036 きょうだい 1.
似てると言われれば掴み掛かりたくなり、似てないと言われれば悪かったなとキレそうになる。 邪魔で邪魔で腹立たしくてしょうがない、無視する事すら適わぬ、線路の上の小石。 ならばいっそ、いつか刺違えてやろう。 どちらかが消えねば終わらない。
俺とミナトの在り方とは、そんなだった。
あの日、夏の日に出遭い、俺達は狂ってしまったのだから。
ミナトがカシワギの家にやって来た日。
父の後ろ数歩下がり、玄関先、黙って冷笑を浮かべた十三歳のミナト。 出迎えた母の横、受け止めた視線の冷ややかさに、言葉を無くす十歳の俺。 8月下旬の残暑に汗一つ掻かず、半袖シャツの白を撥ねる怜悧な白皙、艶のある黒い髪、同じくらい黒い眼。 夜のように深い、黒い、暗い眼が合うと、何故か首筋が、ざわざわとした。 幼心にもコイツは変だと胸騒ぎする、不可解さへの防衛。
それでも、ミナトは美しい子供だった。 未だかつて、俺はミナトより綺麗な子供を見た事がない。 女の子のソレとは異質な、硬質の美。 しかしミナトが纏う深い倦怠と虚無、奥底に潜む傲慢と退廃が、その美を歪めて別物へと変える。 それは、即ち恐怖。 「さぁ、いらっしゃい」 口火を切った母は手を差し伸べる。 が、触れるか触れないかに伸ばされたそれを、ミナトは身を捩り避けた。 僅かに顰めた眉。 「あぁ、触られたくないのね、ごめんなさいね、」言葉を繋ぐ母をまるで無視して小さな溜息をつくミナト。 そして案内された子供部屋。 スキンシップを許さず、微かな嫌悪すら浮かべ、爪先立ちで室内を歩くミナトは、小さな樫の椅子に腰を掛けたまま、呼んでも、促しても黙し、動こうとはしなかった。
やがて夕食事、焦れた父が語気も荒く問う。
「おい、なぁ、何が気に喰わない? お前の為に準備をした御馳走だぞ? 他に食べたい物があるなら言え、好物は何だ?」
覗き込む父を、緩々見上げる黒い暗い眼。 何を言ってるのだろうと、憐れみ、軽蔑する傲慢な瞳。 返答は簡潔だ。
「食べたい物は無いです。 ここ、汚いから、動きたくありません。」
息を飲む父は、何か言いかけて、止めた。 黙って部屋を出る父に続き、俺は子供部屋を後にする。 ドアが閉まる瞬間、隙間から盗み見たミナトは、無表情で、物憂げに宙を見つめ、浅く掛けたそのままに静止していた。 そこには子供らしい落ち着き無さや、生臭さが微塵も感じられず、さながら壊れたマネキンみたいだった。 賑わう品数が一層虚しい食卓、主賓の居ない夕餉 「あの子、変よ。」 と母が言う。
「まぁ、普通じゃぁないんだ、あれも、親も。 そもそも普通ではなかったんだ。」
そう前置いて、父は言葉を続けた。
ミナトについて、その母親であるミシヲの生涯を、冷えてゆく料理を前に語ったのだ。
カシワギの三姉弟、長女のミシヲ、五つ離れて産まれた長男が父。 間に産まれた次女のマツミは、二歳で病死している。 だから父にとっての姉弟とは、姉ミシヲただ一人だったと言える。 美しく驕慢な姉ミシヲ。 ミシヲは歳の離れた弟を可愛がろうとはせず、虐めこそしないものの、黙殺に近い対応であった。 それでも、幼い父は美しい姉に憧れ、機を伺っては近付こうとしたらしい。 けれどその拙い謀り事は、刃のような言葉により、あっけなく崩される。 ミシヲは言う。
―― 厭ッ、来ないで頂戴、汚らしい! その手でわたしに触ったら酷いわよ!
