「………何がだ」
キスマークにタオルをあてながら昨晩の情事の詳細を頭の中でなぞらえる。その思考のカケラをうっかりぼくは口にしたようで、御剣は怪訝そうな表情で振り返り訊いてきた。
「え、あ…聞こえちゃった?」
何というか、バツが悪い。
叱られて反省してると言っておきながらエッチなことを考えてた。考えながらキスマークを最も純粋な愛情と結論付け満足しちゃったから。
「耳元で話されればイヤでも聞こえる」
「ひ、独り言だから…どうってこと無い呟きだから…」
「………そう、か‥」
追求されてないのに逃げ道が完全に塞がれた思い。
御剣は軽く頷いただけで詮索してないのに、物言わぬ瞳でじっと見詰められると正直に言わなきゃいけない気がするのは何故だろう。
「いや‥その‥この、ね‥キスマークは、君を好きで好きで堪んない、ぼくの純粋な愛情が行き過ぎた結果なんだと思ったり‥なんかして‥」
怒られるのを覚悟でシドロモドロ答えちゃうぼくって、弱いなぁ。
「‥そうなのかね?」
いや、だから、そんな風に見詰められると逃げらんないじゃん。
「う、うん‥愛情‥スキスキスキスキって一億万回唱えても全然足りないくらいの、愛情」
「嫌がらせではなく?」
「嫌がらせ?!何で?!子供じゃないんだから」
ちょっと待ってよ。もしかして今までのキスマークを全部嫌がらせと取ってたなんてこと‥ないよね?
それは‥あんまりにも‥‥ぼくがカワイソウじゃない?
「君が何度注意してもつけるから、そうなのだと思ったのだ」
多分、ぼくは悲壮感いっぱいの表情をしていたんだろう。今度は御剣がバツ悪そうに俯き、少しだけ口を尖らせふてくされた風にボソボソと呟く。
これはぼくが悪いのかな?誤解させちゃうくらいキスマークをつけちゃったぼくだけが悪いのかなぁ?
なんかさ、根本的なところですれ違っちゃってたってか、あらぬ方向へ向いてたってか‥‥。ぼ、ぼくの可愛い人は認知してた以上、予想外のところでその天然っぷりを発揮してくれちゃうんだって思い知らされたよ。
軌道修正できる機会があって良かったぁ‥。
反省する気持ちは何処へやら、ぼくは知らないうちに着せられてた汚名を返上できたと大きく安堵の息を吐いた。
「にしても、キスマークがガキくさい表現法なのは確かだから、つけないよう気をつけるよ。伝えたくなったらちゃんと言葉にする。それなら誤解無くぼくの想いが君に届くからね」
やれやれ、これで一件落着。ぼくは晴れやかな笑顔を御剣に向けた。
そうそう、首筋のキスマークは‥
「うーん、薄くなったような気がするけど‥取りあえずこの上からヒラヒラつけて出勤する?薬局が開いたらぼくが内出血用の軟膏買って、御剣んトコ届けに行くよ」
何せ時間が無いから、完全に消えないのはしょうがない。これからのことを大まかに説明し、わかった?確認の為御剣の顔を覗き込む。
直ぐに、返事が返ってくると思ったんだ。返事じゃなくても、頷くとかさ、聞いてましたの合図をしてくれると思ったんだ…けど。
覗き込んだ御剣の顔はいつも通り可愛くて見惚れちゃう…けど。
どこか遠くを見ているような瞳に何故かざわざわと胸の奥がざわめいた。
いやな予感。
あくまで勘でしかないけど…本当に微妙な違和感でしかないけど…こういう胸のざわめきは見過ごせない何かがある証拠。
「御剣?」
気のせいならいいのだけれど。小声で窺うように呼びかけると御剣はどこか遠くに向かってた視線をぎゅっと絞り、何事も無かったような口調で分かったと言い、薄く微笑んだ。


ああ‥なんて キレイな 微笑み。
一瞬、惚けてしまった僕だけど消えない胸の奥がざわめく感覚に眉根を寄せた。
ぼくは御剣のどんな表情も好きで、どんな表情も素敵だと思うけど、例外的に見たくない表情がある。見ないですめばいいと思う…その数少ない表情の一つがこのキレイ過ぎる微笑だ。


