永遠を信じない彼の姿勢は極端なほど求心的。
希望のきの字すらない、悲観的とも取れるリアリズムをぼくは理解してるつもりだけどちょっとぐらい夢を見たっていいと思う。
盲目になれとは言わないけれど何事にも例外があるんだって妥協してもいいんじゃない?
哀しいとは思わないけれど、切ないとも思わないけど、もっと信じて欲しい。君の揺るがない観念の中、ぼくとのことだけは…ぼくの想いだけは…君の思い描く世界の外側にあり普遍的だって解って欲しい。
表情一つ変えないで、瞳を僅かにも揺らさず、淡々とした口調で言葉を紡ぎながら、胸の奥で泣かないで…ぼくの可愛い人。
幸せを掴むはずの手の平を常に開いたまま弛緩した両の腕。垂直に立ち、垂天を食い入るように凝視し、一見何でもないように凛と振舞いながらも足元に伸びる影を振りほどけないでいる。
ねえ、怖がらないで信じてよ。

君の中に眠る浪漫をぼくに託してくれないかい?



A Little Romance



チン!トースターの甲高い音がキッチンに響き、フライパンの上ではジュージューと香ばしい匂いを放ちながら油がはねる。
サラダボウルには千切ったレタスとぶつ切りのトマト。カリカリベーコンとイタリアンドレッシングを中々お洒落に纏い彩りよく食卓を飾る。
ダイニングテーブルなんて洒落たものはないからコタツがぼくたちの食卓。流石にコタツ布団は押入れに仕舞ってあるけど、敷きっぱなしのラグに季節なんて関係ない。トーストとマーガリン。そして、今できたばかりの目玉焼きを真っ白い皿、2枚に選り分け
「御剣ー、ごはんできたよーっ」
ちょっとばかり弾んだ声で洗面所に居る御剣に声をかけた。
ああ、これぞぼくの夢見た朝の風景。
新婚家庭のソレじゃないけど、サンサンと窓から差し込む朝日。時計の針は出勤時間にまだ遠く、こうしてゆっくり朝食の支度なんかして、可愛い人が身支度を整えながら顔を出す。おはようのキスは既にベッドで済ませたけれど出勤前にもう一度ぐらいしておきたいと期待に胸を膨らませキッチンを後にする。
「みつるぎー?」
皿を手にしながらもう一度、夢にまで見た朝の風景に絶対欠かせない人を呼ぶと洗面所から真っ白なシャツをきっちり着こなした彼が姿を現した。
起きぬけの乱れた髪はヘアワックスで整えられ眠気が残っていた目元にはいつも通り精悍さが甦る。
凛々しい君は勿論好きだけど、トロンとした眼で幼い表情を見せる君も好きなんだ…少し前の記憶を反芻し名残惜しんで微笑んでみるけど、切れ長でシャープな目で見詰められればどっちの君も甲乙付け難く大好きなんだと誰に自慢するわけではないけど誇らしく思っていると
「成歩堂…キサマ‥」
腹の底で渦巻くような低い声で幸せな気分に浸ってるぼくの名前を読んだ。
あれ?あれ?精悍な表情とかシャープな目元はいつも以上に鋭くない?よくよく見れば眉間のヒビだって深いし意志の強そうな眉は吊り上るを通り越して反り上がってるし…目を細めればオドロオドロシイオーラが全身から滲んでる。
なんか、やばくない?
新婚家庭のソレどころじゃなくない?
