あなたはいつだって、そんなだから



          * **



  二十三時の湾岸を車は切り裂くように走る。

 整備され過ぎた歩道に人影は無く、12秒に一台あるか無しかの対向車。 等間隔に連なる街灯の蒼白い光は尾を引いて流れ、見てるとくらくらする人工の街は万年赤字の行政が一体どんだけ継ぎ込んだんだか――― ってほぼ正確な数字を言えるけども言いたくも無いありえなさ。 

 ありえないといえば黒谷も吐き捨てるように言った。 


 「人が住む街じゃねぇんだよ。 ジムと歯医者は有る癖に食い物買えるスーパーはねぇ。一々、車出して煙草買いに行けるか? ありえねぇ」


 だがしかし、エンピツみたいなタワーマンションの地上29階、ありえない街に似合いの住処に、かれこれ10年以上住み続けている黒沢が居て、居候歴八年の俺とて充分 『地元住人』 といえる。


 「腹減ってるか?」

 「いえ、喉渇いてます。」


 突風の吹く高層ビルの狭間、ぽっかりシェルターの様に存在するローソンに立ち寄り、コンドームと煙草とアクエリアスを買った。 男二人で。 深夜。 

 ありえねぇ。




          * *




 人が全てを失うのは別段難しい事ではないという事実を、俺は八年前の春に知った。 


 父親は、地元で名の知れた運送会社の社長。 美人で専業主婦の母親は、フラワーアレンジメントとフラメンコに夢中。 そしてこの俺。 ヌクヌクおっとり、闘争心ゼロで育った金持ちの一人っ子。 良い子の名に恥じず品行方正成績優秀、しかも母親譲りの容姿は 「王子様みた〜い!」 と、老若男女問わず好評を博し、向かうところ敵無し。 人生は上々だった。 

 挫折も絶望も不安も無い毎日。 一応のお約束、お年頃には取り敢えずのババァ呼ばわりを試みたり、結果、母親贔屓の親父にヘナチョコ鉄拳制裁を喰らったりもしたのだが、合わない事をするモンじゃぁない。 全て、ささやかな反抗期の一コマ二コマに過ぎず。 なに、実にホノボノしたものだ。 我ながら順風満帆だった。 満足だった。

 そして18の春。 勉強大好きな俺は国の最高学府と名高いT大法学部への入学も決まり、御近所の英雄、高まる期待、どかんと貰った臨時小遣いに懐も熱く、まさに人生は薔薇色。 燦然と輝く未来がこの先も続くだろう事に微塵の疑いも持たず、恋に勉強に大忙しなキャンパスライフを正に謳歌せんと胸を躍らせていた。 ある意味頂点を見た俺。 

 そんな薔薇色の春、石焼ビビンバとゴルフ・エステ三昧の旅【韓国ゆとりの四泊五日】に出掛けていた両親が、揃って航空機事故で死んだ。 都内のワンルーム(家賃十三万八千円)、のんきにコーヒーをドリップしていた昼下がり、俺はつけっぱなしだったテレビのニュースであっけない両親の死を知る。 

 後はもう、嵐の中に立ち尽くすばかり。 


 遺体確認だの手続きだの何だか解からない申請だの、待った無しに続く葬式はさながら戦場の有り様で。 泣いたり感謝したり憐れまれたり、たまに捺印したりサインしたりと右往左往して、ふと我に返る納骨式の後。 この家には多額の借金があるのだと告げたのは、日頃さしたる交流のなかった叔父夫婦だった。 

 駆け落ち同然で家を出た両親に親戚付き合いは無く、元々身内の少なかった母方に関しては、四年くらい前に亡くなった従兄が最後の身内だったと聞く。 一方父親には兄弟姉妹腹違いだのゴロゴロ身内は居るものの、それぞれが非常に不仲。 泣いて励ましてくれる知人友人の皆とは空気の色が違う、一応来ただけといった義務色濃厚な身内。 そうした葬儀の有り様から、己が置かれた立場の悪さを薄々感じては居たが。 