やめときゃいいのに。
御剣が分かったって言ったんだから納得しとけばいいのに。
「なんか‥違うこと考えたでしょ、今」
穏やかな朝の風景をこれ以上乱したくなきゃ追求しなきゃいいのに
「何考えたのか教えてよ」
追い縋るようにして訊ねるぼくは、こと、御剣に関して妥協しない主義らしい。
御剣に対してのぼくの関わり方って一見自虐的で自傷行為にも似てる。負傷覚悟での突入って意味で。
そこでやめときゃいいのにってラインを超えて踏み込もうとするのはおせっかいじゃなくて、向こう見ずとかじゃなくて、失わないための執念だと思ってくれたらいいんじゃないかな?
「‥何も、わざわざ口にするようなことは何も考えていない」
「嘘。考えてた‥それもあんまり好い感じのことじゃないことを」
御剣の返答から間髪入れず追求するあたり、僕の執念は執拗だ。
「困らせたいわけじゃないんだよ?言及して打ち負かしたいんじゃなくて、君が不安に思うことをなくしたいんだ。不安じゃなくて不満かもしれないけど、胸の奥にしまわれちゃって蓄積されるくらいなら今ここできちんと話して欲しいんだ」
例えば不安でも、もしかしたらの不満でも御剣の胸の奥に作られたポイントカードに知らず知らずに捺印され、いつも間にかポイント満タン。ポイントバックの景品はぼくたちの関係解消‥なんてあるかもしれないじゃん?ないとは言い切れないでしょ?
分かりやすい例えをあげてみたけど、笑えない。あまりに笑えない例えで顔が引きつってきたよ。
宥めるみたいな優しい口調で、それでいて些細な変化も見落とさないよう瞬きもせず、明らかに戸惑う君を見詰め
「君がぼくを信じてくれるなら、聞かせてくれない?何考えてたの?」
御剣とぼく自身、両方の逃げ道を改めて問うことでおもむろに閉ざした。

「君は考えすぎだと笑うかもしれない」
「少し、感傷的になっただけなのだよ」
御剣から本音を聞きだすのは中々難しい。縦社会にどっぷり浸ったぼくの恋人は建前と本音を良くわきまえていて、黙する事で場が保てるなら貝のように 口を噤む。権力に慣らされてるとは言わないけど若気の至りで猪突猛進なんて無謀なことはしないで手段を講じるしたたかさを備えていた。
それでも同世代の誼、親友としてのスタンス、恋人同士の警戒網の薄さでポロリと本音を零すこともあって、状況は大きく二分される。
激昂した上での暴露。観念した末の吐露。そんなところかな?
だからぼくはその時々状況判断で態度とか返答を変えていて、失敗することの多いけど上手く嵌ればかなり貴重な本音を聞けたりもする。一か八かの選択って時もあるから多用はできないけど、しなきゃいけない時もあって、今がまさにその時ってヤツで‥。
「根拠もないのに悲観的になりすぎだと呆れてしまうくらい他愛もないことだ」
「本当に、具にもつかないことだから」
なんだかんだと理由をつけ追及の手を逃れようとする御剣の台詞一つ一つにきちんと頷き、宥める仕草で頬や髪を撫でた。そして一言、心を込めて返事をする。
わかってる。 笑ったりなんかしない。 些細なことでも教えて。 どんなことでも受け止めるよ。こんな風にね。
ぼくは丁寧に御剣を愛したかったし、それを自覚して欲しいといつも思っている。大切に、丁重に、心を尽くして愛したいんだ。
だから君の心の一番柔らかな部分をぼくに見せて‥。


伏せた睫毛にかかる前髪を指先で撫で鼻梁に優しくキスをし
「感傷的になった原因は?」
訊ねれば、おずおずとヒラヒラ不在の首筋に手が当てられた。いつもより露になる首筋には覆われるべきソレ。白い首筋に散る赤い情痕。
「えっと…勘違いじゃなければ、ぼくのつけたキスマーク。ソレが…原因?」
まあ、さっきからの展開を見れば気づいてもよさそうなんだけど…だって、ソレに対しては憤慨とか激怒とか遺憾とかそっち系の感情こそあれ、感傷的とか悲観的とか…どういうことだ?誤解は解いたはずだし、何を憂うことがある?
どう切り返したものかと半開きになった口を閉じないでいたら
「惜しくなってしまったのだ‥」
少しだけ表情を緩め御剣は言い
「惜しい……って、消えなければいいってこと?見えそうな場所にあったら困るんじゃ…」
「…君の……想いなのだろう?これは…」
そしてまたぼくの目の前で、キレイにキレイに、微笑む。
ぼくは言った。
君を好きで好きで堪んないぼくの純粋な愛情、スキスキスキスキって一億万回唱えても全然足りないくらいの愛情、そう例えた。
それは間違いではなかったし、行為を正当化するための言い訳でもあったけれどだからって‥だからって‥そんな、そんな‥。
「そ、そうだけど…ぼくの気持ちだって言ったけどっ‥!」
「うム、分かっている」
「分かってるって‥違っ‥いや、そうなんだけどそうじゃなくてっ!」
ざわめくどころかぎゅっと締め付けられるような胸の痛みがぼくを襲った。酷い、痛みと、喩えようもないほどの切なさが胸部を押し潰し呼吸さえ儘ならない。
ぼくは分かってしまった。知っているから分かってしまった。
御剣の心の一番柔らかな部分を占める虚無の姿を…
笑顔の裏に潜む諦めを…
過去になぞらえ戒める気持ちを…
神様なんてこの世にいるのか疑うぼくだけど、御剣はもっと絶望的。神様なんてこの世にいないと本気で思ってる。
永遠なんて俄かに信じられないぼくだけど、御剣の場合はもっと深刻。永遠など夢想家の夢物語だと思っている。
神と崇められた太陽、永久に輝き続ける光りの玉にも数十億年先にはなるが寿命が尽きる時が来るのだと
神と祈りを捧げられた月、永劫この地球に寄り添い続けるはずの天球が毎年数センチづつ離れているのだと
どこか懐古的に希望から目を逸らし、正当な欲求すら成さない君がいる。
今でこそ確かに思うことができる愛でも時が過ぎればいつか薄らぐ、永遠などこの世に何一つありはしない。やがて薄らぎ、まるで何もなかったかのように無へと還る。情痕そのままに

