「防犯ベルだよ?」
専門店で出される天ぷらみたいにカラッとした声で成歩堂は言った。
「ム」
答えを求めておきながら意表を衝かれた感じで、マジマジと机の上のものに目を向けたのは、ソレの存在をうっかり踏み飛ばしてしまったから。一番に目に入ったのも袋内のスペースを広く取っていたのも机上に広げた際存在を主張する硬質な音を響かせたのもソレだった。それなのに、この目に焼きつく真っ赤な色ですら霞んでしまった原因…もう一品が露骨過ぎた所為。
何かと物騒なこのご時世、自分に必要か否かはひとまず置いておいたとしても、成歩堂の即答具合で買い求めたのがそっちの方なのだと察することができ、忘れていた…とは流石に言えず
「そうか、防犯ベルか」
ひとまず納得する。
だが、待てよ。ここで納得してしまってはいけないと、背ける事のできない現実がもう一つあり
「ほら、僕も御剣も犯罪に携わる職業でしょ。法廷を重ねれば重ねるほどありがたくもない私怨とかバリバリ受けちゃうわけじゃん」
「ふむ、だがしかし…」
「罪を論じる立場を比べてもさ、求刑する側と弁護する側、無罪を主張する被告人やその親類縁者にしてみれば憎むべきは罪を確定しようとする検察側な訳で…僕の大事な恋人はその中でも頗る有能な検事さまなんだよ」
「ま、まぁ、それも致し方がないことだと私は思う。報復を恐れていては罪を立証する者がいなくなってしまう。そうなればこの国の安全と秩序は崩壊し犯罪の温床となってしまうのだから…いや、それよりも」
話題のスポットライトが当たらない中でも無駄に自己主張しているソレがどうにも目に入り
「うん、否定するつもりはないけどね…単純にさ‥君が心配なんだよ」
「っ…うぅぅ」
「僕が御剣に一日中へばりついて護衛できたら…万が一危機的状況に陥った時僕が盾になれたら…いつまでも健勝でいて欲しいじゃん。大切な人には健やかな安全を望むもんでしょ?この身に代えてもさ、日々平穏無事でいてくれることが何よりなんだから」
「成歩‥堂‥」
一瞬目が眩む。
付き纏う私怨の影に気丈でいられる日ばかりではない。天才と証される栄光の陰には確実に犯罪の烙印を押された者とその関係者がいる。いくら世間が正当な判決だと讃えたとしてもそれが唯一信じる正義なのだとしても、万人が意見ではない。
現に傍聴席から罵声を浴びせられたことなどいくらでもあったし、検事局へと物騒な者を懐に忍ばせ乗り込んできた者もいた。長く一つの住居にいられない事情を身につまされて感じたことも‥。
正義を行っているという誇りを抱き、胸を張ってこれまで生きてきたけれど、独りで踏ん張るには辛い状況だって過去に多々あった。
守って欲しいとか、庇って欲しいとか、理解されないことに同情して欲しいとか、受け身なことではなく
常に危機感を持てとか、護身術の手ほどきを受けろだとか、何者にも屈しない精神力と鍛えろなど、前向きな助言でもなく
見えない手で支えられる感覚。心があたたかさを知覚する瞬間。
「危なそうな事柄からは向こう気なんか無視して全力で逃げる。変な意地は張らない。虫の知らせとか本能的なものにも耳を傾けて、それでも危険と対峙しちゃったらこれを使う。ね?なくさないよう目立つ色を選んだんだよ‥それでなくても御剣はちょっとボーッとしてることがあるんだから‥」
表情に出さなくてもじ〜んと成歩堂のあったかい気遣いが沁みっていたのに
「ム、それは心外だな。私はちょっともボーッとなどしていないつもりだ」
ケチがついた。気遣うが故、言わなくてもいいことまで口を滑らせてしまった成歩堂を眉間にしわを一つ刻み強く睨む。
「ん?あ、はははっ、うん‥そう、だね。御剣は一見しっかりしてそうだもんね‥ま、念のためだよ」
この、含みを持った笑い方が癇に障る。
丸いフォルムの防犯ベル。色は失わないよう選ばれた赤。短めのストラップが横に付いていて、下部にはスイッチプラグがささったまま。幼少時代ランドセルにぶら下げて登下校した記憶がほにかに蘇り一種懐かしさを覚える。