 叔父はそんな中、今回急接近。 

 葬儀を仕切ったり細々世話してくれたりと、その折りは感謝するばかりだったのだが、これは寝耳に水。 テレビに出るような超セレブではないものの、充分金持ちの域だと思っていた我が家。 だがしかし、差し出された書類の束には確かに、そのような数字が記載されている。 だが、家業には一切拘わっていない俺にしたら、何が何だかの謎数字。 
 

 「兄さんも、ここ数年色々手ぇ出してたからねぇ。 この業界、昨今厳しいから・・・・」


 そう言って子泣き爺そっくりの笑みを浮かべる叔父は、無害で純粋に悲しげに見え、取り敢えずホントに済みませんとこちらも頭を下げるのだが、じゃ、誰が悪いのか? 親父か? 無関心だった俺か? 

 結論から言えば、会社の負債が大きくて俺には遺産と呼ぶべき資産が何一つ無いらしい。 それどころか到底返せない額の借金だけが残り、それを如何に返済するか、当座をどのように過ごすかが今回の肝だという。 肝か。 けれど、学生の俺に手持ちの金など無く、当座もこれからも無い無い尽くしでどうしろという? どうもこうもないだろう? 途方に暮れる俺に、叔父はこう言った。 

 ――― 会社を手放してそれでも返せない借金には、今自分達が住んでいるK県の土地住居を売り払って充ててやろう。 その代わり自分達はここに住む事になる。 尚且つ足りない分には死んだ両親の生命保険を充てるしかない ―― 

 御尤もな話で。 

 まァしょうがないと思った。 

 幸いこの家は広い。 ワンルームを引き払い叔父らとの同居になっても、さほど不自由のない部屋数はある。 通学片道二時間半はきついが、それもまぁ仕方ない。 ともあれ借金が返せるならそれで上出来。 ざっと証券を見る限り、両親の保険金は二人で一億弱。 負債に半分充てたとしても、五千万あれば結構な生活は出来るだろう。 今後を考えると贅沢は出来ないが、大学卒業、いや頑張れば院卒、就職までは楽々漕ぎ付けられるだろうと、そんな風に思って居た。 良い身内が居て良かったと、感謝すらしていた。 

 だが俺は、どうにも世間知らずの馬鹿野郎だった。


 また連絡するから・・・と言う言葉を信じてワンルームに戻った数日後、ごっそり送り付けられたダンボール十数個。 中身は実家に置いてあった私物。 両親の位牌。 

 乱立するダンボールの狭間、慌てて叔父宅に連絡したが この番号は使われていない と機械の声が言う。 実家も然り。 すぐさま駆けつけてみれば、門には鎖と南京錠。 母の蔓薔薇の支柱に括りつけられた【売家】の看板。 呆然と立ち尽くす俺に、隣家の御婦人が顔を出して言う。 

 ――― まー大変だったわねぇ、今度お父様の実家に移られるんでしょう? お引越しが急だったから、吃驚しちゃったわよ ――― 

 いや、俺も吃驚です、初耳です。 

 喉元まで出掛かったが、実際声なんか出なかっただろう。 

 真っ白だった。 

 よく冗談で言うその表現が、本当にリアルにその通りなのだとその時思った。 頭の中に白いサラサラの砂がサラサラ流れて行くような喪失感。 上も下もない底無しの視界ゼロの白。



 こうして、全部を俺は無くした。 無論、両親の保険など一文も入らなかった。 頼みの綱の親父の会社すら、とうに別の会社に転売されていた。 こんなのサギじゃないかと食って掛った俺に、向うの弁護士は 書類上の不備は一切無いのだ と、心底同情した顔で言った。 確かに、そこにあるのは俺の字だった。 嵐のような葬儀のゴタゴタの中、幾つかの書類にサインをし、判を押し、それらを何一つ疑いはしなかった大馬鹿振りのツケは、あまりにも大きかった。 