ぼくの愛情なんか白鴉の羽ばたき一つで掻き消されるものだと疑わない君が居る――



「あーもう、君ってムズカシイ子だなぁ」
ハア、とぼくは溜め息を吐くと年長者的な笑顔を作り、ポンポンと御剣の頭で手の平を弾ませる。
君を好きになった瞬間からぼくは荒波を越える航海士になった。どんな困難にも負けない決意と信念を抱き心の羅針盤が指す一点、君だけを目指し時を旅した。ぼくが君を好きになるのは宿命、君を求めるのは本能、確かな確信を持って今に至るわけだからムズカシイ子だってぼくの気持ちが揺らぐことはない、けどさぁ‥
「ム‥いきなり何だ」
「ん?いや、正直な感想。ほら、手のかかる子ほど可愛いって言うじゃん?これもまた愛情表現の一種だから」
零すくらいいいでしょ?それに、イイ子イイ子したい気分なんだって。
「だっ、だいたい、大したことではないとあれほど言ったのに、しつこく訊ねたのはキサマの方だろう。仕方ないと答えてみれば子供扱いしだすし‥‥、ええい、この手、鬱陶しい!」
気分どころか実際御剣の頭を撫でている手を思いっきり叩き落とし眉間に深いしわを刻む御剣に、喉元まで出掛かっている笑いを浴びせたら当分口なんて利いてもらえそうにないから堪えた。
「いい傾向じゃないかな…うん、いい傾向」
御剣が悲観的に捉えたことにぼくはわりと好ましい兆候を見たからで、それを口にする。
「いい、傾向?」
「うん、だって君、永遠に続くものとか想いとか信じないでしょ?ぼくがいくら証明しようとしたって一時的なものだからって割り切ってる節があるし…でも、惜しむってことは少なからず存在を認めなければできないことだし。だからいい傾向なんだと思うよ」
分かるかな?分かってくれるかな?
「ただの鬱血にぼくの想いがこめられてるって認めてくれたんでしょ?目で見て確認できるものにでも重ね、惜しんでくれた。信じ始めたって、ぼくは解釈したんだけど…違うかな?」
「…ム、ムムム…」
考えていたこと全てを話したわけじゃないから分かりにくい部分のあるのだろう(それに全部を話したところで根幹の部分て認めるの、勇気がいるし)考え込んでしまった御剣の肩口に顔を寄せ
「これがついてる間、ぼくの愛情を信じてくれるならもっと濃くしようか?」
整髪料の香りが伝う首筋にフッと息を吹きかける。
これ、はキスマーク。濃くするにはもう一度吸い付けばいい。
「調子に乗るな、バカモノ!」
ゴツ、鈍い音がしたのは裏拳がコメカミに飛んできたからで
「イテッ、も〜、恥ずかしがりやさんなんだからぁ」
じわっと広がる痛みをさすりながら半笑をぼくは返した。
ぼくの冗談を生真面目に受け慌てる、そんな御剣の分かりやすいく可愛い反応が見たかったんだからいいんだけどね。これも愛の交流なんで。
「そこにはつけないよう気をつけるって約束したもんね。じゃあさ、見えないとこ…二の腕の内側とかわき腹とか内腿あたりなんかどう?」
「…それは、鬱血痕の話か?ならば遠慮する。常備して喜ぶ年でもない」
「ああ、そうか…頻繁に確認できる場所じゃなきゃ意味ないもんね。うーん、普段人目につかなくて御剣がしょっちゅう確認できるところ…あ、ペニスなんてどう?」
「君は馬鹿か?」
「だってそこなら人目につかないし一日に何回も確認できるわけじゃん?トイレ行く度さ。でも、ペニスにキスマークってつけれるのかなぁ…ちょっと試してみようよ」
言い終わるか終わらないかの間、視界がスパークし暗転したのは腹部に御剣の拳がめり込んだからで、床に伏し激痛に耐えるぼくの頭上から
「暫くそこで頭を冷やせ」
怒りに震える短い叱責が落とされた。
ぼくの可愛い人は冗談が通じません。いや、半分…八割…本気だったから笑って許してはくれないだろうけど、受身取ってないところへのボディーブローはキツイです、はい。
ぼくが腹を抱えて付している間に御剣はさっさと身支度を整え出勤態勢。チャリン、車のキーを掴む音がして
「馳走になった」
お泊りの礼を告げ玄関へと向かう。そういうところは律儀なんだよね。
「み、御剣…」
苦しげなぼくの呼びかけに答えるのは靴を履く音だけ。やっぱりこんな終わり方かぁとガックリするんだけど(調子に乗ったぼくの責任なんだけどね!)
「軟膏、届けに行くから覚えておいてねっ」
必死の叫びに一瞬動きが止まり
「好きにしたまえ」
返事が返ってくるんだからいいとしよう。
ぼくの愛故の失言。甘受してくれるほどの親愛をこれからもっと確かに築いていかなきゃなぁ…。遠くに車のエンジン音を聞きながらまた一つ増えた今後の課題にぼくは浅く笑う。