ぼく、なんかやったかなぁ…起床から今に至るまでのアレやコレを瞬時に思い出してみるけど心当たりが無いんですけど。
御剣だって洗面所に行くまでは機嫌悪くなかったはずで、ぼくたちはよく衝突しあうけど底冷えしそうな怒り方ってあんまり無くて清々しい朝の光景が一転して嵐の予感。
何とかならないのかなぁ…爆発する前に諌めることができないのかなぁ…身構えながらぐるぐると思考をめぐらせ
「朝食はサラダとパンでいいよね?ほら、目玉焼きもいい感じに焼けたでしょ?」
何食わぬ顔で一番手近にあるものを掲げて見せた。
「……ム」
広がった白身にまあるく鮮やかな色をした黄身。ほかほか湯気も立ち、単純でも起きぬけの空っぽの胃には中々どうして魅力的。
「片面焼きでよかったかなぁ…両面焼きの方が好みだったら焼き直すけど?」
ニッカリ笑顔は実のところ計算。
片面両面を確認したのは御剣が片面焼きの目玉焼きにある種憧れを抱いてると知ってるから。
才能と言えるほど不器用なぼくの可愛い人は黄身を壊さず目玉焼きを作ることができない。以前一度だけぼくに作ってくれたんだけど、その時の目玉焼きは残念なことに小さな日輪は崩れ割れ、真っ白な白身に黄色い湖を広げていた。
”10回に一度ぐらいは成功するのだよ?”唇を引き結びながら残念な目玉焼きについて語ったんだけど、その時の様子が折鶴について語ったいつかの状況と重なって、本当にカワイイ奴だよなぁと、胸に広がるいとおしさを実感したのを覚えている。
だから、怒りの矛先を変えるに立派な円を残す目玉焼きは中々良いアイティムなワケで
「い、いや‥そのままでいい」
ぼくを引き止める御剣の少し慌てた様子に”やった”と心の中でガッツポーズをした。
「そのままで?遠慮はいらないよ?」
「‥‥そのままが、いい」
「そお?よかった、ほら、冷めないうちに食べちゃおう」
手にした二枚の皿から湯気を棚引かせぼくは御剣をコタツ机に誘導する。
簡単に納まりきらないだろう怒りでも空腹の前では威力は半減。憮然とした面持ちながらも御剣は導かれるままに朝食の席に着き
「野菜ジュースでよかったかな?」
無言で頷く御剣のコップにオレンジがかった液体を注ぐ。
いただきますをしちゃえばこっちのものでしょ?
御剣は食事中、あまり声を荒げるようなことはしない。それはマナーを徹底しているようで本当は天性の指先の不器用さを持ってるが故、食事をするという行為に集中しているからで、クールダウンにはもってこいの状況。現に今も、目玉焼きと一緒に焼いたベーコンを切ろうとして静かに奮闘している。
覚束無いような危なっかしいようなフォークの使い方をパンをかじりながら見詰めているぼくの方がドキドキハラハラしちゃうわけで、こんなんで検事局やその関係の上役の人達との会食に身が入るのかと、余計な心配までしてしまう。
きっと、アレだね。上役の人達も今のぼくと同じ気持ちなんだろうなぁ。会話しながらもチラチラ御剣に視線を向けてさ、頑張れとかもう少しとか心の中で応援なんかしちゃうんだ。うっかりナイフが皿の上を滑った時には小さく悲鳴を上げ会話も止まり、料理が口に入った瞬間安堵の息を漏らし途切れた会話を再開させちゃったりしてさ…。微笑ましい様子を一同揃って見守っちゃってるんだよ。……うん、今のぼくと同じ状況なんだってことぐらい手に取るようにわかる。
のくせ、御剣は自分の行動一つ一つが周りにどんな影響を与えるか分からないまんまなんだ。
そう考えるとムカムカしてこない?
御剣の天然なところとか天性の不器用さにじゃないよ?それはある意味神様が御剣に与えたギフトだと思うし、魅力の一つだと思うから。
ムカムカの原因は言わずと知れた、妬きもちってヤツ?ぼくの可愛い人をあったかい気持ちで眺めることのできる立場の人達への嫉妬だ。チクショウ。
咀嚼したまま飲み込めないでいる食パンを牛乳で一気に流し込んですっきりした咥内とは裏腹に、胸の内の晴れないモヤモヤ。ちょっとしたことでささくれそうになる心を和ませてくれるのはモヤモヤの根本原因、目の前の可愛い人なんだからどうしようもない。
喧嘩でも良いさ。イチャイチャならなおのこと、その他大勢がどう足掻いたって介入できない特別な関係のぼくら。その自覚とか証明とかがぼくを幸せな心地にしてくれるんだから。
ちょっとの時間で気持ちが浮き沈みするぼくだけどヤキモチを妬くことは正当な関係を表すことでもあるって知ってるから、心当たりの無い怒りだって受け止めるよ?覚悟を決めて
「あのさ、さっきぼくに何か言いかけただろ?アレって何?」
藪を突付いて蛇でも出しちゃうよ。そうさ、マムシだってコブラだってドンと来い!
何があったってぼくたちの関係は終ったりしない…少なくとも、ぼくは終らせたりしないもんね!