「……つまり、ミナトと同じだ。 可笑しな話、さっきはゾッとしたよ。 姉さんと同じ顔で、同じ様な事言われてね。 あの頃の自分と重なって、この歳になっても竦んだ。」
それは、今で言う所の不潔恐怖だったのかも知れない。 ミシヲは「汚れ」をとことん嫌った。 「汚れること」を恐れ、自らの管理下にある特定の物しか触れようとはせず、その領域は年を追う毎に狭く限定されて行った。 中学に入った頃からは、校内の物に触れる事が出来ず、他の生徒と一つ空間に居られなくなった。 やがて通学は困難となり、自由に動けるのは家の中だけ。 夏の室内でも、長い絹の手袋にマスクを手放せなかった、ミシヲ十七歳。
「汚いからってね、皆と食事をしなくなった。 それだから、母は姉の部屋に姉の分の食事を運ぶ。 その食事だって、皿に盛り付けた果物とヨーグルト、ポット一杯の御茶、版で押したようにそれだけ。 その頃からだよ、姉さんが『選民』と言う言葉を使うようになったのは。」
「選民」 つまり自分は選ばれた人間なのだと、ミシヲは周囲に語る。 無理矢理連れて来られた心療内科の診察室、帽子に手袋、マスクのままのミシヲは「選ばれた自分が汚されるのを、あなたは良しとするのか?」と、食って掛ったらしい。 下品で汚れた連中と一緒くたにされたくはない、汚れればもう選民たりえない、わたしはあなた達とは違うのだから! 歪んだ優越感と、臨界にあった日常の緊張。 カシワギの家はミシヲの病理に巻き込まれ、音を立てず埃を立てず、臭気にすら神経を使い、笑う事もなく月日を重ねる。
そんなミシヲが失踪したのが十七年前。 心療内科の待合室、会計手続きに母親が席を外した僅か二十分足らずの間に、ミシヲは姿を消した。 ミシヲ、十九歳。
「姉は窓口から幾分離れたベンチに座っていたらしい。 若い、学生風の男と何か話していたようだと、当時受付をしていた看護婦は言うけれど、でも、姉はもう、その頃他人との会話は勿論、一人で出歩くのも難しい状態だった。 だから初対面の誰か、ましてや若い男と突然何処かへ行くなんて、とてもじゃないけれど考えられないんだよ。」
家族は手を尽くし、時間を割きミシヲを捜す。 警察も動いてはくれたが、脅迫や金銭の要求が無い若い女の失踪は「色恋のそれでしょう?」と、親身に扱ってはくれなかった。 まして目撃証言の、若い男と言うのが不利になった。 何の手がかりも音沙汰も無いままに、後ろめたい平穏だけが日常に溢れ、父は進学した大学のキャンパスで母と出会う。 早過ぎると言う周囲の反対を押し切ったのは、母の妊娠。 そして盛夏の八月、所謂、学生結婚で俺が産まれ、二人は二十歳で親になった。
父の結婚、俺の誕生、立て続けの慶事は長く沈んでいたカシワギの家を奮立たせ、久方振りの笑顔をもたらした。 それだから、祖父母は思い切ったのだろう。 失踪から十年目、ミシヲは鬼籍の人となる。 美しく、鮮烈なその想い出は消えないが、しかしカシワギの家は新たな方向へ歩み出した。 なのに、運命は皮肉だ。 文書によるミチヲの死から七年後の先月、警察病院からの電話が、家を、俺自身の人生を、大きく変える。
電話の声は言った。 都内のアパートの一室で、ミシヲと思われる人物が死亡していると。 死因は餓死。 夏場のソレだから異臭に隣家が騒ぎ、応答の無い様子に慌てた大家は、止むを得ず踏み込んだらしい。 白一色の視界。 白い模造紙を一面に貼り付けたその部屋で、ミシヲは死んでいた。 真っ白な部屋に家具らしき物は殆ど無い。 部屋の隅にプラスチックケースが数個、みっしり詰め込まれた衣類と日用品。 一方、廊下にはゴミや汚物が溢れ出し、台所には夥しい量の果実の缶詰。 そして、ミシヲの遺体の傍ら、長座し、百科事典を捲る子供。 平素より、ミチヲは全くと言って良いほど部屋を出なかった。 そして、部屋の中はいつも、物音一つ話し声一つしなかったと言う。 だから大屋は、その部屋に子供が居た事実に驚愕する。