「まさかこの年になってこのようなものをプレゼントされるとは思ってもいなかったが‥」
「本当はさ、スタンガンにしようと思ったんだけど手持ちがあんまりなくってそれは次の機会ね。いい?ちゃんと持ち歩くんだよ?人ごみとか満員電車の中とか肌身離さず身につけて、あれ?っと感じたら恥ずかしがらずにプラグを抜く。わかった?」
「‥‥こ、子供ではないのだからそんなに念を押さなくても分かっている」
些か過剰な心配なのではと突っかかってしまう。
「あのさぁ、僕は御剣の母親代わりに心配してるんじゃないんだよ?現在進行形の恋人として言ってるんだからね。男だからそーゆーことには縁がないって考えちゃダメだからな!」
「‥‥‥?」
証人尋問を行って思い知るのは証人は全てを包み隠さず証言するとは限らないということだ。尋問を重ねてゆくうち新たに引き出される証言や自己記憶の訂正など珍しくはなく、陳述書だけでは事件の真実に辿り着くのは不可能ではないのかとさえ思ったこともある。
それが虚偽の陳述になるかや偽証罪に値するか否かの問題は置いても、詳しく証人の口から話を訊くということはきわめて重要なこと。
「君は防犯ベルを何故私に渡したのだ」
飾り立てた言葉の裏に隠された真意に気づくこともある。
「え?ん〜と、そりゃぁ護身用に‥纏わり付く凶暴な私怨から身を守る為と‥」
「と?」
「痴漢撃退‥‥なんつって」
暴かれる真の目的。
「ちっ‥痴漢?!馬鹿か貴様は!渡す相手が違うだろう!私は男だ、一般男性の性的対象から当然除外されるべき性別にもかかわらず何を寝ボケたことをぬかすかっ」
うっかり感慨に浸った自分が滑稽にも思え、情けなくなる。
「だ、だから念のため!念のためだよ!防犯目的に変わりはないだろ?それに…君が性的対象から当然除外されてるって一般説自体怪しいもんだし…」
なぜ、そこで口ごもるのか理解できない。
「現に一般男性である僕は君に性的欲求を抱いちゃってるわけじゃん…」
「っ、き、貴様が一般男性枠から外れているだけだ。特殊な性癖をもつ者が蔓延する世の中ではないっ!」
「あっ、ひどっ、特殊扱いしたな?!僕は特殊なんかじゃない、一般男性枠ど真ん中に位置するさ。特殊なのは…御剣のほうだよ!だって僕は御剣にだけ反応するんだもん!一般枠にだって一部特例って箇所はあるんだ、君にだって特例って箇所があるだろ?!」
僕とセックスしてるんだし!
決定的な事実に基づいた決定的な証言が頭の中で反響する。
「偏見ていうか一般的嗜好を定義化しちゃってるんだよ君は。性欲を刺激する色香って女性だけが放つものじゃないんだよ?男が男に反応する色香を君は発しているって気づいてないでしょ?だからボーっとしたとこがあるって言ってるの!」
だいたいそのひらひらは何だよっ、狩魔の教えだかなんだか知らないけどさ可愛すぎるんだっつの。変則的なことには滅法弱いくせに見た目冷静で…地震に弱い?閉所恐怖症?くそっ、可愛いじゃんか!不意を付かれた時思考が停止するだろ?そん時の捨て犬みたいな表情とかいっぺん鏡で見てみろっての。ダメだよ、あんな顔しちゃ…堪んなくなるから。感情表現が下手なのも考え物だよね!ピントのずれた言動とかツボに嵌ったら効果抜群で、天才検事さまは理知的に見えて実は不器用さんだって…可愛い不器用さんだってときめいちゃうんだからな!老若男女ところ構わずときめいちゃうんだからな!
いったん勢いの波に押されたら、あれよあれよと口を吐く台詞。
こっそり隠していた真意が噴火口から噴き出すマグマみたいに勢いよく発せられ、息継ぎする間もない。
「だからその表情!それが危険だっての!僕以外の人の前で見せるなよ、頼むから!」
ビッと強烈に指摘され御剣の遠のいていた意識が戻ってきた。
防犯目的を装ったこれは…独占欲?
御剣の考えていた一般男性の性癖を打ち崩す…弁論?
片側にだけしか働いていなかった危機意識を全面に向ける為の提言、もしくは勧告?
