:: 欠けた左手 後編 ::


     変化は無意識にそれを主張する。 
     秘密は自ずから陽の下へと向かい、這い出ようとする。 


その日、いつもより早く家を出たクガノは、学務棟エントランスの張り紙に力無い笑みを浮かべた。 「自己管理出来て一人前」それが口癖の担当教諭は、流行のインフルエンザに倒れたらしい。 宙に浮いた二限目だが、自宅に戻るほどの時間は無く、暇を潰すには些か持余す。 ぶらぶら歩き出し、仰ぎ見る入梅前の空は、凶暴なまでの蒼。 目玉の裏側に鈍い痛みを感じ、クガノは足早に技術棟へと向かった。


「ぶっちゃけ、デキてんの?」
「まさか、」
 
クガノは笑いが不自然で無い事を祈る。 
祈るのは神にではない。 神はそんな嘘に手を貸さない。 
クガノは嘘を吐いた。


時間潰しのカフェテラス 「よォ」 と声を掛けてきたのは、去年一緒のゼミだったハラグチという男。 真っ黒に焼けた肌、悪目立ちする黄緑のシャツ。 どこで焼いたのか問えば、バリでバティックの工房に居たという。 食事付き給料無し住み込みの約4ヶ月、留年は決まったが満更でもない生活だったとハラグチは言った。 そんなハラグチは、余程友人に恵まれていると思える。 長い不在にも係わらず、ハラグチは驚くほど学内に通じた。 

こんな事も知っている。

「サカキ ケイセイ、来たじゃん。 何も俺の居ない時にさぁ、」

こんな事だって知っている。

「で、急接近だって聞くけども、   は? じゃねぇよ、お前だよ。」


だけど、その質問にクガノは 「まさか」 と答えた。 
「まさか、冗談だろ?」 と。 

その上で一つの本当を混ぜる。

「モデルを頼まれたんだよ。 耳のね、」
「耳!  まァらしいけども、 けど脱げとか言われねぇの?」 

何でも知っているハラグチは、こんな事もクガノに教えてくれた。

「だって、サカキはゲイだろ? ココ辞めたのもその辺だしさ、」


八年前、サカキの恋人はここの学生だった。 学生とは半同棲の関係になり、間も無く噂は上層部へも届く。 本来恋愛に関しては寛容な環境ではあったが、しかし、大っぴらな同性愛はその範疇ではない。

「センセイんち通ってるんだろ? バッティングしたとか、ソレっぽいなんかとか見た事ねぇ?」
「いや、誰にも会った事は無いし、そう云う痕跡も無いよ。」
「じゃ、別れたのかな」

チャンスチャンスとハラグチは手を擦り合わせる。 そして急に真顔になり、

「お前変わったよ」

と言った。

「なんか変わった。 大勢の中に居ても、アァって感じに見ちまうもん。 なんての? 人知れずエロ? うわぁ、ナシ!ナシ! ウッカリお前で抜いちまったら、俺の未来って台無し!」


騒々しく出て行く後姿を見送り、クガノは心中穏やかではなかった。 

サカキがゲイだというのも、教え子の男子学生と付き合っていたというのも、さも在りなん事実であり、だからこそ今のクガノの状況があるのだと思う。 あぁやっぱりと驚かなかったのも事実だった。 けれど、知らなきゃ良かったと思う。 サカキのそんな話も自分のそんな変化も、聞かなきゃ憶測に留まったのにと、悪気ないハラグチをクガノは少し恨んだ。 

しかし、意外だったのは己の変化について。 

わかるのか? 


あれから、サカキとクガノの関係は続いている。 クガノは週に三日と置かずサカキの家を訪ね、一日の大半をサカキのアトリエで過ごした。 本を読み、音楽を聴き、石を切り出すサカキの雑談の相手をして、すっかり定位置となったゴブランのソファーに寝そべり、クガノはサカキを中心に動いた。 そして離れで聞こえる改築の音に紛れ、クガノはサカキに抱かれる。 

サカキが望むなら、何でも叶えたいと思った。 ペニスを口で扱うのも、突き上げられいやらしい声を上げるのも、サカキがそれを望むなら、そうするのが本望だとクガノは思う。 何故なら、他に方法が無いから。 肉体の他、サカキを繋ぐ方法をクガノは知らない。 どうしたら求めて貰えるか、どうしたら必要とされるか、どうしたら飽きさせないか、考えれば行き場の無い不安と焦燥にクガノは悲鳴を上げそうになる。 

気付けばクガノはサカキを誘った。 
あからさまに強請り、服も脱がずに交わる事も少なからずあった。 

だから、自分は変わったのか?


急に視線が怖くなる。 

―――男同士でいやらしい――― 

誰かがそう思ってる? 

まさか・・・ 声に出さず呟き、冷めた紅茶を一口飲んだ。 

「冗談だろ?」 声に出した呟きはカフェテラスの喧騒に掻き消され、居心地悪い沈黙だけが残った。

何で自分はここに居るのだろう? 
何で自分は自分でしかないのだろう? 
何で自分はサカキと同化しないのだろう? 