確かな決意を込めた眼差しで御剣を見る。

「……食事中に話すようなことではない」
一瞬、何事かという表情をした御剣は”ああ…”と軽く頷くと短く返事をしてベーコンを口にして黙ってしまった。
まあ、分かってたことだけど…いつか来ることなら早い方が良いじゃん?今なら嵐に備えて、の食事ってものがあるし、なにより
「ぼくもそう思うけど、ぼくたち二人とも今日休みじゃないでしょ。帰宅時間も揃うか怪しいし、次に会えるのいつかわかんないし、言える時にそーゆーのは言った方がいいんじゃないかなぁ。有耶無耶のまますれ違っちゃうの、ぼくは嫌だ。君だってモヤモヤした気持ちで一日過ごしたくないだろ?思うことがあるならはっきり言って、解決できるならそれに越したこと無いじゃん」
多分、ぼくとしたら真っ当な言い分。それも、かなり前向きなこと。
ぼくたちの関係は何があっても壊れたりしない、絶対の自信あっての提言。
その辺、御剣にも伝わってるのか「それは…そう、だが……」渋い表情で言葉を詰まらせた。
「何?何だった?」
なーんか、考えちゃってるなーと思いつつ、突付いてみると
「少し、待ちたまえ」
きゅっと口を引き結び、止まっていたフォークを動かし始める。
見詰めるぼくの先では、あからさまに急いで食事をする御剣。相変わらず器用とは言えないフォーク捌きといつもの何倍速かの咀嚼。サクサクと食パンをテンポよくかじり、レタスとトマトを一緒に突き刺し口へと運ぶ。
律儀って言うのか、怒りを再熱させてるのか、勢い任せの光景に込み上げてくる笑いをかみ殺すのにぼくは必死。時折咽ながら来たるべき時に備え朝食をたいらげようとする。
あーもう、こーゆーところがほんと、カワイイんだっつの。
御剣と一緒にいる時間、ぼくは何度心の中でカワイイを連発すれば気が済むんだろう。そして、御剣のいない時間、記憶の引き出しパンパンに詰まった光景を引っ張り出して思い出し笑いを浮かべれば済むんだろう。
ぼくの良き理解者の一人、真宵ちゃんが”なるほどくんは思い出し笑いの天才だね!幸せそうで何よりだけどさぁ‥あたしのいないところでソレやったら変質者で通報されるか職務質問されちゃうから気をつけてね!”って、忠告してくれるんだけどぼくだけが悪いんじゃないと思うんだ。
さっきも思ったけど、ぼくを変質者にする原因は御剣のその可愛さにあるんだよ。多分、きっと、御剣がいなければぼくは普通の人間だったはず。いやいや、僕自身はいつだって普通の人間、常人中の常人だと思ってるよ?まあ、その辺はぼくの周りの人との認識の差なんだろうケド、少なくともキモイとか怖いとか謂れの無い中傷を受けなかっただろうし、明らかにその手の感情を込めた視線だって向けられなかったはず。
……あ、やっぱ、今のナシ。その仮定はナンセンス。
御剣がいるからぼくはココにいる。ぼくがいるから御剣はここにいる。……後者はあくまでぼくの希望だけど、結論とすれば何を言われても、どんな視線を向けられてもぼくはぼく。御剣をいとおしいと心から想ってる成歩堂龍一でしかない。
……でしょ?!
うん!鼻息荒く頷いたのと御剣が野菜ジュースを飲み干したコップを机に叩きつけたのとほぼ同時。
「成歩堂!」
「‥ん?」
間隔をあけたことで直情的な感情とは違った憤りに声を張り、鋭利な視線をぼくに向ける。
パリパリ音を立てレタスを咀嚼していたぼくは緊張感無く瞬きを一つして、少しだけ姿勢を正した。
鷹揚な気持ちでいられるのは確信と自信を胸の内で蓄えたからで、どんな事態になろうとまあるく収まる気がする。
「私は常々君に理由も込みで注意を促し、再三に亘って警告もしてきた。最近の君はそれをやっと理解してくれていたと思っていたのだが残念なことにそれは大きな勘違いだったようだ」
注意、警告?ぼくが理解して、御剣が勘違いをした?