失った希望。
願うことを忘れた心。
懐疑的な信頼。
過去に負った傷は完治せず頻繁に疼く。
永遠を信じない彼の姿勢は極端なほど求心的。
極端すぎるリアリズム。揺るがない観念。否定しないけど、そこに例外としてぼくの君に対する愛情と言う項目を加えて欲しい。
それだけは普遍的で永続的だって信じて欲しい。
信じることは怖いよね。否、信じて失った時のことを思うと怖いよね。
手を取るよ。背中もさする。抱きしめて君の凍えた心を暖める。髪を梳き、硬く閉じた瞼に口付け、子守唄を歌う。怖くないよ?ぼくは安全だよ?何度も繰り返し希望を光りに変えて君に贈る。恐怖に打ち勝つだけの愛情を君に注ぐ。
消えてしまうキスマークで足りないなもっと他のもの。リング系の形あるものでも不安なら代えの利かないもの。臓器を交換しようか?血液をぼくのものと入れ替えようか?それなら常に君の中に在り生きてる限り確認できるでしょう?
そんなことを真剣に考えちゃうくらいぼくは君を愛してるのに…君の信頼を得たいのに…。
君の中に眠る信じたいと願う気持ち…それを浪漫とするならばぼくに託してくれないかい?
ぼくに全てを預けて
丁寧に君を愛すから

恐怖さえ忘れるほど愛すから…


鈍く痛む腹をさすりながらひとり残された部屋に仰向けになりぼくは目を閉じる。
真っ白な天井の代わりに広がるほの暗い闇。
反芻する昨夜からの出来事、君の台詞。
『惜しくなってしまったのだ‥』『…君の……想いなのだろう?これは…』
同時に湧いた痛いほどの切なさと狂うほどのいとおしさ。
「御剣に、もっと分かってもらわなくちゃ」
一層強くなる想いがまた一つ胸の内に蓄えられ、それがぼくの生きる原動力となる。
「………やっべ、遅刻!」
暫く考え込んでいたぼくだったけどようやく現実的な危機ってのを自覚し跳ね起きた。腹部の痛みに構ってられない…ぼくの生きる原動力は御剣でも生活するためには働かなきゃ!後片付けは帰ってから!大慌てでジャケットを羽織ると靴の踵を踏みそうになりながら家を飛び出る。
本当に慌しい朝の風景。
目に痛い朝日の向こう側に白鴉が飛び立つ姿が映り、ふと過ぎる御剣のキレイすぎる微笑。
「薬局、軟膏、忘れないようにしなきゃ」
挑むように呟いてぼくは自転車のペダルをこぐ足に力を入れた。




ねえ、怖がらないで信じてよ。

君の中に眠る浪漫をぼくに託してくれないかい?





おしまいv

  



2008/11/25.27
mahiro