 間も無くして多額の負債を抱えていたのは叔父で、初七日明けに見せられた書類は全て偽者だったということがわかったが、その後に俺自身がサインした書類は本物なのだから。 ――― 法学部の癖に、あからさまに騙されてやんの、馬鹿め ――― 己を罵っても、何も返っては来ない。 

 たった一つの幸いは大学の授業料が入学時、既に一年分振り込まれていた事。 一人暮しを機に作って貰った俺名義の口座に、残高20万弱があった事。 亡き両親に感謝した。 ならば、通わねばならない。 学校には行こう。 同じ働くにせよ、学歴は高ければ高いほど有利だろう。 出来れば司法試験をモノにして、高資格の看板を背負って・・・・・・ だって俺にはもう何も無いのだから。 
 

 半ば屍のような態で、学校へは通った。 ダンボール部屋の中で寝起きして、学校へ通い、ボロくても安い住む処と辛くても高時給のバイトを捜す。 間も無く引き落とされた家賃で貯金はガタガタだが、猶予は一ヶ月になった。 バイト雑誌をめくり、不動産屋を巡り、増える事の無い残高に危機感を覚え、削れる所はとことん削る。 


 主に、食費が凄惨を極めた。 とことん削った。 当時の食生活を振り返れば、近所の商店街を縄張りとする口太カラスの方が断然、俺よりも飽食だろうと確信する。 粗食だった。 質も量も限界にチャレンジし続ける毎日だった。 当然、見る間に痩せた。 スーパーダイエットだった。 図らずもジーンズはローライズになった。 頻発する立ち眩み。 偏頭痛。 低血糖の震え。 

 だったら稼げば良いだろうと、思うかも知れない。 現役T大生の印籠を掲げ、軽食込みのカテキョはどうよと、情報を集めたりもした。 けれど、ここで予想外の盲点にぶち当たる。 今、金のない俺は、最初の給料を貰うまでのあいだ、自腹で現地まで通う交通費が無かった。 キャンパスまで徒歩二十分、そんな立地に住む俺は交通手段が徒歩オンリィの男だった。 止むを得ず、繋ぎで入れた徒歩35分のボックスのバイト。 空腹も限界だった深夜、客が喰い残した破棄直前ポッキーを、思わず口に入れてしまったその時、何かこれまでの自分がクシャリと壊れた感じがした。 

 こりゃヤバイよ、と頭の中でサイレンが鳴る。 だけど、お金が無い。 
 不安で眠れなくなった。 ガード下で震えながら眠る夢を見て、キャァ悲鳴を上げて起きた。 朝まで何度も。 
 

 可笑しな話で、女だったら身体使ってでも稼げるだろうにと、生まれて初めて男である事を損だと思った。 どうにも削り様の無い生活費、細々掛かる学習費に、残さねばならない貯金も残高二万を切った。 バイトの給料日まで後十日以上あるが、使わず全部合わせた所で、引越しなどとても賄いきれないだろう。 きっちり自分で稼ぐには、もっと夜の仕事しかない。 今のボックスよりも稼げる、時給の良い、どっぷり水モノの夜仕事を是非とも賄い付きで。 男で夜と云えばホストだが、襟出し日焼けで茶パツの人達が豪快にドンペリ一気をする映像が脳裏を掠め、あぁ駄目だと首を振る俺は、奈良漬け一切れで酩酊出来る安上がりな体質だった。 酒は駄目。 ならばどうする?



 思い詰めた俺が、学校帰りに向かったのは銀座。 

 金が無かったから駅三つ分は歩いた。 寝不足と空腹に二度ほど意識を飛ばし、行き倒れ寸前で着いたのは、ドレスの美人と黒服が怪しげに佇む午後8時過ぎ。 そう、目指すのは黒服。 酒が飲めない俺だから、水は水でも裏方しか出来ないだろう。 だけど、同じ裏方でもそもそも時給の高そうなエリアなら、それなり高いに違いない。 なるほど高級。 イコール銀座。 