御剣が置いてくれる布石には仰々しい言葉が並ぶけど、肝心要のキーワードが抜けている。再三警告を受けるようなことって、どれのことだろう?漠然とした言い方じゃあ心当たりがありすぎていまいちピンとこないのはぼくの日ごろの行いに問題ある所為?
「えーと…御剣‥申し訳ないんだけど、もう少し分かりやすく言ってくれると有り難いかなぁ…なんて…」
察しが悪くてごめん。歯切れが悪くてごめん。それってどれ?なんて思っちゃってごめん。
薄い笑いの中三回ぐらい手を合わせぼくは首を傾げた。
まあ、一から十まで理由がわかってる御剣にしてみればぼくの反応はヒドク苛つくものらしく、吊り上った眉の端を細かく震わせ一呼吸置くと
「鏡を見て私は愕然とした!これは、何だ!」
実に潔く、いやいや…一目瞭然、言い逃れもできない証拠をバーンと‥バーンと‥突き付けてくれた。

何だと問われれば
「あ、あ〜〜…キスマーク、だね」
それが実質的、正確な解答?
「バカモノ!そんなことを訊いているのではない!再三注意したにもかかわらず何故、こんな目立つ場所につけるのだ!」
そして、ぼくの間の抜けた回答が火に油を注いじゃうのもよーく分かるわけで、御剣は予想通り耳まで赤くして憤慨した。
ごめんねぇ…空気の読めない子で。本日、四度目、ぼくは心の中で手を合わせ
「体位がそうだったから?一番つけやすかったって言うか…唇が丁度当たった場所がそこだったって言うか…吸いたくてどうしようもなくなったからったって言うか、感極まっちゃったんだね。きっと」
確実に空気が読めてないと自覚する答えを再び返した。


真っ白、ハイネックのシャツの襟を引き千切らんばかりに広げているのはぼくの可愛い人。
感情が昂っている所為か耳朶は赤く、顎から首筋までのラインも耳朶に続き薄く紅潮していた。
おなじみの首のヒラヒラはまだそこにないから、いつもよりも首筋が余計に露になり露骨なほど扇情的に見える。
日に焼けていない白い首筋は見せ付ける目的で傾けられ、長くそこを見詰めているとじわり、咥内に生唾が溜まり、無意識にぼくは喉を鳴らした。
艶かしい首筋は制約が最も厳しい場所。
魅惑的はクセに厳重な規制に縛られる箇所。
ハイネックとヒラヒラ、二重に覆われ普段大っぴらに開放される事はないけれど、万が一の事態に備え情事の名残を残してはいけないトコロ。
そんな首筋、うなじともいえるような後方、しかも顔を伏せれば見えちゃうかもしれないギリギリの…。ソコに結構くっきり、赤くうっ血した跡が…。
不謹慎極まりないことですが…こんなこと口にしたらコタツ机をひっくり返されるってわかってるんだけど…むしゃぶりつきたいです…はい。一発殴られても構わないからしがみ付いて思いっきり吸い付きたいです…それはもう、できることなら今すぐにでも。
「節度ある大人ならば、こんな人目につくような場所に、このような痕を残すはずはない!青少年ならいざ知らず、キサマは良識と自制心があるはずの大人なのだ。自分のしたことが如何に非常識な行為か分からないわけなかろう!」
ぼくの煩悩なんかまったく分かってない御剣はその部分を軽く指先で撫で、怒りに燃える瞳で睨み付けた。
「ご、ごめん…」
御剣に何度も注意されていながら付けちゃったのはぼくだし、ただ、ただ、平身低頭。謝るしかない。
「ム…分かれば、いい。以後、気をつけるように」
ぼくがしよんぼり、頭を下げた所為でそれ以上怒れなくなったのだろう御剣は、ぐっと堪えるように顎を引くと浅い溜め息を零し追及の手を止めた。
自惚れでなければ御剣はぼくに甘い。
何を根拠にと思うかもしれないけど、どう見ても今の争点で御剣は訴追側のはずなんだ。職種そのまま、合理的な疑いを入れないまでに立証する立場にあって、証明責任は無論彼にある。
ぐうの音も出ないほどたたみかけ逃げ場の無い袋小路に追い込むなんて容易いでしょ?なのに、信じられないことに、ぼくのごめんの一言でこの件についての審議は終了?法廷では有り得ないくらいのあっ気なさ。どう見ても徹底し、至極合理的に、検案全ての事柄を立証できているかと言えば、否。
不透明だよ。だって、何故、の問いに対し明確な答えが出ているわけじゃないから。自分で言うのもなんだけどさ、感極まっちゃったで済む話しじゃないよね。これは刑事事件じゃないし、非常に私的な言い争いで合理的にも何もないけど、御剣のクセに。追求の仕方が分からないはずない、鬼検事のクセに。
ごめんの一言で終わりにしちゃうのは君の私的感情が動いた所為?手心を加えたわけをぼくの都合のいいように解釈してもいいってこと?
