Stray Cat




私は猫だ。
マンションの一室に住み、一日のほとんどの時間をソコで過ごす飼い猫の家猫だ。
外見はアッシュグレイの毛色のソリッド・カラー、被毛は短いダブルコート。骨細でしなやかなフォーリンタイプ。
ボイスレスキャットと言われるくらい大人しく、滅多なことでは鳴かない。人見知りはあるが飼い主には従順で頭がいい。
自分自身のことなどよく分からないが私の飼い主、お父さんが誰かにそう言っていたのを覚えているからそうなのだろう。
名前はレイジだが御剣怜侍と言うのが本当の名前だと思う。
記憶に遠いが子猫の頃ゲージと言う狭い小屋に入れられ連れて行かれた消毒くさい家で、お父さんが白い紙切れにそのように書いていたから。だが御剣怜侍と呼ばれることはほとんどなく、大抵の場合「レイジ」と短く呼ばれるだけだからそれでいい。
この名前はお父さんがつけてくれた。響きがよく私はとても気に入っているしこの名前でよかったと思っている。
家族はお父さんと私。
子猫の頃私と同じ容姿をしたお母さんと兄弟に囲まれていたがお父さんに出会い、お父さんが私を手に取り、笑顔で抱きしめてくれた。その日からお母さんや兄弟たちに会っていない。
「この子にするよ」
遠い遠い昔、初めてお父さんの声を聞いた日。
私はお父さんの子供になった。お父さんが私を選び、私もお父さんをお父さんと認識し、それから先同じ空間を共有し同じ時間を過ごした。
お父さんは外にお仕事を持っていて家に居ない時間が多いけど、窓の外が暗くなった頃玄関のドアが開き様子を見に来た私に「ただいま」と言い頬を撫でる。
それからの時間私をお父さんはずっと一緒。「いってくるよ」の言葉が投げかけられるまでずっと一緒。
「いってくるよ」の言葉は正直嫌いだ。「いってくるよ」の言葉の後絶対襲ってくる一人の時間が長く退屈なものだと知っているから。
その長く退屈な時間が我慢できるのは「ただいま」の言葉の後過ごすお父さんとの時間があるから。穏やかでスゴク安心できる時間があるから。
「ただいま」の言葉はお父さんと私の特別な約束のようなもので、それは私とお父さんが家族だから…家族だからかけられる言葉なのだと思う。

お父さんと過ごす時間で一番好きなのは読書だ。
と言っても私は本を読むことが出来ないので読書はお父さんがする。
私は読書するお父さんのひざの上で丸くなりうとうとと浅い眠りに付く。
そんな時間の何が楽しいのか、疑問に思う人が居るだろう。それはきっと知らないのだ。
お父さんの膝の温かさや居心地の良さを知らないからだ。まるで私のために用意されたソファーかベッドのように身体に馴染むあの感覚を知らないからそんなことが言えるのだ。
静かで安らかな時間。ふと、気まぐれに目を開け顎を上げると私の動きに気づいたお父さんが本から目を外し見詰めてくる。
穏やかでどこか懐かしい微笑で。そして片方の手が丸めた背中を撫でる。毛の流れにそって何度も何度も、何度も何度も。
それは子猫の頃お母さんが舌で毛づくろいをしてくれた時のような感じ。くすぐったいけど嫌じゃない、むしろそのくすぐったさが気持ちよくて、もっと撫でて欲しくて前足をひくひく揺らすとお父さんの微笑みは一層濃くなり背中を撫でていた手が顎へと移動する。
こちょこちょと指先が顎の毛を掻き分け皮膚とその下にある骨の間ぐらいを掻く。もう、その時のきもちよさったら表現できないくらいで。気持ちよくてスゴクよくてついつい喉が鳴ってしまうほど。
撫でられてるのは顎なのにしっぽの付け根がむずむずとししっぽの先が無意識に揺れた。揺れて丸まり伸ばす。しっぽのくねくねした動きもゴロゴロなる喉もどうにも止められなく、お父さんが満足するまで続く。まさに至福の時間だ。
どうかね?ここまで言えば私の最も好きな時間が読書だと理解していただけるかね?