 所詮、バイト一つした事のないボンボンが考えるのは、せいぜいこんなところだ。 そしてその考えは余りに甘い。 


 高級を売りにしてるここらで、店を纏め美女等を纏める黒服はしっかりと管理職。 用心棒にもならない未成年を使う店など無かった。 あげく、電車の走る時間に帰りたい、給料前借りしたいなどという、清らかで図々しい俺の出る幕は無かった。 

 七件目だか八件目だかのママさんが、項の後れ毛も色っぽく、小首を傾げて言う。


 「ホストだったらねぇ・・・・・・ あたし、すぐ紹介してあげるんだけど・・・」


 だから、ソレは無理だって、

 断られ断られ、もう電車がなくなるから帰ろうと、トボトボ歩き始めた並木通り。 


 「ねぇ、君、そんなにお金が必要なのかい?」


 優しく声を掛ける紳士あり。


 「ゴメンネ、さっきあの店でママと話してたの聞いちゃって・・・・。」


 オーダーメイドっぽい上等な服、ピカッと手入れした靴は多分イタリア物で。 年の頃五十後半、どことなく亡き父に似た風貌に親しみを覚え、思わずツラツラとこれまでの悲劇を語る俺。 藁をも縋る俺に紳士は蕩けるほど優しい。

 ――― 大変だったねぇ、苦労したんだねぇ、こんなに綺麗で頭の良い男の子が、いやなんとも運の無い、可哀想に・・・・・・ ――― 

 しっかと手を握られ、終ぞ得られなかった労わりの言葉に大感激の俺。 思わず釣られ泣きしそうになりギュッと目を瞑る、そんな俺に紳士は言った。


 「あのね、もし良かったらね、ボクは力になれると思うよ?」


ついと差し出された手漉きっぽい紙の名刺には、会長補佐の肩書き。 会長補佐・・・・受験の達人を自認する俺だが、範囲外の一般常識にはかなり疎く出来ている・・・補佐・・・・副班長みたいなものか? 


 「ボクは幾つかの事業を手掛けてるんだけど、この歳になると次の若い才能を育てる事が、生き甲斐だったりしてね。 幸い、そうするだけの経済力があるし、だからいずれ君がうちの経営に役立ってくれるって言うんならば、ボクが育ててあげたいなぁと思うよ。 ・・・どうかな? 君みたいな賢い子を育てるのは、ボクにとって意味ある投資なんだけど、」

 えーあのソレってマジですか? 

 やったぜ、深夜の現座で足長おじさんゲット! 

 あのあのあの俺・・・・ホントに?・・ と、見えない尻尾を盛大に振る俺は、餌を前にした絶食中の犬。 微笑む紳士は 一先ず、何か美味しいものでも食べながら話そうか? と更に俺を喜ばせ、頷く俺の肩を抱き、すりすり頬を撫でられたのも お父さんみたーい! 童心に返る俺には大した事ではなくて。 

 さぁ、手を繋いで歩こう銀座裏通り。 サプライズドのラッキーに、足取りも軽い石畳。 

 が、そこまでだった。


 「ハイハイ、終了終了ッ!」


 パンパンッと軽快に拍手を打ち、こちらに近づいて来る男の影。 
 でかい。 

 俺も低くはないが相当デカイ、185はあるか? デブではない、イカつくもない、足長ぇな! と、思わず頭身を目測してしまう男は一見エリートサラリーマン、実は遣り手の経済ヤクザと言われた方がスッキリ納得出来るだろう並々ならぬ威圧感。 男は、フリーズする俺らに近付き どうもすみませんね と、やたら男前な笑みを紳士に向けた。 そしておもむろ、俺の旋毛をぐしゃぐしゃ掻き混ぜる長い指。


 「ホントにすみません、コイツ甥なんですけど、アマチュア演劇齧ってましてね。 飲み代欲しくなると、すぐ、この手の悪ふざけするんですよ。 この顔で末っ子だから兄貴達も甘やかすもんで」