ようやく回転しかけた思考ではそれすら判断できなかったけれど
「へ、変質者め…私にとってもっとも危険なのは成歩堂、君だ」
いったん固まった定義を修正するなんて中々できることじゃない。
革命は脅威であり、脅威を感じるということは危機感を抱くということ。
わなわなと怒りに震える手が、受け取ったばかりの防犯ベルにかかる。混乱する意識の中で御剣はスイッチプラグを摘み…
「わーっ!!わぁぁ!!!ちょっ、それ抜くなよなぁ!!恋人を変質者扱いすんな!」
「離せ、変質者!留置所の中で頭を冷やせ!」
「えぇぇぇ?!僕、なんにも悪いことしてないじゃんか!」
「ウルサイ!貴様の存在そのものが危険だ!」
すったもんだの押し問答。
飲みかけの紅茶が机の揺れに波打ち中身が少しだけこぼれる。
それが収まったのは
「それに、その変質者を恋人にしてる君はなんなんだよっ!」
なんかの擁護団体の所員?街角に募金箱抱えて立ってるなんとかスカウトの人?なんとかテレサって人が創立した会の活動に従事しているとか神の啓示を受けたとか、まさかね!
苦し紛れに突きつけた一言。
「‥わ、私は‥安易な気持ちで君と関係を持ったわけでは、ない」
語るうちに掠れてゆく声が…どうしようもないくらいにいとおしかった。
責められていたのは自分の方なのにチクチクと胸に刺さる罪悪感。僕が虐めてるみたいじゃんか…御剣の動揺した面持ちが庇護欲を掻き立てる。
「君が僕を変質者と呼ぶのは構わないよ。君にとって危険因子かも知んないけど愛情をもって接してると自負してるからそれはいいんだ。だけど、君の言う特殊な性癖の人間だってこの世にはたくさんいるよ?カミングアウトしていないだけで…していたとしても、パッと見で判断するのは難しかったりするし。たくさんの人の中に埋没すればそういう人に遭遇する確率だって高くなるでしょ」
御剣は良くも悪くも人目を惹くしね、と薄く笑い成歩堂は可愛いと表現した胸元のひらひらを指先で弾きくつり、喉を鳴らす。
「念のためだよ?万が一そういうことに遭遇した時の保険の一つだと思ってくれていいから」
「うム…」
念のため、保険、防犯ベルをそう例えるならば渋々でも受け取ろうかと御剣はスイッチプラグを摘んでいた手の力を緩めた。
「御剣は僕の可愛い人なんだから…恋人として当然抱く心配事には目を瞑って」
優しく触れて‥
優しく抱いて‥
優しさに包まれ、キレイに笑って。
いつも想う、いつも願う、だからこそ心配の種は尽きなく、でもこれが恋というものなら切ないけれど幸せだ。
優しく触れて‥不器用な表情を浮かべる頬に。
優しく抱いて‥さらさらの髪に指を通したくさん知識の詰まった頭を。
引き寄せ「僕は御剣が好きなんだから」耳元で囁く。
優しさに包まれ、キレイに笑って。この一言を心に刻んで、忘れないで。
「成歩堂‥」
「ん?」
「その‥あ、ありがとう」
ありがとうの言葉はやっぱりぎこちなくて、その硬さがまた可愛くて
「どーいたしまして」
顔をくしゃくしゃにして笑った。
この調子でチューの一つもできちゃうかもっ。隙あらば膨れ上がる下心に鼻の下は伸び頂いちゃおうかな〜と成歩堂は肩に抱いてる御剣の頭を意識した。
「‥成歩堂」
「っ、な、なに?」
「防犯ベルに関しては理解したのだが、もう一つ入っていたではないか‥アレは、なんだ」
応接用のテーブルと挟み浅く触れ合う形の二人。成歩堂の思考は御剣に集中していたけれど、成歩堂の肩に額を預けている御剣の視界には飲みかけの紅茶(一部乱れあり)と茶色の袋‥そして、ひと悶着ある前から気になって仕様がなかった”無駄に自己主張しているソレ”が映り再熱する疑問。
「あ〜‥コンドームだよ?ゴム」
そんなものもあったねと軽く答える男に
「そんなことは見れば分かる。なぜ、これを私に‥ひとつだけよこした」
感情を押し殺した声が伝わる。
「えっと、防犯ベルと同じようにいつも常備していてほしいなぁ‥なんて」
「防犯ベルと同じように、ということは肌身離さず持ち歩けということか。性犯罪対策に‥」