窓の外、空は凶暴な蒼。 
クガノはそっと、自分の耳に触れた。 
サカキが耽溺する耳に触れ、クガノはサカキの全てを感じようとしていた。



やがて本格的な入梅、篠つく雨の午後 「そら、御覧」 とサカキはクガノを呼び寄せる。 彫像は、若い男の首から上だった。 剥き出しの肩は細く、薄く、運動とは無縁である事を示す。 首が長く見えるのは尖った顎のせいだろう。 小振りの頭蓋を微妙なバランスで支え、耳下から鎖骨に浮き出る筋が綺麗な窪みをつくり、着地する肩に「く」の字を描き繋がる。 小首を傾げ、やや訝しげに宙を見る。 

予兆に耳を澄ます青年――― それが、サカキが創りだしたクガノの姿であった。

「怖い顔をしてる。」
「良い顔だ、機を狙っている顔だよ、」
「完成ですか?」
「いや、後一つ、」

そう言って、クガノは青年の左耳に触れる。 

指はその凹凸を辿り、耳朶を緩く摘み、そしてすいと離れた途端、無粋なモーター音が響いた。 サカキが刃先を押し付ける。 回転する刃先がキリキリと不快な音を立て、見る間に頭蓋から切り取られる左耳。 ヒュンとスウィッチが切れた静寂、石そのものの平たい断面と、サカキの手に残る切り取られた完璧な耳。 

「これで、完成。」

切り取られた耳に、サカキは唇を寄せた。 

だから割り込むように、クガノはサカキの首筋に腕を回す。 耳に嫉妬する自分を愚かだと思った。 視界の端、耳を澄ます分身は耳の無い左側の逢引きに気付くのだろうか? 

案ずる事は無い、耳は、ここにある。 浅ましい肉体に挟まれ、全てをそこで聞くだろう。 こうして獣の様に鳴き、白痴のように快楽を貪る自分を耳に聞かせてやりたかった。 サカキに聞かせてやりたかった。 こんなにも求める自分がいる事を、もっとわからせてやりたいとクガノは思った。 


その週の終わり、いつもと変わらぬ情交の後、ソファーにうつ伏せるクガノにサカキは 「明日の午後は出掛ける」 と言った。

「急ですね、」
「M商事の会長に呼ばれた。 今度大掛かりな個展を開くのに、随分出資して貰っているからね。」


サカキはM商事の、創立五十周年の式典に招かれていた。 記念すべき場に著明な芸術家を招き、有力者の集まるその場で自社プロデュースの個展の宣伝も行う。 

「金のある場所に呼ばれたら、どこにでもホイホイ行くのさ・・・・まるで男芸者だよ」

ボタンを嵌めるサカキは自嘲する。

「明日はあっちに泊まりだ。 だから明日、昼過ぎから週明けまではここには戻らない。 何かあれば携帯の方に頼むよ。」


別に、それは特別な状況でもなかった。 サカキに用事があり、またはクガノに用事があり、留守をしたり会えなかったりする事は、なにも今始めての事ではない。 互いの携帯の番号は知っていたが、別段かける用事もなく、今回もそれは万が一の手段だとしか思っては居なかった。 

なんとなくだが、サカキからの着信はきっと永遠にある筈が無いとクガノは思っていた。
同じく、自分がそこに呼び出しをかける事など無いように。

「週明けに、」

それだから夕食後、そう言って別れたクガノだった。

が、翌日の早朝ほぼ無人の電車に揺られK県に向かう。 

前夜、近所の祭りを冷かしに出掛けた祖父母が、土産に狐面を買って来てくれた。 廉価な子供向けのセルロイドではなく、紙を貼り彩色も美しい狐面。 クガノはふと、それをサカキに見せたいと思った。 思うともう止まらない。 驚かせたい、驚く顔が見たい、クガノは始発のホームに立つ。 そぞろな道中は、高揚する気持ちを持て余すほどであり、駅に着けば改札をもどかしく抜け、細い路地を小走りにサカキの家へと向かう。 

そしてブロンズの小鳥を数える頃、ある思い付きに足音を潜めた。

玄関ポーチを迂回して、クガノは庭に廻る。 時刻は七時を回ったところ、ならばサカキはアトリエで夜明かしをしていない限り、自室かキッチンに居る筈。 狐面を被り庭先に立ち、廊下の硝子をコンと叩いてやろうとクガノは企む。 

こでまりの一群に身を隠し、上体を屈め、庭先からそっと廊下の奥を伺った。 物音はしない。 が、居間のドアが薄く開いているのに気付いた。 そこはあの、サカキの作品が陳列されていた部屋。 その部屋はサカキの才能に満ちて、ともすると息苦しく滅多クガノも入った事が無かった。 しかしそこにサカキは居るらしい。 室内の様子は中庭からは見えない。 ならば屋敷の反対、生垣側に廻りクガノは部屋の中を覗く。 

すると左奥のパーテーションの狭間、サカキの長身が見えた。 まだ、着替えを終えない寝起き、深緑のガウンを羽織りパーテーションの影に立つサカキが、次の瞬間ストンと、冷たく光るフローリングの床に跪ずく。

なに?

