お父さんと暮らしたあの部屋は私の全てだった。

外の世界と行き来する為の硬い鉄のドアは退屈の訪れと満たされた時間を私に与えた。
爪の弾く音を防ぐためだと張り巡らしたコルクの床は少しぼこぼこしていたけれど慣れればその独特の感触が面白くなった。
お気に入りの場所である革張りのソファー。はじめ私の身体の形と合わずどうしたものかと思っていたが、ある日お父さんのブランケットをこっそり拝借し寝心地のいい形に調節した。それを見たお父さんが少し困り顔で「レイジに取られちゃったなぁ」と言ったけど、すぐに「いいよ、それはレイジにあげるよ」と笑ってくれ、以降そのブランケットは私のお昼寝の友となり、お父さんの膝の上以外で私が好む場所にもなった。
トイレのぐるぐる回る水は見ていて飽きなかったし、蛇口からぽつぽつ落ちる水の珠はついつい手を伸ばしたもの。翻るレースのカーテンは飛び掛りたい衝動を抑えるのに必死。
電話とチャイムが鳴る音は未だにビックリするけど私に悪さをするものではないから許してやろう。
お父さんと一緒に寝るベッドはあったかくて離れ難いもの。出来ればずっとそこに居たいけど私がベッドのある部屋から出るとお父さんが寝る時まで締め切られてしまう。スゴク、残念。でも、しょうがない。
ニャンプチゴールドがしまっている棚はお腹が空いてなくとも見に行ってしまう。お腹が空いている時など棚の取っ手に触りたくて何度もジャンプをしてしまう。これは悪い癖なのだろうか?
お風呂は……嫌いではない、けど、好きでもない。一度子猫の頃空っぽの湯船に落ち這い上がることが出来なく非常に困った…困りに困り、途方に暮れ助けてと声がかれるまで鳴いた。鳴いて鳴いて、鳴き続けて本当に声が枯れ、助けてもらえないままひとりここで夜を明かさなければいけないのかと考えたら怖くなった。怖くて怖くて、逃げたいのに退路すらなく、戸惑い混乱し、湯船の隅っこで丸くなり震えることしか出来なくなっていた。
助けあげられた時には全身をブルブル震わせお父さんの腕にしがみ付いて暫く離す事ができなかったくらいだ。トラウマになっているのだろう。成長した今、湯船から這い上がれないなんてことはないけれど、その時のどうしようもない状態を思い出すからお風呂場はあまり行かない。あそこは私にとってずっとドキドキする場所のまま。
好きでも嫌いでもないと言えば、ソファーの後ろにある窓もそうだ。
外の世界が見れるから気分転換にはいいのかもしれない。でも外の世界に興味を持つのはお父さんのいない時間なのだから私にとって望ましいことではないはず。手を振るどこかのご婦人も頭の尖った子供の視線も、雨も雪も、飛び交う鳥たちも、好きと言うには物足りない。窓辺はお父さん以上に価値のあるものには到底成り得ない。
お父さんと暮らしたあの部屋には沢山の思い出がある。好いものもあれば悪いものも…語り尽くせないほどある。
私とお父さんの部屋はここしかないのに。
「さぁ、これからここが猫ちゃんのおうちになるのよ」
なのに、突然私の前に現れた見知らぬ人間は滅多に使わないゲージの小屋に私を押し込むとなんの断りもなく車に乗せ連れ出した。お父さんの断りもなく、私の断りもなく強引に。そして辿りついた見たこともない家を私のうちだと言う。
どうして!
どうしてそれを受け入れねばならない?
私のうちはあそこしかないのに!
「仲良くしましょうね」
そんな猫なで声で言われたって頷けるわけがなかろう!
私はお父さんの子供なのだ。お父さんが大好きなのだ。お父さんだけが大好きなのだ。
憤慨し立てた爪が食い込む床(後にこれを畳だと知るのだが)の上で私は身を硬くし低い姿勢で辺りを窺い、もぐりこめそうな場所を見つけると一目散に走る。タンスの下、それも出来るだけ奥の端、人の手が届かないような場所を陣取り固まった。
無遠慮に伸ばされる見知らぬ人間の手を何度も払いのけ、猫じゃらしにもボールにも反応せず、呼びかけには一切答えなかった。
プラスチックの皿に食べ物をのせ目の届くところに置き私をおびき出そうとする、そんな稚拙な手になど引っかかるわけもなくそこに居続けた。
意固地だと思われてもいい。扱い辛い猫だと思われてもいい。いっそ、外に放り出して欲しかった。それならば私はお父さんと私のうちに歩いて帰るから。迷子になどならずきっと帰るから‥。
受け入れられない。
理解しようと思わない。
でも‥どうすることも出来ない。ただ、私には隠れることしか出来ない。
お父さん、怖いよ。どうしていいか分からないよ。
私は猫だ。無力な猫だ。
こんな信じられないようなことが起こっても何も出来ない、する術を知らない猫なのだ。
お父さん、私を助けて。湯船から私を救い出してくれた時のように私をこの場所から救い出して。
声を殺し、目を凝らし、身を硬くし、恐怖に震える私を…見つけて!お父さん‥!
「‥が‥から、何日も‥‥お腹は‥はずなのに‥」
私の頑なな姿勢に困惑しているのだろう、他の誰かと話をしているのが聞こえた。
無論お腹は空いている。ササミグリンピースのニャンプチゴールドを最後に水しか口にしていないのだ。お腹が空いてどうしようもなかった。
ニャンプチゴールドが食べたい。お父さんがお皿に盛ってくれるニャンプチゴールドが食べたい。それでなければ嫌だ。嫌なのだ!
クルクルと鳴るお腹を抱え直し私はお父さんを待った。