 って、誰が? 誰の? と反論しようとする俺は 


 「そら、帰るぞ!」 


 あっという間に自称叔父の長い腕に巻き込まれ、ぎゅっと抱き締められているような、口を塞がれているような。 

 一方、突然の椿事に呆気にとられている紳士は、半端に広げた手のまま、その手をどこに持って行くのやら。 


 「何か甥に強請られてませんか?」


 俺を懐に抱え込み、長身を折り曲げるようにして、男はアワアワする紳士の顔を覗き込んで問う。 
 けれど紳士は、アーだのエーだの歯切れ悪く。 そんな紳士に男は 


 「これも縁と云う事で・・・・お力になれましたら、是非・・・・・・」


 これまたエレガントに名刺を差し出すと、ポッテリした手に素早く握らせるのだった。 

 そして、此れにてハイサヨナラとばかりにクルリと踵を返す男。 

 長い下半身が繰り出す、競歩のような早足。 俺をガッチリ羽交い絞めにしたまま。 正確にはスリーパーホールドしたまま新橋方面へと闊歩する男。  助けて! 誰か! ヘルプ!  擦れ違う人影に目で救済を求める俺。 けれど、良く見りゃ不審でも何でも無い絵ヅラだった。 互いに絡み合い、或いは引き摺られるようにして歩く酔っ払いリーマン達の、ここ新橋はパラダイスエリアだった。


 はしゃぐヘベレケリーマンを尻目に、男前で大嘘吐きな自称叔父に拉致された俺は、抵抗空しく更に無言で三百メートルばかりを歩き、いよいよ殺されると覚悟した地下駐車場、押し込められたのは如何にもな黒ベンツ助手席。 


 「か、帰して下さいよッ! アンタなんなんですかッ!? お、俺、嘘なんか吐いてませんから! マジで一銭も出せないし、頼れる身内もいませんから!」


 裏返った声なんかどうでも良い。

 助けて! 殺さないで! 

 必死だった。 貧乏は我慢できるが死ぬのは厭だった。 まして痛そうでグロな死に方は、エルム街の冒頭20分で部屋を遁走した俺には想像しただけでも白髪になりそうな恐怖だった。 助手席の端っこに縮こまり、病んだヒヨコのように震える俺。 男はそんな俺を、眉間に皺を寄せてじっと眺め、忌々しそうに舌打ちすると ありえねぇ馬鹿だよ・・・・・・ と言った。


 「・・・ありえねぇ・・・・・。 どんだけの馬鹿か? ソレでT大か? しかも法科か? 法科の癖に全財産サギられたって?」

 「た、立ち聞きしたんですかッ!」

 「厭でも聞こえたんだよ、天下の公道で半ベソ掻いて、デカイ声で、T大法科の癖にまんまと身包み剥がれましたって吹聴してる馬鹿が居りゃ、耳傾けるだろうよ、普通な」


 悔しい! 悔しい悔しい悔しいッ、事実だけに。


 「法科の癖に法科の癖に言わないでくださいよッ! そりゃ法科ですよッ! T大生やってますよッ! けど法律なんてまだ習ってないんだから、難しい事解かる訳ないでしょう! それにコッチは色々切羽詰っててギリギリでどうしようもないんですッ!!」


 悔しくて腹立たしくて泣きそうな俺。 というかもう涙が表面張力と戦っている臨界だった。 何だってコイツに、こんな事言われなきゃなんないんだ? こんなに不運で、不幸で、腹減ってる俺が傷口に塩を刷り込むような仕打ちを、深夜に! ベンツの中で! どうして?!


 「へぇ〜、で、なに? 切羽詰ってギリギリだから、金持ってそうな親父を引っ掛けたって?」

 「ひ、引っ掛けたとか人聞き悪い事言わないで下さいよ、向うからです! それにあの人は俺に、投資したいって」


 そう、優しかった足長おじさん。 善人はあなた一人です・・・・・・ と、あの紳士に走って会いに行きたかった。 わかるわかると、慰められたかった。 

 けれど、男は追い討ちをかける。


 「ってさ、お前、それ真面目に言ってんの? 真夜中の繁華街で、会ったばかりの小僧に投資? ハッ! する奴居たらドンだけおめでたいかツラ見て笑ってやるぜ? いや、仮にホントにあいつが金払い良かったとしても、お前がベラ棒に賢かったとしても、ただお勉強するだけで見知らぬ他人から金貰えるとは思ってねぇよな?」


 ふと思い出したのは亡き母親の言葉。

 ――― いい? 世の中タダより怖いものは無いのよ? 