子供は、凄まじい腐臭の中、平然と百科事典を眺めていた。 そして、言葉をなくす大家に言う。
「ミシヲを片付けて下さい。もう、汚れてますから。」
あのミシヲが、子供を産み育てていたとは。 警察は、父親についてミナトに問うが『父』という言葉は出なかった。 が、代わりにミナトは繰り返す。 「ホウシシャが居ました。」 奉仕者、だろうか? どこの誰だかわからないが、ミシヲ達をあの部屋に匿い、食わせていた人物が居たようだ。 それがイコール奉仕者、そしてミナトの父親だったのかどうかはわからない。
「確かに、部屋を借りていたのは男の名前だったが、書類の住所も氏名も架空のものだった。 あの日、待合室で何があったんだろう? 姉さんはあそこで、幸せだったんだろうか?」
祖父母は、ミナトにミシヲの面影を見て号泣する。 そして高齢ゆえ、養育するには難しいと、父にミナトを託す。 父に異論はない。 ミナトは可哀想な子供だったから。 労わり気遣うべき、可哀想な美しいあのミシヲの子供だったから、やがて陥る惨状など想像する事は出来なかったのだ。
こうして、生活を共にするようになったミナトは、扱いにくい子供ではあったけれど、意外なほどトラブルは起こさなかった。 あのハンストの翌日、母はミナトの目の前、薄く溶いたアルコールで家中を拭てみせる。 そして「気になる所に使いなさい」と、洗浄綿を容器ごと渡した。 それに安心したか、ミナトは家の中、日常を過ごせるようになった。 入浴は、浴室洗浄後にシャワーを浴び、食事は時間をずらし、フルーツとヨーグルト。 皆と同じでは無いが、ミナトは 「普通」 ではない」から、それでも充分だと誰もが黙認していた。 そうした 「特別」 が、もしかしたらミナトのこだわりを増長したのかも知れない。 がしかし、俺達はもう、ここで暮らしていたのだ。 今日明日、ここでミナトと生活するためには、今どうするかが最優先だった。 既に、ミナトは俺の兄になって居たのだから。
そもそもミナトには戸籍が無かった。 戸籍を持たず、十三歳になるまで義務教育の一切を受けずに育ったミナト。 その為、カシワギの家はあちこちに根回しをし、祖父の知人が理事を勤める私学へ特例として、ミナトを通わせる事になった。 その特例を可能にした理由の一つは、ミナトの同情すべき 「普通でない」 生育歴、そして試しに受けさせたペーパーテストの驚くべき数値。 ミナトの学力は、同年齢の児童を遥かに超えるものだった。 母ミシヲと 「奉仕者」 の男は、偏りは在るものの高度な教育をミナトに施したらしい。 「特別」 なミナトは、通い始めた学校でも 「特別」 であった。
そこで、ミナトは当たり前のように特例を行使した。 雑踏を拒否するミナトの為、登校時は父、下校時は母が車で送迎をする。 「病気の為、ずっと家庭教師についていた」 という触れ込みに、授業以外の全てを免除され、食事は医務室で一人缶入りの栄養剤を飲む、白い手袋を嵌めた美貌の転入生。 ミナトにはイレギュラーを当然と思わせる、おかしいと思うこちらがそれを恥じたくなる、相手の微妙な劣等感を刺激する雰囲気があった。 それゆえ、ともすれば虐めや無視の対象となるマイナス要素全てが、ミナトを謎めいた存在にした。 親も、教師も、特例の不安から一転し、学力の高さと無駄の無い思考を誉めそやす。
「難しい子だけど、天才かも知れないぞ!」 上機嫌の父に母も笑った。 通学し始めて直に、ミナトは短い日常会話、挨拶などもするようになった。 ならば登下校時の玄関先、近隣の住民に小さく会釈するミナトは、はにかみ屋の美しい子供にしか見えない。 だから、こんな評価を、手に入れるのは容易い。
―― 優秀らしいよ、でも可哀想に、あんな綺麗な子なのに持病があるんだって!