隠れている間、多少なりの情報を得ることは出来る。
この家に住んでいるのは二人、私を私のうちから連れ出した人間とその際車を運転していた人間のようだ。そしてこの家にいる人間以外にも沢山、そう、本当に沢山の人間が出入りを繰り返す‥実にうるさく落ち着かない所だ。
多分この家は低い場所にある。それは仄かに土の香りがするからで、ちらちら遠くに見える景色に木の幹や緑が確認できるから。あきらかに高い場所にあるうちとは様子が違う。
妙に気になるのはニオイ。消えることなくずっとずっと何かを燃やしているような煙臭いニオイがする。あまりに強いニオイだから、身体に染み付き取れなくなりそうで嫌だった。嫌な煙たさだった。
これだけでも分かる、ここは私のうちとはまったく正反対‥そんな場所に馴染めというのが無理な話。
人の出入りが多い家だけどその隙をついて逃げ出そう‥外なんかひとりで出歩いたことないけれど何とかなる。きっと大丈夫。お父さんのところに戻ることを思えばきっと耐えられる。私は頑張れる。

そう決心を固めた頃、狭い視界に影が落ち
「なぁ…いい加減出てきてくれないか」
連れ出された時に聞いた声とは全然違う、低く、落ち着いた声が聞こえた。
気が付けば人の出入りもなくなり、空気の冷たさから夜が来たのだと分かる。
静かな室内に響く
「キミも突然のことで驚いただろうし、警戒する気持ちは分かる。だが、信じてくれないか?私たちはキミに危害は加えない。むしろ息子の忘れ形見だと大切にしたい」
穏やかな声色。
スゴク‥丁寧に話しかけられたのだと思う。お父さんが私に語りかけるのと同じくらい‥言葉にあたたかさがあった。
所々意味の分からない単語が気になったけど、言いたいことはなんとなく分かったし、なにより
「息子がキミにしたように‥とは言わないが、可能な限り大切にしたいと思っている。私たちを、信じてそこから出てきて欲しい」
お父さんと似ていた。なんとなく、なのだが雰囲気が‥話し方が‥声の感じが‥お父さんに似ていた。
お父さんではない‥お父さんのものではないのだけれど‥スゴク、近い‥とても、近い…その声はずっとお父さんを呼び続けた私の心を優しく震わせる。
少しでも、お父さんを感じさせるものが欲しかったから
たとえカケラでも、お父さんを近くに感じたかったから
迷い、迷いながら、オズオズと視界に落ちた影に私は這い寄った。

大きな手の平はお父さんよりもごつごつしていて
姿見も全然違い、お父さんよりもずっと歳を取っていて
やっぱり全然見たこともない人だった、けど
私の頬を撫でたその手の平の温かさや抱き上げた時感じる安心感とか、なにより、笑顔が…笑顔が…お父さんと同じくらい柔らかく穏やかで…怖いけど、不安だけど、少しくらい信じてもいいかなと思えた。
落ち着いてみれば、私を抱き上げた人の目元はお父さんによく似ていて、その人の後ろで心配そうに私を見ていたもう一人の人の口元もお父さんにそっくりで、常に緊張し力を込めていたしっぽがふにゃり脱力したのがわかる。
不思議だね。全然知らない人たちなのに。私は鼻先をひと舐め、首を傾け瞬きを二つ続けてした。

それから改めて出されたお皿に盛られたごはんはニャンプチゴールドではなかったけれど、ペタンコになったお腹を満たすには充分なものだったと思う。

安心したのだろうか、お腹が膨らむと睡魔が襲ってきてあくびが出た。
それを見た見知らぬ二人はころころと笑い「キミに使ってもらおうと用意したのだ」柔らかなクッションとまあるい形のベッドを差し出す。
少し戸惑ったが怖いことはなさそうだから…ニオイをかぎ形を形を自分好みに整えそこに身体を納める。
また一つ、あくびが漏れ瞼が重く落ちてきた。
今日はここで寝よう…これからのことは起きてから、考えればいいのだから…自分に言い聞かせクッションに身体を預ける。

眠りに落ちるまで…きっと、夢の中でも私は思うだろう。

お父さん、待っててね。
きっとうちに帰るからね。
ちゃんとお父さんのところに帰るから、もう少し、待っててね。
おうちに帰ったら褒めてくれる?
頭をいい子いい子してくれる?
ご褒美にニャンプチゴールドのマグロカニカマを食べさせて。
お父さん、きっと帰るから待っててね。

大好きなお父さんのこと。
沢山甘えること。
そして、ニャンプチゴールドのマグロカニカマのことを。
強く、それだけを思う。




    



2009/4/4
mahiro