面を被り窓を叩こうとしたクガノは、咄嗟に動作を止め窓の外にしゃがむ。 

何を、している?

知りたかった、知りたかったがここを離れろと、頭の奥で警報が鳴る。 けれど、クガノは覗いた。 跪き、床に両手を着き、サカキは何かを喋っていた。 何を言っているかは聞えない、しかし唇は動きを止めず項垂れた頭がかくんかくんと揺れる。 懇願するように、縋るように、もしくは懺悔するように、サカキは跪きそこに頭を垂れる。 

と、両手を伸ばし何かを取った。 

両手で抱え込み、抱き締めるように ―― 細長く白い ―― 目を閉じ愛おしみ頬に押し当てるのは腕。

腕だけ?

それは欠落というより、パーツそのものだった。 そもそも、パーツだけの作品があんなところにあるのをクガノは知らなかった。 本体あってこその欠落だとサカキ自身言ったではないか? 腕にサカキは縋り、頬擦り、そしてその指先に口付けをした。

腕は美しかった。 無駄を削ぎ落としたライン、肩から一息に繋ぐのは滑らかな曲線の妙。 伸びやかに、優美に、完璧な骨格には適度な筋肉をつけ、とりわけ際立つのが手の表情の繊細さ。 指先は柔らかく開き、そっと差し伸べられて静止した腕。 愛撫をねだる指。 つまり、これこそ鬼才と呼ばれたサカキの才なのだろうとクガノは思う。 

取り残された腕一本。 
それは美の残像の如く見る者に選り美しい本体を想像させ、それらの圧倒的な存在を訴えるのだ。

      ――――  学生とデキちゃってさ、

何故そう思ったのだろう。 しかしクガノは直感でそれを確信する。 あの腕は、あの、恋人だったという学生の腕だ。 サカキは彼をモデルにしてその腕を作った。 クガノ自身がそうであるように、サカキは彼を求め、彼を抱き、彼のパーツをあぁして残す。 居なくなって尚、あんな風に愛されて、あんな風に求められて、
どうして? 
何故自分じゃ駄目なのか? 
自分に何が足りないのか? 

タールのような悪意がクガノの心に生まれた。 
人が鬼になる瞬間を、クガノは自らの内に悟った。


     その日、クガノの携帯に着信が8件入る。 
     しかし、クガノはそれを消した。 
     有り得ない事実を有り得ないものとして消した。 
     終わらない幸福を、有り得ない形で残す為。



サカキは、あの日大阪には行かなかった。 余程慌てていたらしい。 サカキのプジョーは国道を猛スピードで走り、車間が狭まりつつあるS市のインター近く、急ブレーキを掛けた軽トラに追突し、密着した二台は中央分離帯へと巨大なボールの様に転がり盛大に燃えた。 マスコミは天才の衝撃的な死を惜しみ、余りに早過ぎると嘆いたが、しかし、それだけには終わらない。 

サカキの自宅、改築中のアトリエの床下から一体の人骨が見つかった。 
まだ若い、骨の成長が止まり切らぬ、背の高い、男の骨。 
骨には片腕が無かった。 
左腕全ての骨が、そこからは欠落していた。


若い刑事は言い難そうにクガノに尋ねる。

「サカキと、その、そう云う関係は?」

だからクガノは答える。

「まさか、冗談でしょう?」

笑うクガノに刑事は言う。

「サカキが同性愛者なのは知ってますよね?」

「えぇ、うちの学生と付き合っていたんでしょう? 噂は聞きますよ。 でも僕は違います。 モデルです。 単なる耳のモデルなんです。 耳ですよ、可笑しいでしょ?」

嘘なんかではない。 

クガノはサカキのモデルなのだ。 サカキの生涯に於いて、最後の作品となる青年のトルソー。 そのモデルこそクガノなのだから、サカキが心から愛し求めた美しい耳を持つモデルなのだから、あんなものは要らない。


週明け、雑に作った大皿と共に忌々しい腕を釜で焼いた。 
崩れ落ち灰に紛れたそれを更に打ち砕き、在り得ない物を在るべき無にクガノは返してやったのだ。


お前なんて居ない。 お前の事なんて誰も知らない。


だから、クガノは愛されたまま己の幸福を永遠に閉じる。

      綺麗だろ?

掌に握る美しい耳。

      愛された者は愛のみを唯、携えて、永遠にそこで静止する。



愛を携え、愛のみに縋り、幸せな悪夢にずぶずぶと沈んだ





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         百のお題  077 欠け左手