 言い返せない俺に、男は畳み掛けて言う。


 「教えてやるけどあの爺、ここらじゃ有名なドSのホモだぜ? 当然アブノーマルなプレイ専門。 金に物いわして随分と遣りたい放題だってな・・・・・・ あのままついてってナニ要求されるか、馬鹿野郎のお前でもわかるよな?」


 父さん、都会は怖いところです。 
 俺は世間知らずの馬鹿野郎でした。

 だけど、今、少し世の中を知りました。 何がナニなのか具体的にはわかりませんが、想像を絶するナニなんだと云うのは、おぼろげながら理解出来ました。 アー着いてかなくて良かった、神様・・・・。 

 そう、今はだからホッとして良い筈なのに、だけど、その時の俺は普通じゃなかった。 騙され騙され騙され、お金の事、生活の事、これからの事、全部お先真っ暗で、ワーッとなりそうな一切合財に疲労と喪失と栄養失調のナチュラルハイ。 無敵でパニックな俺にとって責任転嫁の八つ当たりは敵は目の前の男、この余裕綽々の男。  


 「ま、社会勉強って事で、一つ賢くなっただろ?」


 やれやれといったゼスチャーをして、男は懐から煙草を取り出す。


 「知らないおじさんには着いてかない。 うまい金儲けは信じない。 パパママに教わんなかったか?」


 習ったよ。 梅組の清子先生にも 知らない大人についてっちゃ駄目です 言われたよ。
 だけど、うるせぇよ。 俺は死んでもコイツに 「うん」 なんて言いたくなかった。


 「だいたい女も碌すっぽ知らないねぇようなオマエみたいな小僧に、ホモ売春なんか出来るか? てかおまえ女抱いた事あんの?」


 うるさいよ


 「といっても今回はホモ相手だからまぁいいか!」


 黙れ


 「・・・おまえは初物らしく、マグロでガッツリ喰われてりゃ良いわけだ!」


 ほっとけよ畜生!


 「ハッ、尤もあのまま着いてっても、怖気づいてメソメソ逃げ帰るのが落ちだろうけど」

 「逃げませんッ!!」


 切れた。 

 素直反対! 反抗上等! 
 金切り声で怒鳴る俺に厭味な二枚目面が、おッ? といった感じに変わる。

 ひとの不幸をせせら笑って、馬鹿にして、親父が乗ってたのよか高い車に乗りやがって、男前の癖に、腹減ってない癖に、足長いからって天狗になってんじゃねぇぞコノヤロウ!

 未だかつて無い量のアドレナリンがじゅわじゅわ毛穴から噴出し、赤くマグマを滾らす脳天は、イタリア活火山さながらに後は全てを焼き尽くすのみ。


 「えぇえぇ解かりますよ! ナニされて何されるのか、俺にだってわかりますよ。 けど、しょうがないでしょう? いきなり親死んでるし、借金とか言うし、全部無くなって騙されて、けど俺、生きてかなきゃなんないんだから。 学校だって、ちゃんと資格とって、親も後ろ盾も無い分、ハンデ帳消しになるくらいの学歴引っ提げて、将来安泰な就職して、少しでも貯金して、いやその前に風呂トイレ共同でも良いから敷金礼金保証人ナシの激安物件探して、お金稼いで、バイトして、あぁただのバイトじゃ駄目だ、昼間学校行けて、電車か徒歩で通えて、賄い付きで酒ナシで高時給短時間の ・・・・・・ だぁッ、クソ、俺やることありすぎだよッ! こんな色々あんのに一体どうすりゃいいんですかッ! もーナニでも何でもかまやしないですよッ! 俺にはソレしか無いんです、他に道は無いんです、レットイットビーですよッ! ライクアローリングストーンですよッ! だって俺、独りじゃないですかッ、失う物もう無いじゃないですかッ!?」