自惚れてもいいかなぁ。ねぇ、御剣‥ぼく、自惚れてもいいよねぇ。
「しおらしくしたかと思えば、君はっ」
項垂れながら、つらつら考え事をしていたぼくに呆れを含んだ御剣の声が落ちる。ぼくの思考を読んだ訳じゃないのにそれっぽい言い方。ドキッとして顔を上げれば、怒りとは違う、でもちょっと不機嫌そうに眉根を寄せる御剣がいて
「そのニヤけた顔を、どうにかしたまえ」
知らず知らず緩んでいた表情を指摘されてしまった。
「あ、ぼく、ニヤけてた?」
「不気味なほどに」
そ、そっか。顔に出ちゃってたんだ。
どうもぼくは思考と表情筋が直結しているらしく表情が緩んだり締まったり割りと忙しない。、顔色は蒼白から赤、ビリジアンまで色彩豊富だし、汗腺も人より多いんじゃないかって思う時がままある。弁護士としてそれはどうなのかってのは置いといて、まあ、分かりやすいタイプらしい。認めたくなくても。
「反省はしてるんだよ?」
緩んだ表情筋を強引に締め、誤解の無いよう伝える。
ただ、ちょっと、自惚れたかっただけなんだ。君に特別好かれていると思い込みたくて、都合の良いようこじつけてたんだ。
「それはよかった」
さっきまでの般若の形相は何処へやら…浮かべるのは感情の読み難い涼しげな表情。ぼくへの分かり難い愛着なんか表情とともに消してしまう、寧ろそんなもの存在したのかと疑いたくなるほど薄情な君へのせめてもの抵抗みたいに
「目立つかなぁ…」
不問になったはずのキスマークへ話題を向けた。
「?あぁ…どうだろう、少し高めに結べば大丈夫だと思うが?」
「絆創膏でも貼っとく?」
「子供みたいだな」
「内出血用の軟膏なんて‥」
「あると思うか?」
「…だよね〜。蒸しタオルであっためれば薄くなるらしいよ?民間療法だけど」
「レモンなど患部に貼れば効果的と聞いた事もある」
「あ、それはダメ。肌表面にビタミンCを付着させちゃいけないんだぞ!折角白くて綺麗な肌なのにシミできちゃったらどーすんのさ」
「ム…また戯言を。そのような表現…」
「ほんとのことなんだから…ぼくが言いたいだけなんだから聞き流してよ」
調子が戻ってきたかな?ぼくはハハッと笑い「モノは試しだ。蒸しタオル、作ってくるから待っててね」腰を上げ、空いた皿をまとめるとキッチンに引っ込んだ。
何事も、ナニ事も、後始末はぼくの役目。ぼくにだけ許された栄誉ある役目だ。
濡らしたタオルを電子レンジに入れ、熱すぎない程度に熱を飛ばしながらいそいそと御剣の元に戻り
「熱かったら言うんだよ?」
念押しして、ぼくは首筋に赤く残る昨晩の情事の名残にそっとタオルをあてる。
じわり、伝わるだろう熱。意識がそこに集中するのはぼくも御剣も一緒。ほのかに甘く、微妙に緊張感のある距離がくすぐったい。
キスマークに蒸しタオルをあて、湿ったあたたかさが体温に馴染んだらたタオルの内側を開きあてがう箇所を替える。
知識として知ってはいたけれど実践したことがなかったキスマークを消す方法。まさかこの年になって試すことになるとは…節度ある大人への道が意外に遠いことに自分でも驚く。青臭い恋してんのか、大人である自分を忘れちゃうほどメロメロなのか、こっそり告白すれば反省はちゃんとしてる。御剣のことも考えず身勝手で自分本位な行動を起こしちゃったと分かってはいる‥けど、やってしまったことに後悔はないなんて、ぼくは相当、病んでるのかもしれない。
一般的にいうところの独占欲なのかなぁ。
征服欲を満たすためとか自己満足とか、虫除けなんて姑息なものなのかなぁ。
反省も兼ねて自己分析‥何故?の本当の回答を自分なりに出そうとするんだけどイマイチしっくりこない。
そんな打算的なものではないはず。
あの時の衝動はもっと単純でもっと、純粋だった‥はず。

忙しく仕事にばかり追われるような毎日。中々折り合いのつかない二人の時間を必死な思いでやりくりし、ようやく迎えた逢瀬。その時点でぼくの気持ちは浮ついてみっともないくらい舞い上がって、夕飯もそこそこ求めた。
あの時の状態は自分でも本当に狂気じみていたと思う。

欲しくて欲しくてどうしようもなかった。喉から手が出るほどってよく言うけど、そんな軽いもんじゃなく、酸欠に喘いでいる感じ?生きる為に身体が、器官が、細胞が、求めてる。なくてはならないものだと全身が御剣を欲していた。
単に性欲が溜まってたんじゃないよ?
