえは俺を選んでくれるの?
低い唸り声を上げ、おまえは俺を張り倒す。 --- なんでだ? なんでだ? なんでおまえはなんで? どうして? --- 唸りは低い呟きと呪詛で、捩じれて転がった俺は〆とばかりにこめかみに拳を受け、弾む頭蓋で盛大な音を立てた床板は、さぞや階下の住民の癇に障った事だろう。
過ぎた痛みは痺れの様に全身を覆い、耳鳴りに似た酩酊と押し寄せる興奮と緊張と、喩えようの無い切実な渇き。 もう、動けそうになかった。 浅く息を吐く俺の腹の上に、不遜に乗り上げたおまえ。 浅くランダムに、短い呼吸を繰り返す、おまえの薄く開いた唇。 不意に距離を縮め潔く開いた口腔の暗がり、言葉を発する直前、ズラリと行儀の良い丈夫な歯、狼そっくりの犬歯。 おまえに言葉は要らない。
――― ・・・・噛んでみたいか?
言った途端、晒された首筋を噛まれた。 ッてぇよ馬鹿、おまえは獣かよ?
荒々しく剥され、殴られ、弄られ、貪られ、パランと床に撥ねるボタンはパイプベッド下のカオスへと。 分厚い掌が万力みたいに締め付けて、とっくに動けない俺をちゃちな床に埋め込もうと押しつける。 掃除を怠けて久しい埃だらけのフローリング。 痛みを堪える指先が滑った。 斜めになった視界。 ベッドの下に詰まれた雑誌の束が五つ。 誰かさんの栄光を反芻し、憎悪と羨望をたぎらせる為の、半ば脅迫的に集められたスポーツ紙の束。 無駄な情熱の残り滓。
厭だ厭だ、まるで予定調和の結末。
散々殴られ、ボロみたいに転がされ、抵抗しない俺が浅い息を吐く頃でなきゃぁ、おまえは素直に発情することも出来ない。 煽られ、迫られ、唆されないと、そんなつもりじゃなかったのだと言い訳する材料を俺が作ってやらないと、おまえは素直に俺を抱くことすら出来ない。
『何度言っても気の効かない子だねぇッ!』
隣家の老婆が若い嫁をなじる。 だかその声にホッと安堵する。 平和だな・・・・・・・
なぁんて黄昏る余裕のある自分が怖い。 怖いよ、糞、冗談じゃない、メデタイくらい不穏。 不穏だ。 これ以上のイレギュラーなんか、そうそうあって堪るか、サプライズドでハプニングでデンジャラスなただの昼メロ。 で、本日の主役を張るのはこの俺。
さぁて、注目注目! 捨て身上等!
渾身、迫真のナマ濡れ場、本日リアルタイムでガッツリドップリ御覧に入れましょう!!
「・・・・俊二、」
名前を呼ばれてキた。
オイオイそりゃ反則。
台所の床で、暴行の後で、半端に肌蹴て半端に露出で、にも拘わらず図らずも変な声が出て、マジ洒落にナンナイ昼メロテイスト。 レイプの最中そんな声で名前呼んだりするのって、それじゃまるで、なァ、俺らそれじゃ、ぶっちゃけ半端に無自覚を装うハードなホモの痴話喧嘩。 いやま、そのまんまだ。
「・・・・・・ 俊、」
耳朶を震わす吐息に、アアア、クルな、クル・・・・
ゾクゾクくる背骨をギシギシと伸ばし、皮膚を辿る指先の一点に、俺の全神経は隷属する。
指と舌と声、三種の神器にゃ為す術もなく、 あーもうイイよ、アレだろ、強姦に始まり和姦に終る・・・・っていうかそもそも強姦なんてモンでもなく、あまつさえヤリ捲くってると表現して差し支えないほどに、無駄に、無鉄砲に俺達は肌を合わせてきていたのだから。 なんだ、いつもよりチョッと濃い目のハードプレイ?
薄ら笑いでうっとり吸い込む体臭。 切れた唇から、生暖かい血液が流れるのを舌で舐めとり、奴の目がそれに釘付けになるのを存分に愉しむ。
甘ったれた乗りに任せ、お返しとばかりに歯を立てる意外に肉の薄い耳朶。
「な・・・正気じゃいらんねぇようにさせて・・・・」
下腹を擦り付けるようにして囁き、催促するようにもう一度、耳朶を噛んだ。
途端に喉元から、グググとせり上がるケモノじみた唸り。
おまえはブルッと頭を振り、耳朶に喰らいついた俺を、蝿でもはらうようにして払う。 がしかし、それは拒絶なんかではない。 目玉の色が情欲にドロリと蕩け、オヤオヤ、いつもの清廉さは何処へ行ったのでしょう? 要するにスウィッチON。 俺は奴を動かすのに今日もようやく成功した。 今度も引き伸ばしに成功した。 結果、失ったものも少なくなかったが、この達成感の為なら、安堵の為なら、俺は何だってするし、無くした諸々を惜しんだりはしないだろう。
容赦なく引き裂かれたシャツは腰の辺りで撓み、奴と俺の腹の間で捩れて湿って丸まる。 値段も上等なお気に入りだったのだが、そんなのおまえにゃどうだって良い訳で。 無骨な指が、野球ダコのある硬い手のひらが、どんな風に撫でまわし掻き回しどんな風に嬲るのか、そして俺はこれから、どんな浅ましい嬌態を晒すのか。
カモンレッツゴウ! お前は一つも悪かねぇから安心しろよ。
全部、俺の所為なんだろ?
