蜜月 -第二夜 -
(1)
女に戻ったのはあの一夜だけ。そう決心したはずなのに……。 銀のブレスレットでのヴエッティとの邂逅、ギルティの預言。 もはや一刻の猶予もない。 滅び行くこの銀河から人々を救うためには、天下を統一する必要がある。そのためには、やはりヴェッティと決着をつけなければならない……。 皇帝軍と少しでも互角に闘うために、人民軍はB.B.の支援を受け、協力してくれる領土艦を持つ貴族を探し、交渉を続けている。 「あの一夜」から暫くは、ミシェルはどんなに忙しくとも、不思議と以前よりは疲れを感じなくなっていた。 だが、クレオとは禄に話も出来ない日々が続くと、急速に気持ちが沈んでいった。 クレオと会議で同席しても、廊下ですれ違っても、なぜか目を合わせてくれない、合わせた視線を反らされる。 そんな事をされると、余計にあの夜のことが強く、ミシェルの脳裏に蘇る。 クレオの全身の傷跡。体温。重さ。繋いだ手。絡み合う舌。それから……。甘い囁きと共に思い浮かぶ、あのときの感触。でも……。 男は愛していない女も抱ける― わかって抱かれたはずだ。いや。抱いてもらったのだ。どうしようもなく気持ちが抑えられなかった。嫌な事を忘れたかった。愛されたと思うのは自惚れだ。受け入れてくれた事自体が嬉しかった。それだけでいい。 ミシェルはあの夜のことは「一度きり」のことだと、思い切ろうしながらも、悶々と想いを巡らせてしまう日々送っていた。 その日は三人の領主と条約を交わすため、ミシェルは前日からその準備に奔走していた。 本来ならば一人一人丁寧に対応して行きたいところだが、いつ神聖皇帝軍と交戦状態になるか、いつ黒十字に引き込まれてしまうか、という今の状況を考えると、そんな余裕もない。 ミシェルは忙しさの中、クレオの事を考える余裕もなく、一日の予定をこなしていた。 三人目の領主との調印が終わったのは、昼食の時間をかなり過ぎ、もう夕暮れも近い頃だった。 ミシェルは一度も休憩を取ることなく、調印の式を続けて行ったため、気の抜けない状態が続いた。 自室に戻ったミシェルは、ようやく一段落ついたかと思うと、久々に疲れを感じ、長椅子に靴のまま足を延ばして載せた行儀の悪い格好で、ぼんやりとしていた。 そうしていると、なぜか、ふとクレオの顔が浮かんだ。 ………昨日から一度も姿を見ていない。 軍服の下で固く晒で巻かれた乳房と下腹部に無意識に手が延びる。ミシェルはキュロットのホックを外し、目を閉じた。 「失礼いたします。ミシェル様」 軽いノックと共にいつもの声が聞こえると、ミシェルは慌てて服を整え長椅子から足を下ろした。 「ああ。シルアか……入ってくれ」 シルアがワゴンを押して入って来た。ワゴンの上には、お茶のポットとティーカップ。ライ麦パンにハムを挟んだサンドウイッチ、バルドー特産ぶどうジャムとクロテッドクリームが添えられた、スコーン。 焼きたてのスコーンの甘い香が、ミシェルの鼻腔一杯に広がる。 「お疲れになったでしょう。お昼も大分過ぎてしまいましたけど、よかったら少し召し上がって下さい」 そう言いながら、シルアがカップに注いだお茶は鮮やかな赤い色。今度は甘酸っぱい香が漂う。 「ハイビスカスとローズヒップにオレンジピールを加えました。疲労回復に効きますよ」 「そうか。ありがとう」 「サンドウイッチかスコーン。召し上がりますか?」 「……スコーンを少しだけ貰おう」 ミシェルはこの後、今日調印した諸侯達との晩餐が控えていると思うと、初めはあまり食べる気にはならなかった。 だが、スコーンの焼きたての香が、たまらなく空腹を刺激し、ミシェルはスコーンにジャムとクリームをたっぷり塗ると、一気に貪りついた。 「もうひとつ、召し上がりますか?」 「いや。これでやめておくよ。すぐ晩餐会だ」 「そうですね。先ほどもお茶の準備に厨房へ行ったら、料理人の方が皆とても忙しいそうで、私その中でスコーンを焼くのにとても気が引けてしまいました……」 「そうなのか……そうしてまでシルアが焼いてくれたものならば、もうひとつ貰おうか」 「あっあの。ミシェル様、ご無理なさらないで下さい。すみません。なんだか愚痴をいってしまって……」 「いや。貰うよ。本当はまだ食べ足りないぐらいだ」 そう言ってミシェルは二つ目のスコーンに手を延ばした。