 気が付けば男に掴み掛かっていた。 
 

 人生最長の長台詞にぜいぜい息を切らし、しがみ付いた頑丈そうな肩を、胸を、ドンドン拳で叩き、揺さぶり。 悔しい悔しいと訴え、男のいかにもオーダーメイドっぽい高級スーツの肩に頭をぐりぐりと押し付け、清々しいコロンの匂いにこの苦労知らずめ! と心で悪態をつき。

 何で何で何で?

 ・・・・と壊れたレコードの様に繰り返す俺が、半べそから号泣になるのは時間の問題だった。 


 そうして俺は泣いた。 泣きに泣いた。
 全米が感動の嵐とか、オスギが言ってたあの映画よりもずっと泣いた
 思えば葬式の時ですら、こんなに泣きはしなかった。 あの時からずっと泣くゆとりさえ、なかったのだ。



 やがて、呼吸が落ち着き、静かな車内には俺が鼻を啜るしみったれた音だけが響く。

 目玉の奥とこめかみに、泣いた直後の痛重い名残。 幽体離脱に似た虚脱感の中、男がポンポンと幼児にするようなリズムで柔らかく俺の背中を叩いて居た事に気付く。 ポンポン、ポンポン、と背中に触れ、首の後ろを抱き寄せしっかり支えてくれるもう片方の腕。 心地良い、染み渡るように大きな掌の熱。 微温湯に浸かったように、じんわり強張りが解けて行くのを感じた。 吸って吐いて吸って吐いて、意識する呼吸はゆっくり溜息になる。 

 すぅっと、森を通り抜ける風のようなコロンの香りがした。 いい匂い。 ホコホコした熱が内側に生まれる。 と同時に、八つ当たりした挙句慰められている、この状況への羞恥。 困惑。 照れ臭くて顔を上げるタイミングが掴めない。 後もうちょっと、このままもう暫く、もうちょっとだけぽんぽんと心地良く甘やかして欲しい。 


 非情な猟師も、懐に飛び込んだ小鳥は撃てないという。
 小鳥の立場から言えば、既に絆されかかっている猟師に警戒心はない。

 結構イイヤツだったよこの人・・・・・・ と評価を一転させる気満々だったが、抜けた緊張の代わりに訪れた抗い難い脱力。 擬音で言うとヘニョ〜ン。 心地良い安堵の揺り篭に揺られる俺に、容赦無い睡魔のビッグウェーブが襲う。 栄養失調の身体に急なカロリー消費を伴う運動、興奮は禁忌だった。 よって、ほぼ無抵抗。 入眠というよりは失神。


 「*******?」 


 薄れる意識の中、男が喋ってるのを、その身体を通して聞く。 


「***?」 


 睡眠一直線の脳味噌は役立たずで、何言ってんだかわかんないけども、しがみ付く肩はがっしりしてて、頬を押し当てる胸は広くって。 あぁ想い出すなぁ・・・野球でホームランを打って飛びついた親父の胸の中。 すごいぞ! と、抱き締めてくれた力強い腕・・・・・・ 野球少年だった九歳まで時を遡る俺に現実は遠く。 

 取り合えずうんうんと頷く俺。 


 「・・・・・・ *****、***?」 


 そうだね、そうだね、うん、うん、その通りだと思うよ、
 わかんないけど。 


 くぐもるように聞こえる声は耳に優しく、すさんだ心にもマイナスイオンの癒し。

 あぁ心地良い・・・・・ 。

 男前は声も男前なんだなぁと意識が吸い取られる三秒前に思い、改めて三秒後、そんな往生際の悪い意識をポイと手放した。












                                              :: つづく ::



百のお題  052 真昼の月 1