熱に霞む頭じゃ理性もクソもあったもんじゃなく、途切れなく発するイカれたはしたない声は、なんだ、てめぇのだと、いやまったくお盛んじゃねぇの? と・・・ 薄ら呆けたまま薄ら寒く思う、余裕なく無言で動くおまえの肩越しに、ヤニで黄色くなった見慣れた天井を眺める。 あぁ、いいなぁ。 今が続けばいいなぁ。 今が、今だけが、ずっとずっといつまでも、
今って、いつだ?
俺ら、いつからこうしてる?
股座に収まって動く、短く刈り込んだ頭、ムッツリ助平の自衛官みてぇだなといつか笑った、笑ったのはいつだ? ずっと前? わからない、もう思い出せないくらい曖昧な、刈り込まれた襟足は妙にガキっぽくて笑えて、剥き出しの腹の上に顎を乗せておまえも笑う、柄でもなく、はにかむ様に、こっ恥ずかしいくらい幸せな顔で笑う。 あぁ、笑ったな、俺らは笑えたな、まだ笑えた、だから笑う頭蓋を腹に抱えた、大事な卵を抱えるように、生暖かくこそばゆいそれを、そこに指を差し入れ、抱き締めた温もり、重み、指を遊ばせ、意外に柔らかな真っ黒な髪の、
真っ黒な髪の意外な柔らかさに驚いたのはいつだ?
なぁ、そんな昔の事か?
てかそんな記憶ありえねぇし。
ハイハイ嘘です、ウッソでぇ〜す。 わたくし、また嘘を吐きました、嘘だよ、嘘、嘘だから、嘘ッつッてんだろ、みんな嘘、嘘っ八なんだよ、嘘でいいンだろ? 嘘にしとけよ、俺がイイって言ってんだよもういいだろ、しつけぇよ構うなウゼェよ、
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暗い森の中、わたしは独りで待っていました。
貴方のことを信じていました貴方が来るのを信じていました貴方が会いに来てくれることを信じていました貴方を愛しているから貴方だけを愛しているから貴方をただただ愛しているから愛しているから愛より他になにも要らないから
独りでしたが、わたしは、幸せでした。
**
己の足が格闘する奴を、挟み込むように絡むのを遠い他人事のように眺めた。 他人事にならないのは身体だけで充分。 熱い舌に嬲られ、あぁイッちまう、もっとだ、と叫ぶ俺は与えられる快楽を忠実に貪欲に搾取して満足というものを知らない。
さぁ喰え、俺を喰え、なァどんな味がする? 美味いか? 美味いだろ? そうだろ? おまえ、コレが好きだろ? 好物だろ? コレ無しじゃいれねェくらいなんだろ? なら残さず啜り上げて噛み砕いて、腹一杯になるまで喰えよ、喰らいつけよ、俺でおまえの中、隙間もねェくらい満たしてやるから、
腰を突き出すように揺らす恥知らずな俺だから、さぞ幸せな顔してんだろうなぁと、そんな幸せな顔した俺とヤれるコイツはもっと感謝すべきじゃないかなぁと、トビの入り始めた頭でぼんやり空想して、妄想して、
「やらしい身体、」
吐き捨てるように言われ、慣らしもせず突っ込まれて、それでも苦痛より快楽を毟り取る俺の身体は貪欲で正直で哀れだ。 それだから、憐れで愛しい俺をどうか愛して欲しい、慈しんで欲しい、例えば同情とか、憐憫とか、慈愛とか、そんなので良いから、義理とか惰性とか弾みとか、不可抗力の偶然みたいに今だけで良いから、先は要らないから、それ以上欲しがらないから、愛して、愛して、愛させて、愛せよ。
何もかもを求めて止まない、欲しくて仕方ない、それなのだから出し惜しみなくいやらしい声を上げるいやらしいこの身体を俺は一つも恥じてはいない。 恥じるどころか、一際あられもない声を上げ、忙しく出て行こうとするソレを未練タップリ締め付けたりも、平気でする。
突っ込めッ、突っ込めッ、突っ込めッ、勿体つけんじゃねぇよッ。
まだだ、まだまだだ、まだそんなモンじゃねぇだろうよ、まだまだだろうよ、
どうせ全部寄越してくれねぇんなら、どうせそれだけは無理とか勿体つけるなら、どうせ他人事のそんなんに酷く傷付いた顔をして見せてくれるんなら、
おまえが要らないなら、おまえの『今』だけを、俺にくれ。
今の体温、今の衝動、今の軽蔑、今の同情、今の吐息、今の快楽、今の苦痛、今の言葉、今の身体、
「・・・・・・ 俊、」
――― やっぱ、すっげぇイイ・・・・
必要なのは、今。 今だけ。
今、お前がそう在れと望んでいる、悪どく卑怯で破廉恥な俺と云う離れ難い厄介な存在。
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ねぇ、忘れられないでしょう?
愛した記憶はなくても、わたしと過ごした時間を貴方は忘れる事なんて出来ないでしょう?
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見ろよ、
朽ち果てた木戸に赤い烏瓜が揺れる。
誰も知らないマヨヒガで、待つ。
November 28, 2005
:: おわり ::
百のお題 092 マヨヒガ
・・・ バッテリ 門瑞 ・・・・ ⇒ 前作と言えなくもない 091 サイレン
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