今度はゆっくりと味わうように少しづつ口に運ぶ。その傍らでは、シルアが新たにお茶を注いだ。 「それより、ミシェル様。晩餐会の時間まで、少しお休みになってはいかがですか?昨夜もあまり寝ていらっしゃらないでしょう?」 「そうだな……」 「ぎりぎりの時間にお手伝いに参ります。よかったら一旦お洋服も緩めてお休みください」 何も言わなくとも、相変らず主人の望むことを察して、気遣いを見せるシルアは実に有能な侍女だ。 人民開放運動に没頭し、貴族としては没落していくヴォルバン家に、祖父のジャンと共に最後まで残り、仕え続けてくれている。もはや家族同然である。それと同時に、人民軍の一員として共に闘ってくれる同士でもある。また、祖父と共に「ラシーヌ」を知っている。すべてを理解してくれている大切なひと。ミシェルにとっては唯一の友人といえる存在だ。 ミシェルはシルアの言葉どおりに、服を緩めてベッドで横になりたい衝動にかられた。だが、この後の事を考えると、そう簡単に緊張を解くわけにはいかないと思った。 「いや。一旦だらけると、晩餐の席で何か失態を演じてしまいそうだ……このままでいるよ」 そう言いながら、ミシェルは残りのお茶を飲み干すと、また、クレオのこと考えた。今日もこのまま顔を見ることなく、一日が終わるのかと思い、切なくなった。 「ところで……今日、アイオロスの連中は?」 「あっはい。今日は全体会議もなかったので、皆さんそれぞれの部署で過ごされたようです。ノヴィさんはアイメルさんのお見舞いに行ったりして 。バダットさんはちょっとわかりませんけど、ハイザックさんは大砲の調整に忙しそうでした」 「そうか……ちょっと外の空気を吸ってくる。時間までには戻るから。スコーン美味しかったよ。ありがとう」 「はい。いってらっしゃいませ。お気をつけて」 ミシェルはゆっくりと椅子から立ち上がり、出入り口の方へと振り向いた。 「……クレオさんは先ほど、ご自分の部屋の前にいらっしゃいましたよ」 シルアがお茶の片付けをしながら、独り言のように、ぽつりと呟いた。 ミシェルが扉を閉める音だけが、ばたりと部屋の中に軽く響いた。 閉めた扉を背中にして、ミシェルは思わず苦笑した。 クレオとのことは特にシルアに話してはいない。だが、こうしたさりげない気遣いを見せられると、かえって何もかも知られているのかと思い、気恥ずかしくなる。 シルアには、シルアだけには話しておこうとミシェルは何度も思った。 でも……クレオとは互いに想いを確かめ合ったわけではない。そのことがなぜか妙に後ろめたく、話すことが出来ないでいる。 ふと、ため息をついたミシェルが歩き出すと、その足はいつの間にかクレオの部屋の方へと向かっていた。 ノックをしても返事のないクレオの部屋の前で、ミシェルは暫く立ち止まっていた。 ……もしかしたら湖畔のあの崖の上で、またハモニカでも吹いているのでは? ふとそう思い、外へ出る扉の方へ向かおうとすると、背後から人のけはいを感じ、ミシェルは一瞬、クレオが帰ってきたのだろうかと期待する。 が、振り返った先にいたのは、全く別の人物であった。 「おお。ミシェル殿……このような所でお会いできるとは。今、貴方のお部屋に伺おうと思っていたところです」 「ゲラン伯爵。どのようなご用件で?」 ミシェルが振り返った先にいた人物は、今日条約を結び、調印をしたばかりの貴族のひとり、ゲラン伯爵である。 年はミシェルよりは十は上であろう。優しげな面差しにプラチナブロンドと青い瞳が印象的な男だ。 「このような所で突然お呼び止めして、失礼いたします。実は、少し貴方にお話したいことが……」 伯爵の突然の申し出に、ミシェルは咄嗟になんとかこの場を逃れたいと思ってしまった。 「……大変申し訳ないのですが、今はあまり時間が取れません。お話ならば今夜の晩餐の時にお願いしたいのですが……そうでなければ、後日時間を作らせて頂きます。それでご勘弁を……」 突然引きとめられたとはいえ、今日調印したばかりの貴重な貴族の協力者である伯爵にミシェルは思わず慇懃無礼な態度を取ってしまう。 晩餐の前に失態を演じてしまった……とミシェルは気付き、なんとかその場を取り繕うと、曖昧な態度を取り続けていた。 そこへ伯爵が意を決したように、ミシェルを見つめて言った。 「貴女はラシーヌ=ブランシュ殿……ですな?」 |