その次に好きな時間はニャンプチゴールドの時間だ。
ム、ニャンプチゴールドとはなんだなどと訊くのは誰かね?
ニャンプチゴールドはニャンプチゴールドでしかないだろう。
私の知る中で最も質がよく最も香りがよく最も味のよいニャンプチゴールド。猫の味覚を知り尽くし心行くまで満足させる至高の食べ物の名前。それがニャンプチゴールドなのだ、覚えておきたまえ。
ニャンプチゴールドと言ってもそれは総称で種類はいくつかある。マグロやホタテ、カツオにシラス、ササミ、牛肉等々様々あるが私が最も好んでいるのはフレーク状のマグロにカニカマをミックスしたものだ。何でもミネラルバランスのよい海洋深層水を使った物らしく味はモチロンのこと口当たりも最高の逸品。
お父さんもマグロカニカマの缶を開ける時は嬉しいらしく「レイジの好きなカニカマだぞ〜」とわざわざ鼻先までニャンプチゴールドの缶を寄せ私が鼻をひくつかせるのを満足げに見詰める。
缶を開けてから食事中、食器を隅々までキレイにし食事が済んだ後の前足の先を舐める仕草までじっくり見て行くのだからよほど楽しいのだろう。お父さんも中々酔狂なものだ。
はじめ私がこのマグロカニカマを好んでいるのが嬉しいのかと思ったが、どうやら私が特別うれしそうにしている様子を見るのが楽しいらしい。そんなにがっついていないつもりなのだがやはり他の種類とは明らかに差が出るのだろう…自分では分からないのだが、それでお父さんが楽しいのなら少し気恥ずかしい気もするが私も嬉しい。

私はお父さんが好きだ。
お父さんが楽しそうだと私も楽しいし、お父さんが嬉しいと私も嬉しい。
お父さんの声が好きだったしニオイも好きで、物静かな雰囲気も落ち着いた空気も大好きだ。
私はお父さんに会うべくしてこの世に生まれ、お父さんの傍に在ることが存在する唯一つの理由だと思っている。
一緒に居る時間は私が生きている時間に意味を持たせ、一緒に居られない時は共に居る時間を幸せな時間なのだと自覚するために必要なものなのだと思うことにしていた。そう自分に言い聞かせ窓越しに外の世界を眺める。
退屈そうな世界。見るからに退屈で無価値な世界。視界を横切る鳥や眼下に横たわる道路を通過する車や自転車、人や犬、色や形、動きや行動は其々は異なるけれど私にとっては何の意味もないもの。
時々頭の尖った子供と目が合ったりどこかのご婦人に手を振られたりするけれど、そんなものどうでもいい。退屈しのぎに見詰めるだけで飽きたら窓辺を未練なく後にする。
私はお父さんが「ただいま」と言い玄関のドアをける時をただひたすら待つ。
大好きなお父さんと共に在る為に。
大好きなお父さんと共に在る為に。


私とお父さん、二人で過ごす幸せな時間は長く続く。
長く長く…私が天命を終えるまでずっと変わらず続くものだと信じていた。
信じて疑わなかった。
それが私の生きる意味で生まれた意味なのだから、疑うはずもなかった。