出したいって身体が訴えればいつだってヌクことはできるじゃん。気遣いいらず、単純作業のマスターベーションに今更抵抗あるわけないから、重たいから出しとこうみたいな‥自己処理ならそれなりにしてたから、溜まり過ぎで爆発寸前じゃなかったんだ。
じゃあ、なんであそこまでがっついたのかって…
五感全部が記憶したいと望んでいたとしか言えない。
御剣を抱きしめて、埋もれて、胸いっぱいに匂いを嗅ぎたかった。髪の匂い、衣服の匂い、肌の匂い、汗や精子なんかの体液の匂いを嗅いで嗅覚を満足感で満たしたかった。
味覚だってそうだ。皮膚、粘膜、体液、吐息だって含めば味があるんだから末端まで全身くまなく味わいたくて仕様がなかった。
聴きたかったよ。紡がれる全ての音階を。空気を伝って鼓膜から脳髄に亘るまで痺れさす声を。変化する心臓の律動的な動き、細かな震え、それだけじゃない…間接的に立つ音も御剣が響かせたと思えば天使が奏でるメロディーになる。
混じり合いたいと思うほど浴びたいと思うほど、全てに触れたかった。ぼくの指紋が全身を覆いつくす衣になるくらい、僅かな隙間のないほど、触れ残りもないくらい異なる全ての感触を皮膚に刻み恍惚に酔いたかった。
そしてその全部、全ての行為を視界に捉え、あらゆる反応を瞳に焼付ける。表情、仕草、状況、陰影に色彩、嗅覚・味覚・聴覚・触覚この四つの感覚を統合し視覚が記録した映像に重ね合わせる。
感覚全部が御剣を記憶したいと望んで、求めて、効率よくそれを満たす行為がセックスだとすれば納得。
感覚器官の隅々にまで行き渡るように、貪欲に、ぼくは御剣を欲した。
無理性、本能の塊に近かったぼくだけど夕食を共にした店のトイレでしなかったこと、繁華街の薄暗い路地裏に連れ込まなかったこと、個室と言っても第三者がいるタクシーの中で触りまくらなかったこと、フライングせずアパートの玄関のドアを開けるまで耐えたこと…自分で言うのもなんだけど頭ん中御剣一色、末期の欠乏症に喘いでいるのによく我慢したよね?それだけはほんと―――に褒められるんじゃない?