痴漢の対象とされたことへの憤りはなんとか散らしたが、もっと直節的な意味を持つソレに湧き上がる憤りは収まってはいない。傷害を受ける対象というならまだしも強姦の対象になり得るということは、罪名に嫌悪を抱くよりも男としてのプライドが傷つく。
それ以上にどこの誰とも分からない相手に結果組み敷かれ、そういった行為に至る可能性がはあると思われている事に腹が立った。屈辱よりも死を‥極論を唱えるわけではないが、万が一そういう状況に陥ったとしてもそれこそ死ぬ気で抵抗するに決まっているのに。呑気にコレを差し出せというのかこの男は?ふつふつと怒りが煮えたぎる。
「性犯罪対策?まさか、これは僕たちのために決まってるじゃん」
違うのか?そこまで貧弱な人間だと思われていなかったことに一応安堵するが
「私たちのため?」
引っかかる部分がないこともない。
「そう‥外とかさぁ、備えのない場所でムラムラしちゃった時用にね。携帯してもらえるとありがたいかなぁって」
「ム‥外‥有り得ないな」
「え?!有り得るでしょ?!‥‥まぁ、その時になってみなきゃ分かんないけど、僕は二つ持ってるよ。男の嗜みとしてね」
ちょっと得意げなところが癇に障る。
「‥‥‥君がそれをいつ、どこで、誰と、どう使うかは別の問題として、二つ携帯しているのなら充分ではないか‥私には必要のないものだ」
癇に障ったから‥皮肉を込めて突き放せば
「それ、本気で言ってるんだったら怒るよ?僕たちのためって言っただろ」
滅多に聞くことのない真剣な声で諭され少しだけ嬉しかった。頭を抱えられているから成歩堂の表情を見ることはできなかったけれど、声の調子からなんとなく想像でき安心した。ゆき過ぎた発言だったと反省し、この手の駆け引きは苦手なんだと改めて思った。
「嗜みと言うなら私も二つ携帯しておいた方がいいのだろうか」
ほのかにあたたまった心を砕いてみれば、有り得ないと言った事柄にそんな提案する自分がいて正直驚くけれど。その時になってみなければ分からないというのは本当なのかもしれない。
「え、いいよ。使うのは僕ので。御剣のは念のため」
「ム、そうなのか‥だが成歩堂ばかりなのは不公平ではないか?」
「あははっ、律儀だなぁ‥有り得ないって言い切れちゃう君よりムラムラするのは断然僕の方だからさ、君への負担も考えれば当然だと思うよ?」
これまでそういったことに及んだ経緯を思い返せば、妙に納得してしまう。確かに‥始まりはいつもこの男からだったと。
「私の分は君の言う、念のためなのだな」
「そう、一回だけじゃ足りなかった時の為の保険、かな」






ピーピーピーピー
「え?!なに?!なに?!御剣?!」
耳をつんざく電子音に目を丸くした成歩堂が、音の発する場所に目をやると防犯ベルのスイッチプラグは御剣の手によって見事に引き抜かれていた。
ピーピーピーピー
「なんで?!どうしてそーゆーことするんだよ!僕、御剣の気に障るようなこと言った?!」
耳を塞ぐのも忘れ成歩堂は今にも泣き出しそうな顔で問いかける。
「貴様は‥」
ピーピーピーピー
大音響で鳴り響く防犯ベルと引き抜かれたスイッチプラグをこれ見よがしに掲げ、眉間に深いしわを寄せた御剣は怒りの色の濃い瞳で成歩堂を冷たく見詰めた。
「有り得ない状況を既に妄想していたことは許そう‥だが、一回だけじゃ足りなかった時の為の保険だと?どこまで貴様の妄想癖は進んでいるのだ!」
天神信仰と称される天神(雷神)菅原道真の恨み深き雷光が地を割ったかの如く、執務室に響き渡る怒声。
とぐろを巻く怒りの暗雲は凄まじく進み行く足を躊躇わせる。
「だっ、だって、したあとの御剣ってエロいんだもん!!エロくって可愛くって、もう一回したくなるんだからしょうがないじゃんかっ!!」
厚い雷雲を掻き分け、稲光にも怯まず、落雷覚悟で突進する無鉄砲と言えるほどの覚悟は賞賛できるかもしれない‥が、しかし雷を受けたが最後、無残にも黒コゲ‥なんてことのないように‥
ピーピーピーピー
鳴り響く電子音を憎々しく思いながら怒りに震えている御剣をどうやったら宥めることができるのか必死に考えていた。



おしまいv

  



2007/08/06
mahiro