そう、あの時までは…。


それはいつもと変わらない日だった。
いつもと何も変わらない日のはずだった。
あたたかいベッドの中で丸くなる私を起こさないよう、お父さんは身支度を整える。
白いシャツにグレイのネクタイ、黒に近いスーツ、仕事用にしているらしい縁の黒いめがね。革のかばんの中身を確認し足元に目をやる。
そこには当然のように私がいてお父さんの支度する様をじっと見ていた。
「起きたのかね?今、缶詰を開けよう」
穏やかに微笑みかばんのふたを閉めると台所に行き、私専用の食器とニャンプチゴールドの缶詰を持って戻ってくる。
ああ…今日はマグロとカニカマじゃないのだ。少し肩を落とすが食器に入れられたササミとグリーンピースの香りが空っぽの胃袋を刺激してそんなことどうでもよくなった。
食事に夢中になる私のまえに屈み目を細めるお父さん。
とてもとても幸せな時間。
ぺろり、一缶平らげ前足を舐める私を見詰めていたが不意に手を伸ばし首元を撫でる。いや、撫でるというよりも引っ掛けると言ったほうが正しいのか…私の首元に撒きついている革のバンドを指先に引っ掛け指の腹で確かめている。
何だろう…とは思うがお父さんのすることだ。私が嫌がるようなことではないのでさして気にすることはなく、前足を舐め続けていると
「この首輪の大分傷んできたなぁ…今度の休みに新しいものを買ってこよう」
な?レイジ
と言われた。
首輪。
私の首には皮で出来た細めのバンドが巻かれている。
色は赤、らしいが私の世界に色彩は存在しないのでお父さんの受け売りだ。
私がお父さんの子供になって直ぐ買い与えられ、それからずっと身に着けているソレは、成長と共に穴が一つ二つと広げられていったがきつく締められているわけではなくゆるゆるで隙間が空いている。
何のためにこれをするのか分からないがこの首輪を初めてつけた時
「やはりレイジには赤が似合う」
と誇らしげにお父さんが言うから、ソレが褒め言葉なのだと分かった。分かって私もスゴク誇らしい気持ちになった。
「その首輪の裏にはレイジの名前が入っているから迷子になっても大丈夫だぞ」
軽く笑いながらお父さんは私の頭を撫でたけど、そんなことあるはずがない。迷子というのは帰る場所や帰る道が分からなくなって途方に暮れることなのだろう?
この私が?この私が帰る場所が分からなくなると?帰る道を見失うと?
私の帰る場所はお父さんの膝の上。分からなく、見失うはずがない、この私がお父さんを…。
少し、いや、とても不満だった、けれどお父さんが私だけのために用意してくれたソレは私がお父さんの子供の証…そう、そう思えば渋々でも納得した。
「ただいま」と同じ私がお父さんと共に在る特別な約束なのだ。
だから古くなっても傷んでも私はこの首輪が好きでこれを大切に思う…のに…。
でも…きっと、お父さんが用意する新しい首輪を見たら、それをまた首に巻いてもらい撫でてもらったら、このもやもやした気持ちなど吹き飛ぶのだろう。新しい首輪が何色かは知らないけれど「似合う」と言われれば誇らしい気持ちになるだろう。
お父さんが私のためにしてくれることは全て、全て、喜びで、新しい首輪もまた特別な約束の証なのだから。
そうしてお父さんは「いってくるよ」と言い残し玄関のドアを開けた。
ひとり残される私はお父さんが「ただいま」と返ってくるまで退屈な時間を過ごす。
いつもと何も変わらない時間。
いつもと何も変わらない日。
私はただひたすらお父さんを待つ。特別な約束を信じて、待つ。


夜になったようだ。
お父さんを待つ。
お腹が空いた。
お父さんを待つ。
外が明るくなってきたよ。
お父さんはまだかな。
ニャンプチゴールドが食べたい。
お父さんはまだかな。
今日は雨なんだね。
おねだりしたらマグロとカニカマ味が食べれるかなぁ。
お父さん、まだかなぁ。
あ、雨が止んだよ。月がまん丸でキレイだよ。
お父さん、この月見てるかなぁ。
お腹、空いたなぁ……

お父さん、お父さんの「ただいま」が聞きたいよう。
ねぇ、お父さん

お父さん……




窓から差し込む明るい日差しを避けるように私は丸めた背中を更に丸くしソファーに顔を埋めた。
お父さんの「ただいま」を待ちながら浅い眠りを繰り返し、お腹がすいたら汲み置きしてある水を舐める。
私の頭の中はお父さんのこととニャンプチゴールドのことで埋め尽くされ、外が暗くなろうが明るくなろうがどうでもよかった。
静かな部屋。あまりに静か過ぎて玄関のドアの向こう側の音までよく聞こえたけれど、お父さんの足音と思える音はしなかった。
不意に、ドアノブが回る音がして背中の毛が逆立つ。むくりと首を持ち上げたがそれ以上動くことが出来ない。ただ、玄関の方からする物音に注意を向けいぶかしむばかり。
だって、お父さんの足音などしなかったのだ。
お父さんのニオイなどしなかったのだ。
お父さんの息遣いも気配も何一つ感じられず、まったく知らない雑音だけが静かだった室内を乱してゆく。
どうしよう…どこかに隠れようか…どこ、どこがいい?ソファーの後ろ?
緊張に毛先がぴりぴり痛み、得体の知れない恐怖に追い立てられながらソファーを飛び降りた瞬間
「あぁ、いたいた、猫ちゃん。来るのが遅くなってゴメンナサイね…お腹が空いているでしょ?」
聞き覚えもない声で見ず知らずの誰かがズカズカと無遠慮に室内を踏み荒らし私に近づいてきた。
私は知らない。
こんな人間を知らない。
得体の知れない恐怖が姿を成し私に迫る。

お父さん、お父さん、
ねぇ、こんな時私はどうしたらいい?

差し伸べられた手の平がとても危険なもののように思え後ずさりながら私はひたすら心の中でお父さんを呼んだ。
お父さんを呼び、お父さんの姿を必死で探した。





  



2009/4/1
mahiro