だから‥だからさ‥久しぶりのセックスがモロ玄関だったってのは見逃して。
ベッドの代わりが冷たくて硬い鋼鉄の扉だったのも、上着をハンガーに吊るさずその辺に投げ捨てたことも、シャツのボタン下二つくらい引き千切っちゃったかもしれないってのも、靴を脱ぐことすらしなかったのも責めないで欲しい。
ああ、ああ‥それ以上に謝らなければいけないのは前戯もろくすっぽせず挿れちゃった事実。負担軽減のコンドームを着けなかった事実。そしてあろう事か中出ししちゃった恥ずべき事実。いくら狂おしい情動に支配されてたからって最低限気遣わなきゃいけない最重要項目三つともとばしちゃったのは良識を疑われても仕方がない。
でもね、卑劣な自己弁護、見苦しい言い訳を聞いてくれるならぼくの性急過ぎる行為を御剣は咎めなかったんだよ?制することも無く、信じてもらえるか分からないけど、過信じゃなく、御剣も…ぼくと同じ性急さを現してたんだから。

ドアが閉まった音が合図。焼き切れる寸前の理性が短い悲鳴を上げ瞬断され、繋いでいた手を互いに引き寄せたのは同時だったと思うんだ。
これ以上、一秒たりとも待てなかった。
これ以上、堪える術を知らなかった。
狂おしい愛欲の渦がぼくたちを呑み込もうと押し寄せ、自らその怒涛の渦に身を投じた。それはもう、手に手を取って心中するみたいに。
荒々しい行為は乙女が憧れるようなキレイなものじゃない。
可憐な花を飾りつけフレグランスで綴ったみたいな愛の言葉なんか存在しなくて、視線すらろくに絡まず、相手をどれだけ吸い尽くすかその一点だけで競うようなもの。肌から立ち上る熱気に噎せ、呻きと喘ぎをないまぜにし、人の形を保つためだけに名前を呼ぶ。嗚咽に近い、懇願に近い、もどかしいばかりの情念を名前に込めた。
キレイじゃない。決してキレイじゃない。そこにあるのは熱と汗と獣の息遣い。淫猥なまぐわり。
立ったまま汗に湿ったドアに胸を押し付け腰を上げる御剣の姿勢がエロスティックで眩暈がした。
撫で上げる双丘の柔らかな感触。シャツ越しでも分かる背筋が弓形に反り、ドアに押し付けた手の平がピクリ反応したかと思えばゆっくりした動作で片側の手が下ろされ、柔らかな肉を掴むぼくの手の甲に添えられた。ひんやり冷たい指先が甲の筋を伝いぼくの指先に重なる、と
”慣らさなくていい”全ての音を拾おうとそばだてるぼくの耳に細く響く。
だってそんなの、御剣が辛いだけでしょ?自ら潤みを分泌できないソコだから慣らさないとどうなるかぼくにだって分かるのに、引き裂かれる痛みがどれほどのものか容易に想像できるのに”早く、そのままでいいから”続いたのは切羽詰った懇願。重なった手に力がこもり切ない声で再び”早く”と…。
望まれる喜び、叶えたい想い、
リスクを負う覚悟でぼくと同じ性急さを現されたらどうにもならないよ。欲しくて欲しくて堪らないのは御剣も一緒だとはっきり告げられたら、欲望を凌駕するいとおしさで胸が苦しくなった。
好きなんて薄い言葉。
愛してるなんて軽い言葉。
言葉で表現できない想い。
いとおしくて、切なくて、守りたいような壊したいような、抱きしめたいような潰したいような、対極に位置する感情のうねりが全身の毛穴、汗腺、それ以外の穴という穴から噴出した。
溢れ出す蜜、その先端をあてがい突き入れる、熱い内側。
引かれる腰、熱気の中散る髪、握り締める拳、細く上がる悲鳴、戦慄く喉はしなやかなライン。
内壁は収縮を繰り返し、ヒクつきながら徐々に徐々にぼくの形に合うよう変化する。
”なるほどう”
苦しげに喘ぐ息に混じる甘美な調べ。淫らに揺れる腰は最奥への誘い。
好きなんて薄い言葉。
愛してるなんて軽い言葉。
言ったって聞こえないでしょ?感じることに精一杯で快感以外知覚しないでしょ?
狂おしいほどの想いを伝えたくて、せめて感じて欲しくって、ぼくは御剣の白い首筋に舌を這わせ”御剣”快感に震える肌に吐息と一緒に囁きを刻んだ。
その行為の延長がうなじ付近についたキスマーク。御剣が憤慨し、ぼくが薄くしようとしているソレ。
『体位がそうだったから?一番つけやすかったって言うか…唇が丁度当たった場所がそこだったって言うか…吸いたくてどうしようもなくなったからったって言うか、感極まっちゃったんだね。きっと』事の顛末をなぞらえばあの微妙な釈明だって間違いじゃないと思うんだ。もっと正確に言うなら純粋に想いを表現する手段だった。痕がつくほど喰らいついたのは行き過ぎだったけど、計算も何もそこにはなかったんだ。
勝手な言い分だけど…
臨界点を越えた正直で単純で

「最も純粋な、愛情なんだよ」





 



2008/6/27.29
mahiro