あぁ、そうだろう、事実その通りだ、だけどホントじゃない。 ホントなものか、嘘ばかりだ。 ミナトは一つも実は馴染まず、ただ、己の足場を造ったに過ぎなかった。 全てがミナトに合わせていただけ。 気が付けば、ミナトの思うように物事を運んでいたに過ぎない。 俺達は見逃していた。 高い学力と、綺麗な容貌と、不幸な背景に起因する一種病的な習癖に誤魔化され、ミナトの本質をすっかり忘れていた。 それだから、気付かぬ隙間と視線の裏側、ミナトの歪みは、何も変わらず、寧ろ深く、根を張巡らせている。 そしてそれに絡め取られ狂ったのは俺だった。 多分、俺が一番ミナトに近かったからだろう。 小さな子供部屋、ミナトと実際、本当の意味で生活を共にしたのは俺だけだったのだ。
「素」のミナトは無駄な事はしない。 ミナトは、誰かがそこに居ない限り、俺と口を利こうとはしなかった。 挨拶なんぞ俺にはしたことが無い。 ミナトは見事なまでに、俺を無視し続けた。 その癖、気に入らぬ事があれば、あからさまにその不満を訴える。 例えば足踏み。 子供部屋、背中合わせのミナトは部屋の端、机に向かっている。 少し離れた床に俺は座り込み、集めたキャラクターカードを並べていた。 そこへ 「ドン」 と床を打つ、ミナトの室内履きの音。
「なに?」
返事は無い、しかしミナトは黒い暗い眼でこちらを見下ろしている。 そしてまた『ドン』と床を打つ。
「ち、ちゃんと拭いたとこ見ただろ?」
俺は、子供部屋に入る時、手の平と足、持ち込む玩具類の消毒をミナトに命令されていた。 命令といっても、そうしろと言葉で言われた訳じゃない。 その時も、こんな風に執拗に目の前で足踏みをされ、消毒綿の容器を目で示したミナトは、 「手」「足」「それ」 たったそれだけの言葉しか、俺には使おうとしなかった。 だから今回も、何か気に喰わない事があるに違いない。 が、思い当たる節が無い。
「ちゃんと言えよッ! そんじゃ、わかんねぇよッ!」
三度目の足踏みに苛立った俺は、ミナトに喰って掛かる。 ミナトを怒鳴りつける自分というのに、腹の底ギュウッと奇妙な罪悪感が溜まった。 しかし当のミナトは顔色一つ変えず、沈黙する。 と、その視線の先、床の陽だまりに落ちた、小さな鳥の綿毛が一つ。 そっと摘み上げる俺に、ミナトは初めて口を開く。
「ゴミ」
「羽根だよ。」
「捨てろ」
「…… 自分ですりゃ、いいじゃないか!」
「僕のじゃない。 おまえがゴミを運んだ。」
それだけ言うと、ミナトはまた黙った。 確かに、ミナトは外遊びをしない、外から帰った俺が羽根を着けて戻って来たのかも知れない。 しかし、部屋の窓は日中開いている。 羽毛の一つくらい風に乗り、入り込んだとして不思議は無い。 だけど十歳の俺に、それを言葉で反論する事は難しかった。
摘んだ羽根をゴミ箱に落とすと、理不尽にやり切れず、鼻の奥がツンとした。 それでなくとも、俺は、ゲームや音の出る玩具の類を部屋で遊ぶ事が出来なくなっていた。 ミナトが「神経に触る」と、親に言ったからだ。 俺は自分の部屋なのに、そんなのどうかしてると思う。 だけど、ミナトは「普通じゃない」から、俺が気を使わねばならない。 それが当然だと、ミナト自身態度で示すのだから、俺は歯痒くそれに従わざるを得ない。
やれ煩い、ゴミを拾え、片付けろ。 足踏み一つ、視線を読み、まるでミナトの奴隷じゃないか? いつしか、ミナトと同じ部屋に居ると胸苦しくなり、俺は眠る時意外、子供部屋には寄り付かなくなった。 そうして益々、子供部屋はミナトの砦となる。 やがてミナトは特例として、エスカレーター式に高校へ進学し、俺はと言えば、ミナトの通う私学を受験で目指す小六の秋。
ミナト君は優秀だから、お勉強も見て貰えるわねぇ。
アンな素敵なお兄さんと一緒の学校なら、心強いでしょう?
ミナト君、中学は学年トップで卒業なんでしょう?
もう、気が狂いそうだ。 俺にとってのミナトは、そんな素敵なスーパーマンじゃない。 傲慢で、得体が知れぬ子供部屋の暴君。 皆は何を見ているのだろう? 未だ家族と普通食を食べれず、未だ迎車無しに外に出れず、未だ消毒綿を持ち歩き、手袋を嵌めたあのミナトの、どこが優秀で、何が心強いのだろう?
ミナトの歪みに気付きつつ、周囲は何故、それを良しとするのか、憤りとジレンマに地団駄を踏む。 悪い事に、ミナト本人はその憤りを受け止めはしなかった。 ミナトを糾弾する事、それは何とも言えない罪悪感と後味の悪さを掻き立てる。 言うなれば、障害者に手を上げるような自己嫌悪。 それだから、歪みの帳尻合わせは別の形、その周囲へとぶつけられる。
俺は、両親へ激しい反発を示すようになった。 学校内での喧嘩、器物破損も頻回となり、次第、周りはそれなりの連中ばかりになる。 そして、私学の受験当日、俺は受験票を破き会場から脱走する。 もう、うんざりだ。 ミナトの居る学校など、冗談じゃぁ無い。 俺は、向こう三年のプライベートを手に入れた。 親や学校の信頼は無くしたが、後悔はしていない。 けれどその事がいっそう、ミナトとの確執を深くして行く事になる。
周到な悪意、身体の痛みを伴わない暴力が有る事を俺は知る。
:: つづく ::
百のお題 036 きょうだい
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